玉響奇譚【後編】


 静司が自ら運んできた膳は四つ。和風にすっきりと調えられた、仕切りの多い松花堂弁当の体であり、料理はいちいち一つ一つが美味そうで、既に軽く食事を終えてきた自分が周一は憎らしくなる。
 厨房の主とて歴年の強者。奥座敷の不可侵性ゆえ、提供に順序が必要な料理は避けて、見目にも味にもこだわるならば、料理が必ずしも温かくなくて構わず、冷菜もたんと味わえるこの季節は弁当に最適だ。鯛と甘エビの刺身、野菜の天ぷら、鰻の蒲焼き、ごま豆腐、なます生姜、わけぎのぬたあえ、洋風鴨南蛮、高野豆腐煮、生麩のあんかけ、あさり御飯。
 吸い物には卵が落とされて、三葉が散らされている。何ともいい香りだ。ワゴンの下部には、桶に張った氷に浸したビールと、小さなオレンジジュースが二本。子どもたちのデザートのわらび餅も冷やしてある。勿論、きなこと黒蜜もたっぷりと。
 静司はワゴンを部屋に持ち込んで、周一は立て掛けていた木製のテーブルを下ろす。そこに料理が並べば、もはやそこは料亭のようだ。氷の桶に躍るエビスビールに、周一の喉が思わず鳴った。
 配膳を終えたワゴンを静司は廊下に追いやる。襖をぴたりと閉めて、それでようやくたすきをほどいた。
「さ。お夕飯ですよ。手は洗いましたか?シズカ、ツカサ」
「はい、ママ」
「うん、ママ」
 同時に答える子どもたちは可愛い。甘ったれのくせに、母と同列の席につくのは礼を欠くとでもいうのか、すすんで対面に着座する妙な律儀さといい。
「ほら、パパ。こっち座ってください」
 ちょいちょいと手招きされ、反射的に誰がパパだと反抗しそうになるのをこらえて周一は移動する。
 四人揃ってのいただきます──まったく、何の茶番だ、と思いながらも、少なくとも何らかの深刻な理由があることは判る。確率はゼロに等しいが、本当に静司が母親であることも含めて。その場合は、あらためて別の話もしなければならないが。
「パパとお話できましたか?」
「うん」
 上手に箸を使いながら「ツカサ」が答える。だが静司の目はあからさまに此方にむけられており、『余計なことを言っていないだろうな』という非難がましい目で見つめてくるのだが、基準が不明なので何とも言えない。
「レッサースローロリス、ってちゃんと自分で言えたんだよな、ツカサ」
「うん!」
 打ち解けたようなスムーズなやり取りに、静司が目を丸くする。そしてすぐにその顔がほころぶ──子どもたちがいなければ、即座にキスしたいくらい可愛い。ああもう、ママでもパパでも何でもいい。
「かいあわせのえも、かいたの。あとでママにもみせてあげよっかな〜」
 含みありげな娘がちらりと上目遣いに静司を見る。
「おや、見せてくれないつもりだったんですか」
 微笑む静司に「シズカ」もちょっと恥ずかしそうに笑った。おしゃまな娘らしい反応。
「……パパは、おえかきがじょうずなの。だからね」
 貝合わせの絵とは、二枚貝のハマグリの貝殻の内側に、源氏絵などを描いたものだ。本来は割った二枚貝の絵を合わせる、神経衰弱のような遊びに使われていたのだが、現在では廃れてしまっている。
「パパと二人で、ママを描いたんだよな」
「え?」
 ぎょっとしたように、静司は此方を見る。思わず周一は目元をほころばせ、ちょっと照れたように笑った。
「シズカと私が、一枚ずつ君を描いたんだ」
 気恥ずかしさが大部分、だが諦感と、出所も判らない変な使命感に助けられ、舌が滑る。或いは役者の職業病か。
「シズカは絵が上手だ。きっと手先が器用なんだろうな」
「ほんと〜?」
 身を乗り出した「シズカ」の小さな頭を、手を伸ばして撫でてやる。これまでの躾の口煩さを見るだに、行儀が悪いと叱咤されそうなところだが、静司は何も言わなかった。
「後でママにも見せてあげような」
「うん!」
 と、元気良く返事をしたのも束の間、娘のくるくるとよく動く双眸は、大好きな「母」の異変を捉える。
「……あれぇ、ママ、どうしたの」
「……」
 一同が一気に静司を見遣る。
 どうしたらいいのかわからない、どんなリアクションをすればいいのかわからない──そういう未熟な情感をあからさまにして、静司の頬が紅潮していた。
 その表情たるや、見ているこっちがどうしたらいいのかわからないくらいに、幼く、可愛くて、ともすれば今にも抱きしめてしまいたくなる。目の前の子どもたちよりも、もう一つ子どもみたいな──アンバランスで、危うい幼なさだ。
 周一は子どもたちに見えないように、正座した脚の上に置かれた静司の手にそっと触れた。血など通っていないような、人間離れした美貌に似つかわしくないほど、それは暖かい手だった。
 その時、ようやく周一は違和感の正体に気付いて──そして、ハッとしたように静司の躯が揺れた。
「静司、大丈夫?」
 弛緩した静司の手首をすくいあげ、子どもの眼前であるにも拘わらず、周一はその手の甲に唇を当てる。双子は口を開けてその様を見入っている──それこそテレビドラマのワンシーンでも見ているかのように。
「こっ、こら、周一さん」
「何」
「子どもの前で──やめてください」
「だって、君、放心してたから」
「ほ、放心してたらそういうことする決まりでもあるんですかこの淫獣」
「淫獣って……」
「インジューってな〜に〜?」
 すかさず飛んでくるお約束のステレオボイスに、周一はつい爆笑しそうになる。さしもの静司も返す言葉無く硬直し、珍しく理不尽にどやしつけて黙らせる。子どもたちはそれでもキャッキャと楽しそうだ。
 ──子どもは小気味良いほど容赦無い。大人のしょうもないしがらみや約束ごとなど、彼らには知ったことではない。
 眩しいように目を細め、周一はこの奇妙な奥座敷の奇妙な団欒を、ゆっくりと見つめ続けた。
 冷えたビールは、死ぬほど旨かった。










 深夜三時。
 時、分、秒、ジャストの一瞬、微睡みの中に不意に水をさされたかのようにして、周一は目覚めた。
 布団を二枚横並びに敷いて、両端に静司と周一、真ん中に子どもたちを囲んで眠っていた──はずだった。
 一方の端に、静司の姿は無かった。代わりに、ひどく甘ったるい香の匂いがした。何故か反射的にそれが、不穏な匂い──平穏を破る合図だと判る。
「静司──」
 強い胸騒ぎがして、そっと闇の中を這い出すと、すぐ近くに静司は立っていた。あの──張りぼての動物園の前に、香立てを足元に置いて、じっと佇んでいる。
「静司、どうした──」
「しっ」
 僅かに此方を顧みて、微笑する静司はいつもの顔だ。あの凄艶な美貌に「ママ」の面影は無い。
「──と言っても、起きてはきませんがね。これは特殊な眠り香です。合図をするまでは、眠るべきものは眠ったまま──」
「眠るべき……?」
 静司の言葉は周一にはまるで意味をなさない。謎めいた微笑みと共に、静司は厚紙で出来た動物たちの胴体に、墨で一文字の文言を記していく。「鬼」のてっぺんの角の部分を取った文字──中国では「シ」と呼ばれるそれは、鬼子母神──訶梨帝母を顕す文字だ。言わずもがな、仏に帰依し、すべての子どもたちの守護神となった、美しき夜叉族の女神。
「何故──」
「彼らが朝まで二人を守るのですよ」
 言う間にも文言は淡く光り、周一の見ている前で次々に、すべての張りぼての動物たちがゆっくりと動き出す。
 ほの暗い闇の中で、静司は身をかがめ、置き行灯にそっと火を灯した。
 そこは異世界だった。
「──聖エウラリアは、4世紀に、13歳で殉教した少女です」
 支度を終えた静司は周一に向き直る。行灯の光が青白い顔を照らして、疲労が吹き出したように表情にあらわれた静司を目の当たりにし、周一は──おぼろげにすべてを悟った。
「バルセロナの聖エウラリア祭は子どもたちのためのお祭りで、たくさんのヒガンテという巨大な人形を作ってパレードをするんだそうですね。特にヒガンテには動物がたくさんありまして──ほら、小さい子って動物を見たら喜ぶじゃないですか」
 文言によって動き出した張りぼての「ヒガンテ」は、踊るようにしてほの暗い奥座敷を舞う。パレード、というより、この出来の稚拙さは、どちらかと言えば百鬼夜行である。
「……ん、ママ?」
 もぞもぞと起き出した双子に思わず手を伸ばした周一を、静司は制する。周一は腑におちないままに、静司の意思にしたがった。
「……わあ、おにんぎょうが──うごいてる!?」
「ほんとだ──あれ、ママとパパは?」
 動き出した人形に気をとられながらも、「ツカサ」はキョロキョロと辺りを見回す。どうやら此方の姿が見えていないようだ。
 不審げな周一の心を読んだように、静司は目を伏せて言った。
「あの香は──魂鎮めの香」
「魂鎮、やはり」
「気付いていましたか?」
「……確信したのは、さっきだがね。違和感だけは感じていた。最初に触れた時にも──」
 ヒガンテを先導するのは、「ツカサ」の造った小さなレッサースローロリスだ。厚紙の小さな手が器用に襖を開けると、中庭には組んだ古式の護摩壇が燃え盛って、派手に火の粉を飛ばしている。
 それは厨へ膳の手配に赴いた静司があつらえた、奥座敷を離れた本当の目的だった。もう、今宵が最後だと、あの時点でこの聡明な「母」には分かっていたのだ。
「わっスゴい!」
「キレ〜イ!」
 目をキラキラさせた子どもたちが、自作のヒガンテと一緒にわらわらと中庭へ下りていく。
 レッサースローロリス、イヌ、ネコ、クマ、ゾウ、イッカク、モグラ、コウモリ、ハクビシン、オカピ、リュウグウノツカイ──護摩壇の回りに集まった珍妙な動物たちは、子どもたちの元気の良い歌声にあわせて踊り出す。まるで、盆踊りのように賑やかだ。
「………」
 廊下に立ちすくむ二人は、ただその様を見つめる。何周踊っても、子どもたちもヒガンテの群れも、まるで飽きもしない。
「…………偶然でした」
 消え入りそうな声で、ぽつりと静司は言った。
「………」
「的場の古い備忘録を見つけて──それはそれは古い記録で、読み進めるのも難儀するような代物でした」
 静司の目は楽しそうな双子の姿をひたすら追っている。
「──その当時、的場をはじめとするこの一帯では、双子の存在を禁忌視していたと言います。頭主の産んだ子どもは男女の双子で──四歳頃までは頭主が隠して育てていたのですが、実弟でもあり、双子の父親でもある男がそれを見つけ出して一族に告げ口し、とうとう殺してしまった、と」
「だから君は──父親の話をすると、怒ったの?」
 静司は少し笑ったが、少しも楽しそうではなかった。
「……古い記憶とはいえね。──もしも思い出したら余りに哀れではありませんか?自分たちを匿い、愛してくれた本当の母のことすら憶えていないあの子たちですが」
 それも致し方ないのでしょうね、と静司はどこか虚ろに呟く。
「備忘録の日付によると、明治初期の話だと言いますから。遺体は小さな骨を抱き合わせるようにして、箱におさめられていましたよ。恐らくはその頭主が、闇に葬られるのを恐れて蔵の中に隠したのではないでしょうか」
「君はそれを探し出したのか」
「見てしまった以上はね」
 縁側に腰を下ろした周一の肩に、静司が頭を置く。
「知らないふりは性に合わないんですよ。日に日に後悔するとかいうウザい悪循環は御免ですしね」
「……」
「尻に糞が挟まったまま知らぬふりを通すなら、面倒でも話を終わらせたほうがいい。そうじゃないですか?」
 強がった言葉遣いが痛々しく聞こえる。周一は無言で傍らの静司を抱き寄せた。どうしても──そうしてやりたかった。
「……箱の中で組み合った骸のまま、鬼になりかかった双子の骸を引き離し、名を与え、言葉を教え、愛でては飾るうちに、やがて小さな鬼たちは話し、笑うようになりました」
「……最初はやはり手を焼いたのかい」
「ええ、そりゃもう。だけれども、色んなものを食べさせ、眠り、一緒にテレビを見たり、遊んで笑って──欲したものを与えてやれば、凝り固まった念もいずれは散ずる。そしてその最後のパーツが」
 微睡むような静司の瞳が、周一の顔を覗き込む。
「『父上』、か」
「そうです」
 自分たちを殺したはずの──と付け加えると、静司は重々しく頷いた。
「だから、あの子たちが十分に満足したら、自然な形で送ってやろうと長い目で見ていたんですがね。だけど今日、周一さんが来てくれたから……」
「偶然ですよ。近くまで来たので、前にコンビニで借りた小銭を返そうと思いましてね」
 ──コンビニ。
 そんな日常の言葉がまるで幻のように響く。遠い異郷の国の言葉のように。
 動物のヒガンテと子どもたちの火祭りは続く。心の底から楽しげに踊る姿が、目に突き刺さるほど痛々しい。
「……僥幸でした。蔵の中で干からびていた鬼であった子どもたちは──今日、ようやく欲しかったすべてを手に入れたんでしょう。訶梨帝母の夜叉印など、そうでなくばおれになど扱いきれる代物ではない」
 訶梨帝母──鬼子母神。全ての子どもを災厄より守る、仏法に帰依した優しき女夜叉。

 思わば、あの双子は──最初の幼い印象から、少しずつ、だが確実に、変化してはいなかったか。豊かな情感と、豊かな言葉、豊かな表情──それは、彼らが鬼と化した身から人の子へと、変化していく過程そのものではなかったか。
「静司は、いつからあの子たちと暮らしていたんだい」
「……」
 問いに答える目に、一瞬の躊躇が宿る。だが、すぐに観念したようにその目を伏せた。問い詰めているつもりは毛頭無かったが、静司の中で、ようやく壁が崩れたのだろう。
「──備忘録を見つけたのは、おれが二十歳の頃。そしてようやくあの双子の体を探し当てたのは翌年でした。ですから一年と少し──ここで密かに一年余りの間、一緒に暮らしていたんです」
「……そうか」
「的場の一族には」
 呆然とした口調に、瞳には押し隠した憤りと、引き結ばれた唇には昏い激情が垣間見える。
「こうして隠された子どもが、無数に闇へと葬られてきた汚吏の歴史がある。これほど世代を経ていても、あの子たちはおれに瓜二つだ」
「静司、もうよせ」
「おれに言う相応は無いが、ただ力を継ぐためとあらば、兇事も外道もお構い無しに賭けに出る──不都合があればこうして闇に葬れば終いです。お分かりでしょう、周一さん。おれたちの身体にどんな血が流れているか……」
「君の責ではない」
「わかっています」
「むしろ君はその血の罪科を、贖おうとしたのだろうに」
 血が滲むほど握り締めた手を、ゆっくりと解かせる。抱き寄せる腕に力を込めて、周一は静司を静かに慰撫し続けた。
 それ以外に出来ることなど何も無いと、分かっていたから。
 ──少しずつ白んでくる空。
 静司はもう何も言わず、ただ護摩壇の周りを回ってはしゃぐ双子をただ見詰めている。その姿を自らの瞼に、焼き付けようとでもするかのように。

 美しい夜叉族の母神。
 周一は傍らの麗人を想う。
 訶梨帝母とは、君自身のことではないのか。
 人を喰らう夜叉という恐るべき存在でありながら、子を慈しみ、子を守り、隔てなく愛する慈母。現世の救いの手を失った子どもたちを守る守護者。それはまさに、君自身の成した行いそのものではなかったか。

 鳥が鳴く。
 夜鳴きの鳥たちが引き揚げて、朝に囀ずる小鳥の声が、明るくなってゆく空を包む。
 それにつれ、もはや、護摩壇を回る双子の姿はほとんど見えなくなっていく。炎の勢いも少しずつ衰え、組んでいた壇も今や崩壊しつつあった。周一の袖の中に忍ばせた二つの貝殻がわずかに軋み、つと重くなったような気がした。

 踊り続けるヒガンテたちも、夜明けの光を浴びると共に次々とその闇の母神の力を失い、動かぬただの紙の張りぼてとなっていく。最後に残ったのはモグラ──視力が退化し、陽光を映さない小さな生き物のみ。
 それでようやっと周一は気づく。あの珍奇な動物たちは、ほとんどが夜行性や深海生物──闇の眷族ばかりではないか。レッサースローロリス、イヌ、ネコ、クマ、ゾウ、イッカク、モグラ、コウモリ、ハクビシン、オカピ、リュウグウノツカイ──。

 だが最後の一匹も、眩しい朝日が燦と中庭に射し込むと、とうとう力を失って動かぬ紙切れとなってしまった。
 ──そしてそこには、もう何の影も無かった。まるで、朝の光にすべてが溶けてしまったかのように。

 護摩壇の火が、パチンと弾けた。


 雀が鳴く。
 風が吹く。
 光射す庭に。
 あどけない笑顔は、もはや影すらも残さずに。


 静司は立ち上がり、開け放ったままの奥座敷に敷かれた布団の上に置き去りにされた、二枚の小さな着物を拾い上げた。
 金糸の麒麟と、銀糸の龍。
 一歩一歩を踏み締めるように護摩壇の前に歩み寄った静司は、静かにそれらを火にくべた。そして、もはや動かなくなった、すべての紙の動物たちも。
 衰えていた火が、一斉に盛り上がって派手な火の粉を散らした。

 周一は、その背を抱いた。
 静司は此方に背を向けたまま、小さな着物と稚拙な張りぼてをまく炎から目を逸らすことなく、それらが灰になっていくのを、ただひたすら見つめ続けていた。



【了】


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