牡丹華【前編】


「七瀬」
 珍しく落ち着きの無い足取りで、静司は廊下を小股で走る。初夏に萌える木々が美しく彩る庭を見渡す縁側の回廊。
「七瀬──どこです………ん?」
 ふいに視界の端に映った異物が、静司の足取りを留める。縁の下に蠢く影──何かと屈んで覗き込むと、邸内に棲みついて静司になついている猫の姿がある。多少むらのある斑模様をした、愛らしい三毛の雌猫だ。
「おや、鼓」
 ずんぐりとした、扁平で寸足らずな体型が、和楽器の鼓(つづみ)に似ているという理由からつけられた名前だ。尤も静司一人が勝手に呼んでいるだけなのだが──その三毛猫の「鼓」は、普段なら静司に愛嬌を振り撒くところが、今日は何やら忙しそうに、するりと縁の下に滑り込んでしまった。
「おやおや……今日はお互い忙しいようですね」
 完全無視を喰らって静司は苦笑する。とはいえ静司のほうも、今は猫と遊んでいる余裕は無いのだが。
 自分も縁の下に潜り込みたい欲望を寸でのところで抑え、静司は再び廊下を走り始めた。









 新宿にある会員制高級秘密クラブ「gate」は、夫婦間、パートナー間のいわゆる「スワッピング」を目的としたクラブである。
 会員は完全登録制となっているが、会員登録にはローンを組むより遥かに厳しい審査をパスしなければならない。社会的地位、資産、経歴、収入などが、一定の条件に達していて、それを証明できる者だけが会員として認められる。
 それは秘密厳守であるクラブ側が握る、いわば会員の「弱み」であり、万一会員が重大な規則違反をした際に、情報を暴露することで社会的地位を失墜させることによるペナルティを課すのである。
 この罰則が効を奏してか、いまのところ「gate」の提供する非合法、非道徳的なサービスに関して、外部への情報漏洩は無い。
「gate」の経営者は地元の暴力団との縁のある人間だが、そのバックには歌舞伎町の大陸系マフィアとの繋がりも深い大物国会議員がついている。この人物は的場家との関係も深く、今回の依頼は「gate」の経営者からこの議員を通してもたらされたものだ。
 話はクラブのVIP会員である内閣府の職員が、半月前の来店時から様子がおかしくなっていったということに端を発する。
 クラブ内で行われる「スワッピング」は、常に同じカップル同士で行われるわけではなく、その時々によってパートナー交換のカップルの顔触れは変わる。カップル同士の希望があればセッティングは可能だが、それらは任意であって、基本的には行き当たった中から選択するということになる。
 それが幸いして大事にならずに済んでいるようなものだが、件の職員は、交換したパートナー、つまり一夜限りの見知らぬ相手に対して、半年前から異常な行為を求めるようになったという。端的に言えば、いわゆる供血──吸血と言うべきか、相手の血液を執拗に求めて最終的には暴行に及ぶため、毎回トラブルになるのだが、当人は翌日にはそれを全て忘れてしまっているというのだ。高額の会員権を売り物にするクラブ側は、そのようなトラブルを表沙汰にしたくはないため、様々な根回しで会員の口を封じるのだが、当然それにも限界がある。
 本来ならば先ずは祓い屋などではなく、当事者本人に医者にかかることを勧めるべき事態なのだが、商売が商売であるだけに、おいそれと藪をつつくような真似はできない。まして常々懇意にしているだけあって、依頼人代理である国会議員は、妖祓いという稼業がいわゆる退魔だけではなく、妖の異能を借りることで様々なケースに対応できるということを知っている。今回はそれを頼って泣きついてきた──と、そういうわけである。
「……まったく、厄介な依頼ばかり引き受けて」
 奥座敷でドレスメーカーの採寸を受ける静司の姿を見守りながら、七瀬が独りごちた。
「テーラーじゃなくてドレスメーカーを呼べなんて言い出すから、いよいよどうかしたのかと思いましたよ」
「いよいよって何ですか七瀬。普段私はそんなにおかしな事をしてます?」
 腰回りから臀部にかけての採寸はかなり綿密だ。体にぴったりと合った衣装を作るためには、数十ヶ所の採寸をおこなわなければならない。本場のチャイナ・ドレスとはそのようにして作られるのである。
「おかしな事以外に何をしてるのか教えて欲しいのはこちらですよ。……大体、女装してどうしようっていうんだか」
 静司はフフンと笑い、嬉々として答えた。
「スーツではこの右目のつぶしがきかないのでね。女性のドレスアップにはバリエーションがありますし、チャイナドレスならヘアスタイルでこの醜い半顔を隠しても様になるよう工夫することもできますから」
「はあ」
 気の抜けたような七瀬の返事は静司とは対照的だ。
「入店に際してはパートナー同伴が規則ですので、アイマスクをつけておくってのもアリですが。何しろ女性は自由がききます。それに比べて、男というのはまったく面倒だ」
「……女だったら名取と結婚できたかもしれんしな」
 ぼそっと呟いた台詞を聞き逃さず、静司は形の良い眉を吊り上げた。
「何言ってるんですか。名取は関係ありません。これは仕事の話ですよ」
「じゃあ、パートナー役は誰に頼むんだ」
 もの凄くおざなりに七瀬が言い棄てると、静司の顔がパッと輝いた。まるで、文楽の人形のように。
「それはもう!重要な潜入捜査ですから、それなりの場数を踏んだ人間に頼まなくては」
「……場数を踏んだ、ね」
「身元などいくらでも偽造できますが、優秀な祓い人で演技力のある男性となると……そうですねえ、まあ、一人くらいは心当たりがありますが」
「……」
 幼稚な思惑を隠そうともしないので、そこにはあざとささえもない。本当に幼稚なのだ。
 採寸を終えたドレスメーカーが、生地見本のカタログを広げる。静司がずらりと並んだ華麗な生地の数々に見入る間に、七瀬は据え付けの呼び鈴を鳴らし、駆け付けた者に用件を耳打ちした。
 静司はといえば、それを尻目に満足そうに、白地に大輪の緋牡丹を縫い取った、極彩色の絹の生地を選んでにっこりと微笑んだ。










 新宿歌舞伎町のスターバックスに、ショールを羽織った白地に緋牡丹の刺繍のチャイナドレスの美女が現れると、店内の視線はほぼすべてがその異物へと注がれた。
 この界隈では奇抜な身なりの人間は少なくはないし、実際に店内にも──控え目に言えば個性的な人々が陣取っている一画もある。
 しかし、圧倒的に人々の目は静司に注がれる。その理由は何を差し置いても美しさだ。
 オーダーメイドで仕立てたチャイナドレスは、素人目から見ても半端な仕立てではないことが判る。遠目からでも浮き上がって見える緋牡丹の刺繍に、胸と背にかけての流水紋がきらきらしく美しい。詰襟の結びの部分は大きな柄もなくいたってシンプルで、ボリュームを意識したクイックパーマを施して右側に流した黒髪が映えるように工夫されている。右目は垂らされた髪に巧く隠れているが、しかし不潔な印象を与えないよう、眼前に垂らされた髪は幾筋にも入念に束ねられて組み紐で結ばれ、どこかエキゾチックなスタイルに見事に昇華されている。足元はシンプルな黒いヒールだ。
「……」
 目につくことは予想していたが、こうも過剰に反応されるとは。静司は突発的に沸き出す嫌悪感を自ら宥めすかし、店員にフォームミルクを増量したラテを頼むと、ぐるりと店内を見回した。
 しかし、静司が見つけ出すよりも早く、目的の人物はこちらを見ていた。
 ──というか、目を剥いてガン見していた。
「……」
 ドリンクカウンターからカップを受け取り、静司は衆目の中を歩く。まるで見世物だと思いつつ、またも自らを宥めなだめて、待ち合わせたスーツ姿の髭の男の隣に静司は腰を下ろした。
「お待たせしました、周一さん」
「凄い格好だな。小林幸子か」
「スマキにしますよこの大根役者」
 しかし殺伐とした挨拶に二人は顔を歪めることもなく、静司はバッグの中から一枚の写真を取り出して、早速本題に入る。
「この男が内閣府の職員──「gate」の例のVIP会員です」
 プリントアウトされた写真の中には、ビール樽のような腹をした、いわゆるバーコード頭のスーツ姿の冴えない中年が映っている。
 差し出した写真をつまみ上げた周一は、ひん曲がった性格そのままに、今度こそ顔を歪めた。
「バカそうだ」
「率直ですね」
「このバカそうなおっさんが、吸血行為に固執している、そのギャップのイメージが怖い」
「同感です」
 静司は喉を鳴らして笑った──笑い事ではないのだが。
「最後の来店の翌日、例のクラブへ行きましたが、確かに妖の臭いがプンプンしましたね。今回に関しては、医者よりも先に我々に頼ったのが正解だったと言えますか」
「では、この男は……」
「憑かれているか、妖の呪詛を受けているか──ほかにも可能性は幾つかありますが、考えられる可能性に対する手立ては一通り講じています。店側には我々とのセッティングを依頼していますので、今夜おれが彼と接触します」
 淡々と状況を説明する。官能的で凄艶な美貌とはかけ離れたビジネスライク。とはいえ、周一のほうは、内心静司が気になって仕方ないのだが。
「周一さんは彼の奥さんの担当ですよ。しっかり足留めしてくださいね」
「へえ。そんな簡単な役回りとは、今回はボロいですね」
 拍子抜けしたように言った周一の姿を静司は真正面から捉え、品定めするように全身を一瞥した。オールバックに髭、仕立ての良いダンヒルのシャープなブラックスーツ──さすがはショービジネスの男。変装も着こなしもこなれていて憎らしいほどだ。
「まさか。厄介な役回りはあなたのほうですよ、残念ながら」
 静司の発言に、周一はわざとらしく両手を挙げる。
「……そらきた。的場の常套手段だ」
 苦笑する周一の耳元に唇を寄せ、静司は言った。
「──実は、件の職員の様子がおかしくなった半年前に、ちょうど彼は再婚してるんですよ」
「ほう」
 周一は含みありげに唇を歪ませた。彼は仕事に血道をあげる──いわゆるワーカホリックではないが、妖祓いに関しては、困難に行き当たるほど沸騰するタイプの男である。
「これからあなたが担当する──今の妻とね」
「と、いうことは?」
「問題は男ではなく、女のほうかもしれない。……だからあなたに頼んだんですよ、周一さん」
 自分が背中を預けられる、唯一の男を。










 妖祓いの依頼があれば、戦闘のシミュレートは常に行っている。
 無論戦闘にまで持ち込まずに事が済めば善し、静司は常にそれを目指すが、所詮己は非力な人間、相手は妖。そう上手くいかぬことのほうが遥かに多い。だから常に最悪の事態を常に想定するのだ。交渉の決裂、襲われる可能性、相手の出方、能力、有効な武器や戦い方、退路、命の守り方。
 それらすべての条件を満たしても、実際に現場で有効な手段となりえるかどうかは未知数だ。戦闘はポーカーゲームのようなもの──有効な手札が揃うかどうかは、実際に交戦が始まるまで判らない。それは未熟な祓い人であっても、静司のような人間であっても基本的に変わらない。プロと素人の違いとは、要はどれだけポーカーの「役」を識っているか、ということだ。勿論妖祓いには、それを駆使するための地力は必須なのだが。
 外からは小ぢんまりとした年代物のドアが見えるだけで、小さな看板しかかかっていない「gate」だが、一歩中には入ればそこは思いがけないほど広い空間が広がっている。平坦でラグジュアリーなフロアはまるで落ち着いたレストランのような造りになっていて、客はビュッフェスタイルの食事を楽しんだり酒を飲んだりしながら談笑し、カップル同士の交渉が決まれば彼らは二階に消えていく。交渉を取り持つのはクラブの従業員だが、希望があれば本人同士でコミュニケーションすることも出来る。
 周一にエスコートされながらフロアに入ると、手前の客から順番に、ドミノ倒しのように視線がこちらに向かってくるのを感じた。勿論原因は静司の目立つ出で立ちと美貌である。どこでも注目されて困るわ、と静司はふざけた。
「gate」は完全予約のシステムを採っており、件の内閣府の職員は少し高い位置にあるフロアの最奥のVIP席を陣取っている。そこからならフロア全体を見渡すことができるというわけだ。当然ターゲットもこちらを見遣って、そして──目の色を変えた。静司は周一の後ろで扇子で口許を隠し、ほくそ笑む。見事な一本釣りだ。
 ピリリと皮膚に伝わる違和感。間違いなく、この場に敵がいるという証。
「お待ちしておりました、名取様、的場様」
 受付係の年配の男性が一礼し、席へと案内される。一見するとまったくいかがわしい雰囲気の無い空間だ。静司は嘲笑する。上流階級御用達の性処理施設だけあって、その手の臭いは皆無だ。そこいらの安い風俗店とは話が違う。
 着席して飲み物をオーダーすると、二人は同時にため息をつく。場所が場所だけに、あからさまに不躾な視線は無いが、誰もがこちらを意識している。静司の出で立ちは当然ターゲットの気を引くためのものでもあるが、人々の意識を周一から外す意図もあるのだ。髪形と髭で印象はかなり変わっているが、彼が芸能人だとばれるのはさすがにまずい。
「……それじゃ、まあ取り敢えず食事でもしましょうか。周一さん、ご飯まだでしょう」
「ええ。……それより静司、ここ、ドレスコードうるさいですか?」
「入店時はね。もうネクタイ緩めて大丈夫ですよ」
「それは結構」
 うんざりしたように首もとを緩める。静司はそれを見て苦笑する──互いに和装に馴れた暮らしをしていると、フォーマルスーツがひどく窮屈に感じるのだ。着心地のいいオーダー仕立てでも、ネクタイだけはどうにも性に合わないというのが共通意見だ。
 食事でも、とは言うものの、静司自身も特に空腹なわけではない。仕事を前に神経が逆立っているせいもあり、環境のせいもある。
 自分とて潔癖な身の上ではないため偉そうな事は言えないが、パートナーを交換してセックスに及ぶという行為にはとりわけ嫌悪感を覚える。他人の性的嗜好に口を出すつもりは毛頭無いが、仮に自分の伴侶がそんな提案を持ち出したとしたら──はっきり言って軽蔑するだろう。
 しかも「gate」では、望めば互いの行為を覗き見することが出来るサービスもあり、会員の中でも圧倒的に男性が、自分のパートナーが赤の他人とセックスしている姿を見たがるというのだから、静司にはさっぱり理解できない。
「そのコスチュームは、あの男の好みですか?」
 全身を舐め回すような周一の視線に、静司は蠱惑的な微笑みを返す。なめらかに描く身体の曲線は主にシリコーン製の偽物のバストの産物だが、それにもまったく違和感が無い。
 静司は当人をちらりと見て頷いた。
「勿論。──あの人物、若い頃は中国で貿易商をしていたんですが、大概好色な質で現地の農村の若い女性に金を掴ませては度々関係を持っていたようですね」
「シノワズリ、ってやつですか」
「はっ!」
 静司は馬鹿にしたように嗤った。両手を広げた大仰なジェスチャーは、相手を蔑みきった意思表示だ。飲み物を運んできた女性給仕の目は呆けたように静司の姿に見入っている。その唇から漏れるのは紛れもなく男の声だが、それにすら誰も違和感を感じていない。性別はもとよりあらゆる規範の存在しない、彼はもはや別世界の生き物である。
「そんな高尚なものじゃない。彼係を強要しては金を掴ませて相手を黙らせていただけだ。あの男は無教養と断じた異邦人相手なら人間扱いもしない。そのくせ、こういうコスチュームプレイには敏感に反応する──」
 またもちらりとVIP席を一瞥する、静司の目はつとめて冷酷だ。まるで汚物を見るような目。
「つまりレイシストの性的倒錯者です。相手は妖ですが、おれはあの男にも一切容赦をするつもりはありませんよ」
 罵倒の嵐はなお止まない。
「悪名高い的場とはいえ、たまには社会正義に貢献しなくてはね。シノワズリ………か。はは、あれはただのコスプレ好きの変態だ」
 言うだけ言って、静司はテーブルの烏龍茶に手を延ばした。仕事前に酒をやるわけにはいかず、茶では気晴らしにもならないが、それを一気に飲み下す。
 ──その時、カップル同士の交流を取り持つ従業員が、奥からやって来た。周一と静司が座るテーブルの前で一礼すると、専用のプレートホルダーにテーブルNoが印字されたプレートを放り込む。Noは12と印字されている──あのVIP席だ。
「早速本命だ」
 周一がぴゅうと口笛を吹くと、静司は苦笑いをした。
「一応店側の配慮もありますから。真っ先にお奨めしてくださったんでしょう──おれを、あの変態にね」
「相当嫌ってますね。……大丈夫ですか、静司」
「……」
 肩に置かれた周一の手をはらいのけ、静司は優雅に組んだ足を組み替える。テーブル脇の6と印字されたNoプレートを外し、それを従業員に手渡す静司の動きは、ただそれだけなのに壮絶に艶かしい。
 このプレートのやり取りが、スワッピングプレイの開始になる。あとは二階の部屋でのお楽しみだ。
 静司はこれ以上もないほど邪悪に笑った。


【続】


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