Fragments of Solitude


 小さい頃から、よく不思議なものを見た。
それは、自分以外のほかの誰にも見えない、奇妙で恐ろしげなもの。
 妖、と呼ばれるものの類。




「臨時講師、来るってよ」
 廊下で西村がにやにやしながら隣のおれの腕を突っついてくる。ニヤニヤ笑っている顔が、何を期待しているかは明らかだ。

 ──臨時講師か。

 学生の一日っていうのは、あらゆる意味で規則的なものになりがちだ。──規則的、と言えば良い意味に聞こえるけれども、それは単調で、代わり映えのしない日々、ということでもある。
 以前のおれにとっては、喉から手がでるほど欲しかったもの。でも、人間なんて現金なもの。欲したものに手が届くようになったら、今度はまた少し違ったものが欲しくなるんだから。
 おれは、我儘なんだろうか。
「な、夏目。大学出たての女の子とかだったらどうする?美人だと思うだろ?な?な?ど〜する〜?」
「う〜ん」
 西村の鼻息がドライヤーみたいに髪の毛を荒らしてくる。どんなに興奮してるんだよ。……この極度に俗っぽい性格、ある程度はキャラ作りによるものだと思っていたけど、最近ちょっと自信がなくなってきた。
 ──いや、楽しいけどさ。一緒に居るのも、話すのも。
 おれが此処では変人のレッテルを貼られずにすんで、事情を知らないほかの同級生たちがよくしてくれるのも、西村や北本が居てくれるからだ。弾除け──じゃない。今までの文脈なら、そう思われても仕方ないかもしれないけど、そうじゃないんだ。うまく言えないけど。
「どーせオッサンだって」
 さも興味なさげに北本が言い放って笑ってしまう。ていうか、大学出たてだろうがオジサンだろうが、男だろうが女だろうが、妖じゃなければ何でもいいんだけどさ。
「いや女子大生だ」
「女子大生?何で段々年齢引き下げられてんだバカ」
「35才までならオッケー」
「ジュリー・ガイエさん、40代じゃなかったっけ」
「40代までオッケー!!」
「美人なら何でもいいんだろ、お前」
「てか、あんまおっきい声で喋んなって……」
 変な方向に移行しようとする丁度いいタイミングで、向こうから歩いてくる田沼の姿を認める。
 仕方ない。田沼には本当に弾除けになってもらおう。このままネタが「熟女好き」とかに移行したら、凄くやだ。












「的場静司と申します」

 おれは、気絶しそうになった。

 教壇に、スーツを着たあの人が居た。
 目を疑った。耳も、頭も疑った。頭を疑ったのは久し振りだ。妖が視える、視えないの境界に悩まされ、同じものが視えている人間などいないのではないか、自分の頭が変なのではないか、と疑った時以来のことだった。
 教室がざわめいた。ネタは何だろう。眼帯か。ロン毛か。いや──その全部をひっくるめた異様な風体か。
 耳を澄ますと(何でこんなに悠長なんだろう、おれ)、女子生徒の黄色い声がかなりの割合を占めているのが判る。戦慄が走る。いや、そこじゃないだろう、問題は。
 大学出たての女の子ではなかった。35才でもなかった。40代の美女でもなかった。

 何でだ。
 何であの人が──こんなところに。

 郷土資料を研究している、という自己紹介に、知る限りでは嘘は無い。
 でも、目的は何なのか。また変な勧誘をするつもりで──今度こそ、私生活にまで踏み込んで来るつもりなのか。
 思わず歯を食いしばり、教壇で白々しい挨拶をする的場さんを睨む。

 油断していた、というより、侮っていた。

 これまでの接触には、曲がりなりにも予告があった。内実は無理矢理に近くても、境界と選択、その線引きだけは確かにあったのだ。
「………」
 ──多軌や田沼に、助けは請えない。
 あの人は危険だ。視えない多軌ならばまだしも、田沼など目を付けられたら何をされるか判らない。下手をしたら拐かされた挙げ句に、使い捨てにでもされるんじゃないか。そんなことを考え出すと、目眩と同時に額から冷や汗が滲み出す。
 ひどい発汗で、握りしめた手の中がベタベタになる。頭は完全に混乱していた。

 しかし──その時。

「わっ!?」
 教壇から、素っ頓狂な声が聞こえた。顔は上げなかったが、確かに的場さんの声だった。
 できるだけ視線を合わせないようにそちらを見た時、向こうは間違いなく此方を見ていた。そして、敢えなく目が合った。
 その顔は、到底演技とは思えないほどの驚愕に満ちていた。怒っていても笑っていても、どこか芯が掴めない、あの人の表情のバリエーションの中では特別珍しいもののようにさえ見えた。
「……な、なつめ、くん?」
 持っていたチョークが足元に落下して、割れて──跳ねた。
「夏目、貴志くん……ですよね」
「………」
 おもむろに教室内がざわめき出す。
 視線が一気に此方に集中し、おれは金縛りに遭ったように四肢をこわばらせてしまう。

 ──けれども。
 驚いたのは、実は的場さんも同じだったのかもしれない。
 教室内のほとんど全員がおれのほうへと視線を寄せた時、慌てて咳払いをした的場さんはしずしずと言った。
「……ああ──みなさん。すみません」
 こっち向いて、とにこやかに手を振る。その時にはもう既に、いつもの顔に戻っていた。笑っていても、どこか偽物のような。
「ええと。……夏目くんは、今朝ですね、校内で迷っていた時に案内をしていただいたんですよ。各クラスのHRの時間が当たっている順番にお邪魔する予定になっているんですが、一番最初に夏目くんのクラスに当たるとは驚きました。夏目くん──今朝はどうもありがとうございました」
「あ…………いえ」
 語尾が不自然に小さくなる。
 勿論そんなことはしていない。
 苦しい言い訳だな、と思いつつも、何事も無かったようにクラスメイトの反応が鎮火してホッとする。「夏目くん、ラッキーだね」なんてわけの分からないことを耳打ちしてくる女子に、何か言い返したかったけれども、結局何も言えなかった。

 的場さんの講義は続いた。一帯の郷土史、伝承、伝説、伝統行事や祭礼。最初は気もそぞろでドキドキしながら固まっていたのに、話が進むと、いつの間にか夢中になって聞いていた。

 土地固有の伝承・伝統・神事・祭礼──現代では重要視されないものであっても、たやすく淘汰されることの無いこれらの存在意義とは何か。
 何故人が、この時代においてなお、不可視のものを重んずるのか。

 昨今様々な分野で人気の「妖怪」とは、人の心に生ずるもの。人の心を代弁するもの。人の運命を肩代わりするもの。人の写し身。
 それらは実体化される不安であり、「憑かれる」という認識によって、人は自分の不安を具体化する。こうして人は人でないものに懸念の重みを肩代わりしてもらうのだ、と。時代の利から生じた伝統は伝承と組み合って神事を生み、穢れを祓う祭礼を生む。それは人の負の側面を外在化させ、洗い流すための合理的なシステムだと彼は言う。いわば責任転嫁。いわば必要悪。身勝手なシステムだけれども、なくてはならないシステムなのだ、と。
「………」
 ふいに『ツイナノオニ』、という言葉が脳裏をよぎる──節分の豆まきの時にニャンコ先生から聞いたことがある、人の悪しき側面を鬼に見立てて、礫を打つという儀式。
「見立て鬼」を務めるのも勿論人間で、かつては凄惨な儀式でもあったという──豆まきとはその名残であるのだと。おれは、スズメと豆を半分こするイベントだと本気で思っていたけど。
 交錯する、存在としての妖、概念としての妖。
「………」
 言いたい事は判る。
 けれども、妖祓いの一門の頭主の発言とは思えない。まして、あの的場さんである。

 単純に言えば、妖は「或る」。

 触れられるのだ。襲われることもあれば、言葉を交わすことも──心を通わせることもできる。おれにとって、名取さんにとって、的場さんにとって、妖は概念じゃない。存在という括りであるはずだ。
 けれども一方で、それが受け皿の無いものにとっては災いになり得ないことから、存在と断定することができないということも知っている。

 だって、そうだろ?

 人にとっての妖の驚異。それは人の心が妖の侵入を許す状態になっていなければ発揮されることはない。逆に、一旦侵入を許す状態になってしまえば、おれたちには視えない──つまり「存在しないはずのもの」も簡単に妖となる。存在しないものに形を与え、それを怖れるのなら、怖れるものが実存していて、形がある必要は無くなるという矛盾が生まれる。
 必ずしも「存在している必要」は無い──これって、よく考えたら、もの凄く怖いことだ。
 認識するものにとって、異形でなければ、脅威でなければ妖は妖ではない。つまり、異形であれば、或いは脅威であれば、人も妖とされてしまうのだ。視えていても、いなくても。
 その意味では、おれだって間違いなく、多くの人にとっての妖だったはずなんだ。災いをもたらし、不安を植え付け、脅威となる。

 だとしたら、妖とは概念だ。

 おれたちは「視えて」いても、妖の成り立ちなど考えはしない。そもそもそれは一様ではないのだから、きっと考えても無駄だ。でも、それらを無視して区別無く、総てを「妖」とすることは、人をも妖と断ずる態度と何ら変わりないのかもしれない。人が妖を創ってきた、というのはある意味で真実なのかもしれない。存在と概念を別つことは、容易いようでいて──実は難しい。


 妖とは、何なのだろう。

 そして、何故あの人が──それを語るのか。


 人の中に潜む妖を狩る者が、妖を依り代に人を視る。
 的場さんの目的は判らない。
 曰く、人は災いをなすものを妖と呼び変えてきただけだという。けれどもおれたちは今や、万人に視認できないものを引っくるめて妖と呼んでいるんだ。
 ……此処には、大きな隔たりがあるんじゃないか。

 教壇で話す的場さんが、此方をひどく気にしている──気がする。
 本当に予想外のことだった、そんな感じだ。












 放課後、おれは学校に残っていた。みんなとは一緒に帰らなかった。──勿論、的場さんを待っていた。

 HRの時間に見た、あの格好のまま、正門から出ていこうとする的場さんを追い掛けた。あの目立つ風体──どういう気分でいるんだろう。わざわざ下校のピーク時間を避けているあたりは、やっぱり人目は気にしているんだろうか。
 迎えの人とか居たら、声を掛けるのはもう諦めよう。そう思ったけど、それらしい人は誰も居なかった。

「………的場さん」

 ぴく、と肩が揺れた、気がした。
 存外に隠し事が下手なのかもしれないと思うと、さして愉快では無かったが、思わず笑みが洩れた。
 こちらを顧みた的場さんは、不自然なくらいに無表情だった。
「………今、帰りですか?」
「はい」
 的場さんは、時々キレが悪くなることがある。でも、そのパターンが今は、少し判りつつある。
 想定外の事態に慣れていないのかもしれない、と思う。なまじ先を見る目が優れているだけに、不測の事態に行き当たりにくいのじゃないか。
「……そうですか。猫がいないなら、送りましょうか?」
 遅くなりましたし、と付け加えるも、静司はふと我に返ったような表情で、フフと笑った。
「的場さん?」
「失礼。私が居たほうがよほど危ないですね──君にとっては」
「そんなこと」
 ないです、と言いたかったのだが、そんなことは大いにあるので、嘘は言えない。
 でも、今日に限っては、立場が逆になっている気がする。ひどく及び腰の的場さんは──何となく、早くここから立ち去りたがっているように見えるのだ。
 正確には、おれの側から。

 でも、そっちがその気なら、離さない。

「的場さんは、どうしてここに来たんです?」
「……」
 二人揃って歩く影が西日に伸びる。影があることが驚異に思えるのは、的場さんが──本物の妖よりも遥かに妖らしく見えるからかもしれない。
 帰宅ルートを逸れて、児童公園に入る。この時間帯になると、住宅街から少し離れたこの辺りは無人になることが多い。物騒な事件が続く今日で、もしもこのままおれが行方不明になったりしたら、的場さんが警察に事情聴取される、なんてことにもなるんだろうか。
 互いに無言のままベンチに座ると、夕陽に照らされる俯きがちな横顔が煽りになって──何気無く気付く。的場さんの顔が、時々とても幼く見えることを。
 以前名取さんから、的場さんは一つ年下だと聞いたことがある。
 立場も貫禄も違いすぎて失念してしまうけど、少し前までは学生だったような人なのだ。もし四年制大学に行ってたら、まだ学生というような年齢。普段は政治家とかお金持ちとかとつるんだりして、妙なことばかりしてるけど。おれとだって、実際にはあまり年は変わらない。
「………市議会員の集まりで」
 そう言って、的場さんは切り出した。
「はあ」
「──若年層の都市流出とか、過疎化の歯止めとか、そういうキャンペーンをやろうという話があったそうなんです」
「……へえ」
 唐突な話題転換。話の接点は何となく見えるけれど。
「私は、どうしようもないと思うんですがね。そんなこと、最終的には各々個人の意思なので」
 その意思そのものを、当の本人が知らないうちにコントロールしようという思惑が上から目線で気に入らないのだ、と吐き捨てる、その的場さんの感覚は、意外に普通の若者のように思えた。
「………」
 ──いつだったか西村が、進学して絶対にこんな田舎からは出ていってやる、と言っていたのを思い出す。確かに、あからさまな刺激は少ない場所だとは思うけど。
 的場さんは、今度は本当に可笑しいように、笑いながら言った。
「亡びるならそれまで。諦めろ……と言いたいのは山々ですが、そうもいかなくて。的場家はここいら一帯の『名士』らしいので」
「名士……」
 何やら、滋さんの持っている古い推理小説に出てきそうな言葉だ。的場さんにつられて、おれもつい笑ってしまう。
「それで、地元の良さを若い方にもっと判って貰おうと。無駄な企画を押し付けられての学校行脚というわけです。その最初に行き当たったのが──」
「……うちの高校だった?」
「はい」
 信じてもらえないかもしれないけれど──と、少し俯いたまま的場さんは言った。
 垣間見える後ろめたさが、却って真実味を増しているような気がした。これが偽りならば、自分は根本的に彼の嘘を見破ることはできない。
 的場さんは、こちらを見ないまま続けた。
「──それならば機会に乗じて、こちら側の世界に興味を持ってもらうきっかけ作りでもしたほうが、我々にとっては有益かもしれない。芽が一つでも出たなら僥幸というわけで」
「将来の商売仇になるかもしれないのに?」
「……そうですね」
「………」
「いずれに属するにせよ、後継者育成は公費で賄ってもいいくらいです。もし妖祓いの公営化を掲げる政党が出たら笑いますが」
 ──これは嘘だ、と直感が語る。
 的場の内集団偏向については、何しろ的場さん自身がよく口にする。多分、自嘲するような意図もあるんだろうけど、的場さんはきっと、そのやり方を変えはしない。いつか言っていた「今は金を出す奴と仲間のためにやっている」という言葉は、多分真実だ。個人的な満足のレベルは相当引き下げられているとしても──あの言葉には恐らく嘘はない。
 百万が一にそんな政党が出てきたら、この人は全力を挙げて潰しに掛かるに違いないのだ。
「夏目くん」
「え?」
「……君は妖の正体だけでなく、人の嘘も見破るのですね」
「──じゃあ的場さんは、嘘を見破られたことを見破った」
 いつものおれなら容易く壁の端に追い詰められそうな言葉に、返す刃で切り返したのは──何故だったのか。

 相変わらず、その目は此方を見ない。
 寂しそうな目だな、と思った。片方を隠しているから、左目は寂しいのじゃないか──そんな取り留めのないことを考えながら。

 考えながら、見とれていた。

 真偽の見分と言っても、おおかたが自分の勝手な想像に過ぎない。むしろいつ見ても不思議な印象で、鮮烈でありながら取り留めの無いこの人──的場さんの姿に目を引き寄せられる奇妙な疼きは、いつしか思考の大部分を占めていった。それは、もはや意思とは関係が無かった。


 最後まで、的場さんはおれの目を見ようとはしなかった。いつもならホッとするところなのに、今は何故か寂しかった。
 そして、そう思っている自分が、今は的場さんにとっての妖なのだと、ぼんやりと思う。
 どうしたら人間になれるだろうか、と真剣に考えている自分の影は、実は消えているのではないかと想像したけれど──そんなことは当然あり得なかった。



Fragments of Solitude



【了】


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