化け物霊長類【後編】


 警察の取り調べは朝まで続いた。今回は周一は当事者であり、事実関係次第では加害者となる恐れのある事例だったからである。
 しかし無論、レジ係のコンビニ従業員の女性は見たままを語り、周一の状況説明とも齟齬はない。警察は先刻、コンビニから立ち去った直後に通報してきた二人の客からの事情聴取を終えたところだ。
 だが当然、周一にはそんなことはどうでも良かった。完徹三日目──そろそろもうわけがわからない。記憶が持続しないので、ほんの先刻、自分が何をしていたのかも定かではない。前後不覚とはまさにこのことだ。今の周一には自分の名前を正確に書く自信さえない。今この時でさえ、調書を書く中年の職員が、テリー伊藤に似ているな、とかわけのわからないことばかり考えている。
 幸い、殺気立った周一を突っついたばかりに負傷した三人の哀れな高校生は重傷だったが、命に別状は無かった。しかし、防犯カメラにバッチリ映っていた、周一が少年の手首をへし折るシーンは、映像を確認した職員たちの心胆を寒からしめた。
 ──だが、正当防衛が成立するかどうか以前に、周一の行動はコンビニ強盗の逮捕に貢献し、さらに居合わせたほかの面々は無傷で済んでいる。最後には処分はおろか、むしろ金一封でも出そうな雰囲気で、周一は署から解放された。
 あんまり嬉しくもなかった。
 ただ、太陽が黄色かった。







 帰宅したのは、正午近く。
 玄関の壁掛けミラーに映ったのは、やつれて歪んだ髭面に、ぼさぼさ頭の見知らぬ男だった。トレードマークの眼鏡もせず、汗染みたシャツとジーンズからは男の汗独特の蒸れた臭気が漂ってくる。過度の寝不足で目元が突っ張って、何だか人相が強烈に悪い。

 もう足取りからして明らかに怪しく、靴を脱ごうとして周一は派手に転んだ。ヤモリのように這いずって、何とかソファまでたどり着く。
 汚れた体も、伸びた髭も、着替えもどうでもいい。とにかく寝る。邪魔する奴は殺してやる。
 殺気立ちながら周一は意識を手放そうとした、その時、またしても──またしてもこの素晴らしいタイミングで邪魔が入ったのだ。
 ネズミを見て発狂したドラえもんみたいにフーフーいいながら、またしても安眠を妨害した悪魔の機器──携帯電話をポケットから取り出す。

 着信者は──的場静司!

 周一は刮目した。刮目したというそのことにすら腹が立った。何故こんな衝撃を受けねばならんのだ。この全てが停滞したような身体で、思考より先に鼓動が反応する。栄養も睡眠も休息も栄養もアミノ酸も何もかも足りていない身体が、その名前には顕著に反応する。この腐れ色惚け野郎。早く死にやがれ!
 ──だが、着信を通話に切り替えた途端、総ては萎えた。
 周一が、名乗る間も無かった。

『……周一さん!周一さん!?助けて──助けてください!聞こえますか周一さん……!!今、阿蘇の別………あッ!?』
 携帯の向こうで、木張りの何かが勢いよく叩き付けられる音が聞こえた。粉々になった木屑が、パラパラと周囲に散る音まで。
「静司!静司!?」
『………しゅ、いち…さ…………あ!や、やめろ、貴様ッ……!』
 次に聞こえたのは破砕音──グシャリと端末が破壊される音だった。それきり通話は途切れた。
「……」
 ぼろ雑巾みたいな元イケメン俳優は、ソファの上で呆然とした。

 ──何なんだ、このタイミング。

 次々とやって来るトラブル。まるでドミノ倒しのように、一つ倒れればまた一つ。それでもう三日前から、寝てないんですけども。
 神様よ、つまりあんたは、おれが嫌いなんだよな?そうなんだよな?「そうだ」以外の返事をしやがったら、てめえから血祭りにあげてやるからな。

 結局コンビニで何も買えなかった周一は相変わらず何も食べていない。前に「人間はどこまで耐えられるのか」という面白い本を読んだことがあるが、ドッキリの実験か何かだろうか。
 周一はフハハ、と笑った。何も可笑しくはなかったが、何かもう、笑うしかなかった。そうじゃなかったら、泣いていたに違いない。






 阿蘇山の風光明媚なビューをバックに、ぐしゃぐしゃになった車体のプリウスを駆るサングラスの髭男。体温が下がってきたのか、外気は暑いはずなのに何だか寒い。季節外れのコートを着込んでおり、何日も洗っていない髪は脂でカピカピ。傍目にも何とも異様な風体である。
 自宅から一貫して信号無視、法定速度無視、通行人無視で、阿蘇市に到着した夕方には、元プリウスはほぼスクラップと化していた。元俳優も浮浪者と化し、このままなら別人として生きるのも不可能ではないだろうという変貌ぶりだ。
 電話で静司は「阿蘇のべ……」と言いかけて、直後に何者かの邪魔が入った。恐らくは「阿蘇の別荘」と言いたかったのだと推測できる。
 周一の知るところでは、阿蘇には的場のいわゆる「別邸」は無い。その代わり──いや、別に代わりではないが、別荘を一軒所持していることを聞いたことがある。先代が大病をした折に、療養のために買ったものだとか何だとか。
 場所も既に特定済みだ。静司には悪いが、商売仇である以上、得た情報の精査は怠らない。周一の甘さの幾らかはポーズである。

 ログハウス風の別荘が見える少し離れた林道の脇にスクラップを停める。運転席から降りてそれを眺め、なるほど、これはいいかもしれない、と周一は思った。たとえば相手が集団で、中に忍者みたいな斥候がいたとしても、このスクラップが見つかったところで動く代物だとは到底思うまい。まるで、何年も林道に打ち捨てられたままの廃車のようではないかハハハ。
 ──さよならプリウス。周一はぼんやりと愛車に別れを告げた。もし板金屋に持っていったら、一から車造った方が安上がりだと言われるのは目に見えている。
 朦朧とした生気の無い顔つきを隠すためにネームペンで気持ち悪い目と口を描いた紙袋を被った周一は臆することなく──策も手立ても何もなく、正面から突き進んでいった。勿論玄関には鍵がかかっている。それを周一は、プリウスに積んできた斧で一撃の元に粉々に粉砕したのである。
 そう、一撃で。
 不運にもそれは、玄関付近をうろついていた奴を巻き添えにした。バッと散った紅い返り血がコートにかかる。紙袋の下からもその有り様は見えている──練達の術者には造作もないことだ。周一はまばたきさえしなかった。
「なっ何だ貴様!!?」
「的場は何処だ」
 血濡れた斧をビュンと回して肩に担ぎ上げ、周一はリビングにたむろする複数の男たちと対峙する。広いリビングに有象無象が十人くらいたむろしているが、全員見ない顔だ。多分。
「的場は何処に居る」
 抑揚無く周一は繰り返した。男たちは耳打ちし合い、警戒しつつ、一人が周一に近付いてくる。
 や、いなや。
 ドシュッ、という小気味良い斬撃音が鳴り、再び鮮血が飛び散った。周一の斧が近付いてきた男の肩口に食い込んだと思いきや、周一は食い込んだ刃を思い切り引き抜いた。血は今度は噴水のように噴き出した。手を下しておきながら、凄い、と周一は他人事のように思った。
「てっ、てめえ、やめやがれ!!的場の居場所がわからなくていいのか!?」
「構わん」
 周一は速答した。可笑しいわけではないのに、唇がいびつな形につりあがった。
「一応聞いただけだ。静司のことはお前らを始末してから、ゆっくり探すさ」
「イカレ野郎め!!」
 いやごもっとも。的を得た罵声がなけなしの理性にチクリと刺さる。

 その時、奥から煙草をくわえた一人の男が現れた。髭面──周一のとは違って入念に手入れされた──和服の中年男だ。
 周一の脳裏に何かが触れる。何処かで見た顔だ──それも何度か。所属事務所か、それとも会合だろうか。
 だがそんなことはすぐにどうでもよくなった。だらしない袂、弛んだ帯──何をしていたのかは一目瞭然だ。
「何だお前……」
 言うやいなや、男の顔面すれすれの位置に投げつけられた斧が扉に突き刺さる。ほとんど戸板を突き抜けそうな斧の刃から木屑がもわっと舞い上がる。
 糸のような目をしばたたかせた男が何が起きたのかを把握するよりも速く、周一はその懐に潜り込み、低い姿勢からその顔面を突き上げるように殴った。
 空中に跳んだ男の体を追うように周一が同時に床を蹴る。浮いた男の体は地面に落ちる直前に再び急襲を受け、デカい足による絡み取るような横蹴りによって完全に横転した。
 数人が男を庇うように立ち塞がるも、周一の蛮行はもはや止まらない。異様なスピードで伸びてきた手が一人の首を無造作に掴むと、まるでオモチャを放り投げるように男の体が宙に舞う。それはもはや、人間の膂力では無かった。
「化け物め!!」
 血を吐くような絶叫は、今や殺戮マシーンと化した周一の耳には届かなかった。自分の中にある得体の知れない衝動が、怒りなのか何なのか、本人にさえ判らない。何故自分が此処に居るのか──。

(静司)

 脳裏に、艶やかな長い黒髪が揺れる。理性を引き戻す縄──そうだ。静司。あの電話が──。
 あの電話の、助けを求める声が。
 思い起こして、周一は勝手に怒髪天を衝いた。あれさえなければ──あの電話にさえ出なければ、おれは今頃ベッドの中だ。シャワー浴びて飯食って、眠っていたはずなんだ。鼻持ちならねえくそったれドMの変態コスプレ野郎が、助け出したらこいつらに掘られまくってたほうが百倍はマシだってくらい死ぬほどケツを犯してやるからな。覚悟しとけよ的場静司!!
 目の端に、慣れない手つきでトカレフの安全装置をあわあわと外す奴の姿が映る。そいつが引き金を引くのがスローモーションのように見える。リミッターが外れたのはトカレフではなく、どうやら周一のほうらしかった。品行方正な人間がここまで荒廃する事態も異様だが、どんな脳内物質がヒトをここまで変容させるのか。完徹三日目、疲れとストレスと栄養不足、何よりも寝不足が引き金となり、周一はもはや人間の限界を突破していた。
 右往左往している新米ガンマンには、眼前に立つ175cmと決して大きくない男が塗り壁のように見えていた。
 塗り壁──周一は銃身を無造作に掴む。がっちりと鷲掴みにされたそれは、もはやぴくりとも動かない。
「撃ってみろ」
 周一は言った。
「撃てるものなら」
 そして笑う。
 掴んだ銃身が熱くなる。銃口からはもうもうと白い煙が立ち上る。外部からのはたらきかけによって内気圧が変化する──対妖物のために用いられる呪術の、きわめて繊細な応用版だ。術具の代わりに手で印を結び、そこから対象に変化をもたらす。熱に弱い妖は多い。鉄と熱、熱と人との相性も紙一重だ。
 トカレフを構えた男は錯乱し、愚かにも引き金をひいた。バァン!という小気味良い破裂音が鳴って、トカレフはたちまち木っ端微塵。銃の構造上行き場の無い逆噴射が、暴発を引き起こしたのだ。大した爆発では無かったが、銃を構えていた男の手も周一の手も焼け焦げた挙げ句血まみれだ。
 それでも周一は動じなかった。生物には有事の際、逃げるか戦うかを選択するために、コンディションを自動調節する機能が存在する。血流、心拍、白血球数、コルチゾール、感覚神経や運動機能に至るまで、危機に際しては全ての予備機能が開放される。それらすべてが最悪のタイミングで一致すると、こういう化け物が生まれるわけだ。勿論、偶然が大きく作用しているのは間違いないが。
 周一は次のターゲットに歩み寄り、その頭を掴んで思い切り壁に叩きつけた。顔面から血が飛び散って、別荘の壁に陰惨な染みをつくる。さらに二人、三人と、ほぼ無抵抗の恐怖の虜が、次々と暴虐の犠牲になる。頭から被った紙袋はもう真っ赤だ。ホラー映画もかくや、悪夢にも見ない光景である。さらに数人が次々と周一の蛮行の犠牲になっていく。
 最後に飛び掛かってきたのは女だった。集団に女が混じっていたことにすら気付かなかった。そして、今にしてもどうでもいい些末事だった。
 しかし、こういう時に女とは不思議と肝が据わっているものだ。女は術師であるらしく、ばらばらと辺りに符を撒くと、自らの妖力を反応させて一気に発火させる。一瞬目を奪われた周一は不意をつかれ、女の手にした布掛け棒に殴打された。思いの外強い衝撃に周一の体勢が崩れる。女がその上に飛び掛かる──。
 紙袋を剥ごうとしたその手が周一に掴まれる。己自身でも力の加減がきかない。ましてする気も無いが──そのまま勢いよく掴まれた女の細腕がへし折られた。
「キャアアァァ!!」
「昨日の今日で人の手首を折るのは二度目だ。ハハハ妙なことに縁があるなあ」
 飛び出るくらい目を剥いて絶叫する女の前に、目が据わったままカラカラと嗤う小汚い男。かなり異様な光景だ。女の腕は外側にへし折られ、腕につくほどに折れ曲がっている。
 周一は自分が投げた血まみれの斧を扉からゆっくりと引き抜くと、最後の一人──あの部屋から出てきた髭面の男と対峙した。
 一対十にして圧倒的なオーバーカタストロフを目の当たりにしてきたにも拘わらず、髭面はまだ幾分か飄々としているように見える。大物なのか、馬鹿なのか。
「お前で最後だ」
「……君、名取の若さんだろう」
 奥の手のように髭面が発した台詞は、クロスカウンターのように周一の理性に突き刺さった。その時、周一はほんの一瞬、動揺というものを思い出した。
「……」
 手応えを探るように、髭面はゆっくりと続ける。
「……声で判ったよ。あんたとは会合で何度か会ったことがあるが……」
「そうか」
 抑揚なく、周一は答えた。
「おれを知っているのか」
 一寸ばかり揺すぶられた理性は、即座に再び怪物の意識に呑み込まれる。もはや敵を殲滅するまでは周一の戦いは終わらない──終われないのだ。だって、敵がいたら眠れないじゃないか。
 だが、正体が知れているならもはや覆面にも意味は無い。周一は血濡れて生臭い紙袋を無造作に脱ぎ捨てた。現れたのは汚い髭面、ぐしゃぐしゃでコテコテの髪、人相は典型的な重犯罪者のイメージだ。少なくともお茶の間の皆さんが知る名取周一ではないのは確かであった。
 髭面は目を剥いた。鬼の首を取った──そんな顔だ。一体、何がおかしい?周一はきょとんと相手の顔を見た。
「は、はは……ハハハハ!!ひどい顔だな名取。的場を助けにおっとり刀で駆け付けた?あの噂は本当なのか?あの頭主と君が実は──」
「五月蝿い」
 振り上げた斧がビュンと縦に振り下ろされると、髭面の顔面の皮一枚が裂けて──着物は袷から裾までが、真っ二つに避けた。
 ──うるさい糞蝿め。
 そこから現れた見たくもない逸物を、周一は引ったくるように掴んで──相手が叫ぶが早いか、それを斧の刃で断ち切ったのだ。
「ぎゃあああああぁぁ!!!!」
「汚ねえな」
 切断されたモノを、汚物のように放り出すと、床を転げ回る髭面の頭を蹴っ飛ばす。周一はすたすたと歩いてシンクに向かい、手を洗った。広くて使いやすいキッチンだ。そのシンクを流れていく水は赤かった。
 痛みが鮮烈になるにつれ、悶絶することもできずに痙攣したように苦しむ髭面の傍らを通り抜け、周一は斧の痕が生々しい鍵のかかった部屋を再び振り下ろした斧で粉砕した。またしても凄まじい破砕音が鳴り響いた。
 その先には──

「……静司」

 鼻持ちならねえくそったれドMの変態コスプレ野郎。助け出したら連中に掘られまくってたほうが百倍はマシだってくらい死ぬほどケツを犯してやると誓った男。

 ──的場静司が、ベッドの上に拘束されていた。

 無地の黒い着物は乱れ、弛んだ帯の下の着物の隙間から伸びる白い足の間には、無惨な交合の痕が残る。ぶちまけられた淫液はそのままに、静司自身のものとおぼしき血や体液がシーツを濡らし、生々しく虐待の有り様を物語る。
「……」
 今度は目を剥くのは周一の番だった。
「……静司!」
 傍らに走り寄って名を呼ぶと、閉じた瞼が僅かに開く。その顔にも赤い痕がある。だが大して腫れた様子は無い──相手がかの的場の頭主なればと、戯れに、面白がってなぶったのは明らかだ。
 ──畜生、ぶっ殺しておけば良かった!
 あの破砕音でさえ意識を呼び起こさない疲労はいかばかりであったのか。怒りはうなぎ登りだが、静司の姿に触発されて、ようやく周一の目に理性が戻る。
「……静司、すまない、遅くなって──」
「……」
 しばらく無言で周一の姿をぼうっと見詰めていた静司は、ややあって、何かを閃いたようにくわっと刮目した。
「ま、まさか……あなた、周一さん!?」
「え?どういう意味?」
「意味何も……周一さんですよね?」
「そうだけど」
「……何ですかその汚い顔は!し、しかも臭い!」
 いきなりまくし立てる静司の無事に周一は取り敢えずほっとする。
 しかし再会を喜ぶ余裕はなさそうだ。さっきの女術師がばらまいた炎の呪符が何かに引火している──立ちこめる焦げ臭いにおい。周一は予告なしに手にした斧を振り上げ、静司とベッドを繋ぐ鎖をガシャンと叩き割った。
「ひっ!?」
 暴虐への抗議は無視だ。自由になった静司はすかさず周一の顔面をひっぱたく──しかし、その手はまるで力無い。
「歩けるか」
 顔をのぞきこむと、一瞬きょとんとした静司はつと怒りを収め、代わりに不敵に笑う。
「……ふん。そっちのほうがヤバそうですよ、周一さん。あなたこそ歩けます?」
「……車までは頑張るよ」
 静司の指摘通り、実際周一の体はもう何らかの活動をするコンディションではない。完全に気力だけが頼りだ。気力で人間がここまでやれると証明できただけでもよしとして、取り敢えず死ぬか寝るかのどちらかを選択したい。そして正直、その二択はどっちでもいい。
 惨劇のログハウスは今まさに燃えつつあった。リビングの絨毯に、チリチリと蛇のような炎が這っている。なけなしの良心で、意識のある奴に据え付けの消火器を投げ付けて、周一は静司と共に駆け出した。悪夢の別荘の外──阿蘇の風光明媚な大地へと。






 互いに足取りは怪しいが、まださっきまで犯されまくっていた静司のほうがマシである。ルンペン紛いの周一は、走るにつれて足がもつれ、自然に静司に寄り掛かるようになる。見るからに覚束無い──情けない致し方無い。気力もいい加減限界であったのは静司の目にも明らかだ。
 外はもう暗かった。林道に乗り捨てたプリウスのスクラップの元に辿り着くにも相当の時間がかかった。周一の発言はいよいよ支離滅裂となり、なかなか現場が特定できなかったのだ。
 それでも運転席に乗り込み、ボールペンを差し込んで一生懸命エンジンをかけようとする周一は、静司によって無理矢理助手席に追いやられた。こんな奴に命を委ねるなど正気の沙汰ではない。実際それはあらゆる意味で正しかった。
「……周一さん、おれが運転するからナビゲーションだけお願いします」
「……ああ」
 勿論静司は免許など持っていないし、運転の仕方も知らない。このスクラップを運転して、警察に止められでもしたら一巻の終わりだ。それでも周一が運転するよりマシなのは明らかだ。それくらい朦朧とした周一の有り様は酷かった。
「で、どれがアクセルでどれがブレーキですか」
「時々」
「え?」
「まあまあ」
「いや、あの」
「……」
 静司は青くなった。車内に沈黙が流れる──絶望という名の沈黙が。
(意思の疎通ができない……)
 静司は助手席の周一をしげしげと見つめた。
 返り血と汗と脂にまみれた、ボロ雑巾。汗臭く、生臭く、男臭い。その身に何があったのか知らない静司は、その壮絶な様子に唖然とするしかない。
 その沈黙のインターバルの間に、周一の呼吸は規則的な寝息に変わり、やがて轟音のようないびきをかき始める。しかし、その目は何故か開いたままだ。痛々しい──というか、怖い。

 静司は目を開けたまま熟睡する周一のジーンズの尻をまさぐり、そっとスマホを取り出した。
 カメラモードを選択し、静司は周一にレンズを向ける。そしてパチリと撮影したその画像を、的場邸の自室のパソコンに送信する。狡猾にも、撮影の証拠はその場で即座に抹消──あとで揺すろうという魂胆なのか、静司はニヤリと笑った。
 しばらく車内を調べていた静司は、やがて観念したのかシートに体を投げ出した。もう、朝までここでも構わないと──今度は穏やかな笑みを浮かべて。

 しかしその時、通話用に持っている周一の携帯が鳴った。静司は慌てたが、周一が起き出す気配は無い。むしろ轟音のようないびきは着信音などものともしない。
 さすがに他人の携帯をいじるには気が引ける思いだったが、今は有事と思い直して携帯を取り出すと──それはメールの着信だ。発信者は「監督」とあった。
 舌打ちしてメッセージを開くと、そこにはこうあった。

『こんばんは、名取さん。

この度は、僕のメジャー初監督作品となる【化け物霊長類】へのご出演を快諾いただいたことを改めて感謝致します。

撮影においてはトラブルもありましたが、無事撮影を終えることができたのは、名取さんの素晴らしい演技とご助力あってのことと感じております次第です。

近日、クランクアップの祝賀会を開催する予定がございますので、後日あらためてご案内させていただきたいと思います。

それでは用件のみとなりますが、失礼致します』

 幸い急ぎの用件ではないようだ。だが、そんなことはもうどうでもよかった。
「………」
 唖然としながら静司は画面を見詰めた。きわめて普通の文面であった。
 たった一語を除いたら。
 そして、傍らに眠るボロ雑巾──いや──【化け物霊長類】を一瞥し、静司は美しい眉をこれ以上も無いほどにひそめた。

 ──何に出演してたんだ、この男。
 これが事務所の意向なのか、或いは本人の意思なのか、今すぐ揺り起こして問いただしたい。そして一体何の役をあてられたのか──どうせ意思疎通が出来ない以上、無駄なのはわかっているが。

 遠くで梟が鳴いている。
 窓から見える林道の木々をぬって冴え月が見える。絵のように美しい夜だ。
 ──化け物霊長類。
 口の中でボソリと呟いて、静司はフハハと笑った。その後、破裂したように爆笑したが、目を見開いた眠る周一が覚醒する気配はまったく無かった。

 遠くで消防車のサイレンが聞こえる。
 あの消火器は役に立たなかったのか、と静司は冷静に思った。


【了】


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