Fragments of Caprice


「若」
 耳慣れた──けれども近頃はちっとも聞かなくなった呼び名が、自分に向けられたものだと気付くのに五秒はかかった。
 肩越しに振り返った静司は、そこに一人の男の姿を認める。
「……何だ、髭か」
 ──髭。
 それは、侍従の一人だ。
 静司が幼い頃から──というよりも、代々が的場で働いてきたという時代錯誤な一族の末裔。
 やや強面で老け顔だが、まめまめしく気配りに長け、何より静司に気に入られているのが幸いし、若くして副侍従頭に取り立てられた男。いい年こいて彼女の一人もおらず、若い時分から静司の世話ばかり焼いているクソ真面目な仏頂面。

 先代が健在の頃は、静司は「御曹子」ではあったが「跡取り」では無かった。それは何よりも力を重んずる祓い屋の家系であれば、的場のような旧家でさえ、頭主が必ずしも世襲では無いことを意味している。
 そんな時分の微妙な立場の静司を、御曹子でも跡取りでもない、或いはどちらとも取れる、曖昧な「若」などという呼称で呼んでいたのがこの「髭」だ。その静司が「若」であった頃の癖が抜けぬのか、他の者のように「頭主」だの「的場」だのと呼ぶのに違和感があるのか、今でも二人きりの時は彼は静司をそう呼ぶのである。
 若くして顎髭を絶妙な長さに伸ばして強面を助長し、いかつい体躯をもって、「頭主」ではなく「静司」を守ってきた──彼はいわば的場静司専属のSPだ。
「昨日おっしゃっていた百貨店の外商部の方が今しがた帰りましたよ。品物はこちらに」
 その髭の手には紙袋がぶら下げられている。
 静司は無言でそれを見詰め、ややあって、ああ、と間延びした声を出した。
「新しく仕立てた浴衣か」
「さようで」
 静司は酷薄に目を細めた。
「もう要らん。お前にやる」
「は?」
 筋のような目を見開いて、髭は怪訝な風に静司を見る。幼少期より静司の我が儘に付き合い続けてきた者にも、思いもよらぬ変則球を投げつけてくるのが的場静司という男だ。
「要らん……って、私だって要りませんよ。大体サイズが合いませんし」
「仕立て直せ」
「いやあ……」
「じゃあ弟にやれ」
「弟いませんて」
 不機嫌を露にスタスタと歩き出す静司を、髭が同じスピードで追ってくる。
「何、怒ってるんです」
「お前には関係ない」
「ありますよ、浴衣貰っても困りますから」
 静司は私室の前で歩みを止めて、音もなくクルリと踵を返す。足前で背伸びをして、耳打ちするような仕草を作り、髭が応じて姿勢を落とすと、耳元で思いきり大音声を放った。
「じゃあ捨てろバカ!!!!」
 蹴飛ばすように足で襖を開けて、ダメージの余波に苦しむ髭を無視して静司はすぐさま自室に閉じ籠る。天岩戸作戦。ムカつくときはこれに限る。
 しかし──髭はめげない。
「……若、生理ですか」
「やかましい!どっか行け!」
「どっか行きますからこの浴衣だけ引き取ってください」
「要らん!」
「だから私も要りませんたら」
「捨てろ!」
「ええ、もう。ですからどうぞご自分で」
「……
 雇い主に向かってなんたる態度か。静司はついぞ他に見ぬ事態に沸騰する──元々沸点はサラダ油並みに低いのだけれども、髭が相手となるとそれはさらに低くなる。エベレスト山頂で油を熱するようなものだ。
 障子の向こうで、あきれたように髭が言う。
「……どうせまた名取の若旦那と揉めたんでしょう。まったく、ケンカするなら会わなきゃいいのに──」
「何だと!」
 見事に図星をつかれた静司は、ふて腐れて突っ伏した文机から顔を上げる。再び立ち上がり、ドカドカとはしたない音を鳴らしてピシャリと襖を開けると、鬼の形相で髭から手提げをふんだくろうと勢いよく手を翳し──降り下ろして見事に空回りした。
「おっと」
 親の仇の首でも取ろうかというような渾身の一撃が空振って、傾いた静司の体を髭のごっつい胸が受け止める。
「何やってるんですか、若……」
「浴衣寄越せ!!このうすらトンカチ!」
「わかりましたから、大声出さないで」
「寄るな塗り壁!!暑苦しい!」
「ああハイハイ、梱包解きますから一寸入れてください」
 追いやるように体をつめてきた髭と、力比べするほど静司は無謀ではないが、目は怒りに燃えている。
 無論髭の無礼千万もムカつくのだが、真の憎悪はその手になる浴衣に向けられている。


 それは8月15日、市内で行われる精霊流しのために新調した曰く付きの浴衣であった。


 世俗の祭りのためだけに服を仕立てるなどというちょろけた真似に、何だかんだで自尊心の高い静司の意思が勝った背景には当然無駄に強い情動があり、情動の発露には例によって「名取の若旦那」──名取周一が関与している。
 その市内の精霊流しを見に行こうと、周一のほうから誘ってきたのがほんの十日ばかり前。そこで静司は恥を捨て、あわてて百貨店の外商を呼びつけて大急ぎで新しい浴衣を仕立てさせたのだ。さして洒落者でもない静司がわざわざ外商のアドバイスを頼りに一生懸命生地を選び、京都の老舗反物屋から生地を取り寄せて、ギリギリで間に合わせた一着。
 そして今か今かと待ちわびて、気もそぞろな日々が過ぎて。

 だが──。

 今朝になって、予定は見事に反故された。どうしてもキャンセルできない仕事が急に入ったと言うので何事かと思えば、生中継のバラエティ番組だと言う。飛び入りゲストで参加することになったという話だが、これはどうしても断れないというのだ。
 そんなしょうもない理由で、と詰りたい静司は静司で、それについて何か問答が起こるのはプライドが許さず、「あっそう」の一言で話を終わらせたのだが、内心で死ぬほど楽しみにしていた静司としては、腸が煮えくり返るほどムカつく話であったのだ。
 無論あの律儀な周一がこの土壇場で言うのだから、説明されればそれなりに納得できる理由があるのは判るのだけれども。
 そんなことは知りたくもないし、納得すれば余計に腹が立つ。

 ──かくして不幸にも百貨店の外商から商品を受け取った髭が、静司のヒステリーのとばっちりを受ける羽目になったというわけだ。
 慣れた手つきで浴衣を取り出し、髭は裾の生地を静司の肩に合わせていかつい顔をほころばせる。
「珍しい。生成り地に格子柄──明るい色の浴衣なんて初めてじゃないですか」
「別に。外商の奴が勧めたやつにしただけだ」
「ほう。それは良い目を持った方だ。よくお似合いですよ」
「……」
「ほら、何オコゼみたいな顔してるんです」
「黙れ腋臭髭妖怪」
「誰が腋臭ですか」
 ぶすくれた静司はツンとそっぽを向き、髭のほうを見ようともしない。

 ──本当は、判っている。

 幼児でもあるまいし、今更騒いだところでどうにもならないということ。ましてそんなに未練があるにも拘わらずあっさり引き下がるしょうもない自尊心、どうにかしようという努力を端から放棄しておいて、他人に八つ当たりする幼稚さ。祭り一日、浴衣一着で大騒ぎする馬鹿さ加減。こんなことで当たられるほうはたまったものではないし、民間企業なら間違いなくブラック企業大賞にノミネートされること間違いなしである。
 辛抱強い彼が、神経質な七瀬に信頼される理由は判る。こんな鷹揚な男でなければ、ヒス持ちのバカ頭主の侍従など到底務まるまい──。
「……名取の若旦那と予定が合わなかったんでしょう」
「………ああそうだとも」
 さすがにこう付き合いが長いと、聞きにくい事も構わず突っ込んでくる。些か冷静になった静司は、諦めたようにため息をついて、ようやく髭に向き直った。
 ……そうだ。
 今更いきり立ったところで、周一のスケジュールが変わることなどもはや無い。マネージャーだか番組プロデューサーを呪い殺しでもしない限りは。
 無論、本業呪術師としてはそれとてやぶさかではないが、相手もプロなので油断ならない上にリスクもでかすぎる。
「盂蘭盆会ですか?」
「精霊流しだ」
「精霊………ああ──市内の。今夜じゃないですか」
「……そう。今夜」
 静司は浴衣をひっつかんで畳の上にポイと投げる。
 静司の手持ちのバリエーションには無い、象牙色の生成り地に格子柄という明るい色の浴衣。
 これを選んだのは、本当は勧められたからという理由だけではない。
 バカみたいだが──本当にバカみたいだが、周一に見て欲しかっただけなのだ。些細な変化にも怖いくらい目敏い周一のことだから、目を丸くするに違いないと、そう思って──。
「……」
「……若、泣かないで」
「泣いてない」
「目から水が」
「ふふん、オートウォッシュ機能だ。便利だろう。目のゴミを自動で洗い流してくれる」
「……」
「清潔第一」
 やれやれと肩をすくめ、髭は畳の上に放り出された木成りの浴衣を拾い上げる。
 それをさっと広げて静司の傍らに歩み寄り、着物の上から袿のようにふわりと浴衣を着せる。呆気にとられた瞬間、髭は隙を突いたとばかりに、おもむろに静司の唇を奪った。
「………!?」
 僅か数秒の抵抗を、髭の巨躯が瞬く間に陥落させる。抱きすくめられればもうひとたまりもなかった。静司よりは遥かに接近戦に向いた周一でさえ、これほどの肉体的威圧感は無い。
「………若」
「な、何」
 僅かに離れた唇の狭間に、囁き合うような言葉が飛び交う。
「この浴衣着て」
「え?」
「今から私と市内へ行きましょう」
「は?」
「自分も午後から非番ですし、若はお休みでしょう。七瀬殿に断って、一緒に見に行きましょう──精霊流し」
「………」
 びっくりしたような静司の目は、くりくりで真ん丸になっている。その表情に堪り兼ねたのか、もう一発濃厚な口付けが降ってくる。
 面食らったが、今度は静司もそれに応える。入ってきた舌に、自分の舌をからめて吸い付くと、抱き締める腕が一層強くなった。
「………っ」
 唇が離れると、静司は慌てて目を逸らす。
「………」
 ──気まずい。

 何とも言えない気分だ。地元の代議士やら市会議員と寝る時など、何とも思わないのに。

 そして、何かしら感慨を抱いてしまうことが、周一への最大の不徳である気がして。
「………お前、非番なんだろう」
「そうですよ」
 当の髭は仏頂面を崩さない。動揺しているのが自分だけのようで、静司は余計に居心地が悪くなる。何かと戦っているような気分になる。
「こ、こっ、恋人と行けばいいだろうが」
「は。ですから、そういう可能性があればと期待して誘ってるんですがね」
「………!!」
 さらっと宣う語調には、照れも衒いも何もない。そもそも最初から一貫して同じ調子だ。
 言うに及ばず、静司が髭と関係を持ったのは、正直一度や二度ではない。歴代頭主の中でもついぞ見ないという淫乱の悪名高い静司は、行為そのものにはまるで躊躇が無いのだ。
 けれどもそこに何かしらの感慨が伴うと、何故か途端にキレは鈍くなる。
 そんなことで静司のほうときたら、もう真っ赤である。勝敗で言うなら、静司の完敗であるのは間違いなかった。
「……日が沈んだら、約三千基の万灯篭が川に流されると聞きますね。若の大好きな花火が千発ほど上がるそうですが」
 ──如何ですか、若。
 そう問われて、静司は強い罪悪感と目眩を覚える。

 断る理由が無いのだ。

 静司は思わず目をうるうるさせた。夏の間は隙を見ては裏庭で独り、花火セットで遊んでいる静司には、千発の打ち上げ花火など悪魔の誘惑以外の何物でもない。
「……間に合うのか」
「勿論。但し電車とバスですよ。車停める所なんてありませんから」
「……周一さんなら車横付けにして迎えに来たでしょうね」
 髭はしかと頷いた。
「ああ、もう間違いなく。まったくあの御仁、阿呆なのか賢いのか、判りかねますな」
 おろしたての浴衣一式をすぐに着られるように整えながら、髭は意味深に笑った。
「何しろ──自分の敵が何処にいるかも御存知無いのだから」
「え?」
「いえ、何でも」
 髭はいつの間にか綺麗に畳まれた浴衣を、静司の膝の上に置く。
「それじゃ私も着替えて参ります。七瀬殿にも断っておきますので、ちゃんと支度して待っててくださいよ」
「………」
「若、返事は?」
 畳み掛けるようにやり込められて、何だかしてやられたような気分だ。そもそもが頭主に返事を強要するなんて、何たる不敬──。
 頭の中はつらつらと色々な事を考えるのに、しかし不思議とそれらは態度には繋がらなかった。静司は膝の上の浴衣を抱いて、満面の笑みで髭に向かって手を振ったのだった。

「……はい。──待ってます」


 直後、髭が厠で一発抜いたのは、もはや言うまでもない。





Fragments of Caprice



【了】


作品目録へ

トップページへ


- ナノ -