御伽草子


 廃寺の戸を閉め、焔のような夕焼けの丘に足を踏み出し、白い手首が番傘を広げる。朱い夕日に照らし出しされ、その陰影を濃くする静司の美貌は、まさに暮れかかる太陽のように眩しくも儚く、そして──妖しい。
 昼と夜の境界。それは幽玄の刻。
「其処な隻眼」
 降ってきた呼び声に、静司はやんわりと首を傾ける。
 声は廃寺の屋根の上からだ。
 網膜を射る逆光に、静司は目を細めて仰ぎ見た。
「誰ですか」
 暢気な仕草と語調に、声の主は大きな声をあげて笑った。
「豪気よな。人ではないと、判っておろうに」
 静司は空いたほうの手で光を遮りながら言った。
「人でないからこそ、安穏としておられるのですよ」
「ほほう」
「第一、そんな処に人が居たら怖いじゃないですか。甲賀忍法帖じゃあるまいし」
「おれが恐ろしくはないのか」
「鬼などものの数では無い──」
 静司は見えぬ相手に笑みを見せる。そしてくるりと踵を返した。
 砂利道の地道に、音も無く一歩を踏み出す。
「私には、勝てませんよ。命が惜しくば関わらぬことです」
「人の身で鬼を害せると思うてか」
「其の気になれば幾らでも。──尤も今は、そんな気分ではありませんがね」
 立ち去ろうとする静司の背後から、引き留めるようにそれは再び語りかけた。
「待て、待て。では、力を較べるなどと野暮な真似は止そう」
「……」
「博打をやらぬか」
 どこか晴れ晴れしい声で、それは言った。
 静司は怪訝そうに表情を歪める。
「三つの賽子を振って、二つがゾロ目なら三つ目が出目。三つが揃えば和の二倍が得点だ。勝負をせぬか、盲の鴉よ」
「……」
 静司はぴたりと歩みを止める。
 ──要するに、チンチロリンか。
 仮に鬼につられて丸裸などとなれば恥も大概だが──しかし鬼と賽子博打とは、なかなか面白い。持ち前の好奇心が疼いた。
「私は強いですよ」
「望むことろよ」
「何を賭けますか?」
 薄笑いを浮かべたまま、静司は言った。
「では、この世に二つとない絶世の麗人を呉れてやろう」
「ほう」
「澄ました貴様が思わずむしゃぶりつきたくなるような、奮い起つような美貌をな」
「……」
 奮い起つような、絶世の麗人。
 ──女か。悪くない。
 静司は、野卑に笑った。
「盲の鴉。貴様は何を賭ける?」
「この躯」
 間髪入れずに静司は言った。
「骨まで喰らおうが、死ぬまで犯そうが、好きにするといい。妖には私の身は美味ですよ、この髪、この肌、この瞳──」
「……」
「鬼と戯れるというのなら、それなりの緊張感がなければ締まらない。私の手持ちで盆御座に載せて様になるものは、せいぜいが命くらいのものでしょう?」
 廃寺の鬼が、ゴクリと唾を呑む。
 静司の紅い瞳が、応えるように妖艶に微笑んだ。







「天一地六表三艫四面舵二取舵五!」
 静司の声が、太く威勢よく賽の符丁を戯れ唄う。
 静司はピンのゾロ目に出目は五。
 鬼は目無しだ。
 その都度銭を賭けているのではないから、一回につき賽子三振りを、合計十回でひと勝負。既に勝負は九回を終え、もはや勝ち点の差は歴然としている。静司は一度も目無しを出すことなく、もはや決着はついていた。
 鬼の大敗であった。
「入ります」
 俯き加減の静司が、椀に賽子を放り込む。巖のような姿をしたむくつけき異形の鬼は、その静司の優雅な姿に見とれていたが、気付いたようにおもむろに手を翳すと勝負を制した。
「おや、どうしましたか」
「おれの敗けだ」
「勝負を棄てますか?」
「後も無し、勝ったところでこの勝負に勝つことはできぬ。貴様は恐ろしく運がいい。恐れ入ったぞ盲の鴉」
 静司は椀から取り出した賽子を弄び、妖艶に笑った。
「ふふ。私は盲ではありませんよ」
「大層な眼帯は騙りか」
「いいえ──酷い傷がありましてね。これを見れば大抵の女は閨から逃げ出してしまいますが……」
 含み笑いで窺い見るような瞳に覗き込まれ、鬼は豪胆に笑った。
「半顔崩れの貴様はより艶かしいな。淫らな貌だ。貴様、この廃寺に如何な用にて参った?」
「それは……」
「……ふんぷんたる子種の臭いがするぞ、盲の鴉。だがおなごの匂いはせん──貴様、此処で手淫に耽っておったな」
「……」
 何一つ言い返せぬほど見事に看破され、さすがに静司は困ったように押し黙る。羞恥に紅顔するタマではないが。
 鬼は言った。
「後三日、時を待て。必ずや貴様の意に添うものを御目に入れよう。──但し」
「但し?」
「百日の間、其の者と交わってははならぬ」
 静司は問うた。
「百日経てば?」
「貴様の自由。骨まで喰らおうが、死ぬまで犯そうが、好きにするがよい」







 きっちりと三日後の朝。
 起き掛けに障子を開けた静司の目の前で庭先に現れた鬼は、布にくるまれた塊を置いて曇り空へと飛び去っていった。
 一瞬の出来事だった。鬼を相手に挨拶ということもないが──的場の敷地に難なく出入りするということは、あれは半端な使い手ではない。賽子賭博なんぞではなく本気でやり合えば、静司が相手でも勝敗は分からなかったのではないかと、今にしてようやく思う。
 不思議と敵意の無い妖気が遠ざかっていくのを感じながら、静司は約束の鬼の置き土産から強引に布を剥いだ。小野小町か楊貴妃か、果たしてどんな美女が飛び出すか。
 そして──叫んだ。
「えぇッ!!?」
 布の下に居たのは、ふるいつきたくなるような絶世の美女──などではなかった。全裸の男──いや、少年だ。静司には御稚児趣味は無い……というほど若いわけではないのだが、問題はそこではなくて。
 年の頃は17か、18か。はっきりは判らぬがあからさまに少年の貌。ぎらぎらとした瞳に、思い詰めたように引き結んだ唇。色素の薄い髪は癖毛だ。確かに美しい。滅多とない美男子であることだけは一言一句間違いない。
 ──そうだ、確かに鬼は「美女」とは言わなかった。
「周一さん」
 唖然と呟いた、自分の顔はひきつっていたと静司は思う。

 それは、紛うかた無き名取周一その人だった。それも、静司が初めて彼に出逢った──あの日のままの顔だ。
 あの時、静司が彼を見たように、今度は彼が静司を見た。
 ひどく不躾で、警戒心丸出しの目は──彼以外の何者でもなかった。








 呪詛なのか何なのか、彼は自身の名前──名取周一という固有名を除いて何ひとつ記憶してはいなかった。身一つで荷物も何もなく、仮に偽者と仮定して本人に連絡を取ってみようと考えても、こういう時に限って連絡がつかないのはもうお決まりのパターンだ。
 静司は困惑し、取り敢えず湯浴みをさせて服を着せる。着物を着る手付きは慣れたものだ。まるで、本物の周一のように──。
(いや、彼が本当に周一さんでない保証はない)
 記憶を抜き取られ、時間を遡る──最大級の禁術の中にはそうした因果律に反する類のものも確かに名を連ねている。
「お腹、空いてますか?」
「……」
 周一は無言で頷く。
「食事を用意させましょう。私と一緒は………嫌ですか?」
 すると周一は困惑したように俯いて、困ったように眉を寄せる。あの頃の彼の印象──眉を寄せるだけで爆発しそうな怒りを感じさせる緊迫感。それさえもそのままに再現されている。
「周一さん、もしかして、言葉が──」
 言い掛けた懸念は直ぐに打ち消された。
「静司と一緒がいい」
 睨み付けるように言う台詞と表情とのギャップ。

「お前と一緒がいいんだ、静司」
「……」

 言葉で倒れそうになったのは初めてだ。









 百日間、其の者と交わってはならぬ。
 鬼との約束事を履行するためには、静司は多大な神経の摩耗にさらされる。
 厄介なことに、その周一はまるであの名取周一だった。
 静司は石月渓谷で初めて周一と顔を合わせた学生の時分、一つの出来事に互いの存在が交錯する妖事を、周一と共に解決した。
 だがそれ以降というもの、周一のことなどほとんど何も知らずに数年を過ごしてきた。散々抱き合いはした。普通の恋人同士のように振る舞うことも時にはあったかもしれない。字面だけの情報ならば、幾らでも手に入れることはできる。
 だが、今に至っても、互いをよく知っている、などとはとても言えない。彼は恋人であったかもしれないし、今でも激しく恋うる相手であることに異論は無い。おかげでその情を妖に付け入れられて、棚ぼたのように互いの体を貪り合った記憶はまだ新しい。だからといって、互いのプライベートや仕事の仔細に首を突っ込むような真似はしない。それが多分──暗黙のルールなのだ。
 名取周一は、刺々しく、凛々しく、だが憮然としていて、時として激情を露にする屈折した性格の少年だった。しかし屈折はしていても、真っ当ではある。憤懣や怒りには理由があり、もしその理由が判らなければ自らそれを探し求めるようなストイックな自省精神。その心の内に蠱惑的な静司が居座って懊悩しているというような──若きウェルテル──それはまさに出逢って間もない頃に、静司が周一に抱いた感慨に酷似していた。

 鬼に伴われて現れた周一は静司の側をついて回った。仕事にも、食事も、眠るのも、厠に行くのにさえずっと一緒だ。外での接待にまでついてきて、終わるまでどこか近くで待っているというのだから、その執着たるやただ事ではない。しかもトラブルが起きれば静司自身やSPが動くより速く、即座に周一が片付ける。その様はまるで猟犬だ。
 奔放ではあれど、決してあからさまな暴君ではない静司だが、今回に限っては家人には何も言わせはしなかった。余計な口を挟めば鶴の一声、
「頭主の名に於て命ずる」
 ──と、言いさえすれば黙ってしまう。それが的場一門の暗黙の了解。この権限を、今使わずしていつ使うというのか。
 まして──周一ときたら、その自分の挙動に対する理由を、こんな言葉でこじつけるのだ。

「おれがおれ自身のことを理解するその時まで、お前を守ることでおれの存在意義に代えてやる」

 ──これではもう、手を挙げるほかはない。おそらくは六つばかり年下であろう周一は、やはり扱い辛く偏屈だったが、美しい的場の頭主にべた惚れだった。そしてそれを微塵たりとも隠しもしない。
 静司の側としても、これはある意味たまったものではない。生まれて初めて恋心を抱いた男が、恋に落ちたその時の姿で、その時の心で──自分に愛を乞う様を見るのだから。触れたいと願うのは自然な気持ちだった。同じ部屋で寝起きを共にして、夜毎背を向け合って眠りながら、触れ得ぬことを瞼の裏で嘆く。

 ──百日経てば。

 静司は早くも百日が待ち遠しくなる。
 あの荒々しくも拙い愛し方が、この穢れた淫乱の膚を征服する──縺れた思考が、少しずつ静司から真っ当な思考を奪っていく。
 そして思う。

 名取周一は、かつては確かにこんな少年だった。今とは似ても似つかない、燻る炎のような若獅子だった。今でも彼は、あの澄ました瞳の奥に、この猛虎を飼っているのだろうか──飄々とした彼の身の内には、この紅蓮の炎が今でも激しく燃え盛っているのだろうか。

 そう考えた途端、目の前に居る若き周一と、「本物の名取周一」とは別個のものだと認識している自らの意識を静司は理解する。
 そう──冷静に考えれば、これが本物である筈がないのだ。あの見知らぬ酔狂な鬼が、静司の心に棲みつく淫蕩な欲望を、その輪郭までつぶさに読み取ったのでなければ──。
(妖に、弱みを見せてはならない)
 ──それは、祓い屋の第一の鉄則だと言っていい。いや、祓い屋であろうがなかろうが、妖の影は常に、その者にとって最も弱い間隙に滑り込んで来るものだ。時には妖自身でさえもそれを自覚せぬままに。
 しかし、それならばもはや、静司は余すところなく相手に弱みを見せていることになる。何と言っても鬼の賭け賃は、まるきり周一の姿をしているのだから──それがたとえ本物であれ、造贋物であれ。

 置行燈の灯明が揺れる、ほの暗い褥の中で、背後の気配が動く。
 静司の心臓が、強く脈打つ。
 小便臭い餓鬼じゃあるまいし──鼻で嗤うも、動悸は一向に止まらない。
 静司の背中に、周一の胸がぐいと押し付けられた。その鼓動も同じくらい激しい。腕を回され、じっとそうしていると、鼓動が互いにどちらのものなのかさえ判らなくなる。
「やめなさい──」
 虚勢で制するも、力強い腕は静司を離そうとはしない。その耳元に、浅い呼気を感じる──若い男の匂いと、背徳に満ちた空気。
「周一」
 ぴしゃりと名を呼ぶも、なしのつぶて。昂る若獅子は、盛った犬のように静司の背に雄芯を擦り付けて密かに喘ぐ。
「嫌なら嫌って、はっきり言えよ静司」
 どこか軽薄で、強引で、そして淫らに、周一は言った。その舌が耳を這うと、気丈に抗う静司の声はたちまち裏返った悲鳴になる。
「……おれの勘違いなら、そうだって言ってよ。アンタが興味も無い相手と同じ布団に入ったりすんの?ありえない」
「……っ」
 ──鬼との奇妙な約束が頭をよぎる。いや、それだけが理性のよすがになっている。だが身体はその諌めにまるで耳を貸そうとはしない。
 どうすべきなのかは判っている。どうしなければならないかも明らかだ。
 だが、その二項との決定的な齟齬は、静司自身がどうしたいか──だ。

 ──あの鬼め。

 静司は唇を噛んだ。
 鬼めと恨めど、鬼の方にはなじられる謂れはあるまい。約束を守れぬのは泣こうが喚こうが静司の側の勝手なのだ。
 判っているが──あれは、恐らく、知っていた。あの鬼め。戯れ鬼め。
(おれの弱みを、知っていてけしかけやがったな)
 そうでなければ、彼が周一の姿をしている筈がない。そもそもあの賽子博打とて、本気で勝負するつもりなどなく──。
「………まさか」
 ふいに、降ってわいた何かがひらめいた。
 ──あの鬼は、まさか。
 だが、忌まわしい予感を押し流すように、荒々しく唇を奪われる。
 いつしかの思い出と深い感慨の波は、獰猛な野犬の舌をもって静司の言葉と理性を閉ざした。
 置行燈が、かすかにチリチリと音をたてる。

 迷い込んだ蛾の羽に、灯明の火が燃え移って静かに焼け落ちてゆく──。








 骸を抱いて目を覚ます、蒸せるような霧雨の朝。
 白く剥けた骨の残骸があちこちに──褥の上に散っている。ほのかに漂うは甘い腐臭。
「………」
 静司は筋書き通りの顛末に、驚きもせずに縺れ乱れた黒髪をかきあげる。枕元の羅宇煙管を取り上げ、灰をカン!と鉄皿に落として刻み葉を詰める。
 燻らせた煙草の葉から、白い煙がくゆる。普段は紙巻さえくわえもしない静司だが、時折、理由もなく──いや、理由があればこそ欲しくなる。この身に苦い毒を纏いたくなる。
「ふぅ………」
 吐き出す煙の向こうには、鬼が立っていた。静司は驚くこともなく、据わった目でそれを見つめた。鬼は今にも笑いだしそうな顔で、艶かしい後朝の麗人のしどけない姿を見つめている。
「折角おれが、屍体の一番良いところを集めて造ってやったのに。簡単に台無しにしてしまったものだな」
「………」
 静司は答えずに、悠然と煙管を吸っては煙を吐く。ほんの数服で燃え尽きてしまう灰を落としては、静司はまた葉を詰める。傍らの骸と相俟って、まるで弔いのようにゆるゆると煙が立ち上っては消えていく。
 鬼は畳の上に無造作に腰掛けた。奇岩のように歪な顔をした、まさに鬼面だ。
「何の用です」
「骸に返したならば、其の骨を、いただいて帰るとしようと思うてな。人の骨には苦悶の分だけ旨味が宿る──」
 ぬう、と伸ばされた長い鬼の爪を、カンと制したのは静司の煙管だ。いつになく鋭い瞳が、鬼の瞳を憤怒の相で貫いた。
「……この屍体は、己の運命を知っていて私を抱いたのですか?」
 鬼は恐れる風もなく大笑した。
「知る由もなかろうて。これは組み合わせた亡骸に適当な魑を吹き込んで、貴様への偽りの記憶を刷り込むに三日を要したに過ぎん」
 骸を繋ぎ繋いだ只のからくりよ、と鬼はカラカラと笑った。
「何故私の記憶を」
「──視える鬼もおるのよ。視える人とておるとも聞く。貴様には視えぬ、おれには視える、それだけだ」
 そう言われれば実も蓋も無い。あの廃寺は、まだ互いに学生だった静司と周一が逢瀬を重ねては愛し合った場所にほかならないのだ。
「百日も経てば吹き込まれた魂も器の中に安定したものを。残念だったな盲の鴉」
 そう言って、立ち上がった鬼の足のまた巨大なこと。畳がミシミシと鳴る──その巨大な鬼の体躯は、天井にも届いてしまいそうだ。
「私は盲ではないと──」
 白々とした骸を守るように膝を立てた静司に、鬼は嘲笑と共に言った。
「いいや、貴様の眼は閉じておる」
「……」
 当然のように言い返され、静司は押し黙る。「貴様の眼は閉じておる」──そうやもしれぬ。静司は言い返さなかった。眼を閉じた、とは愚昧であることの暗喩だ。
「其の昔、京の朱雀門で遇うた男は八十日の間約束を守った。だが八十日目に与えた女を姦して屍の女は水に戻った──」
 御伽草子に収められている有名な一篇──朱雀門に棲まう風流な鬼が、賭けの達人の中納言と競り合う『長谷雄草子』。
「……やはりお前は──紀長谷雄に双六勝負を挑んだ鬼だったのですね」
 左様、と鬼は言った。
「今も昔も、貴様のように力強くも心弱く、そして美しい者は好きだ。そのはらわたは今にも怒り狂って灼熱にたぎっておることだろう」
 煽る鬼に、静司は傍らの白い頭蓋を膝に載せて、ニコリと笑う。猫のように目を細めた可憐な笑みは、人間の男など一目で陥落させてしまいそうなほどに愛らしかった。
「まさか。良い思いをさせていただきましたよ」
「ほう、そうか?」
「過去は優しい。過去は甘い。人間とは都合のよい生き物だ。時が経てば甘く優しい記憶だけが残る」
「甘く優しい記憶に恵まれているようには思えぬが」
「……」
 静司は手の内で長い煙管を回し、柄をくるりと回して握る。握る手に、力がこもる。戯れにけしかけ、言葉巧みにつまらぬ博打。勝てど負けれど、苦きは己。
「………賎しき雑鬼の分際で、舐めたことをぬかすなッ!」
 怒号と同時にダン!と音が鳴り、鬼の腕に煙管の柄が突き刺さる。塗の柄の部分には、破邪の文字が刻まれている──それらがやんわりと輝き、鬼は慌ててそれを払い落とすも、傷口からはシュウシュウという音をたてて煙が立ち上った。
「此処より即刻消えい!邪道の化生よ!」
 芯の通った大音声にたじろいた鬼は、縁側からガタンと音をたてて庭へと不様に落下する。地震のように部屋が揺れるも、乱れた寝間着の静司は一糸乱れぬ足取りで、鬼の姿を追い詰める。霧雨の縁側に立つ静司の形相は、これこそが──まさに鬼形。

 鬼は慌てて地面を蹴り、大木の上へと跳び移る。枝から枝へと足場を変えて、空へと飛び立つその刹那。
 鬼はちらりと静司を見た。静司も鬼を見た。静司は落ちた煙管を拾い上げ、へし折った。鬼は笑った。
 勝敗は歴然としていた。

「禍福は糾われた縄の如、世は並べて事は無し。天一地六表三艫四面舵二取舵五…………」

 雨に霞むように、鬼の唄声が遠ざかる。

 褥に散った骸は、静司にとっては名取周一その人だった。だが、繋ぎ合わされたこの哀れな骸にとっては──。
「……」
 世は並べて事も無し?
 鬼の戯れ唄が耳に残る。

 ──ふざけるな。

 静司は苛立ち紛れに火の消えた置行燈を蹴倒した。そこにはただ、燃え尽きた蛾の片翼が、無残に畳の上に散っていた。


【了】


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