ファタ・モルガナ【前編】


 米俳優のトム・クルーズ氏は以前、撮影は兵役並みに苛酷だと発言してバッシングを罵びたことがある。問題は何かというと、国防意識やその従事者とは崇高なもので、俳優風情は所詮エンターテイメント市場における消耗品だという大衆の認識が反射的に敵愾心を煽ったゆえの結果であって、数値化された両者のスペックを本気で比較した愚か者はきわめて少数だ。
 しかし、それが適切ではない喩えにせよ、完全な競争社会であるショウビズの世界における理不尽なまでの肉体的、精神的に苛酷な環境は、ある意味では非人道的とさえ言える場合がある。たとえば十代の少女たちが何人も疲労骨折を起こすほどに無茶な興業を強いられたり、飼い殺しで食うや食わずの生活を強いられる者もあれば、彼の言うように、映画一本を撮るのに筆舌に尽くしがたい苛酷な環境に身を置かざるをえなくなる場合なども──確かに極端であるにせよ存在する。華やかなショービジネスのうわべを一皮剥けば、正視に堪えない混沌が広がっているのは間違いない。
 そうした欲と怨嗟、名声や金銭をめぐる業界の中にあって、最も他と一線を画すのは、人間関係だ。
 俳優──芸能人というのは、観測者にとってのイメージそれ自体であることを求められる存在だ。つまり偶像──本来の意味における「アイドル」であることを観測者によって求められるのだが、ここには歪な問題が隠されている。崇拝者あっての偶像であるがゆえに、偶像は崇拝者──支持者たちとの間に何らかの繋がりを持つことが求められる。その「繋がり」の方法こそが「芸」なのだ。
 この関係は一見すると、信仰によく似ている。しかし、ほとんどすべての宗教が不安の対価としての精神面における救済を供給するのに対して、芸能は支持者に対して原則的に何かを支払う必要はない。いかなる形であっても、相関関係は受け手の感受性にのみその選定が一任される。供給者がそれを是正することも──原則的にはゆるされていない。これが宗教とは異なる最大の特徴だ。
 この関係が、常に一定の距離感を保ったものならばよいのだが、時としてアンバランスで危険なものになる場合がある。
 ──名取周一は、今まさにこの著しい不均衡に悩まされていた。







(まただ)
 マンションの一階エントランスの郵便受けに入った見覚えのある封筒を見て、周一は反射的に身を硬くした。
 いくつかの郵便物の一番下に、厚手の黒い封筒が沈んでいる。サイズはマチの無い一般的な長4型封筒と同じものだ。しかしそれはぶ厚く膨れ上がり、ずっしりと重い。
 一ヶ月余り前から始まった奇妙な手紙の投函は、常にこの様子で周一の目に触れるように計算されている。
 手に取ると、見た目通りの──封書にしては異様な──重さを、不必要に重く感じる。これもまたいつものことだ。毎回、反射的に傍らのダストボックスに放り込みたい衝動に駆られ、それを思いとどまる。きちんと切手も貼られ、住所も書かれているのに、消印の無い封筒。それを自室に持って上がるのはとりわけ嫌悪感を伴う。招かれざる客のような異質な存在感を放つそれは、廃棄することも出来ずに既に十通余りが保管されている。
 きちんと住所が書かれているのは、お前の居場所を知っているぞ、という強い意思表示のように思われた。毎回毎回それを目にするたびに──鳩尾を殴られたような重みを感じる。
 芸能界に入った頃から、周一には熱狂的なファンがいる。それは主に若い女性たちで、周一の端整なルックスに惹かれてやまないというタイプの人々である。今では支持層も広がっているが、元々俳優名取周一は、こうしたファン層に支えられて台頭してきたタイプの役者である。いわゆる売れない不遇時代をまったく経験せずに済んだのは間違いなく彼女たちのお陰なのだが、その中では些か狂気じみた形で関わりを求められることもあり、つまるところ、周一はこの類いの事態に遭遇するのは初めてではない。──しかし。
 エレベーターで階層を移動する間も、周一は落ち着かなかった。恐怖ではなく、鉛を呑み込んだような重い不安だ。そして苛立ち。
 理由は例の手紙だ。
 手紙には毎回、周一の行動をつぶさに観察した詳細が延々と書かれる。しかもどこから見ているのか──いや、見えている筈がないのだが、周一が部屋でいつ何をしていたかということを、正確な日付や時間と共に明記してあることさえある。偏執狂かと思うほど緻密に、そして執拗に。だが、不思議とそこに感情的な記述はまったく見られない。まるで観察帳でも書くかのように、何枚もの──最近のものは十数枚もの便箋にぎっしりと、狂ったように文字が連ねられている。
 かれこれ一ヶ月以上、週に二、三のペースで投函されるその手紙の記述の中に、ある時から思いもよらぬ人物の名前が現れはじめた。
 ──的場静司である。
 それはたとえば、「そういえば、的場の頭主はお元気でしょうか」などというように話題を振ってくるのだが、手紙の中では「静司」と呼び、二人の間でしか共有していないはずのきわめてプライベートな話題にまで話は及ぶ。「綺麗な人ですね」などと静司を誉めるような言葉が出てくるとギクリとする。この程度の言葉を感情的というには些か過敏なのかもしれないが、これまでの記述からすると少し毛色が異なるのは確かだ。そんなことに考え至ると、手紙の主が何かよからぬ真似をしようと企んでいるのではないか、静司の身に異変は無いだろうかと、気が気でなくなるのだ。
 何にせよ、的場家の名前が出てきた時点で、事務所や警察に相談するという選択肢は消え失せた。祓い屋とは闇稼業であり、公的書類の職業欄に記入できるものではない。にも関わらず常に地下では大金が動く業界でもあるので、下手をすれば公権力の要らぬ詮索の的になりかねないからだ。政商のような真似事をやっている門派もあるが、官権との距離をとるのは、同業者の間では暗黙の了解である。
 問題はそれ以前にもあって、そもそも一般人が的場一門に関する情報を持っていること自体が不可解なのだ。基本的に祓い屋は別に隠れもしないが、宣伝もしない。関わる必要がなければ一生知ることはない存在と言える。個人的な付き合いがあるなら話は別だが、用心深い静司に限って己の身元や動向をつまびらかにするとは思えない。しかし的場が何者かを知るからには、周一と静司の因縁についても知っていると考えるべきなのだろう──わざわざ「名取」に「的場」の名をけしかけてくるほどなのだから。
 自室のある階層に着いた時、周一はギクリとした。エレベーター前面のガラス張りの部分に、人影が映っていたからだ。
 ──だがすぐにそれが、反射した自分の姿だとわかった。自分だとわかったのに、焦躁は増すばかりだった。握りしめた封筒は、ぐしゃぐしゃに潰れていた。









 妖祓いを生業としてきた自分だ。妖が相手なら、対処法はいくらでもある。たとえ力が及ばなくても、知恵を絞って必勝のすべに取り組むこともできる。だが、姿の見えない人間が相手なら──。
 現在の時点で、具体的な実害は生じていない。手紙とて実害と言えば実害だが、たとえばストーカー被害事例では顕著な尾行行為、家宅侵入、脅迫、盗撮など、深刻な事柄に関しては今のところはゼロだ。部屋に侵入があった形跡はない。都合の良いことに「笹後」の名を冠する周一の式は、異物や失せ物を索的することに長けている。しかし、使役するいずれの式からも異常の報告は一切ない。
 ──奇妙なのは、手紙を投函しているはずの人間の姿さえ確認できないということだ。エントランスホールに接した集合ポストの近辺には、確かに人が入れ替わり立ち替わり出入りする。大きくはないが、決して小さなマンションではないだけに、一日ともなるとその数は相当だ。マンション自体にセキュリティロックが施されているために、外部の人間はエントランスに面した外壁の集合ポストの手前までしか入ることはできないが、住人はもちろん、郵便局員、各配送業者、民間のポスティングスタッフなど、立ち寄った人間の総数など到底把握できない。その中に周一の部屋の郵便受けに例の封筒を放り込む者が一人混じっていたとしてもおかしくはないが、実際に確認できたことは一度もない。にもかかわらず──厳然とその結果は目の前に存在する。結果だけがあり、過程が抜け落ちているのだ。
 この不可解な事件からは、妖の匂いは一切しない。手紙は間違いなく人が書いたものであるし、郵便受けの近くに自身の式を除いた人外の気配が残っていることはまずない。わかっていることがあるとすれば、犯人が人間であるということだ。
(──静司には相談しておくべきなのか?)
 実害が無い限りは静司には他人事だろう。しかし何せ、犯人はどんな形でかは知らないが、静司の氏名や容姿、ある程度の周辺環境知っているのだ。今後どんな形でかかわってくるとも知れない。せめて身辺に気を配るようにだけでも促しておかねばならないだろう。
 周一は荷物を置き、早速電話に手を延ばして──止めた。
(公衆電話を探そう)
 何度か専門業者のチェックも入れている以上、盗聴、盗撮の可能性は少ないが、そうとしか考えられないほど相手は周一の私生活を把握している。神経質過ぎるか──いや、神経質になるべきなのだ。周一は思い直した。何かが起こってからでは遅い。
 デジタル時計が午前零時を表示して、音も無くひそかに点滅した。









 二十四時間営業のファミリーレストランで、周一はしばし自己嫌悪に陥っていた。
 昨今では少なくなった公衆電話だが、マンションの最寄り駅にはボックス型の電話が二台が設置されている。それを目当てに取るものもとりあえず部屋を出たのはいいが、時代錯誤な重たい受話器を手に取った瞬間、周一は正気に還った。
「………」
 ──何時だと思ってるんだ、馬鹿野郎。
 友人でもなく、特別な事情が無い限り、普段は連絡することもない間柄である静司に対して、唐突に「ストーカーが君の名前を知っているから気を付けろ」などと微妙な忠告をする時間帯ではない。きわめて常識的な感覚が見事に欠落していることに、周一は愕然とした。
 連絡するなら電話にこだわらずとも式を飛ばしてもいいのだが──いずれにせよ、今この時間にやるべきことではないことは確かだ。そう思い直した時、強烈な脱力感が彼を襲った。
 ほとんど客のいないレストランの席に腰を下ろして、二杯目のコーヒーを片手に、周一は意図せず携えてきた例の手紙を開く。
 黒い封筒に、白いインクの毛筆の宛名。これだけでも十分異様だが、中身はもっと異様かつ偏執的だ。無地の薄い便箋に毛筆という体裁で、延々と綴られる周一の暮らしぶり。いつ何を食べたか、どんな発言をしたか、仕事中に起こったなにがしかの些細な出来事、自宅での行動、周一本人でさえはっきり記憶していない事柄を、落ち着き払った毛筆が筆記する。
 とりわけ違和感を覚えるのは、その筆致からは何も感じることができないことだ。執拗であると感じるのはあくまでもその頻度や緻密さ、綿密さ、或いは端的な質量からであって、羅列される文章の行間からは、周一への親愛も憎悪も、わずかな執着さえも感じられない。ただその目で見たものをつらつらと述べているだけ──のように感じられるのだ。
 正直、その筆致に関して言うならば、ストーカーと言うと思い浮かぶ類の典型的な印象はない。そこが不気味なのだが、やはり静司の件に言及するくだりになると、感情的な語彙が頻発することに気付く。なかなか連絡がとれないのは寂しいのではないか、とか、静司のほうも実は待っているのではないか、とか。或いはこれこそが周一に対する関与の目的なのかと考えると、何故静司の名前だけが文面に現れるのかが謎だ。確かに周一は、静司と関係を結んだことがある。だが、それならばしょっちゅう週刊誌に取り上げられる「噂の女優」や時折突発的にスクープされる「新恋人」のニュースはどうなる?先週はよく話したことも無いアイドルの女の子と、所属事務所が一緒だというだけで「熱愛発覚」したばかりだというのに。
 ことに見過ごせないのは、薄気味悪いほどの情報精度だ。ことに込み入った事情まで──たとえば〈いずれ眼を失うというのは、一体どれほどの恐怖でしょうか〉などというごまかしのきかないほど具体的な表現は、危機感を喚起するには十分なものだろう。「いずれ」と言うからには、現時点では静司の右眼が見えているということを知っているのだ。
 読み進めるうち、不快な緊張が頭蓋の内側から膨脹する。手紙は毎回同じような内容だが、回を重ねるたびに、一歩一歩チェス盤の駒を進められるような圧迫感が徐々に増していく。一歩ずつ──ポーンのプロモーションを狙って盤を進む不気味な駒。
 ──この人物の目的は?
「ひそかに追跡する」という意味の「stalk」に、行為者を示す接尾辞「-er」を付けると、「stalker(ストーカー)」という言葉になる。この人物はの行動は確かにストーキングの定義に当てはまるものだが、もしその目的が自分ではなく──
(……もしも、目的が私ではなく静司だったら?)
 その可能性は高い。
 思い返せば、最初の手紙はこれほど長くはなかった。周一の役者としての淡々とした評価からはじまり、行動の記述、それに伴う周一の情動に関する憶測(これも不気味なほどに正確だ)と続いた。こうした手紙が二度ばかり届き──静司に関する事柄は三度目にして唐突に現れた。どう表現するのが適切なのかは判らないが、まるで、それまでの二通の手紙は前哨戦であったとでも言うように。
 今日にいたるまで、手紙には必ず静司の名前が登場する。目的が自分ではなく静司であるという仮説は考慮に入れておくべきだというのは間違いない。しかし、だからと言ってほかの記述──つまり周一に関する機械的な描写が、おざなりになったというわけではない。
 酒は一滴も入っていないが、酔ったように頭の芯がしびれて、思考がひどくもつれている。パズルのピースは嵌まりきらないが、とにかくこの件で静司を危険な目に遭わせてはならないと気があせる。逆境に潰される自分の脆弱性は嫌というほど知っているけれど、いざその事実に対峙すると殊更及び腰になる──その弱さにも嫌気が差す。
 くそくらえだ。
 時間を気にしている場合ではない──席を立ち、おぼつかない手先で便箋を整理しているうちに、ふいに手紙の一行が周一の目に飛び込んできた。

〈静司の声が聞きたい。彼をとても心配に思います〉

 ──ぞっとした。
 それは嫌悪や敵愾心ではなく、多分、この事件に相対して初めて感じる恐怖感だった。


【続】


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