The hanged man


 目深帽って、わかります?

 あ、いや、ほら。まあニットでも何でも目深に被れば目深帽なんですけどね。なんというか、最初からそういうふうに被ることを想定して作られたような、少しつばのある帆布だか何だかの地味な帽子ですよ。
 若い男の子が被ってるというより、何だか昔の大正文士みたいな感じだって言うんですよねえ。その人。あ、大正文士、なんて言いますけど、勿論自分も四十そこそこですから、単なるイメージなんですけどね。

 ──あ、申し遅れました。

 私、メールでも申しましたが金融会社に勤めてまして──え?名刺は結構?ああ、そうですか、これは失礼を。
 まあ、そうですね。行きずりの方に少しばかり話を聞いていただくのに、いちいち自己紹介なんて時代でもありませんよね。
 はは──気楽ないい時代ですよ。勤め先もいわゆるヤミ金ですから、自慢できるような身分ではないですし、妻にも逃げられた身でしてね。娘と二人暮らしだったんですよ。

 いやあ、実はね、実際、不安だったんです。ちょっと今、お話しようと思っていた件でしばらく神経質になっていたものでね。例の目深帽の人物──若い男にまつわる話なんですが。


 最初に妙なことを言い出したのはうちの社長だったんです。社長は会社の二代目なんですが、ほら、まあ、二代目はなんとかって云うでしょ?まさにその典型なんです。バブルの頃に豪遊していた方で、家業の金貸しに関しても、先見の明やらアイデアやらがあるタイプではない。ただ、先代からの実績があるので、資産運用に関してそう荒れることは無かったんじゃないでしょうか。まあ、それが逆に変な自負になってしまったんでしょうねえ。

 で、その社長が言うには、夜中の2時になると自宅の電話が鳴って、知らない男性が、

『つる』

 って、一言言って切れちゃうって話なんですよ。
 その電話、2日連続で同じ時間にかかってきたらしくてね。どっちも別人の声だったんだそうです。
 まあ、何だか変な都市伝説みたいな話ですけど、丁度その時間帯前後に、ウチで金を借りていた客が二人、二日連続で、まったく関係ないところで、同じ死に方をしてたって話なんですよ。一人は家の鴨居で、もう一人は公園の桜の木で首を吊ってね。そうすると、何か嫌でしょう──『つる』って。まあ、大体、冷静に考えれば、それがその自殺された方の声だったかどうかなんて、判りゃしないんですが。その方の関係者の嫌がらせかもしれないですし。実際、たまにあるんですよ、債務者の方が亡くなられるとね。
 色々と厄介ないわくのある仕事ですからね。ただ、お金をご融資する以上は、返していただけないという事態は正直一番避けたい。ですからウチとしても、返済が滞ったお客様、返済を踏み倒そうとするお客様などには、色々と細工が必要になるわけです。
 勿論、不本意なんですが、遅滞がいちじるしいお客様や焦げ付きそうな場合には、横繋がりの金融機関などに情報を開架しますので、ともすればお客様のところには架空請求の電話が殺到することもあります。あとは古典的な方法として、DM、電話、訪問は必ず行いますかねえ。ほかには………いや、まあ、やめましょう。こういうのは話の主題ではないですしね。
 とはいえ、やっぱり昔とは勝手が違いますんで。法に触れるギリギリのところでやってかないといけないんですけども、今時分は司法書士事務所にでも相談されたら厄介ですから、そこはケースバイケースです。最近はネットで知識をつけてこられるお客様も多くてね、確かに回収が難しくなってきてはいる。
 でも結局、ヤミ金に手を出してでもすぐにお金が必要な方って、やっぱたくさんいるんですよ。だからこの商売は廃れない。一方的にこちらが悪いとは言わせませんよ。
 条件はほぼ審査無しで融資する一方、利息は高いし正直取り立ても確かに厳しいです。まあこちらとしては、この金利の設定で膨れ上がっていく回収金が一番の旨味なんです。一旦少額の金を借りた方でも、金利で一気に雪ダルマなんてこともよくある話ですしね。
 ところがウチの二代目ときたら、昔のオイコラやくざに近い感覚なんですね。ま、自分で取立てに行くわけじゃないんですが、取立てのワーカーにもノルマなんて作ってねえ。それで客に首括られちゃ元も子も無いってのに、もう何度もやられてますからねえ。勿論、借りておいて返さないってのが一番悪いんですが。


 まあ、そういうわけで妙な電話がかかってきましたのも、多少いわくありげな話でして。どちらも取り立てをかなりハードにやっていたお客様だったんでね。
 そんな矢先に、一度その社長がちょっと体を壊しましてね。
 不眠、て言うんですか?寝付いても数時間もすればすぐに目が覚めて、後は朝まで眠れない、と。そんなことが続いて調子を崩したんですね。元々多少神経質なのは知っていましたが、詳しく訊くうちに話が見えてきたんです。

 目が覚めるのは決まって午前2時。まあ、敢えてガジェットを重ねてみるとすれば、例の電話がかかってきた時間なんですが。
 ウチの社長、やたらと迷信深いところがありましてね。いえいえ、珍しいことじゃありませんよ。人の恨みをかう仕事をやってますと、自然とそうなることが多いんです。政治家なんていい例じゃないですか?そんなですから、例の「つる」なんていう電話も、瑞鳥の「鶴」にかけて──ほら、隠語で人が死ぬことを「めでたくなった」とかいうことがあるでしょう?あんまりにも突飛なんですけど、そういう深読みまでしてしまう始末なんですよ。やれやれでしょう。

 それである時、またやっぱり午前2時に目が醒めた時に、インターホンが鳴ったって言うんです。
 午前2時ですよ?
 普通はありえないですよね。
 社長もそりゃあ面食らって、さあどうしたものかと、ベッドで布団をかぶって固まっていたんですが、インターホンは止まない。
 でも、家の方を起こしちゃまずいと思ったのか、なんとか起き出してセキュリティモニターで玄関先を見たらしいんですよ。

 ──そこに、目深帽の男が立ってた、と。

 これが、例の最初の話なんですけどね。
 顔は帽子で隠れて見えないんですが、口だけ笑った形で不自然に時間が止まったような──そう、例の大正文士みたいなね。
 社長、何も言えずに、ずっとモニターの前で立っていたそうなんですよ。何が怖いのかもよくわからないのに、ただただ足が震えて止まらなかったって。男はずーっと笑っていたそうです。
 どれくらい時間が経ったか判らないそうなんですが、何がきっかけか、社長はある時ふと我に返ったそうです。その瞬間、目深帽の男が、笑った口のままでこう言ったって。


『つ る』


 音響装置で音の再生速度を遅くしたら、すごく低くなるでしょ?そんな感じの不自然な低さで、しかも喉元を無理矢理押さえられたような声だったって。
 だもんで、思わず咄嗟に連想しちゃったんでしょうね──首吊りを。
 それで、気がついたら、朝だったそうなんですよ。玄関で立ったままの社長を、奥さんだか子どもさんだかが見つけて声かけて、やっと我に返ったっていう。
 社長は慌てて、怒りも露に玄関の防犯カメラの録画を確認したそうです。警察にでも突き出そうと思ったんですかね。
 でも、午前2時前後の録画の映像には、何も映ってなかったそうです。ただ、少し画像が乱れていたとか。
 その朝、奥さんがポストに新聞を取りに行ったら、人形に切った紙切れが一枚入ってたそうです。
 ちょっと不気味な話でしょう。










 さっきも言いましたけど、職業柄、迷信深い方の多い業界ですからね。ウチの社長も贔屓にしてるまじない屋がいるんです。そのまじない屋──そうですね、仮にMさんと呼びましょうか。

 社長はもうその日のうちに、取るものもとりあえずMさんのところへ飛んでいきましたよ。もうね、半狂乱ていうんですか?仕事も何もかもほっぽり出してね、従業員はそりゃ困りますよ。何しろ小さな会社ですから、社長と従業員との間が近い。何でもかんでも社長、社長ですからね。何だかんだで居ないと回らない。
 それで結局、私が社長に付き添って、そのMさんのところへ一緒に行ったんです。
 これがまた、すごいお屋敷でね。外周を一周するのに、下手したら十分くらいかかるんじゃないかなあ。やっぱり宗教ってのは儲かるんだなあ、と思いましたよ。
 Mさんはとても若い綺麗な方で、私なんかは何だって若い身空であんな胡散臭い商売やってるのかと思うんですが。まあ人には色々ありますからね。
 Mさんの家とは先代からの付き合いがあるらしく、社長は──何度も言いますけど迷信深い方なので、何かあるとすぐにお祓いだ何だと言ってそのお宅へ伺っていたみたいなんですね。
 私は普段はそういうことは信じないんですが、いわゆる霊感商法って言うんですか?向こうさんは何か売り付けたり勧誘したり、まったくそういう感じじゃないんですよ。
 出で立ちときたら胡散臭いことこの上ない、眼帯に長髪、着物の若造ですからね、ちょっと引きましたよ、最初はね。

 でも、そのMさん。
 初めでこそにこやかに笑っていたんですけど。とにもかくにも社長が泡でも吹きそうないきおいで、例のポストに入ってたっていう人形に切った紙を出した時に、ガラッと態度が変わっちゃったんです。いや──厳密には、触った時に、かな。
 ギョッとしたように手を引っ込めて、これが家の敷地に入ってきたのか、って凄い剣幕で訊くんです。
 変な言い方ですよね?紙切れがポストに入ってたって説明した矢先にそれですからね。「入ってきた」ってかなり変な言い方じゃないですか。
 それで社長は逆に面食らって、ようよう順を追って事態の説明を始めたんですね。弊社のお客様が立て続けに自殺されたこと、それが二日連続で午前2時に起こったこと、その時間に掛かってきた電話、「つる」というメッセージ。そして目深帽の男のこと。

 私は多分、しばらく忘れられませんよ。Mさんが気の毒そうに、本当に気の毒そうに社長の顔を見た時の表情。
 あの方、多分判ってたんじゃないでしょうかね。まあ私どもにはその手合いの理屈はさっぱり分かりませんが。後になって本当に怖くなりましたよ。
 ただ、Mさんは、とにかく一週間は家を出るなと、社長と私に言ったんですよ。私は関係無いのに、と思ったんですけど、Mさんは特に私に対して言うんですね。「あなたは絶対に外に出てもいけないし、外部と連絡を取ることも避けてください。電話をかけることも取ることも控えるように」とかね。
 何で私なのかと訊いても、Mさんはもう何も答えてくれませんでした。むしろ早く帰るのを急かされたというか。
 ただ、帰り際、社長からは見えないところで、Mさんは私に何かを渡してくれたんです。
 Mさんはこう言いました。

「あの方はもう駄目でしょう。でも、もしかするとあなたは大丈夫かもしれない。これを肌身離さず持って、もしあなたの家にもそれが来たら、狗のふりをして、それをやり過ごしてください」

 ──狗のふり。

 ……私は怖くなりました。
 いえ、違うんです。そんなことを真顔で言うMさんが怖かったんです。ゾッとしましたよ。
 Mさんが渡してくれたのは、紙切れでした。これは何かと訊くと、Mさんは、一週間経つまで決して開いてはいけないと言いました。
 そして「つる」とは、「吊る」という意味ではなく、「連れていく」という意味の古語だと教えてくれました。社長はそれを聞いてしまったことで、家の中によくないものを招き入れてしまったと。
 私は言う通りにしようと思いました。
 しばらくすると担がれたんじゃないかと思うようになったりもしたんですが──やっぱり怖かったんですね。












 その二日後、社長が亡くなったと連絡がありました。
 事務所の二畳ばかりの倉庫の中で、首を吊って死んでいたそうです。凄まじい形相で色んなものを垂れ流して、出社してきた事務の女子社員なんてそのまま倒れて病院に運ばれたそうですから。そりゃあ酷い死に様だったんでしょうよ。
 死亡推定時刻は午前2時前後。
 何でこんな時間に社長が職場に居たのかはさっぱり判りません。うちの事務所はセキュリティカードを通して入るんですが、通した記録も無いんそうなんです。しかも防犯カメラには、2日間のあいだ、社長が社外に出た映像が無い。つまり、ずっと会社にこもっていたということになりますが、それも解せません。
 私は幸い風疹をでっちあげて葬儀にも出ずに家にこもっていましたが、この頃からはいよいよ恐怖を感じ始めました。

 何故って──あの自殺した二人の債務者の回収担当者は、実は私だったんですよ。かなり強引にやりましたからね。馬鹿馬鹿しいと考える一方で、無関係ではないのでやはり据わりが悪いというか……。
 ──いえ、はっきり言いますと、私は半分パニックでした。
 さりとて何もできずに、外にも出られずに、電話線は切断、インターホンも切って、携帯もスマホの電源もオフにしていました。
 例の男が来るかと思ったからです。例の目深帽の男がね。Mさんが言ったみたいに「悪いもの」が入ってくるかもしれない──そう思うと、もう何だか恐ろしくて。おかしいですね、本気で信じているわけでもないのに。

 でも、家にこもっているうちに、私は余計に怖くなってました。Mさんは家から出るなと言いましたが、家に居たらもう逃げ場がないじゃないですか。小学校に通う娘もおりますし、来客全員を拒否するわけにもいきません。まず現実問題として、一週間も家から出ないなんて、実生活では不可能なんですよ。下手をしたら飢え死にしてしまいます。

 どうしたら、と思っていた矢先、夕方頃にインターホンが鳴ったんです。
 私は飛び上がりました。
 娘はまだ学校から帰っていません。まごついている間にも、何度も鳴るインターホンに、私は恐る恐るモニターを表示させました。
 帽子を見てギクッとしましたが、それは通学帽をかぶった娘だったんです。
 すぐに開けると言って、玄関に向かおうとする私の体を、引き留めるものがありました。何だったかはわかりません。漠然とした違和感だったのかもしれません。
 モニターの中の娘は俯いていて、口だけが笑っていました。
 私は動けませんでした。
 そして娘は、笑った口のまま言ったんです。


『つ る』


 ──それは娘どころか、女の子の声ですらありませんでした。
 私は慌てて玄関先に飛び出ていきましたが、もう娘の姿はありませんでした。
 大体、インターホンなんて鳴るはずがなかったんですよ。電池式なので、電池さえ抜いてしまえば絶対に鳴らないはずなのに。そんなことにも気付かないくらい、パニックしていたんですね。

 郵便受けには、人形に切られた紙が、一枚だけ入っていました。
 私は苛立ちまぎれにそこで人形の紙を破り捨てました。そのわけのわからないものが娘の姿を借りてきたということが、どうしても腹立たしかったんです。


 次の日、私の娘はそこで死にました。ばらばらにされた体を布にくるまれて、庭木にぶら下がっていたんですよ。
 勿論大変な騒ぎになりました。警察が来て、現場検証が始まり、マスコミが集まって事件はすぐに報道されました。あ、あなたももしかしたら、ニュースでご覧になったかもしれませんね。


 結局私は、どうにか事なきを得ました。約束の一週間が経過しないうちに、警察と家を行き来しなければならなかったのですが、幸いにも何事も起こらずに済みました。
 けれども結果として、何の関係もない娘が死んで、私のほうは生き残ったんです。
 私はMさんに貰った紙を取り出し、開いてみました。

 そこには大きな赤い字で、
 「
 と書かれていたんです。

『あの方はもう駄目でしょう。でも、もしかするとあなたは大丈夫かもしれない。これを肌身離さず持って、もしあなたの家にもそれが来たら、狗のふりをして、それをやり過ごしてください』

 ふと、私は、身代り地蔵のことを思い出しました。
 ──Mさんは、恐らく私が本気に受け取らないことを見越して、これを書いてくださったのでは、と思いました。
 私は自分が情けなくなりました。もしもちゃんと言うとおりにしていれば、娘は死なずに済んだのではないかと思ったのですが、今となっては後の祭りでした。
 翌日、その紙は、何故か灰になっていました。
 ──役目を終えた、そんなように見えましたね。
 それからは、今後多少は信心をしていこうという気にはなりましたね。

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 其処まで話を終え、私は相手を見ました。二十代半ばくらいの若者で、年の割に大変落ち着いた方でした。
 その方とはネット上で知り合って、事情をほのめかすと、実際に話を聞きたいと申し出てくれたのですが、話すということには大変な自浄作用があるようですね。
 今や私は随分落ち着いていました。
 あれ以降、弊社の社長には亡くなった元社長の奥様が就任されて、私は常務に就任しました。
 こんな時に不謹慎と思われるでしょうからお話しはしませんでしたが、ここだけの話、あれ以来私は奥様とも親密な仲になりつつあります。
 何事か大変なことが起きても、時間というのは普通に流れていくものですね。

 私は礼を言い、別れ際に握手をしました。
 彼はにこやかに、「娘さんは無関係なのに、気の毒なことをしましたね。でもあなたが不用意にヒトカタを破いてしまうから」と、クツクツと機械のように肩を揺らしました。
「呪詛返し(すそがえし)の守り紙が灰になったのは、役目を終えたからではありません。あなたが『約束』を破ったからです」

 ──私には、彼の言葉が理解出来ませんでした。

「一週間、外に出てはいけないと言われたのに──あなたは出て行ってしまった。的場に言われた通りにたった一週間、家の中でひたすら狗のふりをしていれば、私に見つからずに済んだのに」

 的場。
 何故、彼が、件のまじない屋の名前を、知っているのでしょう。
 そして彼は私の前でゆっくりと目深帽をかぶり、口許を歪ませて──ひどく邪悪に笑ったのです。











「おまたせ、静司」
 駅前のブックスストアで静司と待ち合わせた周一は、あからさまに不機嫌な浴衣姿の静司を見るなり、軽く抱き寄せてキスをした。
「用事、終わりましたよ」
「遅いです」
「ごめんごめん。お茶にする?それとも食事?」
「エビフライがいいです」
「エビフライ?」
「しっぽが好きです。かっぱえびせんの味がするから」
 予想だにしないくだらない発言に、周一はクククと笑って頷いた。
 静司の藍色の浴衣は、藍一色のシンプルなものかと思えば、裾には金魚の模様がある。何だかそれがとても愛らしく思えて、少し強く抱き締めると、静司は周一の首にもたれかかって気持ちよさげに目を細めた。
「よし、では洋食系ですね。私も腹が減りました」
 珍しく先頭をきって歩き出した周一を、静司が追ってくる。
「話はついたんですか?」
「勿論。ただまあ、まさか本当に的場の顧客とは思いませんでしたが……」
 苦笑した周一に、静司の表情がにわかに曇る。
「こっちだって周一さんがあんな禍々しい呪詛を使うなんて思いませんでしたよ。最初は何かの間違いかと思ったくらいです」
 おどけてなじるような口調と、まるで見合わない言葉の羅列。静司が少し歩みを緩めると、周一もそれに合わせる。静司は声をひそめるようにして言った。
「あなたが●●金融の関係者が首吊りの件で相談に来たら、『「つる」とは「吊る」という意味ではなく「連れていく」という意味の古語だと教えてやれ』なんて気色の悪い電話を寄越すから、何の事かと思いきや」
 浴衣の帯に挿した団扇で、静司はハタハタと首筋を扇ぐ。
「呪詛の片棒を担ぐなんて寝覚めの悪い。一応呪詛返しを持たせましたが、やはりあなたには無意味でしたか」
 呪詛返しは、文字通り呪詛を相手に還す法である。「狗」と記されていたという静司の手によるそれは、呪詛をかけようとする相手の目を眩ませ、行き場を失わせて術者を調伏する呪法だ。
「……依頼者二名が自らの命を投げうっての呪詛嘆願ときましたからね。こちらも大仕事でしたよ」
 命を対価に呪詛の依頼。本来は断りたい事例の最右翼だが、金を積まれてさっさと命を断たれてしまった上は、もはや引き受けざるを得ない、ほとんど脅迫に近い依頼である。
「その依頼者二人って、どういう関係だったんでしょうね」
 大して興味もなさげに静司が問う。
「さあ。ネットか何かで知り合ったんじゃないですか?最近は物騒な募集も多いですし」
「ああ、集団自殺とか、痴漢サークルとかねえ」
 必要な情報以外は、基本的には何も詮索しないのが名取周一のやり方だ。その気になれば何でも洗い出せる自負がある以上、無駄なやり取りはしたくない。まさに「気楽ないい時代」だ。
「しかもどんな巨額の負債かと思えば──確かにとんでもない負債額でしたが、実際に借りたのはどちらも百万やそこらです。ありゃあとんでもない悪徳金融ですよ」
「知ってますとも。お得意様とはいえ、先代もボロクソでしたから」
 的場にボロクソ言われるようでは、とんでもない所業を重ねてきたのはもはや間違いあるまい。寝覚めが悪いと言いながら、満更でもないという静司の態度が思わぬ不謹慎な笑いを誘う。
「でもまあ、あの男もそう長くは保ちませんよ」
「……まだ追い詰めますか」
 うんざりした様子の静司に、周一は笑って答えた。
「──まさか。自分の手で娘を引き裂いたことも気付き、まだ『目深帽の男』が自分のすぐ側に居ることをもう彼は知っている。此度の異常な事態は、二人の人間を死に至らしめた彼の罪悪感を助長する。私はもう何もする必要は無い。賢しくなくとも魯鈍に非ず──鋭敏になっていく自意識は、やがて自分の恐怖を世界の中心に置くようになる。それで呪詛は完成だ。彼はそれに耐えられずに」
「首を吊る……という脚本ですか?」
 笑みを浮かべたままの静司の表情にかすかな緊迫が走る。
 相手を、周一を警戒するような目。
「……怖い人ですね、あなたは」
「君に言われたくないなあ」
 当の周一の顔は相変わらず優しい。
 思えば互いの仕事の進行具合の詳細を観測することなど、そう滅多にあることではない。お互いが普段どんな仕事を請けるのか──どんな黒い仕事に手を染めているのか。
 静司の違和感は、おそらくは名取周一という男が放つキャラクター性との齟齬だ。一方で、逆のパターンは無い。まさにイメージが造る不平等。
 静司の曇った表情が、少しずつ不敵な笑みへと変わる。
「……周一さん」
「はい?」
「的場一門に入りませんか?」
 一瞬何を言われたのか判らず、きょとんとした後──ややあって、周一は哄笑した。
「悪くないかもしれませんね」
「本当に?」
 静司の貌が、コロッと輝く。
『向こうさんは何か売り付けたり勧誘したり、まったくそういう感じじゃないんですよ』──先ほどそう語った男の話が、ただの笑い話にしか聞こえない。
 周一は急に足を止め、静司の行く先を阻む。そして人目があるのも構わずに、往来のど真ん中でいきなり静司の唇にキスをした。
 通りの人目が、一気に此方に集まるも、周一の正体は知られない──愛用の目深帽の恩恵だ。
「──いつか路頭に迷ったら、の話ですが。運転手か、バター犬くらいにはなりますよ」
 そう言って唇を邪に吊り上げるも、その邪悪さとは、相手によって閾値処理が異なるということを、勿論周一は知っている。


【了】


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