ミスキャスト【後編】
Dear 烏罪様


 周一は今、新発売のフレグランス化粧水のCMを撮影している最中である。
 しかしこの現場はトラブル続きで、撮影が二度にわたって頓挫している。一度目は共演女優の事務所との金銭トラブルによる降板、二度目は同じく共演女優の初日の無断のドタキャンによって再び降板。その代役が決まらないまま、撮影は流れてしまっているのだった。

 そんな最中、その日静司は、周一に連れられて昼過ぎに撮影スタジオを訪れた。プレゼンも打ち合わせも済んで、コンセプトもハッキリしているCMなので、撮れるところは撮ってしまおうというわけだ。
 件のCM撮影のパートナーは交渉中で、未だに宙ぶらりんのままである。撮影自体は一日と掛からないのだが、クライアントとの契約もあることから、いつまでも放置しておいていい話ではないらしい。

 ──そこで、である。

「プランナー」
 見知らぬ異空間に、挙動不審になる静司の手を引いて、周一は器材の調整をしている企画責任者──CMプランナーと、現場を仕切るプロダクション・マネージャーの元へと赴く。
「やあ、名取くん。おや、珍しいな、連れか」
「ハハ。彼、見覚えありません?」
「へっ?」
 クマみたいなヒゲもじゃのプランナーにいきなり顔を寄せられて、静司の表情はひきつった。マタギみたいだ。それじゃなきゃ、クマと人間の合成魔獣か何か。
「は、離してください」
「名取くん、こりゃあまた……」
 周一は笑顔のままである。
「美人とかキレイとかは無しですよ。ご存知でしょう、あの女性週刊紙にすっぱ抜かれた」
「へっ!?」
 再び奇声をあげて、クマが此方を見る。見れば見るほど、静司が大好きなクマ牧場、阿蘇カドリー・ドミニオンに居るヒグマにそっくりなのだ。
「………ま、まさか……M、か?」
 静司はもがきながら抗議した。さすがにMは無いだろう。
「ま、的場と申します」
「えっ?今もしかして、トップシークレット聞いちゃったの?僕ら」
 何故か静司を捕まえたままオロオロするプランナーとプロダクション・マネージャーを引き離し、周一はそっと二人に耳打ちをする。
「どうです」
「え?どうって」
「女優の代わり」
「本気!?彼女……や、彼、素人じゃないのか?」
「だからタダですよ」
「男じゃん」
「色っぽいでしょう」
「いやまあそりゃ」
「女より」
「……そりゃあ」
 周一の悪魔の囁きは続く。
 ──CMプランナーとは、クライアントから受注によってCMを制作する人間だ。クライアントの意図に添ったコマーシャルを作る、企画責任者である。
 実際は企画から撮影へ流れていくにつけ、実働部隊ではないプランナーは暇になっていくというのが理想なのだが、この現場ではいよいよ撮影という段取りでプランナーが走り回っているのだから、トラブル続きなのは一目瞭然というわけだ。
「……どうです、名取周一との噂の渦中の人物──と気付かれなくても、相手があれだけの美男子ならそれだけで話題にはなりますよねえ。仮に正体が知れたとなっても──」
「あーー……うん」
 プランナーは困った顔をして頭を抱えるが、目には黄金に輝く$の影が映っているのが見える。
 人気沸騰中のイケメン俳優のゲイ疑惑。名前も明かさない渦中のお相手と、TVCMでいきなり共演──その出来が良ければ良いほど、話題は過熱するだろうというわけだ。
 今回は女性用のフレグランス化粧品のコマーシャルではあるが、女優は一切顔を出さず、映像は周一のほうにスポットライトが当てられているらしい。企業との年間契約のギャラは3千万円。美人女優を使って劣等感を刺激するより、女性心理を巧みに突いて男優のほうをを全面に押し出してはどうかという、プランナーの熱心なプレゼンの結果だという。慧眼なのか何なのか静司にはよく判らなかったが、今日の周一の意図もさっぱりワケがわからない。止めようにも、畑違い過ぎて止められないのだ。まさにカルチャーショックである。
「てか……実際どういう関係なのよ。あの記事ホントなの?」
「ハハ。正否五分五分ってとこですかね。ゴシップで張られてるうちが華ってことですよ。それより──」
 三人の顔が静司を見る。
 静司は後ずさる。彼らが何を言っているのか、静司には半分も判らない。








 CM構成はこうである。

@雨のロンドンのチェルシー地区を傘もなく歩く男

Aスローモーションの雨

B素肌を濡らして外階段からビルの屋上へ

C屋上に後ろ姿の女

Dフレグランスのイメージショット

Eナレーション

F男が背後から女の目を隠す

G商品の告知


「……てな流れなんだよ。判るかい、的場くん」
「……えっと、まあ」
 どういう類のCMかは容易く想像できる。というよりも、出演を承諾した覚えも無いのに、話がどんどん進んでしまっているのはどういうわけなのだ。
「あの」
 静司は困った顔をして、プロデューサーと名乗る男の袖を引っ張る。
「どうしたの?」
「あの、それで、い、今からロンドンに行くんですか?」
 縋るような口調に、現場は一気に静まり返った。

 ──そして爆笑の嵐が巻き起こる。

 静司はわけもわからず真っ赤になった。近くに居た周一に頭を撫でられると、何やらもう完全に馬鹿にされているような気になってくる。
 もう喋るまいと心に決めて、静司は群衆から目を逸らした。
「背景映像は先に撮影して処理をしてあるのよ。特殊な映像処理で背景色を赤、白、黒の三色で処理するの。あ、的場くんは『シン・シティ』とか観たことないかしら?」
 撮影係の女性が笑いながら声を掛けてくる。
 静司は無言で首を振った。
「そっかあ。残念ね、あの感じが判ると出来が想像しやすいんだけど」
 さらにスタッフに髪をぐりぐり撫でられる。
 芸能界と言うと、バブルの怨霊に取りつかれたような奴ばかりかと思いきや、どうやらそうでもないらしい。
「まあ大丈夫よ。的場くんは立ってるだけでいいの。最後に名取くんと絡むシーンがあるだけだから」
「それを後で背景画像と合成するんだ。BGMとナレーションをかぶせればCMは概ね出来上がりだよ」
 編集班の別のスタッフも気さくに声を掛けてくる。
 皆、普通だ。バブルの怨霊も、業界人ぶってるような奴もいない。
「……」
「どうしたの、的場くん」
「いえ、何でも」
「不安?」
「……ええ、そりゃまあ。ペンギンが突然赤道直下に連れてこられたようなものですから」
 CMプランナーのヒグマが、静司を宥めるようにポンポンと頭を叩く。興味はないかもしれないが、と前置きした上で、ヒグマは話しはじめる。
「コマーシャル撮影に偶発的な要素が入ることなんて本当は滅多に無いんだ。作られるものは、全部事前に打ち合わせ済みのものばかりなんだよ」
「はあ……」
「だから今回みたいなことは滅多に無い。僕にとっても名前を上げるチャンスだよ。名取くんは本当にセンスがいいよね……ゲイの子って結構多いみたいだけど」
「………」
 ──既に、ゲイとして認識されているのか。
 静司はため息と共に生命力がヘロヘロと流れ出ていくのを感じた。
 そして、うっかり喋っていることに気付いて、故なき敗北感に激しく悶絶するのだった。








 撮影自体は、まったく色気の無い代物だった。やいのやいのと話し声が飛び交う中、撮影用シートをバックに、静司はシャツとジーパンで立っているだけだ。雨の中という設定で、全身ずぶ濡れにされはしたが、そこに周一が来て、ちょっと絡むだけ。
 こんなものがCMになるのか、と不思議に思ったくらいの呆気なさだ。たったこれだけの作業をキャンセルした女優は、一体どんなに忙しかったのだろうと静司は無邪気に思う。

 何度かの取り直しを経て撮影作業が済むと、さっさとチームは解散となった。今度は撮影された映像を合成して、映像編集を行わなければならない。
 静司も周一と共に解放されたが、周一に勧められて編集班の詰めている部屋へ赴く。気は進まない。正直未だ、周一の意図も不明で不気味だ。

「あら、名取さん」
 編集室に入ると、スタッフの一人がモニターの前からこちらに手を振ってくる。
「いいのが出来そうよ。取り敢えず背景と被せてみたから、見てみてよ、ホラ君も」
 周一と一緒にモニター前に引き込まれ、静司は仰天画像を目にしてひっくり返りそうになった。

 それは、およそ30秒の映像だ。
 
 雨のチェルシーの裏路地。
 傘をささず歩く周一の、足元、腰、はだけた首筋と、矢継ぎ早にアップショットが映る。画像は鮮明な白黒だが、赤いものだけは赤く映っている。BGMはラフマニノフの「エレジー」だ。
 周一は古いレンガ造りの建物を、外階段から屋上へ──その屋上のフェンスにもたれるように、静司が後ろ姿で立っている。
 その二者の間に、ブラックダリアの花びらが雨粒と混じるようにザアッと流れていくフルカラーのエフェクトが入り──

『秘密の黒、官能が香る』

 周一の声でナレーションが入って、煽りのカメラが振り向こうとする静司を、背後から片手で視界を隠す周一の姿を映す。静司は俯くような加減で、周一に背後から抱かれているような格好になる。
 最後はそのショットのまま、商品の告知が入ると言うが、その部分の手入れはまだらしい──いずれにせよ。

「………」
 静司は絶句した。
 先程の色気もクソもない撮影。それがこんなことになるのか──詐欺だ。
「まだ完成したわけじゃないのよ。今のはイメージデモ。でもプランナーもPMもプロデューサーも太鼓判だったわよ。一応女性スタッフが代役で即席で作った別のverデモもあるんだけど、クライアントは絶対的場くんのほうを選ぶと思うわ」
「ええと……」
 選ばれちゃ困るんだが。
「どうしたの、的場くん」
「それって」
「それ?CMのこと?」
「……そう。それは、完成したら当然TVで……」
「勿論ガンガン流れるわ。名取さんは大手化粧品会社資星堂の今年のイメージキャラクターなのよ」
「ぜ、全国規模でですか?」
「そりゃあもう。いい?人気のタレントが出演するコマーシャル効果って凄いのよ。CM映像自体も今やネットを通してどんどん拡散するわ。それを通して企業は有効な宣伝媒体を得て売り上げを、タレントは知名度や人気を上げるってわけ」
「………」
 最後のほうは、もう余り聞いていなかった。CM業界の津々浦々など正直どうでもいい。
 ──軽い気持ち、というか、何も考えないでこんな所にやってきて、これはとんだことになった。
 こんな映像が世に垂れ流されたら、下手をすれば身の破滅ではなかろうか。よりにもよって仇敵名取家の末裔と、本来なら屋敷の奥で延々鎮座しておらねばならぬ的場家の主が。芸能界だの世間云々はともかく、世間の裏──つまり祓い屋業界の中では自分たちがどういう立場にあるのか。周一は判っていて、この茶番に自分を巻き込んだのか。
 ただでさえ、他方からの余計な噂も尽きぬというのに。








 帰りの車の中、助手席のシートで足を組んだまま、静司は延々と押し黙っていた。多分、言葉にせずともおおよその懸念は伝わっているのだろうが、周一は何も言わない。
「…………」
 道路は生憎の渋滞だ。
 ──だが丁度いい。少し眠い。静司は黙って目を閉じる。腹も減ったが、今日は周一と顔を突っつき合わせて飯など食う気はしない。彼が無神経なのか、バカなのか、確信犯なのかは知らないが、いずれにせよ此度の事件は静司にはひたすら迷惑なだけだ。結局は流された自分が悪いにしても。
「静司、送っていこうか?」
 それとも泊まる?と助平ヅラの問い。そして穏やかな笑顔。何を考えているんだ、このアホは。
 静司は薄目を開けたまま、ジロリと運転席を睨み付けた。
「……帰ります。またゴシップ記者に追いかけ回されたらたまらない」
 素っ気なく言うと、また周一はクスクスと笑う。この期に及んで、いちいち腹の立つ男だ。
「何がそんなに──」
「何がそんなに、腹が立つんだい?」
 言わんとしていた言葉を遮られ、同じ問いかけに先を越されて静司は思わずカッとなる。
「周一さん!」
「あのねえ静司」
 周一はフロントガラスを見詰めながら、穏やかに語りかけた。
「……君と私が週刊誌に載ったところで、本当に困る奴なんか、もう居やしないんだよ」
「何をふざけたことを……!」
 助手席から噛み付かんばかりの勢いで乗り出す静司を、周一は優しく押し戻した。
「そりゃあね」
 渋滞で完全に動かなくなった車の運転席で、周一は自分の頭の後ろで手を組んでクッション代わりにする。
「偏見の多い世界では、私たちにとっては本当は隠れているのが一番安全だ。でも、一昔前ならいざ知らず、別に私と君がセックスしているからって、誰かが困るわけじゃないだろう」
「……本気で言ってます?」
 名取家の末裔と、的場家の主。祓い屋の世界で信用を失うには十分なスキャンダルだ。的場一門とて一枚岩ではない。下手をすれば頭主としての権限さえ危うくなる。この期に乗じて余計な足を引っ張ってくる奴など無数に居るだろう。まして、周一は俳優だ。
「君こそ、本気で言ってるの?」
 周一は自分の腕を枕にしたまま目を閉じて、大きな欠伸を一発。そして、此方を向いてまたしても微笑む。
「的場家が何代続いて、名取家が何代続いて、我々が何を揉めてきたのか──物語としては重要な側面だね。確かに知りたいよ、物語としてはね」
「……」
「でも、それはあくまで物語としての魅力だよ。実際の祓い屋の仕事は妖事を収めることだ。寺や神社とは違う。配管工事やトイレの修理と同じ、その時点で依頼主が抱えているトラブルそのものを解決することだ。その点では祭儀を柱とする自社仏閣とは実の所は全く異なり、伝統や祭儀があまり重んじられないのは道理なのかもしれないね。必要なものは残し、要らぬものは廃れる──実利に傾倒する必要性から、祓い屋たちは様々に姿を代えて現代に順応してきた」
 ──それはそうだ。祓い屋は基本的に、格式張った伝統や祭儀を必要としない。祓い屋にとっては事実の如何が重要であり、個人にとっての真理などどうでもよいのだ。歴史が長いがゆえに、大家的場家などは凝り固まった古い体裁が板についてはいるものの、今やスマートフォン一台で仕事をする大物だって居るくらいだ。
「名取はかつて栄え、廃れた祓い屋の一族だ。一方で的場は隆盛を誇る大家。祓い屋ならこのニ家を知らぬものは無い。だから私は芸能界でも本名なんだよ。祓い屋仲間にも、すぐに私が名取家の末裔だと判るように」
「──何故です」
 前々から疑問ではあったのだ。
 何かしらの矜持があるのは判るが、行動を共にする人間にとっては甚だ迷惑な話である。
 ややあって、周一は言った。
「この間の、女性週刊誌の編集部にたれ込んだのは──私だよ」
「は!?」
 静司の脳裏に、マンション前での騒ぎが思い起こされる。四方で焚かれまくるフラッシュ。口々に放たれる意味不明な問い。
「君のネタを、小出しに幾つかリークしたのもね。ああ、うちの事務所は勿論何も知らない。スポーツ紙に先にガセ情報を流して、いつも通りの作戦で情報隠匿をしたつもりでいたんだ。女性週刊誌がスクープの掲載を事前に報せてくるという業界のお約束を信じてね」
「でも実際は──」
「記事が差し替えられるギリギリのタイミングで、君の身元に関する情報を流したのさ。連中もプロだ、裏を取る方法なんて幾らでもある。それに、いくら暗黙の了解があるといっても、それは規則でも何でもない。賞罰も無いのにわざわざこんな特ダネをパーにする馬鹿はいないだろ?──マスコミに顔が利くのは、何も的場だけじゃないってことだよ」
 これが騒ぎの火種というわけ、と周一は笑った。詰ろうとしていた静司も、そのどこか寂しげな微笑みに、思わず言葉が詰まる。
「……名取家に、的場をよく思う人間はいない。的場一門にも多いだろう。ひどい噂も耳にする。名取に対しても──的場に対しても」
 静司は鬱々としたように頷いた。
「でももう、21世紀なんだ。我らに故無き古の禍根に、私たち二人が──初めて惹き合った者たちが、今更どうして引き摺られなければならない?」
 先ほどはどこか眠たげだった周一の目は、しっかりと此方を見ていた。真剣な目だった。初めて惹き合った二人──或いは、初めて惹き合うことのできた二人。
「名取と的場であること。互いにありもしない約定のごとき幻に縛られて、逢瀬ひとつに大騒ぎだ。馬鹿馬鹿しいとは思わないかい静司。それが馬鹿馬鹿しいことだと──我々が報せてはみないか」
「……」
 それでメディアを遣うというのか。料亭でキスシーンをキャッチされてから向こう、マスコミ各社は周一の思いのままだというわけだ。さっきのスタジオだって──思えば度重なる女優の降板に関しても。
 CMがオンエアされても、静司の正体について口を割る危険のある奴はそう居ない。静司の正体を知るのは間違いなく祓い屋関係者か政財界の重要人物だ。力関係や制裁を恐れて、恐らくは誰もが黙りこくってしまうだろう。そもそも公然と民放のコマーシャルに出ようというのだから、意図を勘繰るならば、誰にも何もできはしまい。
 そうでなくとも、人妖問わずどこからでも恨みを買う的場家が今まで表舞台にその身を晒されることなく済んでいるのは、やはり一門の影響力のなせるわざなのだ。
 だが──それでも。
「どこかで憎しみの縁を切る、そのきっかけを探していた」
 周一は言った。
「私たちはもう、自由になって、いいんじゃないか」
「………」

 ──自由だと?

 急にうすらぼんやりとする街の夜景。
 自分が、自由を手にするということ。
 それは過去が消え去る時だ。現在とは、ほんの少し前の過去。それらが真に総て消え去るというならば、自由を手にすることもできようが。
 静司は自問する。周一が言うのは、あり得ない未来だ。現在と繋がらぬ架空の未来像──世界が遠ざかって見えるのは、それがあり得ないものだからだ。あり得ないから、現実と解離してしまう。
 然もあらん。自問の答えは、否、だ。可不可の問題ではない。存在意義が喪われてしまえば、生きている意味も失われてしまおうというものを。
「……あれが我々ニ家の和解の旗印のつもりなら、とんだ人選ミスですね」
 的場一門とは、幾百年にもわたり、日本の歴史を守護してきた、祓い屋の中でも最も伝統や格式を重んじる、自由とはほど遠い者たちの集まりだ。
 ましてや己はその頭目。自ら望んでその地位を掴み取った。欲したのではなくとも、そうするしかなかった過去。
「いや──うるさ方への威嚇には、最高の絵になりそうだよ」
 周一は、やはり穏やかに笑う。
 少しずつ、車がじりじりと動き出している。周一の足が、ゆっくりとアクセルを踏む。
「そうでなくとも、名取と的場の逢い引き記事だけでも、両家には大激震だったと思うがね。そしてそれが何故なのか──いかなる故あって感じる衝撃なのか。今我々が生きる時代にどのような意味をもつのか……私はね、それを皆に考えて欲しい。反意を持つ者には尚更のこと」
「………」
「停滞しているものも、壊れさえしていなければいつかは動き出す。けれども何百年も動かさなかったものを動かすのだから、我々が動きにくいのは当然だ。車のアクセルと同じだよ。急に踏み込んでも、弱すぎてもいけない。周りの流れを見計らって、動き出さなければね」
「………」
 ──まずい。
 周一から目を逸らし、静司は奥歯を噛む。
 巧く言い含められている気がする。符合しやすい、都合のいい言葉で。体のいい巧みな文句で。
 周一の気性は知っているつもりだ。俳優としての彼の貌とは、まるで正反対だということも。だから遊ばれているわけではないということは判っている──判っている、けれども。

 そんな都合の良いことがあるわけがない。上手くいく筈が無い。躍らされるな──揺らされるな、崩されるな、的場静司。

 かすかに震える自分の手を見て静司は思う。
 自分には──名優の相棒は務まらない。その嘘の瞳にさえ簡単に騙されそうになる、脆く危うい素人役者には。
「…………降ろしてください」
「ここでかい?」
 困ったように、周一は言う。
「ここで、です」
 フロントガラスに、かすかな雨の斑点がある。夏の終わりの雨雲が、夜空のほんの一ヶ所を覆い隠している──まるで天候までもが舞台装置だ。
 静司は車が止まるやいなや、即座に助手席から飛び出した。所詮素人役者の自分には、気の利いたアドリブなどできはしない。さっさと幕から去ってしまうのが一番だ。

 振り返らずに静司は早足で歩き出す。周一のFIATが後から追ってくる。そのまま通り過ぎるかと思いきや──開いた助手席の窓から、小さな塊が飛んできた。

「!」
 寸でのところで受け止めたそれは──ディンプルキーだった。

「……これは」
「私の部屋の鍵だ。じき雨足が強くなる。濡れるのに嫌気がさしたら、寄ってくれ」
 周一の語尾に重なるように、後続車両がクラクションを鳴らしてくる。
「気をつけて」
「………」
 呆然とする静司を尻目に、助手席の窓が閉まり、FIATの車体が動き出す。
 あっという間に後続車が次々と静司を追い越し、周一の車はすぐに見えなくなった。

 時刻は午後10時50分。

 最寄り駅の電車のダイヤは、ここ6年来ほとんど変わっていない。今しがた、的場邸の最寄り駅から列車が出たことだろう。もう足は無い──判っていて、合鍵など寄越したのか。静司がほだされるかどうか、それを試そうとして。

「……馬鹿な人」

 そんなこと、とうに知ってはいたけれど。
 静司は思う。
 6年の歳月を経て遥か遠くへ行ったと思っていた周一が、もしあの時の約束をまだ憶えていたのだとしたら。実際に費やした歳月よりなお遠い過去に断念したことを──本気でやり直そうとしているのだとしたら。


 ──おれは、何度でも、お前を。


 静司はしばし立ち尽くし、少しずつ強くなる雨足に、曇る空をまばたきもせずに見上げた。
「──今宵は」
 夏の終わりの冷たい雨。少し待てば、どうせすぐに止むのだろうが。
「………今宵は、冷えるな」
 雨ざらしで風邪などひけば、また家人にどやされる。
 静司はもう目と鼻の先にあるマンションの、ディンプルキーを握りしめた。わざわざ周一が作って、持っていた合鍵。

(──多分、全部が、罠なんだ)

 全てが罠──。
 そう思えば、多少は救われる気がする。仮に静司が膝を折ったとて、騙されたのだと言い訳ができるのだから。騙されたと言い訳をして、彼に抱かれるのならまだ立つ瀬はある。それは周一の意図に沿うものではないかもしれないが、そこは大役に素人役者を駆り出した彼の責に帰すとして。自分の狡さにも、今は目を瞑るとして。

 ──またふたたび、恋におちたのだ、と。
 自分はそれを、言うべきなのだろうか。

 手の中に残る合鍵。
 降り注ぐ雨。

 最終列車は、もうない。



【了】


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