邪道


 首都圏のアンダーグラウンドでは、時に地下施設で拳闘による違法な賭博が行われているという。
 その拳闘賭博が地下を好むのは、ライブハウスと同じ理由からだ。試合では防音設備が必須になるため、なるべく都市生活と接点の無い場所が選ばれるためである。
 米大陸圏ではストリートファイトで日銭を稼ぐ無頼漢というのが実際に存在する。また、賭博拳闘は日本のそれとは比較にならないほどメジャーで、ブラジルやアルゼンチンなどの南米諸国でよく見られる賭けサッカーのような気軽さで試合は行われる。真偽は怪しいが、メキシコからの不法入国者をこれまた不法に拘束し、賭博場で戦うための拳闘奴隷として育成される例もあるという。アムネスティ・インターナショナルの報告書でそんな話が沙汰されたことはついぞないが──いずれにせよ。
 それらはフィクションであれ、現実であれ、自分には関わりの無い世界であると静司は信じていた。いや、信じていたというよりも、関わりの無い世界だという認識さえも無かったと言っていい。毎日のように陰惨な事件が報道される現代の情報網の中で生活を営んでいても、たとえば誰もがまさか、自分が翌日の新聞に顔写真を載せられる羽目になるとは思わないだろう──ましてその状況が自分の生活環境からかけ離れれば離れるほど。
 我々は余りにも脈絡の無いものを結び付けて考えることには慣れていない。不測の事態と急襲に、常にさらされている立場であっても──的場静司であっても、基本的にそれは同じなのだ。











 わずか500メートル四方のこの新宿歌舞伎町は、日本、中国、韓国、東南アジア、南米の裏社会組織が集まって形成する現世の混沌である。歌舞伎町にあっては警察など棚に飾った人形のようなもので、いかなる公権力もこの混沌を裁くことはできない。
 2003年に始まった東京都知事による「歌舞伎町浄化作戦」と称される大規模な店舗摘発によって店舗型風俗店の大半が姿を消し、無味乾燥な歓楽街となり果てたとおぼしき今でも、実際のパワーバランスはそう変わってはいないのだ。

 その歌舞伎町でのある夜の接待は、何だかんだで若い静司には胃の痛くなるような催しだった。
 国内の暴力団と大陸に強いバイパスをもち、的場家とも縁深い国会議員と、上海の青幇会の名代、そして近年歌舞伎町でも存在感を示すようになった韓国マフィア「カットゥギ」の代表、そして的場家の若き頭主という面子。ちなみに国会議院は政治家としての肩書きよりも、裏で手を組む暴力団の名代としてその場にやって来た。暴対法が施行されて以降、その適用を恐れて組織の実態を秘匿するようになった日本の暴力団は、いわゆるマフィア化の傾向に進みつつある──「歌舞伎町浄化作戦」に関しても同様だ。つまり、これまでのように表立って看板をあげるのではなく、素顔を隠して民間事業や政治、経済、法曹、すなわちあらゆる分野に金と組織力をもって侵入してくるということである。
 かねてより歌舞伎町で大きな勢力を振るってきたのは主に上海、香港、台湾などのいわゆる中国マフィアや中南米の麻薬カルテルで、韓国マフィアはいわば新興勢力だ。国会議院は六本木に拠点をもつ国内有数の暴力団との繋がりが深く、三者が銃口を突きつけ合う以外の方法で対話を進めるという無謀な試みは、三者を文字通りの「三すくみ」にするだけに違いないと静司には思われた。
(──なんでおれがこんな所に)
 終始にこやかな笑顔の裏で、静司は幾度ともなく毒づいた。的場のお得意様である議員先生のたっての願いであったにせよ、所詮はまじない屋でしかない静司を何故このような険悪な会合に引っ張り出す必要があったのか。
 地元の代議士や国会議員を味方につけるのは的場の常套手段であるが、取り敢えず静司は、生まれて始めて心の底から的場家の頭主を辞めたくなった。










「冗談だろ……」
 職務を放り出したいという欲求は、その頃にはもはや完全に別の欲望に切り替わっていた。
 ──頭痛がする。
 比喩ではない。ヘロイン中毒の自称元プロボクサーの拳闘士に、強烈なヘッドバッドをくらって頭が割れたのだ。ダラダラと額から流れてくる血を拭うこともできずに、静司は小汚い錆びた金網で囲まれた狭いリングの端でうなだれるようにしゃがみこんだ。観衆からはブーイングの嵐が飛び交う──黙れ、カス共が。
 発端は。
 いや、発端などもうこの際どうでもいい。とにかく静司がこんなわけのわからない所で頭を割られる羽目になったのは、勿論例の歌舞伎町での談話が案の定こじれた末のことだ。
 単純な力関係で言えば、国会議院と青幇会の名代とのパイプラインは強力で、地元の暴力団としても青幇会ほどの勢力をもつ組織を無下にはできない事情がある。彼らが現状維持を望む一方で、新興勢力である韓国マフィアは拡大していく自分たちの縄張りの正当性を主張する。何しろ血気盛んなことでも有名な彼らだ。歌舞伎町という混沌の所有権をめぐっての話し合いは、結局のところ静司が思うような「三すくみ」の泥沼には陥らなかった。むしろ力関係は2対1──その「2」の規模も、「1」の規模とは比べ物にならない代物だ。要するに三者の顔合わせの目的は、縄張り抗争における威嚇行為だというわけである。
 それでも静司は完全な門外漢であった。だが、雲行きが険悪になるにつれて、自分の役割が何であるのかを静司は知った。
 ──自分は、手土産だったのだ。他に類を見ないほどの美青年好みで知られるという新興勢力の代表に、慰みものとして献上されたわけである。今回はいい土産があるからこれで勘弁してくれ、という示談である。
 まったく、つい最近もその議員が代理依頼してきたクラブの揉め事を解決したばかりだというのに──政治家と関わると毎回毎回ロクなことがない。結局韓国マフィアに菓子折りとして献上された静司は、ハーレムばかりか、美青年だけで結成された私設親衛隊を結成したり、美青年拳闘奴隷を囲ったりしている組織のボスの持ち物となり、こんな5メートル四方の金網の中で筋肉だるまとバトルロイヤルを繰り広げる事態に陥ったのである。もはや恩を仇で、どころの騒ぎではない。

 脳震盪で気絶しそうになる静司の足を、ボクサーは造作もないふうに掴んで、ポイと放り投げた。わあっと歓声があがって、静司の薄い背中が金網にガシャンとしたたかに打ち付けられる。
 なんて試合だ。もうちょっとアドバンテージを見てくれたっていいだろう。これでは色気もクソもなく、観客のほうだって面白くあるまい。
 試合はゼロサムが基本だ。死ねば負け、殺せば勝ち。ただし、相手の意識を失わせたら、勝ちとなって試合は終了となる。相手は殺す気満々だ。血に飢えたゾンビのような血走った目をしてのしのしと歩みを詰めてくる様を見て、静司は心底うんざりしながら細く長いため息をついた。
(黄疸出てるぞ、この男)
 巨漢ゾンビボクサーが両手を組んで、岩石のようになった拳を斜めに振り上げる。完全にとどめをさす態勢で、自衛の意識は完全にゼロだ。猛烈にニンニク臭い。試合前にキメてきたのは明らかだった。
 だが──甘く見られているうちは優勢だ。静司は心の中で意地悪くほくそ笑み、それから一瞬にして身体を限界まで低く下げ、巨漢の足元を目掛けて外円を描くように勢いよく鞭のような足払いを仕掛けた。
 渾身の力で降り下ろした拳が空回りし、その反動で傾いた身体が静司の繰り出した足払いによって加速する。もはやバランスを取ることはできずに、頭から地面に突っ込んだボクサーは静司の真横でたちまち潰れたトマトになった。リングとは名ばかりの、コンクリートをフェンスで覆っただけの暴虐の匣。
「……一丁あがりだ」
 静司は冷酷に言いはなった。場内は静まり返り、そしてすぐに歓声に包まれた。静司はフラフラする頭を片手で支えるようにして立ち上がったが、まったく嬉しくはなかった。











 檻から出られるのは、全ての試合が終わった時だ。生きて出るか、死体で搬送されるかは自分の運次第。どっちにしても出られるのは間違いないが、出来れば前者の状態でエスケープしたいと願うのは素人には無謀だろうか。
 ボスの酔狂から、新人である静司には、勝ち抜けば自由にしてやるという約束が取り付けられている。つまり勝ちさえすれば、すべての約束、つまり身柄の譲渡、保有などを反古にできるというわけだ。──本気かどうかは知らないが。

 静司は清朝の満州人みたいなコスチュームを着た弁髪格闘家の掌底を食らってダウンした。みぞおちにモロに受けたダメージは、波のようになって体幹を駆け抜けていくようだった。
「ぐっ……!」
 這いつくばって咳き込むや、弁髪はピンポイントで静司の頸を目掛けて鎌のような手刀を仕掛けてくる。体勢を崩して紙一重で避けるも、伏せる体勢から一撃で攻めに移る方法が思い付かない。
「死ねィ!!」
「……」
 ──せめて、中国語で言ってくれ、満州族。
 さらに振り落とされる足技から逃れんと体を横に転がして、静司はその勢いで起き上がる。体勢復帰からタイムラグを生まずに、こちらも頭に向かって強烈な回し蹴りを繰り出す!
 ガツンッ!という鈍い打撲音が鳴って、静司の脚は素早い腕の防御にブロックされた。今度は脚を取られるより先に、体を反転させて間合いを取る。リーチは五分五分だ。脚の長さにだけは利があるが、長引けば体力的に不利なのは間違いない。
 みぞおちの周辺がしたたかに痛む──浮動肋骨を痛めたか。静司は体の調子を探りながら、牽制するような相手の小技をかわしていく。ブロックしてしのげば相手に一瞬の隙が出来るのはわかっているが、正直静司にはそれに耐えるだけの耐久力が無い。直撃は免れるにせよブロックでの回避ではダメージはゼロではないし、もしもこの眼が遠近感を捉え損なえば一撃でアウトだ。
 ──唯一有利なのは心理面だ。相手は確実にこちらを警戒している。何せ眼帯長髪の優男。先ほどのゾンビボクサーとの一戦も、弁髪は見ている筈だ。だから相手も大きなふりの出る動きを出さない。手刀が鼻先をかすめ、静司はかすかに仰け反った勢いで、再び体を反転させる。余裕綽々のパフォーマンス。勿論実際にはジリ貧だ。見せ場の無い貧相な攻防に、観客からは野次が飛ぶ。
 静司は無意識に舌打ちをする。大袈裟なポーズで大きく脚を開いて踏ん張る弁髪の、その開いた脚の隙間に静司が飛び込んで背後を取る。決め技を想定していたのかは知らないが──かなり間抜けだ。
 静司は背後から弁髪を引き、その首に巻き付けてギリリと締め上げる。どうやら地毛らしく、強く締め付けると徐々にその顔が赤くなり、やがて紫色へと変化する。絞殺など当然初めてだが──あまり気分のいいものではない。
 声援とブーイングがない交ぜになる。それが人道的抗議でないことは明らかだ。彼らは芸がないと非難している──静司は思わぬ高揚感に調子に乗って、弁髪の背中を足蹴にして解放した。
 苦痛から逃れた弁髪はしばらく目を白黒させていたが、正体を取り戻すにつれて、その目が憎々しげに静司を睨み付けた。
 静司は僅かに腰を落とし、ニヤリと唇を吊り上げた。

「不怕死的放馬過來!」

 ──死にたくないなら掛かってこいよ!
 指先をクイとひねって挑発するが、弁髪の反応は無い。
 ……やっぱりただのコスプレイヤーか。カッコつけた手前、余計に恥ずかしくなって、静司は内心毒づいた。
 静司は体術の仕掛けには慣れていない。護身のために体得しているそれは、ほとんどが迎撃のための技なのだ。そのために下手に仕掛けて仕留め損なうと、手練れには手数を見破られる恐れがある。だから、できるだけ動きたくはない。
 だが、悠長なことは言っていられない──思考もそこそこに、助走をつけた静司は、攻撃射程ぎりぎりの間合いで急に頭を低く下げた。
 相手からすれば、何を防御すべきか判らない奇行だっただろう。将棋のプロが、一番面倒に思う相手は素人だという。手も足も、攻撃体勢に無い静司が使ったもの、それは──
「ぎゃあッ!!」
 今度は悲鳴とセットになって打突音がリングに響く。静司の武器は頭だ。頭を思いきり相手のみぞおち──執念深くも自分がやられたのとまったく同じ場所──にぶつける。助走と体重のかかった一撃が容易く弁髪をリングの端に追いやるや、静司は追走し容赦なく拳をその顔面に叩き込んだ。
 一発、二発がクリーンヒットし、三発目にしてようやく頭を低くした心許ない防御が追い付くも、静司にはもはや拳打の追撃など頭に無い。一歩下がって鉈のように脚を振り上げた静司の、踵落としが弁髪の後頭部に炸裂した。











 次の相手は女だ。
 ただし、女と言っても、限界まで鍛え上げられたボディビルダー……というよりも欧米型筋肉標本のような鋼鉄の肉体をもつ大柄な白人女性だ。彼女を前にした静司など小娘のように可憐である。もう、対峙しているだけで負けそうだ。
(……ギブアップさせてくれ)
 戦う前から視野狭窄を起こした静司の首を、いきなり女はヒョイと掴みあげた──まるでおやつの皿の饅頭でもつまむかのように。
「う、わっ……!」
 掴み上げてくるその野太い手首に、静司のか細い両手が抗議するように掴みかかる。無論そんなことでは静司の胴体ほどもある腕はビクともしない。あまりの苦しさに唇を噛む。額に血管が浮き出てくるのが判る──まずい。死ぬ。殺される。
 観衆が大喚声をあげている。賭博だとしたら、当然誰もが彼女の勝利に賭けるはずだ。静司は一貫してダークホースであるからして常にブーイングの対象であったのだし、その静司をこてんぱんにやってしまう彼女はきっと観衆の英雄に違いない。
 今回は、前戦とは圧倒的に力差が異なる。心理作戦も通用しそうになければ、子供騙しのフェイントなど目眩ましにもなるまい。そもそも静司自身がもう完全に朦朧としていて、勝機など間違いなく何処にも落ちていないのは明らかだった。
(まさか、こんなところで死ぬのか……?)
 彼女を前にすれば、死にたくないとかまだ生きていたいとか、文字通り往生際の悪い煩悶は一瞬でふっ飛ぶ。前に立たされただけで、死の疑似体験ができてしまうような圧倒的存在。どんな大妖と対峙した時よりも強烈な威圧感が空気を重いものにした。

 しかし──その時である。

 ヒュッという空をきる音と共に、何かが高速で目端をすり抜けていくのが見えた。ほぼ同時に、女が体勢を崩して仰向けにすっ転ぶ。放り出された静司はまたもや金網で背中を打った。肋骨がギシ、と痛んだ。何だか助かったが、やはりそれなりの重傷を覚悟したほうがよさそうだ。
「ドンマイ」
 背後から掛けられた間延びした激励に、静司は我に返った──というか、戦闘の異様な高揚から急に現実に引き戻される。
 観客席──とはいっても、それは猛獣を観るのに群がる野蛮人の群だ。その北側の最前列、リングのすぐ側に、目深帽と伊達眼鏡の優男がいた。しかも、男は微笑をうかべてこちらを見ている。
 静司は思わず目を剥いた。
「………な、な、な、何やってるんです、周一さん」
 喉から出てきた声は、ガチョウみたいなガラガラ声だった。さっき喉をひどく絞められたせいだ。台無しになった美声に静司は思わずアーとかウーとか言ってみたが治らなかった。
「仕事ですよ」
「はあ?」
「それより後ろ、危ないですよ」
 ぬう、と巨大な影が忍び寄ってくる。もはや妖気のような威圧感。ガチンと背後から締め上げられる。その動きはガタイの良さからは想像できないほどに俊敏だ。
「ちょ、待っ……」
「死にな、SAMURAI boy」
 訛りのある日本語で言った彼女の目はあからさまな殺意に彩られていた。さようなら手足──そう思って目を閉じると、またもや女がすっ転んだ。静司は即座に周一を見遣る。周一は胡散臭い薄笑いを浮かべて、手元に戻った式を指先で弄んでいる。
「……余計な事を!」
 吐き捨てる静司を、周一はジェスチャーで宥める。
「まあまあ……実は、クライアントに君をサポートするように依頼されていまして──」
 これも仕事なんです、と頭を掻く。
 珍しく、聞いてもいないのに周一は、耳元で事の経緯を語った。
「つまり、君を売り飛ばした人間が、別の人間に──私に救出を頼んだ、と。自作自演ですよ。君も死にたくはないでしょう」
 唖然とするような舞台裏を明かされる。──つまり、この賭博拳闘の興行主である韓国マフィアに自分を売り払ったその足で、周一にそのサルベージを頼んだというわけか。
 静司は呆然と口走った。
「……あ、あの古狸──」
「使えるものは何でも使うのは、的場だけじゃないと前に言ったでしょう。政治家の皆さんは色々大変なんです、一を成すにも十の根回しが要る」
 君に何があったのかは知りませんけど、と周一はつけ加える。
 またしても屍鬼のように起き上がってきたマッチョ女の強烈な張り手で、静司は反対方向にふっ飛ばされる。女は怒り狂っている。おれのせいじゃないだろう、と弁明しそうになって、寸ででそれを呑み込んだ。言っても意味はない。もう黙ってろ静司。
 張り手の衝撃で鼻血が伝う。口の中も切れたようだ。だが、気にしてはいられない。静司は真っ赤になった唾を無造作に吐き棄てた。
 怒り狂った女の突進に、静司はフェンスをばねにしてバックで一回転し──空中で放った強烈なキックが彼女の屈強な顎に炸裂した。だがまだだ。よろめきはしたものの、体重の軽い静司の一撃はなかなか決定打にはならない。着地と同時にすかさず軸足と逆の脚を使った回し蹴りを繰り出す。これが彼女の首に直撃すると、ようやくダウンを奪う。
 これは武芸の競い合いではないゼロサムゲームだ。ダウンを取っても終わりにはならない。相手を殺すか、意識を奪うか。後者は前者よりも遥かに難しい。トラを仕留めるよりも、生け捕りにするほうが遥かに困難であるように。
 着地と同時に助走に入る。もう余裕はない。一気に決着をつけなければ──そしてそれはもう今──今ならば手の届かない勝利ではない。
 最前列の周一の、指先が静かに踊るのが見える。視線が交錯し、静司は勝利を確信した。












 合計五戦での勝利で、静司はあっさりと解放された。条件は口外法度──それだけである。
 去るにあたって初めて対面した韓国マフィアのボスは、随分と年配の、好好爺といった老人だった。一見するととても反社会組織の頭目には見えない。
 ただ、闇がある、と静司は思った。一目では判らぬ底知れぬ闇が、瞳の奥にわだかまっている。太陽の下を歩けぬ者たちがもつ、昏く根深い闇が。
「──面白い試合だったよ。的場静司くん」
 流暢な日本語だ。フルネームで呼ばれ、静司はわずかに眉をひそめた。不快であったわけではない。ただ、正体を知られていることに対して反射的な警戒心を抱いただけだ。
「……名を御存じなのですね」
「もちろん」
 老人は人懐っこい笑顔でくくく、と笑った。
「古くよりこの国の影の世界を支えてきた者──的場一門の美しい長と聞いて、いかなる人物かこの目で確かめてみたくなってね」
「……聞いて?」
 静司は首をかしげると、老人は声をあげて笑った。
「──おっと、薮蛇だったかな。君をここに放り込んだ議員先生のことだよ。……とはいえそもそも彼に働き掛けたのは私のほうなのだから、どうか彼を責めないでやって欲しい」
「……」
 是とも非とも答えることなく、静司は老人を観た。
 好き者として知られる御大は、とうに八十は超えているように見える。私設親衛隊、拳闘士軍団、美青年ハーレム──勝手な想像だが、彼らがこの老人の夜の相手をしているようには思われない。
「──御大、あなたは何故……」
「何故、こんな馬鹿げた遊戯にかまけているのか、と?」
「……」
 静司はそのあからさまな自虐をフォローしない代わりに重く頷く。正不正に拘わらず、それを許される立場の者が何をするのも勝手だが、見る目に愚かであるには違いない。
「美しい花や木を愛でるように、美しい青年を愛でるのはおかしなことかね」
 淡々と言ってのける老人に、静司は沈黙する。
「──いいかね。花に美しい時があるように、人間にもそれがある。生き抜こうと必死にあがく姿──それこそが真の美だ。彼らが生死の境を舞う姿に──私は人間の真の美しさを見出だした」
「……そして自分は高みの見物、と?」
 思わず蔑むように、静司は吐き棄てる。くだらない──トラヤヌス帝を気取る、身勝手な唯美主義。
「人間は平等ではない。命の重さも然り。君ならわかるのではないかと思ったがね、この世の不条理が」
「判りますよ」
 静司はぶっきらぼうに言った。
「だが、だからこそ人は条理を造る。暴君を討つには力が要る。力のために人が集まる。人が集まれば秩序が生まれる──力あるものはそこから生まれる。あなた方の組織も、そして我々祓い屋も、そうして生まれたものではないのですか」
「若いな」
 老人はカラカラと笑った。
「──そうしたまやかしの希望を地に堕とし、世の不条理を味わわせる悦びはほかに代えがたい。それに抗う意志こそが美しい──その者の名誉への執着が」
「……名誉など、腹の足しにもなりません」
「だが君もまた美しかった」
 鋭い二人の目線が火花を散らす。
 一瞬のはりつめた沈黙の後、静司がくいと顔を上げる。老醜とは縁の無い妖しいほどの美。老人が値踏みするように目を細めると、静司は刃物のような瞳で睨めつけて、冷たく言い放った。
「お忘れなさるな」
 静司はなお穏やかな老人の瞳を見詰める。その瞳の奥に、何かを見出さんとする。だが何も見えない。瞳の中は、濁った黒のうつぼだ。
「……あなたも遠からずもの言わぬ骸だ。骸にはもはや名誉も、美も、執着もない──あなたはそれを恐れているだけだ」
「……ほう」
「死を恐れて、ひたすら可逆の象徴を愛で続けている。それを迫り来る死という不可逆に重ね合わせて」
「……」
 病的です、と静司はつけ加えた。
「名誉など」
 静司は老人に背を向けた。
「──おれは薬にもしたくないね」
 そして、二度と振り向くことなく、地上へと向かってゆっくりと歩き出す。
 老人の濁った目が、静かにそれを追った。




 虚無をたたえた目が、その時眩しげに細められたのを、静司は永遠に知ることはなかった。何故なら僅か数日後、この孤独にして愚かな老人は、長らく患っていた大病によって、独り静かに息を引き取ったからである。
 彼は死に臨み、あれほど愛した美しい青年たちでさえ、誰一人己の側に侍ることをよしとしなかったという。その理由が、瞼の裏に焼き付いた隻眼の美貌の刃のような瞳であったことなど──未来永劫、誰も知ることはない。


【了】


作品目録へ

トップページへ



- ナノ -