タクシー乗ったら火車でした


「……おい、えげつない仕事だったな……」

 某●田町のホテルニューオータニのエントランスから出てきた頬のこけた二人組は、酔っ払いのようなふらふらの千鳥足で、互いを支え合うようにどうにか歩いて歩道の端に背中をもたせかけた。
 一人は──的場静司は、夜天を仰ぎ、腹立たしいのか虚しいのかさえさだかではない、疲労ばかりが濃厚な瞳で星々に縋るように呟いた。
「人間には出来ることと出来ないことがあります……」
「……意見が合うな、珍しい」
「まあ、数少ない真理ですから」
 続いて同時に俯いて、長く細いため息をつく。もはや大きく息をつく余裕さえない。喉もガラガラで、二人の美声は既にドナルドダックとガチョウの鳴き声を足して2で割ったような代物になっている。
 その様は、ただただ悲惨だ。
「………」
「………」
 互いに寄り添っているのは下心なんぞでは決してない。ただ単にそうしていないと辛いというだけである。人という字は……というどっかで聞いたことのある格言か何か知らない台詞が、妙な重さを伴って二者にのし掛かってくる。
「選挙関係の仕事の度に思うんだけどさ」
「はい」
 もはや互いの顔を見るだけの気概すら無い。
「あいつら、議席確保のためなら何でもやるのな……」
「今更ですよ。何回同じ目に遭ってるんですか」
「クライアントが被ったのは初めてだけどねえ」
「………」
 この世で一番不快そうな顔をして、静司は傍らの、名取周一を一瞥する。
 静司のほうは辛うじて身嗜みだけは整えてきたのだけれども、周一のほうはもう、着物と羽織を肩から引っ掛けただけの、荒みきった老爺のような風体である。
「静司……タバコ臭い」
「あなたも酒臭いです」
「酒でも呑まなきゃやってられないだろ、あんなもん!13時間休憩無しでひたすら文言を唱え続けさせられるとか何の拷問だ」

 ──13時間。
 つまり、朝の7時から夜の8時。衆議院議員総選挙の投票時間である。

 大義無き解散、大義無き選挙、などとも揶揄されるが、大義さえあれば何でもいいという発想も怖い。それでも某府某市長選並みに大義なぞないことも判ってはいるので、そりゃ投票率も下がるわ、といっそ目頭が熱くなってくる。
 ともかくその投票期間中、この永●町のホテルニューオータニにカンヅメになり、二人が何をしていたかと言えば。

 ──繰り返すが、呪詛である。

 日本全土の規模でいけば、力ある呪術師など幾らでも居るのだが、余りに話が大掛かりかつ非現実的過ぎて、掛け合うにあたっても、向こうにも些かの憚りがあったのであろう。
 此度第47回衆議院議員選挙にて議席過半数を容易く獲得した某党は、業界における一大組織である的場の頭主と共に、プロ意識が徹底し、なお表では芸能活動などに精を出している名うての術師、名取周一に的を絞ったのである。いずれも若いが実力は折り紙つき、前者は「組織」の総帥ゆえに裏切られる心配は少なく、後者は人気俳優という肩書きが邪魔しておかしな真似はできはすまい──と。しかも名取・的場双方が相当にがめついときているから、雇い手としては金を詰めば安心というわけで、雇われる二人としても、引き受けて金を受け取った以上は──仕事の契約が成立すれば、やり遂げねばならないという当事者としての責任が生じる。
 選挙前からおおよその結果など判っていたにも拘わらず、党は二人に大金を詰んだ。それも世間様に大っぴらにできないくらいの額である。正直、某地方自治体の年度予算くらいは軽く超えている。それをまじない屋にポンと差し出すくらいなのだから、それだけ買ってくれていると考えていいのか、どついたほうがいいのか、静司も周一も正直迷った。

 金を受け取ると、契約は成立だ。当日にホテルニューオータニの最上階に事実上監禁された二人は、13時間の間、絶やすことなく呪詛の文言を唱え続けた。
 しかもそれは──笑うなかれ。

 政敵にではなく、有権者に対して、きわめて広範囲に放たれた呪詛なのである。いわゆる感応術の類だ。
 有権者に対して、変革への恐怖を植え付けるのである。いわゆるサブリミナルマインドを操作しようという試みである。

 善政は民主政体の独占物ではなく、そもそも民主政治が民主主義者によって成されるわけではないのは既に歴史が証明しているが、悲しいかな、何しろ「この道しかない」を掲げる大根役者だ──このままでも凋落は明らかなのだが、そこは仕事である。当たればとんでもないシノギである。
 一つは公約など目も通さずしてネームバリューで投票するという典型的パターン、もう一つは、それが嫌だというために本懐を見失って投票所に向かう妖怪「認MEN」、そして最後に一番マシなところに投票しようという消去法。有権者の殆どが占めるこれら三柱神が揃えば、パワーバランスはもう決まったも同然である。矛盾するようだが、人々が自由に考える、と信じて選挙に参加するほど、無駄なイデオロギー遊びを繰り返す執政者の思い通りになっていくのだ。
 つまり腐敗した民主政が必ず陥る不毛な実態につけ入るのである。この「自由な考え」を改めて妙な気を起こさせぬようにと、延々と焚いた護摩壇(繰り返しますがホテルニューオータニです)の前で文言を唱え続けるのだ。それらは潔斎し、限界まで呪力を高めた二人の発する文言を通して、呪詛となり、まるで感染力の高いウイルスのように都市を──いや、列島を(笑)覆っていくのである。思考能力を奪う、パキセ●チンのように。

 低い投票率など、元々有利な与党にとっては嬉しい事態にほかならない。興味がない、意味がないという率直な意見、逆にどの政党もゲロかヘドかクソのどれかであり、どれかも選んだ時点で己の矜持が潰えると真剣に考えた者がいたとしても、棄権すれば結局は有効票だけが活かされるので、元々安全地に居座る与党にとってのは同じことなのである。投票率が低ければ、原理的に一票の重さは重くなっていくからだ。
 否──だからといって、ゲロかヘドかクソを選べと言っているのではない。無論それは棄権することの内訳には触れない姑息な政府の本心と、根本を疑うことを知らぬ純真無垢な善男善女の素朴な言い分で(悲しいことにこの二つは目的は逆だが、手段は同じなのだ)、彼らは二千五百年前のペリクレスの演説でも一度聞いてみればよいと静司は常々思っている。そう思えば、民主政治とは、案外民衆の遠くにあるものなのだなあ、としみじみと思うのだ。自分なら「右腕と左腕のどっちを折って欲しいか?」などと訊かれれば、考える時間があるならそんな暴力から逃げ出すことを先ず考えるのだが。

 しかし──此処には結果だけが残っている。呪詛なんぞあっても無くても一緒だったんじゃないかとも思うのだが、そこはもう遡って検証することは不可能であるからして、これは手柄と考えて差し支えない。詰まれた大金は保険だったと思って貰うこととして、彼らは思い通りに事が進み、さぞ喜んでいるのだろう。パーティにも誘われたが、13時間にも及ぶ拷問の後、永●町のブタ共とブタの餌など喰う気には到底なれない。解放されたあとは、もうラブホテルでもいいから(いや寧ろラブホがいい)とにかく二人は静かに休みたかった。

 でもって、路端に立ち、二人はタクシーを待っていたのである。
 幸いホテル前なので、流しのタクシーはすぐに入ってきた。思えばフロントに頼みでもすれば寒い思いもしなくて済んだのに、もうそんなことすらも考えられなくなっていたのである。二人は知らん間にしっかりと手を繋いでいた。勿論下心など微塵も無かった。
 ただひたすら、寒かったのである。










「お仕事帰りですか」
 個人タクシーの運転手は言った。
「ええ、まあ」
「ご苦労様ですねえ、日曜なのに」
「はは。選挙事務所の後片付けですよ」
 静司が苛立たしげに吐き捨てた。別に嘘は言っていない。
「へえ、そいつぁご苦労様でしたね。今日は衆議院議員選でしたねえ──」
 ガチョウみたいな二人の声に負けず劣らず、ラッシャー木村がちょっと大人しそうになったかのような声音の運転手はしみじみと言った。
「投票所にはお行きにならなかったので?」
 静司は率直に問う。
「いえ──私はね、無いんです」
「え?」
「投票権、ないんですよ」
「ああ、そういうことでしたか」
 静司の周りには戸籍の無い者なんてバンバン居る。邸内にだって幾らでも居る。彼らは労働力を駆使して対価を得て生きる(某政党などに言わせれば彼らは社会のゴミでありクズである)。
 世間を見渡しても、食うや食わずでどうにか一日の糊口をしのぐ労働者には、名ばかりの民主主義という泥棒政体など稼ぎの邪魔でしかない。一方、ホテルニューオータニに監禁されて血反吐を吐くまで文言を唱えさせられる銭の亡者はこれを飯のネタにする。この世を動かすのは政治ではない。経済だ。
 静司は周一の肩に頭を預け、そっと目を閉じる。疲れきった心身が、溶けていくような気さえする。目端に映った運転手の名札に『猫田』と記されているのを見て、静司は何となく笑った。丸まっちい猫の姿でも想起したのか──そんな具体的なイメージさえも無かったけれど。
 車内は暖かい。余りの温度差に結露が出ているほどだ。周一が目的地の交渉をしているのが耳についたが、その声も、エンジン音も、遥か遠い異世界から聞こえる囁きのように聞こえる。目的地に着くのも、下車するのも、もう何もかもが億劫だった。
 酒が入っている筈の周一のほうがしっかりしているというのが腹立たしかったが、時間が経つにつれ、そんなこともどうでもよくなっていった。











 ──熱い。

「………っ」
 ふいに意識が戻ると共に、瞼の裏に赤い閃光が走る。
 ──そして熱。
 もはや、暖かいとかいうレベルでは済まない。熱すぎる。いや、寧ろ痛い。
 肌をチリチリと焦がすような灼熱に、痛みさえ感じて静司は開眼し、刮目した。

 それは、一帯を取り巻く炎であった。そして、濃厚な腐臭。

 車のシートだと思っていたものは、腐った木切れと板を無造作に組んだ荷車のような有り様であった。今にも瓦解してしまうのではないかと腰を浮かせるも、左右から迫る業火が四肢を拘束する。
「周一さん……!?」
 俯せた身を起こすと、自分の肩から周一の鮮やかな緑色の羽織が落ちた。そして、その持ち主の姿はまさに傍らに在った。
「あ、静司。おはよう」
「お、おはようございます……じゃなくて、何なんですか、事故ですか!?」
 だとしたら、とんでもない事故である。その衝撃で覚醒しなかった自分は、一体どこまで鈍いのだ。
「何で起こさなかったんです!一体何が起きたんですか!?」
「火車だ」
 遮るように周一は言った。
「カシャ……?」
 ──火車、か。
 静司はすぐに佐脇嵩之の凶ろしげな図画を思い浮かべる。
 妖怪・火車。
 曰く、悪人を乗せ、地獄へと引きずっていくという見目おぞましき鬼形。出自の仔細は知らぬが、墓場や斎場から標的を奪っては遺体を解体し、炎に包まれた荷車にそれらを積んでは黄泉路を縦横無尽に駆けるという物の怪である。
「か、火車って………タクシー乗ったじゃないですか!」
「タクシー乗ったら火車だったんだよ……」
 静司は気絶したくなった。
 やつれて嗤う周一の手が、羽織を整えて再び静司の肩に乗せる。妙に余裕ありげな態度に、寧ろ余裕の無さを感じるのは付き合いの長さゆえか。
 ふと、運転手の『猫田』という名前が頭を過る。俗説によると、火車を引くのは猫の妖怪だという話ではなかっただろうか。後付けの説だと静司は勝手に考えていたのだが、実はそうでもなかったのか。いや、そんなことはどうでもいいのだが。
 当然ながら、もはや車のエンジン音など聞こえやしない。地獄へと駆る火車の轍が禍々しい。そして、燃え盛る炎の轟音──視界は猛火に遮られ、火車の引き手など見えはしない。
 羽織を返そうとする手を、周一は押し留めた。訊けば何でも、対妖の防御に長けた糸で織られた、特殊繊維なのであるという。前々から思っていたのだが、こいつは繊維マニアか何かか。
「……嵌められたんでしょうか」
「さあ。でも火車は悪人を引いていくって言うからねえ、あながち嵌められたわけでもないかもしれないなハハハ」
「……」
 笑っている場合か、酔っぱらいめ。
 悪人の定義に何を求めるのかは定かでないが、如何なる意味でも二人は確かに善人ではあるまい。ごうつくばりで排他的で攻撃的で残忍で──「悪の条件」ならば寝ながらでもリストアップできる。
「このまま何処に連れていかれるのか、気にはなるけど」
「地獄、ですか?」
「あるものならば」
 犬死には真っ平だが、と周一は顔を歪める。笑ったのか、憤ったのか、判別できないこの表情。静司は思わず胸を鳴らす。そして時宜を弁えろと己に叱咤する。
 焦躁、疲労。
 充満する恐怖。
 不思議と物質的な逼迫感は無かった。煙る臭気が満ちゆくも、一酸化炭素中毒に到るような過程は感じられない。生々しいのはただ強烈な熱と、猛烈な腐臭ばかりだ。

 つと振り返ったのは、単なる偶然だった。理由など無かった。

 しかし、背後を見た途端──静司は腰を落としたまま器用に飛び上がってギャッと叫び、周一にしがみついた。
「うわっ、何だ静司ヘンな声出すな」
「うっ……後ろ!周一さん、後ろ!」
 炎に包まれたボロボロの荷車には高さ1メートルにも満たぬ、心許ない隔切りがあった。未だ正体の知れぬ車の引き手の謀に気を引かれ、前ばかり見て気付きもしなかったのだが、やはり腐った木切れを組んだようなそこには、炎に包まれた屍が──それこそ山のように積まれていたのだった。
 これにはさしもの周一の目も見開かれた。
「……な、何だ、これは──」
 いずれも個人の判別などできない、バラバラになった死体の破片ばかりであった。やや古いものから新しいものまで、藁のようにぎっしりと積まれている──腐臭の原因はこれであったのか。
 火車の轍がガツン、と地面の窪みに落ちると、腕の一本がゴロリと此方に落ちてくる。静司は条件反射で周一の体を盾にした。
 ──その時、前方から運転手の声が聞こえた。

『罪人とて死なば仏、とは。ほ、ほ。黄泉路にて咎は散りぬる──業を脱し安らけし光来に浴す、此を条理となされるか』

 相変わらずラッシャー木村の声をちょっと大人しくしたような声である。
 静司は否とも諾とも言えなかった。死して仏と成る、という便宜発想の是非はともかく、さっきの『猫田』という名札やタクシーの外装、ホテルのエントランスなど、あらゆる現実が全体像としてリンクしないのだ。

『かような欲ずくは、数えてきりのあるものではない。だが──捨て置けぬは、振る舞いと、落ちに非ざる、其の訳ぞ──』

「………」
 ──欲ずく。
 その一言で、静司は判った。
 火車が墓場の遺体を奪い去るという伝承はあるが、生者を害するという話はそう聞かない。絵師の筆では恐ろしげな出で立ちをしているが、火車とは故無きを害する妖ではないのではないか──。
 否。我々の目には落ちに非ざる、と見えているだけで、妖には妖の律があるのだろう。それを敢えて見ぬことを決めたのが、己であろうに。
 しかし、静司は青くなった。然れば──己等とて無関係ではない。いや、寧ろ密接過ぎる。
 やばい。
「周一さん、こいつら」
 青ざめたまま後部のバラバラ死体の山を示し、ガチョウのようなダミ声で静司は言った。
 周一の袖を引く手が震えた。
「……選挙関係者ですよ」

 捨て置けぬは、振る舞いと、落ちに非ざる、其の訳ぞ──。

 落ちに非ざる。
 是まさに、欲ずくの無恥。
 だが、如何にして生きたまま火車に乗せられる羽目になったかは知らねど、ど外道共と一緒くたにされて積まれるのは一切納得がいかない。
 外道、邪と謗られるのはともかく、落ちに非ざる、とは余りな謂れだ。静司は周一を押し退け、思わず叫んだ。
「ね、猫田さん、ちょっと!」
 猛火に立ち向かうように、静司は叫ぶ。この期に及んで猫田さんとか呼んでいる自分が滑稽というかおかしいのは判っているのだが、一体火車なぞをどう呼べばよいというのだ。
「わ……我等は穢土で屍肉を喰らう虫。だが無辜の嘆きを圧してこれを餌にする乱人には非ず!」
 火車の轍は止まらない。
「生くるに難き力は常世の枷。此処に朽果てる所以を、この未だ満足な五体にお聞かせ願いたい。行きずりならば、いずくんぞ、身罷らん──」
『居直るか』
「否!」
 ダン!と静司の片足が荷車を踏みしめ、憤然と吼えた。
 半分は演技、半分は本気だ。
 自分たち──いや、少なくとも自分は、多くが識り得ぬ不可視の力を持って生まれながら、予め造り上げられた可視のシステムを変える力を持たぬがゆえに、恥も無く誉れも無く、夢もなく怖れもなく、ただ蛆虫のように生きることを強いられたのではないか──。
「道など要らぬ!!我等が道形り、架空無稽──生が身の仇ぞ!」
 決まった、と静司は思った。
 当の役者は隣で呆然としている。報酬は6/4という話だったが、この窮地から脱したら7/3で交渉し直してもいいかもしれないと静司は内心でほくそ笑んだ。
『よかろう』
 しかし静司の思惑とは逆に、轍は更に加速して──タクシー運転手・猫田は言った。
『其の満足な五体のまま、冥土へと臨め』
「はあ!?」
 二人は綺麗にハモッた。
『悪と断ずるには情をかけるに値する。存分に常世を覗いて現世に還れ』
 還られるものならば──と付け加えられると、またしても轍が躓く衝撃に、背後から口に出すもおぞましい諸々が降り注いだ。
 余りの狼狽に静司の脳裏は真っ白になり、代わりに今度は周一の脳裏で算代が始まる。
 分け前は2/8だ、と──。
 タクシー運転手・猫田は言った。


『此の往路、結びは無いぞ』



【了】


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