Push the Limits


 祓い屋大家的場一門は、つまるところ職人ギルドのようなものである。腕に覚えのある祓い屋が数多く一門に属し、相互扶助のもと、より安全な後ろ楯を得て、祓い屋としての業務をより円滑に遂行する。的場は彼らのいわゆる親玉ではあるが、一門に属する数多の祓い屋たちは的場に雇われているわけではない。例外はあるが、一方の的場の方も彼らに給金を支払うわけではないから、二者は主に雇用関係にはない。無論必要ならば金を支払うこともある。しかし、一門に属するというのは、そうした報酬の有無を意味しない。
 的場は数多くの有能な祓い人を抱えている一方で、時にそれゆえに厄介な問題を生ずる。身内に裏切られることはしょっちゅうだ。頭主が命を狙われることもあれば、端からそれが目的で一門に近付く者も後をたたない。尤も騙すも裏切るも的場のお家芸である以上、そう易々とつけこまれはしないが、時として危機は訪れる。

 知っている者は骨の髄まで知っているが、現頭主の静司は大変な気まぐれで、ひどいむら気を隠そうともしない奔放な命知らずだ。まして隙を堂々と見せるものだから、誰もそれを隙とは思わない。しかるべき立場にある彼にあまりに堂々とされていては、誰もが周囲に張り巡らされているとおぼしき罠を警戒して近付こうともしないのだ。
 だが静司の場合、実際にはそんなものは存在しない。仕事の外出時は原則として警護が義務づけられているが、それ以外の時の彼は完全に野放し状態である。式を連れ歩くこともしない。
 ──それはある意味で、彼自身の力の誇示でもあった。真に静司を出し抜き、その身を害することができる者があるとすれば、そもそも警護など役には立たない。
 彼の最大の武器は、その狡猾さ。知略の限りを尽くし、あらゆるものを使う戦略性。
 第二の武器は、背に負った弓だ。誰もが知る、対妖物専用の必殺の破魔弓。優れているのは狙った的を外さないその射的の腕でもあり、飛び道具を自在に操る能力は彼の大きなアドバンテージだ。
 そして、第三の武器は、その容姿である。大輪の牡丹のような美貌に、半顔を覆う眼帯の異様。ただ美しいだけではすまない、危険な毒を含んだその姿に、誰もが目を見張らずにはいられない。それが人であっても、妖であっても。

 しかし、その強烈なキャラクターをもつ彼も、如何ともし難い弱点を一つだけ持っている。もう何年にもわたって克服できずにいる、通俗的にして人類普遍の弱みである。そしてそれにもかかわらず決して知られてはならない秘密である。何故ならば、もし偶然にもその内訳を知ったならば、静司の全ての武器が敵に抗しうる力を失ってしまう可能性があるからだ。それは文字通りのアキレスの踵となりうるものだった。







 その秘密を知っていてなお、恒久的に命をながらえる人物が一人だけ居る。
 それは当の「アキレスの踵」である、名取家の若き末裔──周一である。
 未だ年若い青年である彼は、しかし実に聡明な性質を備えた、祓い人として豊かな才能と将来性を持ち合わせた若者だった。また今や俳優としても高い知名度を誇る彼は、表裏どちらの世界においても成功者であると言ってよい。多少ひねくれた性格に目を瞑れば、その自らを省みる謙虚さ、勤勉さや強い意思は、普遍的な美徳と呼んで差し支えの無いものだった。
 しかしその彼は今、まさに危機的状況にあった。廃ビルの中の奇妙な形の円陣の中で、手首を後ろ手にガムテープで縛り上げられ、足首に手錠をかまされた不様な格好の周一は、トレードマークでもある微笑みを絶やさぬまま、ひたすら言葉の無力にうちひしがれていた。
「……だから、そんな事実はないって言ってるでしょう」
 押し問答を一時間以上繰り返し、これ以上は無駄だと知りながらも周一は同じ言葉を繰り返す。その周一のぐるりを取り巻く、いずれも人相が悪くすえたような臭いの漂う五人組の一行は、苛立ちも露に捲し立てた。
「何回も言わせんなやアホンダラ!!おのれが的場のアタマと乳繰りおうとんのは分かっとんじゃ、はよはっきり認めんかい!あ?名取!!」
「……そんな早口で言われたら、何言ってるのか判りませんたら。大体何で私に白羽の矢が立ったのか知りませんけど」
「白羽の矢ァやと、ナメとんのかこのクソガキャぁ……」
 今にも殴り掛かろうといきり立つ男を、周囲の面々が羽交い締めにして取り押さえる。面子は若い男が二人、冴えない感じの幽霊みたいに青白い男が一人、膨らみすぎた瓢箪みたいに恰幅のよい中年が一人。そしてどうやらこの意志疎通の困難な雄牛のような中年男がグループの中心人物であるらしく、周一は頭が痛くなった。かれこれ一時間以上を費やして事態の改善に取り掛かっているのだが、延々とこの調子であるからどうしようもない。
 そのどうしようもない状態から得た確かな情報によると、この一団は、どうやらかつては的場傘下にあった関西を地盤にする祓い屋であるらしかった。やがてその関係がこじれて的場に見限られた彼らは、一門に報復を仕掛けるために今日まで奔走していたというのだから大層な暇人集団である。
 さらにその調査線上に浮き上がってきたキーパーソンが同業者でもあり、今をときめく俳優でもある周一であったらしく、彼らは週刊誌の記者を装って周一を呼び出した。──間抜けにもまんまと引っ掛かって、それでこの有様なのだが。
「ええか、お前はその陣の中におる限り式も術も使われへん。今のお前はただの人間や。せやけどこっちは何でもござれやで。式に腕の一本ぐらい食わしたろか。指切って一本ずつ的場に送りつけたろかな」
「うーん、向こうが処分に困るだけだと思いますよ」
「アホか。指切られたお前の写真も付けて送るんやがな。的場かて幾ら何でもたまらんやろ、自分のしでかしたことのツケを払うのに自分のイイ相手が巻き込まれんのは」
「だから私をダシにしても無駄だというのに。そんな事実は無いんだから」
「まだ言うんか、しらばっくれとんちゃうぞ!しまいに簀巻きにして大阪湾のフカのエサにすっどコラァ!」
 延々と続く不毛な問答。しかし、周一の胸の内のスペックの大半を占めるのは、ある懸念だ。よからぬ事態になっていなければいいが──つい思わず心此処にあらずという態度が見え隠れする。
「……て、聞いとんのか名取!」
「わあ、スミマセン」
 苦笑いでお茶を濁すが、何の解決にもなっていない。ヘラヘラ笑う周一に相手は益々いきり立ち、こちらの焦躁は内心でひたすら募る。さらに時間が経てば経つほど、懸念は膨張していくだろう。何故ならば。
(万一こんなことが静司に知れたら……)
 ──いや、万一、ではない。
 交互に起きる執着と無関心の気まぐれな発露のタイミングが予測できない静司のことだ。突如として過剰な干渉をはかってくることは決して珍しいことではない。その気まぐれで、偶然にもこの状況を彼が知ってしまったとしたら。
「……」
 ──良くて皆殺し、普通に考えても生殺しだ。もしたまたま機嫌が悪かったりしたら──考えただけで寒気がする。
 がなりたてる強面から目を逸らし、周一は青ざめた。自惚れでは決してない。もし彼らに周一を盾にして、あの的場の長を巧く躍らせるだけの狡猾さがあるならば、確かに周一はこれ以上もない交渉材料である。しかし、この好機を扱うに相応しい力量を彼らに期待するのは、どう考えても酷というものだろう。恐らくは唯一最大の弱みとはいえ、それはあまりにも危険な諸刃の剣。元来他人の不幸を喜ぶタイプではない周一は、相手がいわゆる悪党とはいえ、近い未来に恐らくは避けられないであろう災難に、あからさまな同情を禁じ得ないのだった。
(静司、頼むから)
 脳裏には、見た目だけは柔和に微笑む静司の美貌。その微笑の裏側がどんなに黒いかを知る身としては、今はただただその微笑みが薄ら寒い。
(頼むから、殺人だけはしてくれるなよ)
 ──そんな周一の切なる願いは、ひどく心許ない。大体あの悪名高い的場一門の頭主が、人殺しなど今更、という気がするのだ。そうでなくとも社会的に抹殺された者は数知れず、その中の何人が首を括ったかなど分かったものではない。
 目の前で、用が済んだら始末するなどと物騒な事を息巻いている大の男の集団が、あの妖艶な微笑みの前では赤子同然のようにさえ思える。何とか彼らをこの馬鹿げた企画から撤退させ、助けてやれる方法は無いだろうか。まったき被害者でありながら、周一はひたすらその可否を模索していた。早くなんとかしなければ──時間切れになる。
「よし、しゃあない」
 リーダーの牛男が言った。
「誰か、的場に電話せえ」
「は!?」
「的場に電話して、こっちに名取がおるて言え。示談にしよやないか。本人出んかったら七瀬の婆ァでもかまへんわ。はよ電話せえ」
「まっ……ちょ、待ってください!」
 周一は裏返った悲鳴のような声をあげた。しまった、と思ったが遅かった。洩れた声はもう押し戻せない。
 牛男は下卑た声でゲラゲラ笑った。そして意気揚々と言った。
「……ようやっとボロ出しよったのう、名取の若さん。せやろ、電話されたら困るんやろ。なんでや?何でか言うてみ。えっ、言うてみ」
「……」
 こう饒舌になるともう、相手の関西弁が人をおちょくっているようにしか聞こえなくなる。実際におちょくっているのかもしれないが。周一は思わずああ、と呻いた。もはや余裕は無かった。時間的にも──精神的にも。
「あのな、あんたたちのために言ってるんだぞ。的場的場と言ってるが、あんたらは連中の本当の恐さを知らない」
 中の一人が鼻で笑った。恐らくは一番若い、周一と同年代とおぼしき青年。
「ほんまの恐さ?コレより恐いもんがあるんか。え?あるんやったら見してみんかいな」
 どこから調達したのか知らないが、大刃の山刀を取り出した青年は、刀身を水平にして周一の肩をぽんぽんと叩いた。刃がぎらついて瞳に反射する。切れ味は実に鋭そうだ。案外あっさり首をはねられるかも──そう思った、その瞬間であった。

 元々ひびの入った薄汚れた窓ガラスが、粉々になって四方に飛び散った。周一の目には、それがとてもとても──ゆっくりと砕け散っていくように見えた。

 ドガッ、という鈍い激突音が響いた途端、周一を含む全員が唖然とした。
 弓であった。
 和弓の鏃が、山刀を手にしたままの青年の手を、見事に壁に射止めていた。
「げぇっ……!」
 反射的に叫びはしたが、痛みがあるようでは無かった。出血もしていない。だが鏃は間違いなく青年の手を貫通していた。
 しかし、彼がわずかに身じろぎした瞬間、傷口からおびただしい血が溢れだし、声は断末魔のようなそれに変わった。ようやく痛みが追い付いたのか、或いは身じろぎしたことではじめて痛点に触れたのか。
「電気を消して!早く!!」
 咄嗟に周一は怒鳴った。だが一気に混乱した一同にはその鋭い叫びさえ届かない。男たちは射られた青年を案じたり、命知らずにも割れた窓から身を乗り出して射手をあらためようとしたり、右往左往している。
「早く電気を消すんだ!狙われるぞ!外を見るな、電気を消して伏せるんだ!」
 周一の叫びは、打ち出された第二矢によって掻き消された。今度は窓から外に身を乗り出したもう一人の若者の肩──両肩だった。同時に打ち出された二本の矢が、両肩の稼動部位を見事に撃ち抜いていた。左右には一寸の誤差もなかった。
「ま、的場か!?」
 牛男の今更の絶叫。ほかに誰が居るんだこのバカ共。周一は手首の拘束から逃れようともがいた。しかし、しっかりとまきつけられたガムテープはぴくりともしない。
 周一の焦りをよそに、残された三人の男たちは鼻息荒く、今度は何をしでかすかと思いきや──荷物の中から狙撃用の単身手動装填銃を取り出したのだ。
「おい、あんたら!!」
「的場は向かいのビルの屋上や!弓矢やと、ナメよってあの小僧、あの澄ましたツラ穴だらけにさらしたらんかい!」
「よせ!明かりを……」
 周一の諫言はまったく聞き入れられることはなかった。迎いのビルの屋上に立つ人影を狙って、早々に弾が炸裂した。
「よっしゃ!……………あ」
 手応えにグッと長い銃身を握りしめた幽霊のような狙撃手は、同時にライフルと共にその場にぐにゃりと倒れた。傍目に怪我は無かった。ただ──。
「何……やと」
 衝撃で仰向けに倒れた狙撃手がもつライフルの銃口に、深々と矢が突き刺さっていた。そんなバカな。周一を含め、誰もが唖然とその衝撃的な有様を見た。
 発射された銃弾を真っ二つに割いて、向けられた銃口に向かって突き進む鏃──荒唐無稽なカンフー映画か何かではあるまいし、そんなことがあってたまるか。しかし現に。
 ──現に。
「静司……!」
 向かいのビルの屋上を仰ぎ見るも、わだかまる闇の中には何も見えない。
 情けないが、もはやどうすればいいのか周一には分からなかった。幸いにもまだ死人は出ていない。つまり殺す気が無いということだ。闇夜だろうが何であろうが、弓を射る気になった静司が的を外すなどということはほぼあり得ないからだ。
 呆気にとられるばかりの木偶の坊はもはやただの的だ。リーダーの傍らでひたすらオロオロしていた中年の頭部、その禿げ上がった天然のトンスラの部分を、飛んできた鏃がかする。クジラの潮吹きのように鮮血が頭頂から吹き出たが、命に別状をきたす深手ではないのは確かだ。おちょくっているのは静司のほうであった。そして息つく間もなく肥えた中年男の瓢箪にも似たボディラインに沿って、次々に何本もの矢が穿たれる。耳を塞ぎたくなる打突音のオンパレード。終わった頃には中年男は大量に失禁して気絶していた。
「なっ、なっ、な……!」
 一瞬にして仲間全員を失ったリーダーの牛男は、飛び出るほど見開いた目を、割れたガラスの向こうに游がせていた。腰が抜けて、彼もまた失禁していた。ツンとした小便の臭いが部屋中に充満した。
「おっさん!!」
 もう半分は激昂しながら、周一は怒鳴った。
「小便漏らしてる場合か!!助けてやるから私の手のガムテープを取れ!!早く!!」
 切羽詰まった周一の最後の諫言に、男は僅かに正気を取り戻したようだった。濡れた尻で這いずりながらヨチヨチと周一の背後に回ると、おぼつかない手つきでガムテープを解こうとする。が、ガムテープというものは粘着面同士の接着が非常に強力なために、杜撰に巻き付けると簡単に剥がすことができない。
「もたもたするな、死にたいのか!?」
「違うんや、堅うて……」
「ナイフでも何でも使え馬鹿野郎!!早くし……」
 ダンッ!と床板を穿つ強烈な振動。今度は周一の足元に、古式ゆかしい矢文が現れる。
 ようやっとガムテープの呪縛から逃れて赤剥けた両手が、奪うように文を取る。
 そこには、

『すぐに行く』

 と、書かれてあった。






 足首の枷も外すように指示したものの、タイムリミットには間に合わなかった。パニック状態に陥った男は手錠の鍵を見つけ出すことが出来ず、そうこうしているうちに、現れたのだ──大鴉が。
 ビルの内側ではなく、鉄製の外階段からあからさまな足音をたてて階をつめてくるのは、明らかに威嚇のためだ。周一はヒイヒイと泣く男を背に庇うようにして、その来訪を待った。それらを追いつめるように、すぐそこの非常口が力ずくで蹴破られると、背後の男は恐怖に跳び上がった。
 その不様に対し、ゆっくりと部屋に入ってくる影の立ち振舞いは、場違いなほど優雅だと言っていいものだった。
「──こんばんは。的場と申します」
 長髪と眼帯に、弓を携えた着流し。そして女物の袿を肩に羽織った姿という異様な出で立ち。わざわざ選んできた「コスチューム」だと周一にはわかった。これも当然、相手に対する威嚇を演出するためだ。普段から和装を好む彼だが、自分の姿が他人の目にどう映るかは十二分に心得ているところが小憎らしい。的場静司。泣く子も黙る、的場の親玉。
「ひい……!」
 気の毒なほどに枯れた涙声。周一は片手で男を隠すようにして、その姿を静司の視界から遮った。
「お久しぶりです、周一さん。ご無事で何より」
 白い片手をヒョイと挙げてにこやかに微笑む。こんな最中の掛け値無しの笑顔に、背筋が冷たくなる。
 ──と、思いきや、静司は唐突に眉をしかめて自分の鼻先を指でつまんだ。
「……何かオシッコ臭いですよ周一さん。やだなあ、お漏らししたんですか恥ずかしい」
「漏らしたのはこのおっさんだ!」
 周一は思わず激昂した。何か激してばかりだ。静司のほうは大して興味もなさげに、あ、そうと言って、散らかった物資の中から見つけ出したボックスティッシュで鼻つっぺをした。周一は目を逸らして見ない振りをした。
「……それにしてもご健在の様子で。相変わらず物騒なものを持ち歩いていらっしゃる」
「ああ、これ」
 初めて気付いたというように、携えた弓矢を肩越しに見遣る。そして、ふいに思い付いたように、靫から矢を一本引き抜くと、音も立てずに一瞬で間合いを詰める。周一が目を見張ったが早いか、静司は姿勢を屈め──

 鼓膜をつんざくような、ダミ声の悲鳴が上がった。這いつくばって許しを乞うような姿勢の男の手の甲に、静司が振りかざした鏃が貫通し、床に突き刺さったのだ。

「静司…!」
「身の程を知らぬ愚か者め」
 どすの利いた低音が、もはや何も聞こえていないであろう、哀れな男の耳元に囁いた。
「付け焼き刃の生兵法で、この私を貶められると思うなよ。三下風情が大それた真似を」
「静司!やめろ!」
 自由になった手で、静司の肩を押し返す。簡単にいなされる細い体──力では容易い。しかし、彼にとって腕っぷしなど力の内では無いのだということを、周一は思い知る。
「もういいんだ、静司。やめてくれ。こいつはもう金輪際何もしない──いや、できないだろう」
「何故言い切れます?愚か者は喉元を過ぎた熱さを簡単に忘れてしまうものですよ」
 周一は懇願するように言った。
「傷跡を見れば嫌でも思い出すだろうさ。とにかくやめるんだ。これ以上やるつもりなら──」
 周一が一瞬言葉に窮したしたのに、静司はフフンと笑った。嘲笑したのではないだろうが、そう見える。彼の中では何かと損にはたらく因子。
「──あなたが私の相手を?」
「……」
 刹那、張り詰めた空気が二者の間に流れた。手を床板に繋がれたままの男は身をよじることさえ出来ずに悶絶し続けている。周りに散乱する意識の無い巨漢の群れ。血の臭い。その凄惨な有様を一瞥し、周一は嘆息した。
「……いや、私にはそんな義理はない」
「ご英断です」
 周一を見下ろす瞳が、眠る猫のように細められた。その高圧的な態度を見つめ返す周一の目にも、不敵な光が走る。こんなことで気圧されてはいられない。
「──代わりに君のヌード画像でもネットに流すことにしようか」
「は?」
 まさに世間話でもするような語調でさらりと言ってのけた周一に、今度は静司が目を剥いた。
「おっと、ヌードどころじゃ済まないのもあるかもな。いやあ、学生時代に君と同衾して以来、色々と画像がたまっているのを今こそ一挙放出するのもいいかもしれない。需要はありそうだしねえ」
「……リベンジポルノですか」
「まあ、ちょっと意味も意図も違うけど。ポルノでリベンジ、かなぁ」
 周一を監禁した面々が切実に欲しがっていたはずの情報が、本人たちの口からだだ漏れに飛び交っていた。だがもはや誰一人として、そんな些末な痴話喧嘩まがいのやり取りに耳を傾ける余裕のある者などない。

 静司は気を取り直し、視界の端で慟哭する男の体──服のあちこちに無造作に触れた。男は驚愕と恐怖に、尻の穴から電流でも流されたように跳ね上がった。それがさらに痛みを助長したらしく、貫かれた手はひどい惨状を呈していたが、静司は男の服のポケットから鍵を見つけ出すと、あとはもう興味はおろか、存在さえも忘れてしまったようだった。
 それは周一の足枷の鍵だった。
 鍵穴に差し入れて捻ると、簡単に錠が解かれた。アダルトグッズショップにでも売っていそうなちゃちなつくりの手錠を無理矢理足に嵌めたものだから、サイズが合わずに足首が擦りきれて傷になっていた。
「さ、周一さん」
 そう言って、静司は背を向けたまま腰を落とす。
「静司?」
「ほら早くおぶさって。裸足じゃ歩けないでしょう。怪我もしてるし」
「あ、いや……大丈夫だ、靴くらい──」
 言いかけたが、この哀れな集団から更に靴まで拝借する気にはもうなれなかった。大体水虫感染ったら嫌だし。そもそも自分の靴は何処へいったのだろう。多分棄てられたんだろうが、もう探し出す気には到底なれない。
 自分の足と静司の背中とを見比べて、周一は観念した。
「周一さん、ほらほら早く」
 肩越しに目線で急かしてくる静司は、何となく嬉しそうで、まるで子どもみたいだった。
 致し方無く周一は、静司の薄い背中にゆっくりと覆い被さると、万感の思いを込めて言った。
「静司」
「はい?」
「……取り敢えず、早くその鼻の穴に詰めたティッシュ、取れよな」
 散々なとばっちりの末に、自分の中にある何かが急速に萎えていくのを、周一は痛切に感じていた。

 何だかいやに乾燥した夜だった。周一をおぶったままの静司が外階段に連なる非常扉を開け放つと、寒暖いずれの温感も無いどんよりとした独特の春の風が、疲れきった周一の頬を慰めるように撫でた。


【了】


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