十三夜【後編】


 既に僵尸化していたのは──老婦人のほうだ。

 事件の舞台裏を知るということは、事件にまつわる以後の事柄が、ことごとくうまくいくということではない。
 寧ろ話は逆だ。予断が生じて失敗を招く主な原因が、既知であるとも言える。人間はさほどに賢くはない。予断は慢心に、慢心は過ちへと容易く繋がるものだ。
 ゆえに、事のあらましが明らかになりつつあるからこそ、慎重にならざるを得ない。結局はそう習慣づけるのが一番無難だということであり、正攻法として静司が識っているのは、単純にこのことだけだといってよい。

 老婦人は、暫く腹を抱えるほどに笑っていたが、急にピタリと笑うのを止め、静司に向き直った。
「……僵尸は魄だけが肉体に遺されたがらくた。魂の無い幽鬼」
 ゆらゆらと振り子時計のように頭を揺らしながら、老婦人は言った。目まぐるしく印象の変わるその声はまた、蝉の鳴き声のようにざらざらとしていた。
 ざらざらとした、機械のようであった。
「わたしはね、的場さん。1556年に死んだの」
「1556年……」
 1556年とは、明朝における有史以来最悪の天災として知られる華県地震が起こった年である。陝西省を震源とし、報告されているだけでも83万人というおびただしい死者を出したという記録が残されているにも関わらず、現在ではあまり知られていない。
「孫娘がいたのよ。可愛い孫娘。でもわたしの前に飛んできた、綺麗な婚礼衣装を着た花嫁さんが乗った駕籠に小さな頭を押し潰されて、ぺしゃんこになって死んだ」
 花嫁の唇と同じ婚礼衣装の鮮紅と、飛散した孫娘の血肉の色が混ざって、紅い色ばかりが屍の印象として残っているのだ、と──そしてそれが、生きて見た最後の光景だったという。
「……でもねえ、わたしはすぐに『起き上がって』しまった。だけど、あの時は何処へ行っても、どこまで行っても屍体がつらなっていたから、屍のような人間に溢れていたから、わたしは屍に守られて逃げ延びたのよ。何年もそうした。何年も……」
「……」
 死者の吹き溜まり。
 それは、陰陽五行の理に照らせば、陰の気が吹き溜まった状態にほかならない。
 屍が起き上がって動き回り、生者に害をなすという俗信は洋の東西を問わず存在するが、そのほとんどが人々の無知が産み出した連想に過ぎない。にもかかわらず彼女は蘇った。そしてそれは、決して可逆性によって生前に戻ったという意味ではない。死したまま、その屍だけが変容した──尸変なのだ。
 僵尸とは、本来妖怪の名前ではなく、硬まった死体という意味である。だが眼前の老婦人には、死後硬直独特の四肢の不自由さはどこにもない。
 僵尸となり時を経た彼女が過去を語る意味を、静司は察した。狂気と共に小さな少女に執着する意味もまた。そして、彼女が確かに1556年の山東省に生きていたとするならば、僵尸伝説は間違いなく身近な伝承であり、実在を思わせるに十分な怪異であったろう。
「……千年を経た僵尸は、強い呪力をもち、己の眷族さえ自在に操る──道教圏では、これを伏尸と呼ぶのだそうですね。もっとも、千年というのは長い年月の比喩と考えられますが」
 老婦人の口元が歪んだ。
「あなたは物知りね。それに……とても賢いわ」
「わたしが興味深いのは──何故あなたが、損壊したはずの記憶を保っているのか、ということです。死後、酸素供給が絶たれた脳は、どの臓器より早く細胞の破壊が始まるはずだ」
 すなわち、伏尸は俗に言う思念のようなものを、記憶として解凍するようなすべをもつのか、或いは、死後僵尸となる素養は生前から決していて、その屍そのものが、素養を持たない屍とは根本的に異なるのか。
「ともあれ──あなたはその記憶と執着を頼りに、この五百年の間、幾度となく小さな女の子を自分の眷族として、ご自身の呪力で怪物に仕立てあげた」
「怪物じゃない」
 間髪を入れず、老婦人は憎悪さえ感じ取れる厳しさで諫言した。
「この子は違う。今回はやっと、やっと言葉を話すようになったのよ。怪物なんかじゃない。おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん……何度も喋ったのよ。ああ、だけど」
 ああああああ、と屍の聲さながらに、まるで空気を抜かれた風船のような声をあげ、老婦人は死体のように項垂れた。
「駄目なの。見て、的場さん。この子、腐っているでしょ。話してくれるのに、呼び掛けてくれるのに、動かしたら、腐ってしまうのよ」
 泣き出したと思った老婦人は、唐突ににっこりと笑った。次々と面のように変わる表情のぎこちなさに、静司はひどく禍々しいものを感じた。
「お風呂があるでしょ。窓の光は絶対に入らないようにしておくの。いつもそこにあの子を寝かせて、死体を焼いた灰と、人の骨を砕いたものをたくさん混ぜた土をかぶせるのよ。顔だけは空気に晒して」
「──すると、屍体が起き上がるのですか?」
「随分昔に、そう教わったわ。何かが欲しくて、飢えて起き上がる。陰の気がこごって起き上がるのよ。いつも魂が宿る前に朽ちてしまうけれど、今回はきっと上手くいく」
 ──その『魂』というものが何であるのかが、静司には判らなかったが、たとえ訊いたところで埒があかないことも明らかだ。それが、屍として起き上がった人物の生前の記憶であるのか、まったく異なる人間の記憶が肉体に上書きされてしまうのか。果たしてこの老婦人の躯さえ、本当に1556年の華県地震で死んだ人間のものなのか──それを確かめるすべもない。或いは『魂』なるものがそれを記憶しているだけの、まったく別人の屍なのか。
 系統立てることでフィクション化した伝承の世界では、力をつけた僵尸が生前の記憶を取り戻すということがあるとされるが、その記憶というものが何処に保存されているのかと考えると、この説に説得力がないのは明らかだ。
「あの子は親御さんの血で随分保ったのよ。なのに、時間が経つにつれて、段々体に血が溜まるようになってしまったの」

 全体的に肥大した躯。
 傍目にもすぐに判る重量感。
 時間が経過した腐肉。

 少女から受ける印象は、腐敗した血肉──実感としては妖のイメージにそぐわぬ『体重』だ。
 そもそも無理矢理に起き上がらせた屍体に、なにをもってその動力源とするかというボトムアップ的な必然性は無い。にも拘わらず、この老婦人は妄執にとりつかれ、学習することなく延々と同じことを繰り返してきたのではないか。
 老婦人の話が事実だとすれば、少女は僵尸でさえない。
 まして、妖に変じたのち、それを理由に慌てて担ぎ込まれたものでもない。だが、陰きわまるこの十三夜、同じことを繰り返してきた老婦人がやっと辿り着いた結論は、恐らくは何度も腐敗し、そのたびに蘇らせ続けた少女の屍に、新たな転機を与えることであったのではあるまいか。
 的場家は、大妖に憑かれた家でもある。その邸内には、生と死の境界を踏み越えた者たちが住まう。時として人が妖を造り、時として妖が人に人ならざる力を与える。禁術などとは体裁だけのこと、その陰気に引き寄せられる魔物は決して少なくはない。
 ──老婦人は、新たな躯を求めたのだ。
 静司なら──名高い的場一門の頭主なら、陰気に傾いたその躯を陰満つ十三夜の月に少女に与えたなら、それはきっと、死を越える新たな肉体に成るのだと信じて。

 屍に纏わる者には、死に親しい存在、具象を嗅ぎ取る力が備わっている、という──。

「もう、およしなさい」
 黙祷するように目を閉じて、静司はなだめすかすように言った。
「およしなさい、こんな無駄な真似は。わたしはあなたを、誰にも知られぬよう此処から逃がしてあげましょう。今、この娘の骸を置いて、あなたがここを去るというのなら」
「だめよ」
 老婦人の声が、不自然に響いた。
 違和感の正体を掴む暇もなく、老婦人は座する静司の眼前へと間を詰め、その面を覗き込むようにして見つめていた。少女と同じ、俊敏な爬虫類のような動き。
 此方が反応するより遥かに速く、老婦人は少女の額に貼られた符を握り潰し、静司はほとんど反射的に刮目した。
「だめよ、的場さん。この子の躯は、今までで一番保った。今までとはまるで違う。わたしに死者を蘇らせる方法を教えてくれたあの日本人の若くてきれいな乾道は、今度は必ずうまくいくと言ってくれたもの。本当よ」
「……え?」
 左右の腕から異様な力で静司の体を締め付ける老婦人の手を、静司は三枚目の呪符で振り払った。危うい一瞬に、胸が早鐘を打つ。
 静司が自身の血で作り上げた呪符を実戦に持ち込むことなど、それこそよほどのことが起こらねば手段として勘定に入れることさえない事態だ。だが、老婦人の口から軽く吐き出された呼気に触れるや、ボッと音を立てて激しく発火し、たちまち燃え尽きてしまった紙片を見詰めながら、静司はその脳裏で、うんざりするような顛末を思い描いていた。

 乾道とは道教の道士であるから、日本の乾道と言えば、静司からすると同業者の祓い屋及び呪術師たちを指すものと考えられる。
 禁術の類を専門にしている闇の呪術師たちは後を絶たないが、そのほとんどは、一攫千金をあてにした半端者ばかりというのが現実である。とはいえ、禁術の使い手としては、的場家は呪詛のいろはから音声巫術まで、古今東西の知識を蓄えている一門であり、実情としては、底辺か天辺か、という選択肢になるのであって、この事件が起きる直前に、事情の仔細は伏せて、それとなくリークしてきた人物というのがまさに──

 考え込んだ途端、意識が飛んだ。
 一瞬──あっという間に少女の鉤爪が静司の太股に突き刺さり、石榴のように割れた口蓋に釘のように生えた不揃いな歯が、着物ごと脚に噛みついたのだ。
「おっと!おやめなさい。わたしの血はいけない──」
 刹那、濁った屍液と共に、静司の足から肥大した二本の牙が勢いよく引き抜かれる。
 口蓋を割れるほどに開き、とうに神経は死んでいる筈が、声もなく苦しみひどく悶える姿を少女の見下ろすと、静司は真っ白な歯を見せて嗤った。
 牙に引き裂かれた着物から露になった静司の脚には、のみで掘ったような無惨な穴がポッカリと開いていた。
 だが、出血はなかった。代わりに、さまよう屍の割れた口蓋から、細い紅糸のような大量の煙がシュウシュウと音をたてて立ち上るのを見て、静司はまた満足げに微笑したのである。

「……一度は機会をさしあげたのに」

 そう言った静司は、誰よりも邪悪だった。
 噛まれた脚の傷からも、同様に邪気にも似た紅糸のような煙が大量に立ち上っていたが、静司はひらひらと手を振って、熱を冷ますような仕草をするだけである。対して、マリオネットのように下半身から崩れ落ちた少女からは、既に動く気配すら失われていた。
「……Cryonicsを御存じですか」
 誰に語るでもなく、静司は言った。まるで何かのライセンス規約でも読み上げているようだ。
「人体冷凍保存技術。現代の医術ではもはや恢復が見込めない体を、死後一時的に急冷凍するという技術のことです」
 静司は携えた桃の木剣の柄を両手で包むと、何の躊躇もなく、反ってぶら下がる腐った石榴のような少女の口の中に向かって、力強く刀身を振り落とした。
 その首は驚くほどに呆気なく落ち、同時に老婦人の怪鳥を思わせるけたたましい悲鳴が響き渡った。一連の出来事は、ひどく淡々としていた。

 静司は顔を上げなかった。
 騒ぎに駆けつけて来る者も、誰もない。

「──この手順において、ヘパリンだのグリセロールだの不凍液だのというものは、急冷凍の際に、血液や体液の代替物として血管や内臓に充填させるものなのです。血液ではいけない。液体は冷凍時に氷晶化してしまうので、膨張に伴って細胞膜を損壊してしまうからです。そうですね──製氷皿でもご覧いただければある程度意味は判るはずですが」
「あ、あなた……あなた、今、何をしたの。その身体は……あなたは……」
「落ち着いて」
「──あなたは、何者なの」
「界隈の末席ですよ」
 今は赤い血は流れておりませんが、とわざとらしく人懐っこい笑みを浮かべた静司は、ふと思いついたように言葉を接いだ。
「……実は、過去にはわたし、死んだこともあるんです。死後硬直を経て背中じゅうに赤紫の死斑がたくさん浮かびましてね──でもまあ、有難いことにそういう前例もありますので、今回はこの急拵えの躯であなた方をお迎えさせていただいた」
 静司は微笑んだ。
「あなた方と、対等に戦うために」

 ──そう。
 事態について最初に連絡を受けた時、瞬時に厄介を通り越して、警戒──いや、厳戒体制レベルに達したのには違いない。

「クライオニクス処置の場合、遺体の細胞の損壊を最小にとどめるため、体液の入れ替えと低温化を、兎に角迅速におこなわれねばならないのが基本です。ですがもし、生きた人間の血液や体液を、同じように不凍液と入れ替えるような真似をしたら、どうなるかは明白です。血管も臓器も損壊し、どう考えてもすぐに死んでしまいますよね」
 措置についての講釈など、何の意味もないことは判っていた。まして心の何処かでは、この哀れな不死者たちを、どうにかして長らえる方法さえ模索していたほどである。
 だが、その静司の胸を決めさせたのは、老婦人の一言だった。

『日本人の、若くてきれいな乾道』。

 普段は禁術を生業にするわけではないが、その道に長けた若い外法師を、静司はよく知っている。古い一族の末裔ではあるが、今では徒党を組まず、どの傘下にも入らず、誰を傘下にすることもない。
 そしてまさにその人物が老婦人の願いを叶えようと禁術を行使したというのなら、事実は完全に静司が考えていた通りに進んでいたということだ。
 無駄であることを知りながら、静司は続けた。それでも決着はつけねばならなかったからだ。
「けれどもわたしは、完全に死んではいない。今のわたしは、身体中の血液と引き換えに、命を失ったはずの肉体を、呪術で縛って生かしているという綱渡りの状態なんですよ」
 正確に言うならば、『今回は』だ。以前のように十穀を絶ち、時間をかけて潔斎をする時間はなかった。
 それでも、これほど大掛かりな仕掛けを、老婦人から連絡を受けた時点で決行させたのはほとんど静司の勘でしかなく、普段は従順な面々でさえ、この決断には当然激しく反対した。それらを押しきっての賭けに関しては、取り敢えずは静司が勝利したようである──少なくとも、家人の愚痴だけは短く済みそうだ。
「陰陽の理を外れたものは、陽にとっても陰にとっても、劇薬にしかならない」
 だが、逆に言えば、唯一の劇薬になりうる──ということだ。
「聞くところによると、ロシアで冷凍措置を受けた遺体のひとつが、低温状態で血液と不凍液を入れ替えた途端、急速に苦しみ出して枯死したかのような状態になってしまったという、都市伝説のような話があるんですよ」
 静司は水に浮かぶように思案する。
 幾ら舞台裏を晒したところで、所詮は一人芝居である。判っていても最後まで演じなければならないのは、内心で罪の意識を感じているからではないか。ぷかり、ぷかりと浮かんでいく断続的な思考が、時折砂嵐に流される。そんな奇妙な感覚に幾度となく苛まれながらも、静司はどうにか平常心を保っていた。
「急冷凍に失敗した遺体を調べてみたところ、特に虚血や酸化を起こした痕跡はない。施術は順調で、心停止後の措置は2分をきるほど迅速であったといいます。だが、わたしはこの遺体が、アンデッドの範疇にある存在だったのではないかと疑っているのです」
 つまり、何らかの理由でアンデッド化した屍体のクライオニクス処置は、皮肉なことに、彼らに真の死をもたらしたということになるのではないか──と。
 不凍液が毒になるのではない。
 存在の境界が、不凍液のような無意味なものをも、致死毒へと変えてしまうのだ。

 神とはひとのものであり、その逆ではない。にも拘わらず、ひとは自分たちの世界を、自らが造り上げた神と神の世界に帰属させようと願う。そして、信仰をもたないとされる人々も同様、誰もがその二重基準に気づくことはない。
 ひとと世界を同じくする妖の多くが呪術という規則に縛られるのは、帰属する世界の最小単位が同じであるからだ。ことばによる世界形成が、彼らを縛るからである。
 だが、ことばはそれを操るもののものであり、それが造り出した世界のものではない。
 世界は造り直すことができる。
 境界は引き直すことができる。
 だが、ことばを操るものたちは、そのことばに縛られ、あらゆるものの限界値を、自らが生み出した世界に求めて、自縄自縛のうえでもがいているのだ。これをして逆説の摂理を持ち出し、なおも神の領域、自然の摂理などというものを言い訳に使おうとするのだから、これこそまさに衆愚と静司は嘲笑する。

「──もしも容易く死ねるからだであったなら、あなたはとっくにそうしていた筈だ」
 もはやぐったりとした老婦人の骨ばった手を、静司の真っ白な手が拾い上げた。
 それは、明らかな憐憫であった。
 妖に対して常に容赦の無い態度を示してきた自分が、今さら何の気まぐれを起こしたというのか、静司自身にも判らない。ただ、生ける屍と死せる生者の間にある歪んだ溝が、決して越えられないものではないと判ずるには、もうこれで十分であるように思われた。
「この五百年近く、ただ亡くなった孫娘ひとりに執着し続けたのは、決してお孫さんのためなどではなく、ご自身の寂しさを埋めるためでしょうに」
「……」
 死の間際に。
 花嫁衣装を着た美しい新婦の駕籠が、突然孫娘の小さな頭をぺしゃんこに圧し潰した。
 その凄惨な有り様が網膜に焼きついたまま、己も未曾有の災害に捲き込まれて死んだ。

 ──死ねた、筈だったのだ。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ………」
 やり場の無い苦痛を吐き出すように顔を覆った老婦人の双眸から、涙はもう出ない。枯れ果てた涙が、世界を潤す日はもはや永遠に来ないのだ。
 断末魔にも似た嗚咽と共に。
 溺れる者が流木に掴まるように、肩口へ向かって突き立てられる牙の恐ろしいほどの勢いに、静司は黙して身を任せた。
 そして、バキバキと骨が砕かれる音に、生ける屍は過去を、死せる生者はひたすら今を聴いていた。




 ──魂の失われた躰。

 死して魄を抱いたまま、魂を失う。ならば、生きていても同じことではないか、と静司は思う。生きて魄を抱いたまま、魂を失うこともあるのではないか、と。




 目覚めたら、まずは小言だ。
 禁術について。
 スタンドプレーについて。
 経費について。
 情報の共有について。

 名取周一から、とある極秘のクライアントが失踪したと聞いたのが第一報。万一、的場に不審な依頼があった場合、依頼に取り掛かるより先に連絡するようにと頼まれたのだ。周一は、詳しい事情については何も話さなかった。
 ──また、厄介なことに手を出したんですね。
 のんびりとそう返したが、すぐに、事件は始まった。だが静司は、当然のごとく周一には連絡しなかった。
 詳細は不明なのだから、不審な依頼などと言われても適当に誤魔化せば済むだろう。抑、確定事項が無いので此方も判じかねるというのも事実、情報漏洩ともなれば間違いましたで済まされる話ではないのであって、周一は最初から話のつけ方を誤っている。
 斯くして『事態について』『最初に』老婦人から連絡を受けた時、静司がここまでの賭けに出なければならなかった本当の動機は。
 それは禁術が関わっているからではなく、事件に纏わる人々の業の深さゆえでもなく、またしても名取家からお株を奪って名前をあげる機会が舞い込んだことに舌舐めずりをしたわけでもない──。

 静司は思う。
 時系列の正確性はさておいて、実は老婦人の拠述には、一切の嘘が無かったのではないか。
 彼女の記憶がどのように維持され、どのように蓄積され、また認識されていたのかなど、静司には知るよしもない。だが、あの周一が禁術の行使に踏み切った理由とは、一体何であったのか。
 ──或いは、呪術師による禁術など、最初からどこにも無かったのかもしれない。
 あの少女は、喪った孫娘を延々と造り続けた老婦人が、最初で最後に出逢った本当の僵尸であったのではないか。それはいつかの十三夜に、確かに彼女を呼んだのではないか。
 周一は、いかにして彼女らを人の世から遠ざけて永らえさせるか、逡巡し続けたのではないか。彼が結論をどう結んだのかは判らないが、もしかすると、静司自身が選択した結論に、それはよく似ていたのではないだろうか。
 今となっては、何も判りはしないが。

 とうとう膝を折った静司に、蝉のようにはりついたまま硬化した老婦人を、駆けつけた家人が引き剥がそうとする。
 近すぎて静司からは見えないが、牙を立てたまま動かなくなった老婦人は恐らく、古木のように枯死していたのに違いない。1556年の彼女の身に起こるべきであった普遍の変異が、長い尸変を経てようやく辿り着いたかのようだった。

 大の男が三人がかりでもぴくりともしないそれを、結局どうしたのかは、静司の記憶にはない。
 ただ、のちに静司はこの事件については箝口令を敷き、間接的に事件を引き起こした可能性が示唆される名取はおろか、結局この件の真相について知っている人間は殆ど存在せず、的場家の記録にも残されることはなかったという。







 満ちて完璧な円を描きたいのに、満ちることなき人生。しかも満ちる手前が最も美しいなんて、ひどく残酷な「十三夜」──Cocco


【了】


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