十三夜【前編】


 事態について最初に連絡を受けた時、瞬時に厄介を通り越して、警戒──いや、厳戒体制レベルに達したのには違いない。

 硬い表情のまま、静司は依頼者である年老いた女のうなだれた様を見つめた。親子以上に年の離れた女に対し、依頼主による計画的な害意が明らかになった場合、契約の破棄もやむなしと講釈を垂れるも、静司は一刻も早く行動に移りたいと考えていた。
「事態の緊急性については、我々よりもそちら様がよくお分かりであったはず。何故──」
 静司はしばし天井の欄間を仰ぎ、軽く溜め息をついた。
「何故、お孫さんのご遺体から符を剥がしてしまわれた。先にあれほど厳重に注意しましたものを……」
「だって」
 老齢の婦人は無人の床の前に泣き崩れた。だが、相対する静司には、人心の織り成す茶番に付き合っていられる余裕など無い。
「言い分はおありでしょうが、できればまたの機会にお願い致したい。わたしはわたしの知らぬ間に何が起きたのか──ただそれを知りたいのです」
 的場の古い傍系とも聞く血筋に嫁いできたという老婦人からの依頼であった。とはいえ正直なところ、老齢というにはまだ些か、とも思われた小綺麗な面は、さらに一回りも老いて見える。
「……はい、とうに余命幾ばくもないと宣告されたあの子がわたくしどもの邸で息を引き取って──でも、考えてください的場さん。すぐに届出をして、警察に踏み荒らされるなんてとてもじゃありませんが我慢ができなくて」
 遺体を預かった折に既に散々聞かされた話だ。だが、今の老婦人の目は血走り、突き抜けた狂気のようなものさえ宿っている。間の手を入れるのは些か気が引けるというものだ。
 静司の背後に控えていた七瀬が無言で立ち上がり、襖の向こうへ姿を消した。
「ですから、せめて一夜だけでもと、添い寝を致しましたの。けれども、そう……死後硬直がはじまると同時にあの子は目を醒まして。わたくしは嬉しくて……でも、まさか、まさかそんな」

 ──あんな、心の無い幽鬼に成り果てているなんて。

 老婦人の嗚咽を聞きながら、静司は大きなため息をついた。
 事のはじまりは三日前に遡る。







 中国の古い記録に、こんな話がある。

 陽信県は蔡店村という村に、宿場を営む老人とその息子があった。
 宿は行商や旅客で繁盛したが、ある時、息子の嫁が急な病を得て病死した。老人は宿の一室に嫁の死体を安置し、息子に隣村に棺を買いに行かせた。
 その日、折悪しく、疲れきった四人連れの旅客が宿を訪ねた。宿はすべての部屋が埋まっており、老人はこれを断った。
 しかし、くたびれ果てた四人の旅客は、納屋でも、どのような部屋でも、屋根があって寝ることができれば構わない、と嘆願する。老人は仕方なく、嫁を霊台に安置してある部屋であることを承諾させ、四人を宿にあげることにした。
 当時、弔い事は珍しいものではなく、忌み事ではあっても、きわめて身近でありふれた出来事だったのである。
 その夜、四人のうちの一人が目を覚ました。
 すると、霊台に横たわっていたはずの女が、紙の死装束のまま、四人に向かって近づいてくる。そして、眠っているほかの三人に向かって、順番にふっ、と息を吹いて回るのである。唯一起きていた旅客は、ひどく怯え、布団の中で息を止めてじっと待っていたが、女はやがて霊台に戻り、彼の身には何も起こらなかった。
 あまりの出来事にただただ震えていると、一度霊台に戻った女が再び起き上がって、またしても同じことを何度も繰り返すではないか。
 旅客はもはや堪えられず、裸足のまま逃げ出した。すると女は旅客に気付き、髪を振り乱して追いかけてきた。
 旅客は一心不乱に街道を走り、大声で助けを求めたが、これに応じる者は無かった。
 するとある寺の前に、胴が四、五尺もある巨大な白楊の木があった。旅客はその影に逃げ込み、死んだ女もその回りを回って旅客を捕らえようとする。
 これが大層長く続いたので、旅客は疲れ果ててしまったが、女が急に立ち止まったので、旅客は息も切れ切れ、木の陰に身を隠した。すると、女は突如として木を挟み、さっと両手を伸ばして来たのだが、旅客はその前に倒れこんでしまったので、結局難を逃れることとなった。
 女は木を抱いたまま、ぴくりとも動かなくなった。
 やがて寺の者が姿を現し、息も絶え絶えの旅客を介抱すると、彼は今夜起こったことすべてを話した。
 また、そのときようやく夜明けの鐘が聞こえたので、寺の者は門を出て白楊のあたりに近づくと、確かに女の屍が蝉のように貼り付いている。何とか女を木からはがそうとしたのだが、固く貼り付いていて、なかなか上手くいかなかった。
 よく見ると、親指を除く左右四本の指が鉤のように曲がって、爪がすっかり隠れるほど木に埋まっているではないか。人を増やして力の限りに引くと、指はようやく外れた。木にはのみで掘ったように穴がポッカリと開いていた。
 件の宿では、安置していたはずの死体が消え、四人の旅客のうち三人が死んでおり、大層な騒ぎになっていたが、のちに役人がやってきて事態を話すと、宿の老人が女の遺体を引き取っていったという。

 ──これをして「尸変」と呼ぶ。







 静司は、そんな話を思い出していた。
『尸』とは人間の遺体、『変』とは文字通りの変容をあらわす。
 事前に連絡を受け、三日前にひとりの老婦人によって的場家に搬送された少女の遺体。既に死後硬直がはじまっていたことから、死後十二時間以上が経過していたのは間違いない。まだ二桁の年にもならない子どもならなおさらだ。
 元より病による余命宣告があったというから、本来ならば警察による検死後に、事件性がなければ医師から死亡診断書がおりて、弔いという流れになる。つまり、最短であれば、遺体は既に火葬されていてもおかしくはないのである。
 しかし、老婦人が的場に助けを求めた理由は──死んだはずのその孫娘が、時折目を覚ますからだという。
 常識的に考えれば、その少女は死んでいないか、もしくは老婦人の悲嘆が引き起こした妄想の類であると考えられる。しかし、的場邸に連れてこられた時点で、既に明らかな全身の硬直が見られたことから、第一の可能性はあり得ないことになる。
 死後硬直とは、酸素の供給が絶たれることによって筋肉のタンパク質が損壊し、これが原因で全身が一時的に硬化する現象であり、再び肉体が解硬を始める時点で死体は細胞レベルで崩壊を始める。これに可逆性は存在しない。すなわち、死後硬直の開始は違えることの無い死の証なのである。
 この経過のうちで、硬直や解硬の順序、体内のバランスが悪い場合、死体が動いたり発声にいたったりすることは実際にたびたびある。
 しかし、今回の話はそうした質のものとはまるで異なるものであった。
 死後一夜、二夜を経ても、少女の遺体は解硬するどころか、あきらかに死後硬直の状態を保ったまま、毎夜午前0時が近づくと、老婦人の言った言葉そのままに、実際に目を覚ますというのである。つまり、少女が死亡したのが厳密にいつであるのかははっきりと語られていない。
 とはいえ、一言に目を覚ますといっても、全身が硬化した状態であるから、生きていた頃の様子とは相当に異なっていた筈である。だが、静司自身が実際にそれを見たわけではなく、死後硬直の屍から想像しうるイメージは、中国の「跳屍送尸術」、いわゆるアンデッドだ。
 孫娘を溺愛する老婦人。連絡を受けたあと、的場家の扉を叩いたのは、このひとりだけである。実の母親も父親も付き添わず、搬送されてきた少女の口は血塗れであった。察するは容易かったが、的場の問い──彼女は人を襲ったか、という問いに、老婦人は曖昧に否、と答えた。
 それ以上のことは、訊かなかった。

 ──事実など、後々嫌でも明らかになるものだ。静司は少女を尸変、すなわち僵尸であると仮定し、不死者の強大な負の力に対するため、あらかじめ自らの血に浸して拵えた呪符を用いて、これを少女の額に貼った。
 折悪しく満月が近い。
 僵尸は陰の気によってその身を動かす妖であるとされ、月が満ちるとより狂暴さを増すといわれている。したがって、月の十五を過ぎたのち僵尸化した躯を元の屍に戻し、荼毘に附す──これが老婦人との交わした契約であり、それまでは決して呪符に触れてはならぬと、強く戒めた筈だった。

 だが、彼女は三日目にして約束を破った。

 老婦人は少女の額に貼られた妖縛の符を密かに剥がし、そして少女は姿を消したのである。

 僵尸とは中国において、人間の魂と魄のうち、魂が抜け落ち、魄が屍に残った状態のものであると考えられている。魂とは精神的活動、魄とは肉体的活動を司るものとされ、これを一般に、「三魂七魄」と呼ぶこともある。

 すなわち、老婦人の嘆いた、「心の無い幽鬼に成り果てている」というのは、魂が抜け落ちたという意味にほかならない。だが、恐らくは、老婦人にとって、そうは見えない──心の無いただの幽鬼であるとは考えられない、なにがしかの問題が、この三日の間に発生したのは明らかだった。
 だが、あとは取引き次第だ。約束を守らないクライアントに、いちいち情をかけるほど静司は優しくはない。
「……どうなさいます?無論契約を破棄なさるのはご自由──勿論経費と手数料は頂戴いたしますが」
「的場さん」
 縋りつくような老婦人の目を一瞥する。静司からすれば、素人術者や頭でっかちな術師にありがちな顛末だ。手順は踏まえていても、結果の重みに耐えかねる。起こるべくして起きたことに関して、原因と結果の因果関係を受け入れられない。
「或いは、我々の元に運び込んだのが、亡くなったお孫さんが月の十五を待って、自由に動き回る力を得るまでの時間稼ぎだとすれば、これはなかなかどうして。随分と呪術に精通しておいでのようだが」
「まさか!」
「……はっきり申し上げましょうか。恐らくは、貴女はお孫さんのご両親を、甦ったお孫さんの最初の生き餌になすったのではないですか?僵尸にとって、最初の獲物は赤子でいうところの初乳と同じとも聞きます。特に近しい人間であればあるほどよい……そうですね?」
「……」
 ややあって、老婦人は蚊の鳴くような声で答えた。
「………そのように、聞いたことはあります」
「どなたから?」
「子どもの頃に、故郷の両親から──」
「もしや、大陸のお生まれか」
「ええ、ええ。山東省の小さな村でございました」
「山東省、ですか……それはそれは。奇妙な偶然が重なるものだ──ああ失礼、こちらの話です」
 ──先に想起した蔡店村の言い伝えも、山東省の話である。奇妙な符合──こういったことは、静司には決して珍しいことではない。
 静司の、ヒトとしては強すぎる呪力は時として、接した相手の意識に同調してしまう時がある。記憶や認識を、接触によって共有してしまうのだ。普段は気にもならないが、それこそ月の十五が近くなれば、陰の呪力に長けた静司の力はより研ぎ澄まされる。それでも意識しなければどうということもないが、時折こうした意味ありげな符合を呼び起こしてしまう。
「ですから──わたくしは知っておりました。いえ、わたくしのような古い世代には広く知られた話なのでございます。僵尸という鬼──甦る屍の伝承」
 ですが、まさか、と老婦人は続けた。わななく口元は、まるでひきつったような笑みのように歪んだ。
「本当に、本当に。最初から企みがあったのではないのです。ただ、娘夫妻はいつも我が子を厄介者扱いしておりました。魂がそっくり失われたとして、魄を残したままでは哀れと思い、せめて娘夫妻と共に弔ってやりとうございました。ですが、ある日あの硬いからだで目を開き、恐ろしくもあまりにいとおしく」
 老婦人は畳に突っ伏して慟哭した。
「……この十三夜にはとうとうわたしに語り掛けてくるようになったあの子を、何故黙って放っておけましょう」
「ほう」
 だが、静司は眉のひとつも動かさなかった。細い顎をつまむようにして、心底不思議そうに老婦人を見詰める瞳はひどく冷たい。
「……妙な話ですね。僵尸とは死後硬直の始まった屍体を意味するというのに。そしてそれは必ず頭部から始まる。声帯を動かすのも筋肉の稼動です。それを、屍が語るとは」
 馬鹿馬鹿しい、と言いかけて、静司はふと思うところあって沈黙した。
「──いや、僵尸は大地の陰気を吸って変化するものとも聞きますな。陰極まって、我らのはかりしれぬ何事かが起きたとも知れません」
 本場の道士の真似事は出来まいが、と嫌味のひとつも言って、静司は携えた木製の剣を恭しく捧げ持った。桃の木で造られた、簡素な儀式用の剣である。
「お孫さんは何と」
 いよいよ正気の目ではなく、瞳孔が不自然に拡大し、まるで何かをかき集めるかのように、老婦人は両手を拡げて畳の上を掻き回す。
「──『おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん』……」
 年老いたはずの女の口から漏れる、鈴を転がすような猫なで声が繰り返される。七瀬の代理で静司の背後に控えた若い術師は、この異様な顛末に痛ましげに表情を歪めた。
 その時である。


 えええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇええええ。


「頭主」
「静かに」
 ──鼻先に白い指を立て、死者の聲だ、と静司は言った。
 その生業は、ひとの死と別ちがたく結び付いている。否が応にも死者を見つめ、物理的にも社会的にも、様々な側面から死という現象と幾度となく向き合うこととなる。
 その範疇に於て、時として既に命の尽きた者の屍が、声を発することが認められる。これはなんらかの衝撃で肺や体内に残留した空気が口から排出され、声帯を刺激することで、物理的な音律となって人の耳に届くという理屈である。それは恐ろしい悲鳴のようであったり、高い笛の音のようであったり、呻き声であったりと様々だ。だが、屍の聲は、残された生者にとっては、とりわけ意味ありげに聞こえるからこそ、より業が深い。
「あの子……あの子よ。還ってきたんだわ。わたしのところに」
「いけません、落ち着いて」
 襖の向こうに、小さな影がある。恐らくは呪力の吹き溜まりである的場邸内をさまよっていたのであろう──七瀬を遣らせたので屋内の者に被害は無いと思われるが、だとすれば三夜以上の飢餓に、少女は大層血に飢えている可能性がある。
「的場さん、もういい。もういいんです。契約は破棄していただいて構いません。約束を破ったのはわたしですもの、あの子を連れて帰ります!」
「黙って!!」
 言うが早いか、襖が引き裂かれた。
 ──主に紙と木で造られているとはいえ、家屋を隔てる戸口が、まるで読み物の怪物の顎のように変容した、どのような生物にも見られない爪に、文字どおり引き裂かれたのである。『怪力』は、死から蘇生した妖物の大部分において共通のキーワードではあるものだが、さすがに目の当たりにすれば驚愕せざるを得ない。
 だが、それ以上に静司は、叫び出したくなるほどに歓喜した。
「まさに僥幸です。捜し回る手間が省けるとは」
 ──しかし、廊下に佇む小さな影は、静司の考えているようなものではなかった。

 首は解硬した屍のようにだらんと頸椎から垂れ下がり、まるで熟れた石榴のようである。しかし、手首から先は枯渇した木の根のような色と質感が先端で五つに分かれ、肥大した鉤爪から真っ黒な液体──血液のように見えるが、恐らくは細胞組織を損傷させることで溢れてきた液体──いわゆる『ドリップ』が、糸を引いて滴っているのが見える。そして、全体的に肥大した躯に、傍目にもすぐに判る重量感さえ見られる異形。
 ひと目で判るのは、死後それなりに時間が経過した屍であることだ。たとえるなら、液体の充満した袋がそのまま動き回っているかのような不自然さに、静司は思わず総毛立つ。
「と、頭主、危険です。お退がりください」
 前方に立ちふさがった若い術者を静かに制し、静司は眼前に構えた薄っぺらな端末器で何度も目の前の異形に向かってシャッターをきった。
 光に対しての反応はない。視覚は完全に死んでいるようだ。
 では嗅覚は。聴覚は。知能はどうか。果たして老婦人の語る『僵尸』とは、無意識に生への可逆性を飢餓として、生ける者の血を求める存在なのか。
「……本当に妙なことがあるものです。この数時間、彼女になにがあったのでしょうか」
 ざ、と畳を擦る音を立て、四つん這いになった屍がすさまじい速さで間を詰める。巨大な爬虫類のような動き──だが静司は、水中を泳ぐ魚のように、しなやかな動きで攻撃を回避する。
「本当にわたしが美味しそうに見えますか?それとも」
 木剣の先を隙間に入れて畳を叩き上げると、間一髪でひび割れて紅黒く染まった爪がそれを引き裂く。一瞬の猶予に体勢を低く取り、角度を変じて小柄を飛ばすも、胴体に深々と刺さったそれに僅かなりともダメージがあるようには見えなかった。
「それとも、わたしを殺してしまわなければならない特別な理由があるのですか?」
 ちらりと老婦人を見遣ると、その目はとうに憎悪と狂気に満たされていた。

 ──理由は、最初からあったのだ。

 静司は咄嗟に大量の符をばら蒔いた。
 そのすべては目眩まし。もはや僵尸とは呼べない屍鬼からはあらゆる感覚が剥奪され、己を動かしている原動力──すなわち呪力以外のものを察知する手段をもたない。
 散り散りと舞う呪力の隙間から、静司は瞬時にもう一枚の妖縛符を少女の額に押し付ける。
 今度はもはや動きを封じるだけでは済まず、腐肉に焼きごてを捺すような臭気と共に、見るも無惨な屍が畳の上に転がった。ほとんどが物音だけに支配され、ひとの呼気すら感じとることのできない異様な空間。
 静司は部屋の隅に立てた屏風の上に少女の屍を横たえた。静司の生血に浸して造られた額の呪符は、滅多なことで自動的に剥がれることはなく、剥がれることなくば屍が目覚めることはまたとない。
 だが、やはり問題は異なった。
 静司は立ち上がって、老婦人に向き直った。
「……最初に連絡を受けたあと、急ぎ調べさせたのですよ」
 同じように、老婦人も静司に向き直った。静司はその老婦人の表情から、何も読み取ることはできなかった。
「あの少女の祖母は、母方も父方も既に鬼籍に入っておられる。そしてどちらも国内の出身者でした」
「……」
 普段、依頼を受けたからといって、いちいち身元を洗うわけではない。
 今回の静司の疑念は、ほとんど直感のようなものから始まっている。死の気配。屍の匂い。陰に特化した静司ならではの嗅覚がすくいとった違和感とでも言うべきか。
「そして先刻、あなたご自身の口から山東省の出身だとうかがった時、わたしの疑念が確信に変わった。あなたはお孫さんの──彼女の祖母ではない」
「……」
 この業界において、クライアントの身分詐称は決して珍しいものではない。寧ろ、はっきりと身元を明かせないケースのほうが多いといってよい。ましてそもそもが社会的に認知されない世界の中で、いちいち身元などあらためていては、解決するものも解決しないというものだ。
「──とはいえ、あなたの郷土で、何故僵尸のような妖が殊更怖れられたか。それは『変容』です。ことはじめは干魃であったとも言われていますが、死後も生前と同じような営みが続くと考えられた道教文化では、死に伴った変容を大層忌み嫌った。ゆえに無惨な死、干ばつによる枯死などによって、悪霊が生まれると信じられた。そうではないですか?」
 空気は張り詰めていた。老婦人は、もはや是とも非とも言わなかった。また、初見の穏やかで弱々しく、イネイブラーのような気質は今や何処にも見当たらない。
「また、常に列強国の支配に苦しんできた歴史の中で、人々が求めたものは安泰であり、安定の持続ではなかったでしょうか?家内安全、商売繁盛、とは日本でも言いますが、元々はすべて中国文化です。死も含め、どこまでも現世的である中国文化にあって、不可逆な変容などあってはならない筈だ」
「……そうね」
 老婦人は、顔をくしゃくしゃにして笑った。はりつめた空気はそのままだ。静司は、また自分が的を当ててしまったのだと心の奥底で落胆した。
「そうだったわ」
 老婦人は天井を仰ぎ、口を大きく開けて哄笑した。けたたましい鶏の鳴き声、馬のいななき、総てが合わさったようなそれは、そのどれにも似ていなかった。ただ、先刻は年齢よりも一回りも老いて見えた筈の彼女の顔は、一回りも若く見えた。
 祓い屋の多くは、呪術師である。だが、呪術師の多くは祓い屋ではない。祓い屋としては妖と対峙するのが基本だが、呪術師としてその生業を見つめ直した時、確かに自分がひとの生死と別ちがたく結び付いていることを認識せざるを得ない。
 ほかの祓い屋がどうであるのか、静司は知らない。だが、未熟な祓い屋に、自分や大事な人間の生死を預けるクライアントもそうはないだろう。だが、呪術なら右に出る者のいない箱崎はどうだったか。拓磨ならどうだったか。
 ──或いは、今の名取なら。
 死から始まる事件の連鎖は、何であれ業が深い。生半可な気構えで足を突っ込むと、たちまち連鎖の中に引きずり込まれてしまう。
 静司は嫌というほどそれを知っている。無駄なコストはかけないが、経験則は大抵の場合、かけたコストを無駄にはしない。


 静司は確信した。


 ──僵尸は、少女ではない。


【続】


作品目録へ

トップページへ


- ナノ -