Fragments of Word
Dear 烏罪様


 やけに蒸し暑い夜だった。
 梅雨とはいえ雨はなく、ただただ蒸れた空気が不快な夜に、何故わざわざ邸を出ようとしたのか、自分でも正直よくは覚えていない。
 後で考えれば虫の報せ、というこじつけもできるだろうが──静司は夜半過ぎ、番傘ひとつといつもの珍妙な出で立ちで的場別邸を後にした。
 別に奇特な放浪癖があるわけではないが、静司は時折こうしてふらりと何処かに行きたくなる。そして何故か行く先でトラブルに見舞われる──それは災厄が寄ってくるというよりは、世間知らずな静司が先々でトラブルを起こしていると言ったほうが正しい。

 今宵も同様、夜も更けて遠出した静司は、多少賑やかな通りで、歩きスマホで気もそぞろな女に正面衝突を受けて傘を折るという災難に遭い、柔らかな語彙で彩った罵倒を投げ付けたところ、案の定猛烈な反撃をくらって足止めを食っていた。女ときたら普段着というよりも寝間着のようなよれたジャージに素っぴんでヴィトンのモノグラムのバッグを持つような類の、山出しの野猿のような姥である。
 もとより行くあてもない流浪の宵のこと、急くような理由も無いのだが、さすがに困って如何したものかと思案していた折のことである──。

 静司にとっては今夜の偶然は災厄だけでは無かったようだ。

「前方不注意、器物損害。謝らないといけないのは貴女じゃないですか」

 聞き覚えのある若い声に顧みると、見目良い小柄な十代の少年が静司の後ろに立っている。その目付きは鋭く、女を真正面から睨みつけるようだ。小柄ながら妙な迫力があるのは、多分にその美貌のせいだろう。
 静司が目を見張ったのは、勿論その少年の美貌ゆえではない。
 たっぷり十秒は彼を凝視した静司の、次のアクションにまで十秒を要した理由とは、単純に驚いたからである。驚愕は人の動作を著しく緩慢にする──それは中身も見た目もほとんど人外に近い静司とて例外ではない。
「な、夏目くん……?」
「ご無沙汰しています、的場さん」
 少年は慇懃にぺこりと頭を下げる。その片手にはコンビニの袋。もはや静司の目には傘を折った不届きな中年女など眼中に無い。
 少年の名は夏目貴志。
 静司の商売仇であり、また恋人でもある、名取周一の──友人だ。
「ああ……そう言えば──この辺りには君の」
「!」
 言い掛けると、夏目少年はあからさまに身構える。まあそれも至極当然の反応だ。これまでにも、それなりのことをしてきたのだから──。
 静司はわざと視線を外した。さっきの女がそそくさとその場を立ち去るのが見えたが、そんなことはまるでどうでもよかった。
「──大丈夫ですよ。今日は用事があって来たわけじゃありませんから」
「は?」
 思い切り素の反応だ。
 ──それはそうだろう。用事があって来たのならともかく、用事も無いのに来たのではわけがわからない。
「……じゃあ、何しに来たんですか?」
「……」
 ──なのに、そう問われると答えに窮する。己の脈絡の無さを嗤うこともできない。人の性癖は千差万別だと言っても、散歩で済まされる距離でもあるまい。
 無論、此処が夏目の住んでいる街だということを意識していたわけではない。ましてや夏目に会いに来たわけでもない。とはいえ過去に、わざわざ彼の自宅近くまで赴いて、多分に没義道な真似をした覚えもある以上、相手の警戒は致し方無いだろう。義道云々と言うより、脅迫だったか。
 なのに、今度は自分の挙動が説明できない──端から見れば完璧な不審者だ。
「おれに用事があるんじゃないんですか?」
「いいえ──」
 僅かに俯いて思案するも、答えは出ない。それは是でも非でも無いからだ。偶然などと、白々しい言い訳も出来ない──まさしくそれがこそが真実なれど。後ろめたいのではないが、いざとなるとものの言えぬというのは、まさに嘘に慣れている証拠だ。嘘詐りに空手形なら寝言を言いながらでも言える自分が、まあ皮肉なものだ。
 困惑に気付いたか、夏目は静司の袖を軽く引く。往来では目立ちすぎるというブロックサイン。
 珍しく静司は夏目に手を引かれるようにして、児童公園の中に入っていった。







 誰も居ない公園のブランコに腰掛けて、少年と麗人の沈黙は続く。静司は壊れた傘を弄び、夏目は時折それを気にしながら俯いている。
「……どうして助けてくださったのですか?」
 常夜灯が照らす薄闇の公園には、二人を除いて誰も居ない。細かな妖の気配も、静司が足を踏み入れるやいなや、散り散りに去っていってしまったようだ。
「どうしてって、たまたま見掛けただけですよ。困ってるみたいだったから」
「困っていたから……ですか。お人好しですね、夏目くん」
 静司は声に出して笑った。
「そんなふうにしていたら、いずれ大きな災厄に巻き込まれることになりますよ」
「知らないふりはできません」
「そうですか?」
 ブランコを揺らしながら、静司は気後れしながらこちらをうかがう夏目を見た。彼は目を逸らさなかった。
「……君は見えるものに同調し過ぎる。何も見なかったことにすればいいんです。感じなかったことにすれば──人間は、嫌でもそのことを忘れていきますよ」
「そうでしょうか?」
 迷いの無い切り返し。静司は思わずぎくりとした。
「やらなかったことの後悔は、きっと日に日に大きくなっていく──おれにとってはね、的場さん」
 名を呼ばれて、さらに動揺する。夏目の澄んだ双眸が穏やかな水面のように此方を見る──どうした、静司。何を惑う──何に動じる?
「そういう処世のすべを──知らないわけじゃありません。知らず知らずにそうしていることもきっとあると思います」
 でも──と夏目は続けた。
 その声は笑っていた。
「的場さんの場合は無理ですね」
「……どうしてですか」
 もはや、動揺しているのは明らかにこちらのほうだ。夏目は静司の顔をじっと見詰める──居心地の悪さに目を逸らしたくなるも、それでは何か口惜しい。別に意地の張り合いをしているわけではないけれど。
「綺麗なものは記憶に残るから」
「……」
「だから多分、後になって余計に気になるんです」
 そう言って、夏目はにっこりと笑った。
 悪気も含みも無い顔だ。恐らくは静司の受ける衝撃など、微塵も計算してはいないのだろう。

 夜で良かった。
 顔がはっきり見えなくて良かった。

 もしも白日のもとにさらされたなら、静司の顔が真っ赤になっているのが、はっきりと知れただろうから──。
「君の言葉は思いもよらない」
「お互い様ですよ」
 可愛げの無い切り返しに、またしても静司はたじろいた。今日はどうにも分が悪い。
「しゅ……名取に似てきたんじゃないですか。あんなのと付き合うと、ろくなことになりませんよ」
「……その言葉、そのまま返します」
 打って変わって意味深な物言いに、静司は面食らう。思ったほど子どもじゃないな──とは、自分が学生の時分を思い出せば理解できようものだが。
 尤も、無関係の周一からすれば、ひどい言われようである。
「家……来ますか?」
 おもむろに、夏目は言った。
「え──」
「今日は誰も居ないんです。先生も飲み会で朝まで帰ってこない」
 静司は夏目の手元にぶら下がったコンビニの袋を見遣る。彼の詳しい生活形態など知らねど、何となく印象にそぐわないそれの理由。その偶然が雑踏での邂逅を生む。今日、あの時間、あの瞬間でなければ起こらなかったはずの出来事。

 事実は小説より奇なり──。

「……」
 静司は静かに笑って瞳を伏せ、音も立てずに立ち上がる。
 夏目は確かに強い。
 恐らくは、己よりも、遥かに。幼少より技を磨き、弛むことなく力を蓄えてきた自分よりも。それは時に羨望の対象ともなりえるほどに。
 静司が有能な力の持ち主を欲しているのは確かだが、それならばなおのこと、相手の心を知るようなことがあってはならぬのだ。

 立ち上がった自分の姿を追う夏目を顧みた静司は、その眼に映るどこか途方に暮れたような迷いが何に起因するのかを知っている。

 此の姿。
 此の貌。

 死ぬまでは逃げ出すことのできぬ自らの器が、時に激しく疎ましくなることがある。疎ましく──にも拘らず、何故か誇らしくもある、奇妙に青臭い二律背反。
 静司は常夜灯の光に白く反射する顔を、夏目へと向ける。
 迷いをはらんだ幼い顔に、胸がチクリと痛くなる。
 静司は言った。
「弱い者は顔を隠しなさい」
 そして、静かに顔を背ける。
 踏み出す歩には、音も無く。壊れた番傘は、もう開かない。

「──妖に、つけいられますよ」




Fragments of Word



【了】


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