牡丹華【後編】


 二階の部屋は、中の扉で二室に区切られたひと部屋を、二組のカップルがパートナーを交換し、一室ずつでプレイに及ぶのが基本だ。つまり今回は、静司が件の内閣府の職員と、周一がその妻と、各部屋で事に及ぶことになるわけである。
 部屋は基本的に密室だ。行為が行為であるだけに、室内には密に監視カメラが設置されているが、それは万が一犯罪行為がなされた場合やトラブルの証拠を残すためのものであり、従業員が常時モニターをチェックしているわけではない。したがってパートナーのプレイに関しては任意で覗き見ることができるが、普段は外からの関与は一切無い。
 だが今回に限っては事情が異なるため、それぞれの部屋に小型カメラが設置されており、万一の場合は警備係が踏み込む手筈になっている。
「周一さん」
「はい?」
「……多分、やばいのはやっぱり女のほうだと思います。手に負えなくなったら呼んでください。こちらも片付き次第加勢しますから」
 既に部屋に入った二人組の姿を思い起こし、思わず静司は身震いした。
 死んだ魚のような目をした中年。遠目にはただの冴えない男だが、近くで見ると何ともぎこちなく異様な感じがする。同時に奇妙な既視感に襲われたが、その正体ははっきりとはわからない──依頼資料の写真を目にしただけで、あの男との面識など無いはずなのだが。
 そしてその「妻」もまた異様な風体だ。着飾ってはいるものの、痩せて枯れ枝のような手足をした妙に茶色い女。不気味なことに、彼女は未だ一言も言葉を発していない。
 確定情報は僅かだが、少なくとも彼女は間違いなくヒトではない。言葉を発さないのは人語を解さないせいかもしれない。だが、人語の理解がいわゆる知能に直結するかといえば、それは少々解釈が異なる。厄介なことに、知能が高いにも拘わらず人語の通じない妖の中には、ひどく狡猾で邪悪なものも少なくないのだ。
 言葉とは理解の手段であり、端から理解というプロセスを必要としていない者が人間の中に混じる時、彼らは目的に対してきわめて貪欲になる。何を目的にしているにせよ、彼女の場合は交渉の余地が無いことを、その態度が示しているのだが。
「君も十分注意してください。こちらは相手が妖だと判っていますから、あとは戦い方を選ぶだけです」
 心強い言葉に、静司は不敵な笑みを返す。見たところかなりの妖気を放っている強敵だが、勝機など口にもしない周一は傲慢なのか。それとも敢えて口にしないのか。
「自信家ですね」
「自分の能力を正当に評価しているだけですよ」
 さらりと言ってのけるのが、本心でないことは承知の上。危険も承知。割りに合わないことも承知の上。
 だが周一は来てくれた。多分散々文句を言いながらも──恐らくは静司の身を案じて。
「……では身をもってそれを証明してください。また後で会いましょう」
 その腕をひいて、静司は周一の唇にキスをする。発破をかけるつもりが、ちくちくする髭の慣れない感触に、静司はキスに没頭出来ずに思わず吹き出した。周一は周一で静司のシリコンおっぱいの感触にびっくりして、やっぱりこちらも没頭できずに途中で断念した。









「………そういうわけで、わたしは前妻と離縁することになったのですが」
 巨大なベッドに腰掛けた男は、かれこれ二十分をかけて身の上話を続けている。静司は少し離れた椅子に腰掛けて、彼の口から漏れ出る情報を取捨していく。そのほとんどはゴミだ。
 こればかりはどうやってもつぶしのきかない声のカムフラージュのために、静司の代わりに声を出すのは周一の式である瓜姫だ。静司はいわゆる「口パク」である。
「あなたはほどなく再婚なさって──」
「前妻は」
 静司の間の手を遮るように、男は言った。口を挟むなという威圧感──というには違和感がある機械的な口振り。ともかく静司は口をつぐんだ。男の唇の端から泡が飛んだ。口が弛いのか、既に何度もそうして唾やら泡やらを飛ばしている。しかも厭なことに、それがひどく臭うのだ。
「……善良な女でしたよ。わたしを愛してくれましたし、心の優しい女でした。そうそう、ヴァイオリンの名手でもあって、とくにメンデルスゾーンは彼女のレパートリーの中でも最高のものでした」
「まあ」
 紅茶のカップを片手に、静司は微笑む。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲は、静司の好みでもある。
「よいご趣味でいらっしゃったのね。……わたくしもメンデルスゾーンは大好きですの」
「ほほう」
 言いながらも、静司の発言に気を取られたようには見えない。言葉は明瞭だが、半分眠っているような印象──明らかな違和感。一見するとアヘン系薬物中毒の初期症状のようにも見える。何にせよ表情筋が動かないのが一番不気味だ。これが半年前はただの狸オヤジだったというのだから、一体彼の身に何が起こったのだろう。
「あなたはお弾きになりませんの?こうしてお話するのもとても愉しいですけれど──」
 揃えた長い脚を、静司はゆっくりと組む。ボリュームは無いが、真っ白で凹凸の無い陶器のような太もも。誰もがふるいつきたくなるような美脚。半分死んだような男の視線さえもそこへ吸着する。
 ──鮮やかな牡丹が彩る妙なる肢体。
「──この胡弓も、とてもいい音で鳴きましてよ」
 組み脚を解いて、静司は立ち上がった。呆然とする男の眼前で、ショールを脱ぎ捨てる。やんわりと男の胸──脂肪まみれの──を手のひらでトンと優しく押すと、体は呆気ないほど簡単にベッドの上に倒れ込んだ。
 その拍子に、バス、と奇妙な音が鳴った。
 男の放屁であった。
 恥をかかさぬように適当に笑ってごまかそうとした刹那、静司は思わず後ずさった。
「……!?」
 漂ってきたのは屁のメタン臭などではなく、強烈な腐臭──いや、明らかな屍臭だったのだ。
(──そうか)
 その瞬間、静司はようやくひらめいた。同時に既視感の正体も明らかになる。
 なるほど、この男はジャンキーでも血液マニアでもなければ、「憑かれて」いるわけでもない。
 本物の屍体そのものなのだ。供血を求めるのは身体を保ち渇きを癒すためか、或いはあの女妖の傀儡となってそれを集めているのか。その内訳までは知らないが。
 かつて沖縄知事選挙の際に起きた事件で静司が初めて駆使した禁術と、それによって蘇った死者の姿が、目の前の男の姿とオーバーラップする。表情筋が動かないのは──彼が既に死んでいるからだったのか。
 にゅう、と延びてきた男の毛むくじゃらの手が静司の手を掴む。冷たい。明らかな死人の手だ。
 一瞬のインターバルを経て、男の顔が凄まじい形相で静司の剥き出しの太ももに向かってきた。静司は扇子──と見せ掛けた鉄扇でそれを遮ると、ガチン!と恐ろしい歯音が鳴った。
「く、くく、く」
「──残念でしたね。フェイントは通じませんよ」
 声帯から瓜姫の憑依をといても、男はまったく気付かない。見た目は美女でも、明らかな男性の声──おそらくは、そんなことはどうでもいい──いや、識別ができているのかどうか。静司が男であろうが、女であろうが。
「喰わせろッ!!!!」
 男が異常なほどに口を開いて獣のように吠えると、静司の口元がつり上がった。
 ──なるほど、これが問題の吸血事件の内情というわけか。
(つまり、再婚相手を選び損ねた──と)
 聞くところによると、前妻との離婚原因は、スワッピングプレイに没頭する夫との夫婦生活に妻の側が嫌気がさしたということらしい。かつては異郷の娘たちを散々手込めにした変態、今は妻が知らない男に蹂躙されるのを見て悦ぶ変態──そして死んでもなお静司の太ももに噛みつきたがる変態。
 静司は襲い来る男の身体を思いきり蹴り上げる。奇妙な悲鳴をあげてベッドにバウンドした男は、しかし痛みを感じていないらしく、腐ったような臭いの涎を吐きながらヌルリと立ち上がった。
「血、血、血………ち、ちを、ちを、くわせろ」
「喋るな。臭う」
 男が体内に封印していた悪臭が口からせりあがり、部屋中を腐臭が満たしている。さても──いかに悪人といえど、生者を葬れば殺人だが、いかに善なるものでも生ける屍を再び土に還した者を裁く法は無い。
 関節を破損したのか、うまく動けずにもがく男を見下し、静司は妖艶に微笑んだ。
 もはや考えることは一つだ。
 静司は鉄扇を翳した。
 ──どんな方法で殺してやろうか。










「周一さん!」
 妖の呪力によって閉ざされた扉を、力ずくで開け放つと、そこはもはや部屋の原型をとどめない異世界であった。
 枯れ枝のような女、という喩えは的を得た──というか覿面にど真ん中で、高い天井近くで蠢く巨大な木の瘤のような部分に女の顔はあった。
 それ以外にあるのは、木だ。それも生気豊かな樹木ではなく、中心となる天井の瘤から生え出た枯死寸前のような痩せた枝が、十重二十重と部屋中を所狭しと覆っている。それらはもはや壁紙をほとんど覆い尽くし、勿論退路も無く、周一はその枯れ木のドームのまん中に立っていた。
「周一さ……」
「待て!来るな!!」
 腹の底から吐き出すような強い制止に静司は反射的に血の気を失ったが、周一はこちらを向いてエヘラ、と笑う。いつもの締まりの無い──と静司には見える笑い方。またの名を余裕のバロメーター。
「……古木の妖が邪念にとりつかれて、永劫の命を得ようとしたせこい目論見です」
 周一が自分の周囲の空間を奇妙な仕草で撫でると、僅かな光源を受けて、空間が水平にキラリと光る。まるで、雨露に濡れた蜘蛛の糸のように。
「──特殊鋼糸ですよ。最近個人的な知り合いの繊維開発会社の方に対妖の新しい素材を開発して貰っていましてね。試供品なんですけど、触ると切れるからあまり近寄らないでくださいね」
「……え?スゴい。繊維会社って、東レ?」
「違います。君、繊維って言ったらもうそれしか無いと思ってるでしょう」
「だって、ほかに知らないし」
 緊張感の無いやり取り。だが敵は動かない──動けないのだ。先に側枝を伸ばして周一の退路を断ったはいいが、その中で鋼糸を張り巡らされたものだから、安易に動けば即座にミンチになる──いや、木だからウッドチップか。
「じゃあ大人しくお手並み拝見……で、いいのかな。余計なお世話かもしれませんけど、このままじゃ身動き取れないのはお互い様ですよ?」
 微笑と共に顔を覗き込むと、周一は不敵に笑う。おもむろに虚空に延べた手を綱を引くように手繰ると、猛禽の鳴き声のような悲鳴が響き渡った。
「鋼糸を武器になんて、やっぱり伝奇小説みたいにはいかないですね。あっち引いてこっち引いて……不細工なものですよ。下手したら自分の首がコロリですからね、多分に改良の余地がある」
「カッコつけ」
「何事もスタイルからです。それよりも静司──見てください」
 周一が指先をクイと曲げると、張り巡らされた枝の一部分が切断される。どうやら本体である顔面以外の側枝には痛覚が無いらしいが、その切断面からはおびただしい血液と共にむせかえるような妖力が漏れ出ている。
「──血?」
 敵から視線をはずさないまま周一は頷く。
「奴は主にヒトの血を力の源にする妖のようだ。動きに適さない躯に代わってほかの生き物の身体を──死者を操り、彼らが渇き求める血の上前をはねるというわけです」
 それでピンとくる。
 なるほど。あの枯れ枝──宿り木の妖、というわけか。人間に変化した時の、あの異様な姿もそれならば頷ける。
「さて、それでは麗しき我が牡丹の君──」
 芝居がかったうやうやしい一礼と共に、周一は鋼糸を手繰る手に力を込めた。
 ──張り詰める空気に反して、周一は華やかな東洋のドレスに包まれた静司のボディラインを舐めるように見る。そのいやらしい目つき──麗しいと褒め称える言葉が空々しいほどに変態臭い。静司は無意識に眉をひそめる。
 血生臭く薄気味悪い空気の中で散々に視姦され、挙げ句おもむろに強引に抱き寄せられ、スリットの中に自由なほうの手を滑り込まされて──中身をまさぐられると、思いもよらぬ声が出た。普段は紳士ぶっている癖に、非常事態にはやたら大胆になる周一のギャップは、色気というよりは脅威だ。彼は生まれながらにしての祓い人なのだ──人ならざるものを観る力、不屈の精神、戦場における大胆さ。
 それで静司は嫌な妄想をする。このロケーションは対妖の武器の試用実験などではない。張り巡らされた鋼糸は妖ではなく、静司を自由に動かさないための罠なのではないのか、と。
「その艶やかな姿、このあさましき妖の血で模して魅せましょう」
 周一は静司を抱き寄せたまま見えない糸を華麗に手繰り、静司が声を出す間もなく、空間に張り巡らされた鋼糸を足掛かりに妖の眼前に躍り出た。
 一見何もない空中に歩み出る、不可思議な感覚。「ファンタジア」の魔法のような。
 そして、まるで空を飛ぶような跳躍──その腕に抱かれたまま呆気にとられた静司が思わず目を見開いた刹那、周一はその手を強く引き締めた。

 ──それは一瞬だった。

 側枝のあちこちで断裂した部位から、鮮血が吹き上がる。あらかじめ絡められた鋼糸に負荷が加わり、引き裂かれた枯れ枝に真紅の華が咲く──咲き乱れる。まさに大輪の緋牡丹のように。
(……どんなサプライズだ!)
 茫然とする静司は、しかし、おびただしく噴射される血の色に確かに目を奪われていた。あちらで咲けば、手前に開花し、むこうにもここにもあそこにも──ありとあらゆる場所から次から次へと緋色の花弁が開花する。とてつもなく凄惨にして鮮烈な状況に目が離せない。現実的には張り巡らされた側枝を切断するのは有効な戦術なのだろう。だが──。
「……すごいな」
 ──鮮赤というのは何故こんなにもひとの心を沸き立たせ、意識を引き付けるのだろうか。そしてふと、自分の中にもこんなものが流れているのだろうかと思うと、静司は不思議な気分になった。
 古い血液の腐臭が鼻孔をつく。それは不快な臭いだったが、どこか奇妙に甘かった。
 まるで吸血鬼の親玉のように屍を操り、血を求めた宿り木の妖。周一の鋼糸がとうとうすべての側枝を切断すると、まさに宿り木のように小さくなった本体の瘤は、戦意を失って即座に逃走を試みた。
 真っ先に嵌め殺しの天窓を割った妖を、二人は追撃しなかった。
 もう、ここには二度と現れないことは、判っていたから。

 ──すべての経緯はモニターで監視されているのだろうが、突入してくる勇気ある猛者は一人も居なかった。まあ、こればかりは怯えたとしても致し方あるまい。今頃全員が目を剥いて震えあがっているのは容易に想像がついた。妖の姿は見えずとも、このおびただしい流血沙汰は誰の目にも明らかに映るのだ。
 妖の気配は遠ざかり、やがては意識がその存在を知覚できなくなる。完全に気配が途絶えたことをアイコンタクトで確認しあうと、二人は大きなため息をついた。
「──依頼完了、ですね」
 周一と静司は互いに仕事を終えた相棒に向き直った。どちらもおかしな変装が乱れて、お仕着せが丸出しになっている。静司のドレスは肩口が大きく破れて、中から見えるのは明らかな男の体だ。
「周一さん」
「はい」
「……ご協力感謝致します。報酬は例によってご指定の口座に振り込ませておきます」
「それはどうも」
「明細書は後日郵送しますので」
 陰惨な現場でなされる空々しいやり取り。祓い屋にとってこんなものは日常だ。
 しかし今に限っては、空々しいのには別な理由がある。
 静司は目を閉じたまま虚空を仰ぎ、大きく嘆息した。
「……取り敢えず、おっ勃った前を、隠してくれませんか」











 クラブ側の謝罪を兼ねたもてなしを辞退して、翌朝の飛行機でさっさと帰った二人は、その日の昼過ぎには的場邸の奥座敷で庭の牡丹を愛でつつ茶を飲んでいた。
 静司のお気に入りの煎茶は600gで880円の、的場邸の備品にすれば恐ろしい安物である。そのパッケージには「トップ●リュ」と印刷されている。
 結局、依頼主であるクラブの経営者らが現場に恐れをなして恐慌状態に陥り、ロックをかけたために、二人はその後数時間をあの生臭い部屋の中で過ごす羽目になった。その間延々としりとりをして時間を潰していた二人は、しまいに怒り狂った周一の内線電話による脅迫によって部屋を出ることが許された。それというのも、見た目に反して実はよく飯を喰らい、お坊ちゃん育ちで空腹に慣れていない静司が、いよいよ監禁状態に音をあげたからである。
 しかし、何時間もあの血塗れの部屋に閉じ籠められていたにも拘わらず、二人にはもはや何の心残りも無かった。常人ならば発狂しそうなシチュエーションだったが、そこはプロフェッショナル。クラブを出る頃には、そんなことはもはや意識の中には残っていなかった。
 さまよえる死者はようやく墓の中へ、はぐれものの妖はまたいずこかへ。だが二度と同じ場所に帰ってくることはあるまい。正直封印するには大物すぎたし、処置としては十分だ。もしかするとまたどこかで再び死者が甦り、枯れ木のような女と連れ立って歩く死者の姿がみられるかもしれないが。

 妖とは、人間のもつ意識のバイアスに波長が合った時、はじめて人々の前に姿を現す。それらは大抵が欲であったり、悪意であったり、失意や絶望であったりする。こうしたものが作り出す心の間隙に、彼らはスルリと入ってくるのだ。それを満たしてくれる千載一遇の機会であるかのような顔をして。
 結局のところ、内閣府の狸オヤジは異変が見られた半年前に死んでいたわけである。彼はただ、自分の「所有物」である妻という立場にある女が、赤の他人に凌辱されるというシチュエーションをこよなく愛しただけだ。その社会的に不健全な嗜好と、それゆえに彼の中に存在したある種の負い目、そして妖の目論見が、たまたま結び付いただけだ。妖のもたらす災いとはえてしてそうした無作為なもので、負の側面が合致した時に、結果的にヒトにとって深刻な災禍となる。
 ゆえに、間隙をもたぬ者には妖の誘惑は意味を成さない。「迷わぬ者」は妖の天敵だ。祓い屋の大家的場一門の頭主たるもの、そうありたいと思うものだが──これもまた欲には違いない。
「何だか、不健全な飯の種ですよねえ……」
 新宿で買った有名な土産の手焼きせんべいを喰らいながら、静司は穏やかな春の日差しにめじろが鳴く平和な庭を愛でる。陰惨な事件を解決するために凄惨な手段に出ることに慣れきったその道のプロではあれど、本音を言えばさっさと足を洗いたい。だらだらしたい。一日中眠りたい。せんべいを食べながら煎茶を飲んで、美しい牡丹と可愛いめじろを愛でる暮らしを死ぬまで続けたい。
 だが、心此処にあらずな静司の横顔を見て微笑む周一は対照的だ。
 普段は些細なことにも懊悩し、己の存在意義を問い続け、自覚する精神的な脆弱さを鎧い続ける周一ではあるが、足を洗って安穏と生き続けることなど彼は到底考えられない。止まっていることは、死んでいるのと同じなのだ。BON JOVIの名曲の歌詞ではないが──「眠るのは死んでからでいい」。
 とはいえ、彼が静司に対してもそれを求めるかといえば、それは違う。静司の目から見れば生き急いでいるような周一の生きざまではあるが、周一の目から見た静司は死に急いでいるように見えるのだ。互いにそのライフスタイルに口を出すような野暮な真似はすまいが、互いに互いが、こうして穏やかな空間に身を置いていると安堵するというのだから、何とも皮肉な話だ。
「……綺麗ですね」
 ぽつりと言った周一の言葉に、静司はぼんやりと相槌をうつ。
「おれの一番好きな花です。美しいだけじゃない──咲きっぷりが潔い」
「……まったくだ」
 論旨のずれに、静司は気付かない。
 周一はゆっくりと腰を上げ、縁側から落ちた牡丹の花を拾う。麗人の髪にはよく似合う──そんな時代錯誤できざな台詞の一つも吐いてみようかという思惑があった彼のつまらぬ作為は、縁の下に垣間見たものの衝撃によって掻き消された。
「……静司」
 囁く声が緊張に満ちる。
「どうしました?猫、居ます?」
 暢気な受け答え。
「うん。居ますよ、五匹」
「えっ!?」
 飛び上がるように立ち上がった静司が、慌てて縁側に駆けてくる。草履も履かずに足袋のまま庭に伏せた静司は、縁の下を覗き込んで満面の笑みを浮かべ、周一と顔を見合わせた。
 三毛猫の「鼓」の腹には、小さな手のひらサイズの毛玉が四匹くっついて眠っていた。

(──なんだ。忙しいのは、そのせいだったんですね)

 見ればそれはまだ生後数日の子猫で、目も開いていない。あの時は、出産場所の確保に奔走していたのか。静司は互いに多忙なあの日の朝を回顧して、思わず声をあげて笑った。

 それは晴れた五月の、緑萌える牡丹の頃。


【了】


作品目録へ

トップページへ



- ナノ -