LOVE IS CRIME
Dear 烏罪様


 静司がようやく、あのCM撮影の記憶が掻き立てるモヤモヤを忘れつつある頃。
 街角に、駅前に、電車の吊り広告に、とんでもないポスターが貼り出されはじめた。

 資星堂、秋の新商品。
 フレグランス化粧水を皮切りに展開される新ブランド【CRIME】。
 ポスターは、CMの最後のカット──名取周一が謎の美青年モデルの目を隠すシーンが、別の煽りのアングルから撮られたもので、下部に敷き詰められたブラックダリアの花びらと共に商品の広告が出ている。
 煽り文句は、

『もっと、官能と罪の香りをまとって』。

 グラマラスで扇情的な広告と共に【CRIME】という新ブランドシリーズのタイトルは、どうやら通行人に鮮烈なイメージを残したらしく、資星堂には商品の問い合わせが殺到したらしい。商品の発売日、入荷先、そして、周一と映っているモデルの素性だ。
 まだ、以前話題になった周一のゲイ疑惑の相手と結び付ける情報は無かった。何しろポスターの静司の顔は、周一の手に隠れて見えてはいない。件のすっぱ抜かれた(すっぱ抜かせた)記事の写真さえ、相手は一般人だということで、使用された写真は人相がよく判らない横顔である。
 それでも、オンエアされはじめたCMが話題になりつつある今、バレるのは時間の問題だ。いや、寧ろもうバレていると考えたほうがいい。マンション前に待ち構えていた「女性セブン」の記者たちは、実際に静司の顔を間近で見ているのだし、撮影関係者から情報が洩れている可能性がある。
 ただ、クライアント──資星堂の広報部は、敢えてモデルの身元を明かさず、CMそのものの話題性を利用するという方針であるらしい。これによってある程度の情報漏洩は防ぐことが出来るだろう。しかし、この一連の『名取周一の恋愛スキャンダル』がどれほど芸能ニュースの中で大きな位置を占めているか──つまり、どれだけ金になるかが問題なのだが、同時期に他の大きなネタが重ならないとなると、写真週刊誌あたりが関係者を金で釣ってくる可能性が出る。運が悪ければ静司の名前も世間に晒されることになるが、これはそう痛手にはなるまい。無名の美形モデルが大金持ちの旧家の家督、まるでハーレクイン小説のような設定だが、静司自身は芸能界になど丸で興味が無いからだ。そして最悪の場合、上から圧力をかけるだけの力が彼には──的場家にはある。

 そこで、一番の懸念となるのは、身内である。
 的場とつるむ名取──いや、名取とつるむ的場、という図式が暴かれるのは、祓い屋的場静司にとってのある種のスキャンダルなのである。祓い屋の中には同性愛どころか、式や妖どもと道ならぬ恋に落ちる輩も後を絶たないのだが、静司の場合は、的場家というネームバリューが大きすぎるのだ。
 方や出戻り術者、異端の祓い人と蔑まれながら、かつては的場とも肩を並べた名家、今は没落した名取家の末裔。方やかつて、その数十一にのぼる祓い屋大家をまとめた実質上祓い屋業界最大の「組織」である的場家の現頭主。過去の遺恨とはいえ、いわば不倶戴天の敵である。
 まして、生きた化石のような堅物が多い的場の人間──主に年長者には、静司がコンビニに行くにも、公共交通機関を使うのにも眉をしかめるような連中が揃っている。
 的場家奥の院。
 本来は役職名など存在しないが、的場家の一部の面々──静司を含む──が、小人閑居して不善を為すという揶揄をもじって、奥の院と名付けた老害集団。
 静司は冷酷であっても、名実共にすぐれた頭主ではある。しかし、実際にはこの妖怪じみた老害どもを完全に飼い慣らすには至らない。この爺婆どもときたら大層奇怪かつ厄介な存在で、静司とて重要な決定を下す折、彼らの存在を無視することは出来ない。つまるところ、巨大になりすぎた的場という組織における、腐敗して機能を失った議会──ローマ帝国末期の元老院のミニチュア版のようなものだ。

 もしも此度の事が、彼らの俎上にでも上れば──。

 静司は裏庭の池に架かる橋から、優雅に泳ぐ鯉を見つめる。

「……的場一門頭主たる重責、若き静司様には未だ背負うに価せぬ御様子。此まで咎め無しと大目に見て参ったが、此度の余りある態度、的場家の名に泥を塗る大罪ぞ……」
 嗄れた老翁の口真似をして、静司はクックと笑う。馬鹿な。そんな優しい言葉だけでは済むものか。下手したら飲んでいる茶に致死量の毒でも盛られかねない。咎めもせずに、そしらぬふりをして、不適当な頭主を代替わりさせるくらいのことは平気でやりそうな連中。代わりはいくらでも居るのだから──と。

「CRIME……」

 クライム。罪。
 これは、罪なのか?

『……でももう、21世紀なんだ。我らに故無き古の禍根に、私たち二人が──初めて惹き合った者たちが、今更どうして引き摺られなければならない?』

 ──判っちゃいないな、周一さんは。いつでも何処にでも、判らない人間には永久に判らないことがあるんだよ。

『名取と的場であること。互いにありもしない約定のごとき幻に縛られて、逢瀬ひとつに大騒ぎだ。馬鹿馬鹿しいとは思わないかい静司。それが馬鹿馬鹿しいことだと──我々が報せてはみないか』

 うん。
 価値はあるかもしれない。でもそれは少し、希望論に偏っているね。報せて、それは本当に伝わるのかな。おれたちにはどうでもいいことが、誰かには天地を揺るがす一大事なんだ。おれたちが先ず、そのことを知らなくてはならない──。

「………」
 記憶との問答。
 急に、静司は不安になる。
 もう、とっくに情報は入ってきている筈だ。奥の院が動き出せば、どんな処遇が待っているか。

 ──もっと、官能と罪の香りをまとって。

 つまり周一は、そう言ったのだ。しがらみの無い出戻り異端者の面目躍如。もっと挑発してやれと──かつての大罪も、今はそうではないのだと。いやが上にも変わってゆくものを、変えるまいと躍起になる者たちに、見せつけてやればいいのだと。
 何一つ間違ってはいない彼の主張を、素直に受け入れられないのは、手段に抵抗があるからか。或いは、戦国の世で頭の立ち腐った連中と同じように、自分の思考も毒されているからだろうか。
 池の巨大な錦鯉が、ぷかりと顔を出すと、静司はクスリと笑った。
「……心配してくださるのですか」
 朝夕の鯉の餌やりは、本人のたっての希望で、今では頭主である静司の仕事となっている。鯉という魚は上手く育てれば大変に長生きする魚で、池の中には静司より遥かに年長の鯉がたくさん居る。中には天災で鱗に傷が付き、業者が売れなくなった鯉の稚魚を買い叩いて、すっかり育った静司の愛子たちも混じっているが。
「兄上、姉上………」
 大正三色、昭和三色、紅白、鼈甲、九紋龍、山吹黄金。中には1メートル近い桜島大根みたいな奴も居る。年長者である彼らは、静司にとっては人間よりも遥かに近しい兄であり、姉なのだ。

 すいすいと寄ってくる鯉の一団を見下ろして、静司は拳を握り締めた。
 ──この泳ぐ宝石と称えられる錦鯉とて、200年ばかり前にはただの地味な野鯉だったではないか。そこに現れた毒々しい深紅の個体など、人々の目には宝石どころか──不気味で禍々しく映ったのではないか。

 ──そうだ。
 不安になる必要が何処にある。
 卑屈になる必要が何処にある。
 周一の言う通り、今は21世紀──もはや人の心を無視してなお、しきたりや因習を押し付けてただで済まされる世情ではない。たとえこの邸の時間が、いつぞやの時代で停滞していたとしても。
「……どうか、おれの支えに」

 だから、それはきっともう──罪ではないと。









「……的場一門頭主たる重責、若き静司様には未だ背負うに価せぬ御様子。此まで咎め無しと大目に見て参ったが、此度の余りある態度、的場家の名に泥を塗る大罪ぞ」
 自作自演リハーサルと一言一句違わぬ言葉に、静司は吹きそうになった。
 が、堪えた。吹き出しでもしたら、即座に吹き針が飛んできて滅殺されそうな勢いだ。
 座敷二部屋をぶち抜いて、十人くらい居る「奥の院」の爺婆がぐるりを取り囲む中、静司は真ん中に置かれた座布団の上にちょこんと座る。その面子の中には、かつて静司がたった一度、この一門から縁を断たんと周一と共に邸を後にした折、追ってきた者たちの顔もあった。
 それにしてもこの舞台設定──もう少しどうにかならないものか。まるで喚問されているみたいだ。頭主の威厳もヘッタクレもあったものではない。
「静司様」
「……はて、御隠居様方が何を申しておられるのか、此方にはとんと判じかねまするな」
 静司は最初から少し声を荒げながら言った。
 既に「頭主」から「静司様」と呼び名まですり変わっている。不品行な頭をすげ替えて、仕切り直すつもり満々だ。とはいえこちらもいい加減、妖怪のご機嫌伺いなどうんざりしていたところだ。鉈の振るい合い──結構なことではないか。
「私の広報媒体への露出に言わんとすることがあるならば、先ずは此方の言い分を聞いてからにして頂きたい」
「畏れながら静司様」
 一人が口を挟むや、静司は音もなく立ち上がった。それは、言葉無き制止であった。
「御手前、聾であったか?」
 そして、氷水を浴びせかけるような一言。
 奥の院が静まり返る。
 即座に口を開く勇気のある者は無かった。静司は帯にはさんだ扇子を開き、はたはたと喉元を扇ぐ。周囲を取り囲まれ、頭主たる威厳を損なわせるに十分な状況を、圧倒するような威圧感が溢れ返る。
 真の舞台巧者は、果たしてどちらか。
「……さて。此度の騒ぎ、この私の一存にて決した次第にこそ、我々祓い屋大家の世相に順応できぬ現実が反映されたる警告と見よ。今はもはや、幕府の治世でもなければ、明治大正の昔でもあるまい」
 一人が即座に肩を揺らした。福禄寿のような風体に、瞳に異様なぎらつきを宿した老人。
「これは異な事を、静司様」
 その口調には、風体に似つかわぬ怒りがある。
「いかなる仔細にて事に及んだかは追って糾明するとして、我々が守るべきは一門の威光と尊厳。あなた様は代々の父祖がそれこそ命に代えて積み重ねたご威光を、無に帰さんとしていることを今一度己に問うてみるがよい」
「たわけ」
 静司は一喝した。怒りを思わせる鋭さは無い、厳然とした一言である。
「尊厳と威光、それが崩れる時は我々の祓い人としての力が及ばぬ時。何故ならば、それを生業とする我らの尊厳と威光とは、まさにこれによって築かれるからである。世の口が並べて愚昧にして、物の素養、真価を測る尺に、筋の通らぬものを遣うは承知。だがもしも真にこの芥子粒のごとき騒ぎが的場一門の土台を揺るがす一大事であるとすれば、今この時代まで我が一門が生き残ったこと自体がまったき奇跡と断ずるや已む無し。左様なるが真実ならば、この業深き一門、早々に歴史の闇に葬り去ってしまうがよかろう」
 だが違う、と静司は、閉じた扇子の先で周囲を睨めるように舞う。
「──かつては方々から外道と蔑まれ、なおも祓い屋の面汚しと罵られる我らが未だに衰退の兆しも無く存続するのは、需要が途絶えぬからに過ぎぬ。妖祓いなど、今や見渡せば幾らでもあろう。まして醜聞など我らには常なるものと考えていたが如何。何をそう怯える?何がかように恐ろしいのか?」
 ぴたりと静司の扇子が止まる。それが差すのは、何かを言わんとせわしなく貧乏ゆすりをくりかえしていた古老であった。
 古老は言った。
「し──しかし何ぞや、あなたはあの名取の長には並々ならぬ執着があるご様子」
「………」
 周一との肉体関係は、的場邸では既に公然の秘密である。しかしこれまでは、面だってこれを非難しようというものは無かった。
 だが今回は、広報媒体への露出という決定的に前例の無い事態と共に、いよいよこれを切り崩そうという目論見が彼らにはある。
「ましてあのように居並んで世間の晒し者になるとは何事か。静司様は此度、我々的場一門の看板に泥をお塗りになられたのだぞ。もしあなたさまが我が一門を統べる頭主でなければ、共にこの天を抱かざる反逆者の所業と申してもよい」
 どこぞで聞いたような台詞だ。静司は古老の傍らに歩みより、その顎を開いた扇子の上に載せて微笑んだ。
 ──恐ろしく、妖艶な笑みだった。古老はたじろいた。静司は老いさらばえてもなお枯れぬ、男の性というものを知り尽くしていた。
「反逆者、とな」
「そ、そ、それだけではござりませぬぞ」
 静司の背後から、助け船とばかりに新たな老婆の声が鳴った。幾つであるかなどもはや推測も出来ない、こちらは歯の無い、動く屍のような老婆である。
 静司はタン!と扇子をたたみ、音もなく立ち上がって正面から老婆の方に居直った。
「ま……的場の不動の地位を万人に認めさせるためには、とう、頭主であり的場の旗印であるあなた様のおつむがまともであってくださらねばならぬのだ。そもそもの最初から、あ、あの異端の外法師とつるむなどと………思い至るが狂気の沙汰よ。ただ、い、い、威光とは、歴史が培ったそれの上に、あ、胡座をかいておればよいというものではないわ」
 ひどい吃音とゆっくりとした口調は、歯が残っていないためであろう。彼女は静司を侮ってはいても、まるで恐れてはいない。幾つであろうが、女というのは恐ろしいもの──静司は内心で舌を打つ。
 老婆の間延びした演説に、先ほどの古老が賛同の声を上げる。
 ──おつむがまとも、だと。
 静司は鼻で笑った。
「いかにも。しかしながらご両所。さなきだにそなたらの内、金のみにて動く非情のものと貶される的場一門の拝金主義に異を唱える者がおらぬのは何故か。同業より祓い屋の面汚しと罵られるに、涼しい顔をしておるのは何故か」
 よく通る静司の声は、弥勒三千たる老いさらばえた奥の院を圧倒する。もはや物の道理より、場を威圧することのほうが重要であるかのような存在感。
 周一との関係を追及されて困るわけではないが、ここは巧く、問題をすり替えることが得策だ。
 別な老翁が口をひらく。
「滅多なことを申されるな。これは一門の父祖が義ではなく利を取ったまで。それこそ誰ぞの気紛れ一存にて取り替えのきく理ではありますまい」
「ほう」
 してやったりと、静司の目は光った。
 義ではなく利を取った──ものは言い様だ。要は尊厳だの威光だのという耳障りのよい言葉で、自分たちが心地良く都合の良い状況を永続させようとしているだけではないか。いかに些細な習慣であれど、暗黙の了解を踏み倒す無法者は自陣から閉め出さねばならぬという、凝り固まった強迫観念。
「──確かに、金の旨味でも味わわねば、いつまでも奥の院に居座り続ける理由などあるまいな。なるほど、尊厳、威光と名を変えた特権の存続と考えれば納得がいく──」
「な、何と!」
「余りな暴言ぞ!!」
 口々に飛ぶ怒号。
 金、というよりは変化に対する恐怖なのだろう。人は老いてゆくにつれ、多くが変化に対応する能力を失っていく。変化を恐れるようになる。そして、立場が盤石であればあるほど、変化を憎みさえするようになる。
 ──それは、いつの世でも同じだ。
「愚昧なる一徹者ども!」
 片足でドン!と畳を踏み鳴らし、静司は閉じた扇子を剣先のようにして、水平に円を描いて周囲を睨めつける。
 時間は流れているのだ。
 いつまでも時世に逆行したままでは、その異形の恩恵に与る者以外は世相とのギャップに喘ぎ続けねばならない。そしてそのギャップとは、詰めねば開いていく一方なのだ。
 静司は、周一の言葉を思い出す。水面を彩る泳ぐ宝石を思い出す。
 流れ出したものは、もう止まらないのだ。そう、自分に言い聞かせて。
「御辺らは保身──餌場を奪われんために、過去のありように拘っているにすぎぬ。この繁栄、いつまでも続くわけではないと心得よ。我々とて世相に見合った変革が必要ぞ。何故異端の外法師と罵る名取がこれほど名を上げているか、御辺らには判らぬか?」
「恐れながら静司様──」
「頭主と呼べい!痴れ者が!!」
 扇子が柱に叩き付けられ、バキンと二つに折れて畳に落ちる。集まったうちの幾人かの、体がビクンと跳ね上がる。
 静司は完全に、場を呑んでいた。いよいよ静司への非難の核心に及ばんとしていた面々は、一瞬にして竦み上がっていた。
「此度の事柄、追及されるに及ばず!一門に対する真の反逆者、あさましき寄生虫は御辺らぞ!」
「せ………頭主」
 静司は薄い唇を残虐に吊り上げる。それは頭主ではない──繊細で、気分屋で、短気で、品の無い、22才の酷薄な小僧の顔だった。
「……若いと思って、あんまりおれを舐めるなよ。そんなに他人の下の事情に興味があるのかい、お盛んな事だな──あぁ、何なら」
 静司が首をクイと上げると、外から面付きの式が二体、左右から襖をタンと開いた。
「経費でバイアグラでも買ってやろうか?それともデリヘル嬢でも手配しようか?婆さんはどんながお好みか知らないが──いいか、的場家は今や」
 やはり音もなく、静司は居並ぶ面々の隙間をぬって敷居を踏み越え、のっそりと廊下へ歩み出た。
「そんな金の使い方にだけは慣れきった腐った銭の城だろうが。父祖の恩に酬いるだと?威厳?尊厳?政治家の性接待と袖の下にバカスカ金を突っ込むおれたちに、これ以上どんな泥を塗るっていうんだ」
 それだけ言い捨てると、ニ体の式が静司を隠すように襖をピシャリと閉める。
 中は、静まり返っていた。しばらく待ってみたが、何の声も聞こえてはこなかった。
 静司はもはや振り返らず、大股で廊下を歩き出した。家が揺れるほどドスドスと──得体の知れぬ憤りを吐き散らすように。








 本邸へと繋がる鶯張りの廊下に差し掛かった時、静司は前面に七瀬の姿を認めた。向こうも静司の姿を認めると、軽く会釈をする。
「七瀬──」
 彼女は笑っていた。それは凱旋の出迎えであった。
「……近年で一番厄介な妖祓いだったんじゃないですか?」
 静司は思わず吹き出した。
 誰も人死には出ませんでしたか?とからかうような口調に、静司の笑みは苦笑いに変わる。
「座頭市じゃあるまいし。でも後が恐ろしいですよ。おしっこ漏れそうでしたもの……監視カメラ、強化しておいたほうがいいかなあ」
 冗談半分に肩をすくめる。「半分」なのは、もう半分は本気だからだ。
 静司がゴキゴキと首を鳴らすと、七瀬は面白がるように言った。
「玄関に、名取が来てますよ」
「え!?」
 思わず変な方向に首を曲げて、静司は悶えた。七瀬は相変わらず珍獣を見るような目をして笑っている。
「奥の院への弁明を御一人で請け負うと言うので、せめてもの慰めにと思いましてね。儲け話があると適当な嘘ついて呼び出しておきましたが」
「……七瀬」
「は」
 ──静司は、青くなった。
 周一がすぐ近くにいる。それは──とても胸躍る、思いがけぬサプライズだ。
 ……だが。

「………」
 ろくに、髪もすいていない。
 こんな着っぱなしの着物で会うのは嫌だ。帯の結びだって適当だし。できれば髪を洗いたいが、それが無理ならせめて顔だけは洗わなくては。
 いや、変な汗をかいたから、何としてもシャワーだけは浴びたい──やにわにパニックが静司を襲う。

「──あの、ちょっと、七瀬」
「綺麗ですよ」
「え」
 どことなく震え声の静司の訴えの内訳など、優秀な秘書にはお見通しであった。
 老いてなお美貌を誇る奸謀の女傑は、櫛を取り出して少しだけ乱れた静司の前髪を整えた。
「大丈夫です。別に汗臭くもないし、そのままで十分お会いになれますよ。外出するご予定が無いなら、離れでお話でもされたらどうです」
 静司の怪しい挙動に、鶯張りがキュキュと鳴く。
 時短デートの提案。混乱した静司には地獄に仏。
 なんという──なんという目まぐるしい一日だ。慌ててその場で髪を結い直し、乱れた帯だけを結び直してもらうと、静司は泣きそうな顔で七瀬を見詰め──そして玄関に向かって駆け出した。

 周一の犯した罪と、己の犯した欺瞞と。そして、無知で無恥な者たちの悪しき因習の根幹。
 何が起きて、何をしたのか。
 自分が何を伝え、何を伝えられなかったか。
 それを、周一に伝えたかったのに、もつれる足で躓きながら不様に走っているうちに、それさえも曖昧になってしまった。


【了】


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