ファタ・モルガナ【後編】


 すでに眠っていたらしい静司を叩き起こして、電話口から事の次第を延々とまくし立て、再び正気に還れば午前二時。あらためて感じる見苦しさと自己嫌悪に情けなくなる。
 寝起きで最初は舌足らずだったものの、すっかり覚醒した様子の静司は特に不快感を露にすることもなく、時々相槌を打ちながら、黙って周一の話を聞いている。黙って、という態度そのものが既に雄弁に心情を物語る静司の場合、興味がこちらに傾いていることは間違いないのだが。
 駅前の電話ボックスを、雨が打つ音が響いている。向こう側で、静司がいつものように、微笑しているのが解る。手紙の内容に関して具体的な注意を促しても動揺している様子はない。どうやら静司のほうには具体的な異変はないようで、取り敢えずは安堵する。
 相手が何故静司の素性を知っているの見当がつかないこと、感情のベクトルは自分ではなく明らかに静司に向いているように思われること。そして犯人は恐らく人間であること。列挙してみるとそれは驚くほど貧相な災難のカタログ、心許ない情報ばかりだ。そして周一はまったく犯人の目安がつかないことを正直に告げる。
「でも、ただの変質者とは思えない」
『ええ──確かに』
 妖の介入が疑われる節はなく、術の名残も感じられない。にもかかわらず、ここまで尻尾を掴ませない周到さに感じる違和感は一体何なのだろう。
 盗聴や盗撮の可能性が低いこと、式に監視させてもいまだ一つの情報も得られないこと。自分は一ヶ月もの間、何をしていたのか?少なくとも犯人の記述から静司の名前が出てきた時から考えても、何も話は進んでいない。
 とにかく身辺に気を配るように、としか言えないもどかしさに歯を食いしばる。だが話はそれで終わりだ。そして気持ちはさらに澱む。ふいに会話の空白が走る。
 空白はおよそ二分ばかりもあった。真夜中に、互いに遥か遠い場所で繋がりながら、言葉を交わさない空白。一方には強い焦燥。もう一方は──何を感じたか。
 周一は食いしばった歯の間から、苛立ちの塊のような吐息をもらした。彼は完全にストーカーと称する何かに取りつかれていた。もし医者に行けば、多少効果の強いトランキライザーを二、三処方されてもおかしくはない。
 奇妙な沈黙を経て、静司はおもむろに言った。

『……局限性解離性健忘、というのをご存知ですか?』

「え?」
 意外な言葉に、周一はぽかんとした。その言葉が異質な存在感を放って、宙に浮いたようだった。
『いや、正確には解離性健忘局限型、と言うのかな。まあ、どちらでもいいか』
 解離性健忘──聞いたことはある。
 解離性障害の一形態で、その名のとおり、記憶が抜け落ちる症状があらわれるというものだということは知っている。いわゆる一過性の記憶喪失とは違うのは、それが精神的負荷に対する防衛機能であるということ──つまり解離性健忘は、健忘という形で意識を変容させることにより、情動的葛藤やストレスに対処する防衛機制だと考えられるのだとか──その話をしているのだろうか。
 静司はどこか愉しそうだった。
『解離、とは必然的に切り離す、ということです。意思には関わりなく、機能的に必要だから切り離す。普通のことですよ、睡眠が不足したら勝手に眠たくなるようにね。疲れたら甘いものが欲しくなったりするでしょう』
 心因性のトラブルが病気だと言われるのは大抵、単にその症状があると社会生活に際して不都合だからに過ぎないと静司は言う。無論例外もあるが、多くは負荷に対する正常な反応である、と。時に病という分類は恣意的なものになる。
 確かにそのとおりだ。だが真意が掴めず、周一は曖昧に相槌をうつ。
『歪な精神状態から自分を護るために、ある条件のもとではその記憶を遮断してしまう、ということがあるんですよ。だから局限性、という前振りがつく。限られた局面において意識と切り離してそれを忘却する』
「……あなたは、何の話をしているんです」
 戸惑いを露に言うと、静司は愉快そうにクスクスと笑った。
『私が心配ですか?』
 勿論──と言いかけて、それを呑み込む。そのタイミングに畳み掛けるように、静司のどこか弾んだ詰問は続いた。
『私の声が聞きたいと思いましたか?周一さんは、私のことをとても心配したのですよね?』
「──それは」
 それはそうだが、という曖昧な返答は途中で途切れた。静司の言い回しは──その言葉は、ついさっき、自分が目にして総毛立った言葉そのものではないか──「静司の声が聞きたい。彼をとても心配に思います」──という、あの記述。
 ──待て。
 周一はまずいものを見たときのように、ばつが悪いような、落ち着かず、気忙しい奇妙な感覚に襲われた。
 静司はまだ続ける。
『手紙の主はあなたの全てを知っている。だからあなたの気持ちも行動も、全て記述することができる。なのに、手紙の中には、あなたへの感情は一切出てこない。登場人物は?あなたと私だけ。だからあなたは手紙の主によからぬ企てがあるのではないかと危惧した。違いますか?』
 まるで探偵に詰問される間抜けな犯人みたいだ──そんな暢気な感慨を覚える一方で、血の気の引いた額から冷たい汗が流れてくるのがわかる。受話器を握る手の先がひどく冷たい。なのに掌は汗だくだ。
 追い詰められて困惑しているのではない。静司の言わんとしていることが、すんなりと理解できる──そのことに、驚愕を覚えずにいられないのだ。
『ご友人には事欠かないあなたに関する記述にしては、随分淡泊ですね。ご自分で違和感を感じませんでしたか?何故すべての話題が、あなたと私に関することなのかと』
 まるで、その人にとってはあなたと私以外の人間が存在していないようです。そう言って、また笑う静司に恐怖を抱く。──否、静司に、ではない。自分自身に。
 ──尻尾を掴ませない周到さに感じる違和感。
 それは、あり得なさに対する違和感ではなかったか。見えるはずのものが見えない。あるはずのものがない。それが自分の世界認識を真っ向から否定する何かに行き当たったのではないとすれば、何らかの過失がどこかに存在する。それは何処か──もう選択肢はあまりない。
「そんな、ばかな」
 周一の声はひどくぎこちない。
 それは事実かもしれない。だがそんな突飛な話を落とし処にするには心理的な抵抗がある。非現実的だ。どうかしている。一方で──それでも真実に変わりはない、と囁きかける声が聞こえる。お前は誰だ?理性?分別?それとも──
『馬鹿げていますか?本当に?』
 対してあからさまに嬉しそうな静司の声。学生の頃よりも幾分低くなった落ち着いた声──だが、まるで童女のような印象だ。小さな女の子が些細なことではしゃいでいるかのような。
『では過程を抜いて、妥当性のある結論から言いましょうか。私たちは意思さえあれば時間の裏側を知ることができる人間だ。人ならざるものを通し、見えないはずのもの、知ることのできないはずの時間を追体験することができる。現にあなたも式を用いて、真相を明らかにしようと試みた。それは一般社会のレベルでは望むべくもない精度です。にもかかわらず、何の手がかりも得られていない。視点を変えてみるべきなのですよ』
「観測者の落ち度……」
『そう』
 静司は穏やかに言った。滑らかな、暗色のベロアのような声だと思った。
『周一さんは、私とのかかわりに対して、強い負の感情を持っているんですね』
 一転して、声が僅かに悲哀を帯びた。それでもやはりどこか嬉しそうなのが、まるで万華鏡のようだ。
『あなたの心は無意識に「的場静司に対する名取周一」を切り離した。そうしなければならない何かがあった。あなたは祓い屋であるだけでなく、俳優です。ただでさえ嘘でできたようなあなたが、また俳優として舞台の上で、カメラの前で、嘘をつかねばならない。あなたにとって心の真実は重荷でしかない。それも想像を絶するほどの』
「……」
『だからあなたは忘れることにした──というよりも、そのための時間を、日常と切り離してしまうことにした。そのことを考えるとキリがないからです。そして幸か不幸か、あなたは別の人間を演じることに慣れすぎていた』
 周一は答えなかった。
『だけど、忘れても、消えてなくなるわけではない。忘れなければらない必然ゆえに忘れるシステムがはたらいている。それほどに忘れなければならない何かは、その人にとって強いものなのです』
 ──手紙の主は、あなたですよ。周一さん。
 静司は、はっきりとそう言った。
『式が目を皿にしたって見付からないのは当然ですね。あなたが毎回郵便受けから郵便物を取り出す時に、新しい封筒を放り込んでいるんですから』
「静司」
 縋るように、周一は呻いた。
『はい』
「静司、私は──」
 唇がわなわなと震えた。自分がとんでもない間抜けになったように思われた。間抜けで鈍感な──どうしようもない脆弱な男。
 逃げ道を作らねば、まっとうに誰かを想うことさえもできない。
 弁明が脳裏をよぎり、そして即座にそれを打ち消す。今赦しを乞うなどと、時宜をわきまえぬにもほどがある。
「静司、君はどうして」
『そんなことがわかるのか、ですか?』
 もう完全に手の内だ。
 間延びした沈黙が流れる。静司は何かを迷っているようだった。言葉を選んでいるのか、発言の是非を自らに問うのか。いずれにせよ、寝ぼけていても言葉に窮することなど滅多にない静司にはめずらしい振舞いに思われた。
『そうですねぇ。………たとえば私が周一さんに、映画の撮り方を教えて欲しいと頼んだとします。……周一さんは実際に何度も撮影現場に行っている映画の撮影の当事者ですから勿論わかりますよね』
 静司の切り返しは、些か歯切れが悪かった。今までの太刀を浴びせるような勢いとは明らかに違っていた。
「ええ──まあ」
 こちらも歯切れは悪い。なんと迂遠なやり取りだろう。周一は苦笑した。
『……そういうことですよ』
「そういうこと?」
『……身に覚えのあることをお話した──と。それだけのことです』
「静司──それって」
 また僅かな沈黙。
 とんでもない告白を聞いたような気がして、周一は顔色も口調も変わらないままひどく動転した。公衆電話からタイムアウトのブザーが鳴る。コインケースに残った硬貨は百円玉が一枚。それを容赦なく投入して、周一は受話器にかじりついた。携帯でかけなおすという選択肢にはついぞ思い至らなかった。
「静司、それはあなたが──いや、あなたも」
 もしかしてあなたも、同じような体験を?
 この状況となっては問いただしたところでどうということもないのだろうが、それ以上の言葉は周一の喉からは出てこなかった。
 だが、静司は続けた。何となく歯切れが悪そうだった。
『以前、似たような手紙を受け取ったことがありましてね』
 その声音には、含み笑いの色があった。回顧して、つい思いもよらず失笑するといったように。
『あんまりしつこいので、邸内でちょっとした騒ぎになりまして。犯人探しに躍起になったはいいのですが、さっぱり尻尾が掴めない、と』
 やがてその手紙には、ある人物の名前が頻繁に出てくるようになった、という。
 いとおしげに、どこか夢見るような声で、静司は言った。
『……人気俳優の、名取周一でしたよ』
「………」

 ──やられた、と思った。

 とてつもない破壊力だ。周一は小娘のように頬が紅潮するのを感じた。
『ただ──的場には──おれには侍医がおりますから、調べていくうちにすぐに全貌が明らかになりました。大騒ぎになったのに、頭主の自作自演の変態趣味なんて大っぴらにもできない』
「自作自演──とは言わないでしょう」
 なぐさめにもならないフォロー。だが事実だ。「そのための時間」は完全に意識から切り離されているのだから。
『まあ問題は……私の場合はほとんどポルノ小説まがいだったということですね。主治医は日本精神医学会の権威で──こうした臨床例を幾つも扱った名医だったのが幸いしました。でもまあ何というか──私は大概恥ずかしい目に遭ったんですよ』
 静司の口ごもった告白に、周一は思わず吹き出した。ポルノまがいの手紙──理屈から言えば分かる気はするが──というよりも、自分がそうならなかった理由のほうを知りたいくらいだ。
「……スティーヴン・キングの小説みたいだ」
『え?ピエロのやつですか?あれは嫌だ。怖いですよ』
「違いますよ。あのピエロは怖いですけど──」
 思い浮かんだのは、盗作疑惑で自らを追い詰めていく作家の話だ。自らが作り出した妄想に狂った作家が破滅していく──次々に振りかかる災難は自らの自作自演で、だが作家はそれに気付くことができず、最後には悲惨な死を遂げるという物語。
 ただ、結末はまったく違う。キングの小説はサスペンスだったが、自分たちの場合は──。
『……私たちの場合はタイミングがよすぎましたね。これって偶然でしょうか』
「さあ……どうかな」
 もはや周一の表情に鬼気迫るものはなかった。
 判るのだ、今は。思い出すことができるのだ。一心不乱に手紙をしたためる自分の姿も。言葉を選び、圧し殺した表現の中に、どんな想いが詰まっていたのかも。そして、明日のために、自分のために、それを忘れてしまうまでの過程も。
「同じ蜃気楼を見たのかもしれません」
『……そして幸運にも蜃気楼だと気付いた?』
 二人は同時に笑った。自分たちも気づかぬうちに互いが原因となり、滅多と起こらぬ同じ状態に陥った、間抜けな二人。人生はアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見ると喜劇だ。チャップリンの格言の、自分たちは生きた見本なのかもしれない。
 適切な距離感を保たねばならないのは、支持者との間だけではない。時として、己自身がもっとも危険な観測者となる場合がある。そしてこの危険な観測者──己の影から逃れるすべはない。
 そして、今度こそ最後の通話終了ブザーが鳴った。周一は慌てたように呼び掛けた。
「静司」
『はい』
「……こんなふうに助けられるとは、思っていませんでした。その──真夜中に突然申し訳なかった。それから」
 それから──続けようとした大事な言葉は、伝わらなかった。無機質な機械音が容赦なく二人の間を遮断した。
「……」
 ツーツーという気の抜けるような機械音を発する受話器を少し耳から話して、周一はゆっくりと──本当にゆっくりと、電話ボックスの壁に寄りかかった。
 いつだって、本当に言うべき言葉は伝わらない。タイミングが悪いのか──要領が悪いのか。本当に、どうしようもない男だな、お前は。名取周一。
(──それから、ありがとう。静司)
 言わなくとも、伝わる気はした。でも、言わずには済まない。言わなくとも伝わるなどと言うのは単なる傲慢で、幼稚な妄想だ。

 次は菓子でも持って、邸を訪ねてみようかと周一はふと考えた。これまではそんな軽い気持ちであの家に近付くことなど考えもしなかったが──。
 そうしたら、また色んなことを話せるかもしれない。あんなちんけな便箋に鬱々と彼への思慕を小出しにするのではなく。いつかは本当に、言葉で、言える日が来るかもしれない。
 ──私は、君が好きなんだ。
 台本に書かれていれば容易く口にできる言葉。なのに俳優という立場を奪ってしまえば、途端に姿を隠してしまう言葉を。
 虚構の世界を構築することで成り立つ芸能の世界は、自分に相応しい舞台だ。過酷で、汚く、嘘にまみれて、理不尽で。時には現実と虚構の境界さえもあやふやになるほど危険な世界。

 確かに過酷だよな、トム・クルーズ。
 でも、それなりの収穫もあるものだろう?

 疲れきった体は、ボックスのドアを押すにも一苦労だ。周一はその時ようやく夕食を摂っていないことに気付いて、先ずはさっきのファミレスに引き返そうと思案した。


【了】


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