Fragments of Dreams


 その森の中の忘れられた社は、静司の密かな安息の場所だった。
 木々に覆われ、人目を避けるようにある境内はとうに苔むして、中にあるはずの御神体も誰かが悪戯で持っていってしまったのか、何も置かれていない。
 昔からこの場所のことは知っているが、不思議とこの社の中にいると、何の気配も感じない。妖に襲われることもなければその気配さえなく、危険な生き物──野犬や虫や蛇さえもここには近付かない。人を見るように妖を視て、その禍に苛まれてきた異端者の一人である静司には不思議なことだった。
(例外はいたけど)
 つい先日、ここで遭遇した男のことを思い出して、静司はため息をついた。別に記憶が憂いを想起させたわけではない。ただ何となく、疲れの余韻が漏れ出ただけだ。
 ぼんやりと、静司は右の頬に手を遣る。去来するのは、思いもよらぬ相手から受けた口づけ。不幸なことに、相手は男だ。でも嫌じゃない。むしろ──。
 またしても、ため息が漏れる。
(……帰るの嫌だな)
 陽が傾きはじめても、静司は腰を上げなかった。邸に戻るという唯一自分に許された選択肢は、面倒で、億劫で、ひどく静司を苛立たせた。元来気分屋である彼は、訳もなく唐突に何かを忌避したり、嫌悪したりするきらいがある。今回もそれに近い、理不尽な苛立ちが気分を波立たせるのだろう。自分でも判っているのに制御できない──それが静司の気性だった。

 何をするでもなく、時間が流れた。没していく弱々しい太陽の光が木々に遮られる黄昏時が森を覆う──ある一瞬。
 静司の目の端に、何かが映った。それはまさに意図せずレンズに映り込んだ異物だった。それは、走っているように見えた。
 くるりと振り返るが、そこには何もない。だが静司の認知器官は、幻ではないと訴える。何だ?猫?それとも鼬か?
 見えたはずの「何か」が走っていた場所を凝視していると、またもや網膜の隅に何かが映り込む。白い、と思った。白い何か。静司は再びその場所に目を遣るが、いかんせんそのはしっこい何かを視界のど真ん中に捉えるには、視認から実際に視線を移すまでのインターバルが長すぎる。
 妖の気配はしない。だが──。
(何かがいる……)
 薄い胸が、ドクンと鳴った。
 陽は間も無く落ちる。ここは完全な闇の帳に覆われる。誰も来ず、何もいない。そのいないはずの場所に、何かがいる。
 ふと、自分が丸腰であることに気付く。符の持ち合わせもなく、弓もない。あるのは通学鞄だけだ。中には教科書、食べかけのお菓子、パンくず。あとは袋に入ったパウチタイプの猫のエサくらいだ。

 しかし、こんな時に怖じ気づかないのが的場静司という少年の特異性である。常に危機感よりも、興味がまさる。静司はすっくと腰を上げた。帰宅するとなると、両手両足思考のすべての動きが停滞したというのに。
 静司は「白いもの」が見えた木々の間をつぶさに調べて歩いた。猫かな、と思うとちょっと胸がドキドキした。小さかったから、もしかしたら子猫かな。
 符や弓が無いことなどもはや静司の念頭には無かった。むしろ鞄の中のキャットフードがこれ以上もなく心強いものに思えた。静司はちょっと笑っていた。端から見たら、ちょっとヤバイ奴だったに違いない。
 だが「白いもの」は見つからなかった。動きを止めて神経を研ぎ澄ましてみても、何の気配も感じられない。そしらぬふりをして木の根もとにしゃがんでみても、可視範囲にはもう何も映り込んでこない。
「……逃がしたか」
 思わず本気で舌打ちし、しかしまだ諦めきれない静司は、古木の狭間をうろうろと往き来する。脳裏で白い子猫がミーミー鳴いている声が勝手に合成される。とはいえ大体、あれが子猫なら親猫や兄弟姉妹が近くにいるに違いない。
 ……しかし、もし仲間がいない捨て猫だったりしたら。
 急に新たな危機感が静司の中を支配する。ここは仮にも静司にとっての安息の地なのだ。もしこのまま子猫を放っておいて、後日腐臭でも漂ってきでもしたら、しばらくはもう立ち直れないだろう。
 ──人間ならばともかく。
 情け深いのか残忍なのか、何とも言えないその裁決によって、静司はさらに木々の間を猿のように飛び回る羽目に陥った。的場静司はどこをどう取っても子どもらしいところなど無い少年だったが、今この時ばかりは小動物の捜索に熱中する子どもだった。

 しかし静司の散漫な意識は、ある瞬間、次なる獲物を捕獲した。
 ──ドングリである。
 小動物が身を潜めていそうな場所を往き来していると、そこには必ずドングリが落ちているのだ。
(ということは……猫じゃない?ドングリを食べる動物?)
 食性を鑑みると、咄嗟に思い浮かぶのは、リスやネズミ、または鳥。あるいは虫か。しかし、あんな白くてデカい虫が居たら、幾らなんでも卒倒しそうだ。
 見上げれば、杉、桧──中には椚や樫などもあるが、必ずしもドングリの成る木ばかりではない。しかも、この辺りには生えていないはずのシイなどもあり、静司は首を捻った。
 樫の古木──樹齢がどのくらいなのか想像もつかない巨木に背をもたせかけ、静司は一時思案した──その時だ。
「……え?」
 身体が、ぐらりと傾いた。
 しまった、と思ったが体勢を立て直すことはできなかった。何が起こったのかすぐには分からなかった。もたれかかった木の表面がグニャリとたわんで、木の中に取り込まれる──そんな錯覚が混乱と共に頭の中に錯綜した。
 だが実際は違った。静司がもたれかかったと思った場所は、巨大な「うろ」だったのだ。ぽっかりと開いた樫の古木のうろの中に、静司は見事に落ち込んだのだった。








 ──ぼよん。

 落下した反動で、身体が宙に浮く。災害現場で使われるトランポリンの上に落ちたような──いや、もっと柔らかい反動。
 かなりの高度から無防備に落下したはずが、衝撃はゼロだった。
 さすがに危機感と恐怖を感じて固く閉じた瞳を、うっすらと開く。そして、静司は即座に理解した。
(……あ、おれ、死んだんだ)
 何故そう短絡的な結論をポンと導きだしたかと言えば、理由は簡単だ。

 ──自分の下に、超巨大なトトロが眠っていたからである。

 猫のような、ウサギのような、尖った耳。ずん胴に、出っ張ったお腹。短い手足、ふさふさの毛皮。
 あり得ない状況イコール自分は死んだと考える思考プロセスは、静司をはじめとする「見える者」には馴染みの無い考え方だ。あり得ない状況などというものはむしろあり得ない。逆に世界の認知にハッキリとした輪郭を持たせることのほうが困難であり、またそのことが常人との間に壁を造る最大の原因と言えるのだ。
 ──だが、今回は、ちょっとあり得ない。
 死を前にした人間の目には、冥界からの御使いが見えることがある、という言い伝えは世界各地に残っている。それは先に逝った縁者であったり、親しい者であったり、或いは、いわゆる死神と呼ばれる類のものだったり、その土地の言い伝えに準拠していたりと、そのバリエーションは様々で、あまり統一性は無い。すると、あの白いものは──。
(あれが、冥界の使者……?)
 考えてみても、何となく腑に落ちない。こじつけもいいところだ。静司は鼻で笑った。大体ここに大きなトトロが居る以上、あの白いのは小トトロであった可能性が高い。──などと、一方の非現実性にを鼻で笑って却下するくせに、そんなことを大真面目に考えている自分に対する疑問はわいてこないという間抜けの極み。
 しかし、そうなるとドングリの件も納得がいくと静司は思った。トトロには小さいサイズ、中ぐらいのサイズ、大きいサイズの三種類がいて、トトロはドングリを集めて食すという話だったはずだ。では中トトロはどうしたのだろう。まだどこかでドングリを探しているのだろうか。
 静司はフカフカの毛並みのお腹の上にうつ伏せになったまま、つらつらとそんなことを考えた。そう言えば、あの森の社で静司の頬にキスをした男──彼が最初にあの場所に現れた時、うろ覚えだが、何かトトロがどうしたと口走ってはいなかったか。
 ──では、実は自分は死んだのではなく、実際にこの一帯はトトロの生息地として有名なのか。そんな話、自分は一度も聞いたことが無いが。

 巨大なトトロは静司がぽんぽんと手のひらでお腹を叩いても、気にすることもなく眠っている。鼻息で髪がなびくくらいの風量。フワフワの触感。何だか香しい──クルミを炒ったような香り。
 こんなに大きいのに、妖力は少しも感じない。どういうわけか、少しの威圧感もない。恐怖も感じない。例え寝ていたって、ウシだのウマだのといった大きな生き物が側に居たら、多少なりとも危機感を感じるだろうに。じゃあトトロって何なんだろう、ちょっと猫みたいだな──そんな疑問も、柔らかい時間に優しく溶けていく。
(気持ちいいなぁ)
 木のうろの中なのに花が咲いていて、蝶がひらひら飛んでいて。そういえばもう夕暮れだったのに、なんだかとても明るいのはどうしてだろう。眠る巨大トトロの傍らには、よく見ると青っぽい中トトロや白い小トトロもいるではないか。柔らかい苔のベッドで二匹寄り添って眠っているみたいだ。可愛いな。どうしよう。そういえば、トトロには小さい子どもしか逢えないのではなかったか。自分はもう、子どもではないのに。
 ぼんやりとトトロの胸の上に覆いかぶさったまま、静司は微笑みながらゆっくりと目を閉じる。鞄にお菓子が入ってたから、みんな目覚めたら一緒に食べてくれるかな。

 温かい。気持ちいい。
 ──こんなに幸せな気持ちになったのは、生まれて初めてかもしれない。









「………静司!?」
 ゆさゆさと身体を揺すぶられて目を醒ましたら、一番最初に月が見えた。
 緩慢な目覚めだった。まだ指先に柔らかく温かい感触が残っている。でも、今自分の身体を抱いているのは──。
「……」
「静司。おれのこと、わかるよな」
「……トトロ」
 呟くと、相手は真っ青になった。
「な、名取だ。わからないか?名取周一だ。トトロじゃない」
「……周一、さん?」
 おうむ返しに名を呼んで、まだフサフサの毛皮の名残が残る手で、ほとんど蒼白な周一の顔にそっと触れる。その行動はほとんど無心だ。
 端整な顔に動揺が差して、どこか艶めかしい。くどい顔ではないけれど、十二分に男前。名取周一──祓い屋の卵。
 そうだ、彼は周一だ。何故──この人がここに。
「おれ、どうして……」
「的場の連中が、お前が行方不明だって大騒ぎしてるって聞いて。それで、もしかしたらと思って」
「……わざわざ来てくれたんですか」
「ここかもしれないと思ったんだ。そしたらお前、その樫の木の根っこの所で寝てて──」
「寝てた?」
 静司はきょとんとした。
 寝ていた?うろに落ち込んだのではなくて?
「おれ、寝てたんですか?」
「だから寝てたんだって」
「どんなふうに?」
「どうって、普通に」
「……」
 大の字になって、しかもイビキをかいていたという証言に、静司は絶句した。
 ──そんな馬鹿な。
 目をこすり、辺りを見回す。見慣れた森の社。勿論何も居ない──何の気配も無い。勿論「白いもの」も走っていない。
 樫の古木には、たしかにうろが認められた。ただし、もし入ったとしても、小さな子ども一人の身体で精一杯という大きさだ。とても高校生の静司が入り込める大きさではない。それに、落下するような穴はそこにはない。それは一目瞭然で、わざわざ検証するまでもない。
「……そうか」
 ──ということは、夢か。
 即座に最も現実的な選択肢を選ぶ。急速に何かが醒めていく。夢──つまるところは単なる自家中毒だ。
 怪訝そうな周一をよそに、乾いた声で、くく、と喉を鳴らす。
「静司、大丈夫か?」
「ええ──」
 夢と現実の境界線が、あっけなく明らかになる。夢の全貌が俯瞰になり、そして遠くなる。不思議な感覚。少し寂しくて、胸がチクリと痛む。

 ──あの時。
 夢の中でうとうとせずに、みんなが目覚めるのを待ってたら、鞄に入ってたお菓子を一緒に食べられたかもしれないのに。
 静司は心底落胆した。あれ、美味しいんだぞ、ポッキーがリッチになったみたいなやつ。

「……」
 でも、本当に、全部夢だったのかな。
 静司はキョロキョロと辺りを見回してふと思う。散乱する、たくさんのドングリが、再び認識を曖昧にする。その中には、この森では採れないはずのシイのドングリも、たくさん混じっている。
 そして──それよりも。
「周一さん。……おれの鞄に入ってたお菓子、食べた?」
「え?食べてないよ」
 怪訝そうに答える周一に虚偽の色が無いことを感じ取り、静司はしばし思考し──樫の古木と鞄の中身を見比べて、思わずニンマリと笑った。幾つも入っていたお菓子のパッケージが、何故か全部消えているのだ。あの、ポッキーのゴージャス版も。

 そして静司は、おもむろに散乱するドングリをかき集めて、ポケットに詰め込みはじめた。
「おい、そんなのどうするんだ」
「内緒です」
 静司はにっこりと笑って、唇の前に指をたててみせた。そして再び作業続行。虫わくぞ、という周一の有り難い忠告は無視した。
 もしこれを庭に埋めて、それが芽吹くことがあったら──また夢の中で面白いことが起きるかもしれない。そんなことを考えたからだ。そうだ、夢で何が悪いことがある。どうせ人生の三割は夢の中だ。詐欺みたいにバカ高い寝具がバカみたいに売れるのだって、そういう理屈じゃないか。

 そして、もしその時が来たら、あの時のお菓子は美味しかったかって訊いてみよう。
 それから、最大の疑問──パウチの猫用フードには一切手を着けなかった理由も。

 トトロって、猫じゃないの?



Fragments of Dreams



【了】


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