死者のかくも長き不在


「ようこそおいでくださいました」

 ほとんど90度に腰の曲がった老婆が、更に体を折り曲げるようにして頭を下げる。
 その背後に、年格好のそう変わらぬ女たち数人が控え、同じように頭を下げていた。いずれも体のごく小さな痩せこけた老女ばかりであった。

 三方を山に囲まれたかつての漁村のなれの果てである。聞くところによれば土地の歴史はそう古くはなく、江戸中期の飢饉の折に田畑を棄ててこの地に村を開拓した百姓たちが、瀬戸内海の海の恵みによって生きながらえ、以後漁村として発展を遂げたとのことであった。
 しかし近代、戦後の急速な都市の発展と、インフラの充実に伴い、村は社会における漁村としての存在意義を徐々に失っていき、仕事を求めて若者たちは土地を離れていった。今では村落に三十に満たぬ家屋が点在するが、その十軒近くは既に無人であるという。

 周一の請けた仕事は、もっとも古くより村に住まう、宮司の家系の末裔からのものであった。

 かつて、生まれ育った土地を棄てて村を興した村人たちは、海辺の祠に水神を祀ったという。この時、共同体の生命線であると考えられてきた祭祀を担った一族が、のちに宮司の系譜となったのである。
 但し、この宮司というのは、当然のことながら寺社奉行の管轄であったこともなく、現在においても神社本庁とは無関係である。しかし、村においては祭祀を管理する役職であり、まだ人々が土地に縛られていた世において、村落の安泰と繁栄を司る重要な役職として、村長を兼ねる権力者として村全体を統べていたのである。
 また、宮司は必ずしも世襲ではなく、多産と繁栄の象徴として代々女子がこれを存続することが義務づけられており、蛭子命の伝承にちなみ、最初に産まれた子が男児であれば海に流すという因習を続けてきた──それを廃止したのは、昭和も半ばに入ってからのことであるという。

 さて。
 何故瀬戸内海に面した、現在で言うところの限界集落が、周一に仕事を打診してきたのか──それはもう、周一が堂々とメディアに露出しているからである。その存在意義を知っておりさえすれば、祓い屋など、探せばいくらでも見つかるのが今の世だというわけだ。
 さりとて守秘義務を果たさねばやっていけぬというアンバランスな二足の草鞋を履きながら、白昼堂々実名で興行をするくらいには──古株の大家を挑発して飄々としていられるのは、周一とてそれなりに狡猾であるからだ。かつての大家である名取家が衰退していながら、名取周一が突出しているというのは、異端ゆえの恩恵でもある。
 依頼は、村落の荒ぶる祀神を諫めて貰いたいというもので、詳細は現地にて、という曖昧なものであった。
 周一は目を細める。
 とうに防風林も枯れはて、もはやいつの時代のものともつかぬ、潮風に灼けた平屋ばかりがぽつりぽつりと建ち並ぶかつての漁村に、漁に出るための船は一隻も見当たらない。
 繁栄の象徴──皮肉なものだと、周一は唇を歪ませた。









 周一が通されたのは、宮司の屋敷の離れであった。
 村落の安泰と繁栄を司る重要な役職、村長と網元を兼ねる権力者として村全体を統べるという又聞きでは、想像もつかぬようなトタン造りの掘っ立て小屋である。
「本家は別にあらします。ただ、宮司様はややがあらしますよって、今は此方に御住まいじゃ」
「……やや?」
「さよう。宮司様の腹には赤子がおらしゃる。もう臨月に入っとるで、産屋に入っておらしますのや」
 ──こんなあばら屋が産屋か、などとは到底訊けなかったが、わざと狼狽してみせると、老婆たちは了解したように周一を諫めた。
「村ァ言うても今は昔じゃの。誰も彼も、今は似たよな暮らしぶりじゃな」
「さようですか」
 ──訊かれるのは、初めてではないな。
 経験則と直観から、周一は訝った。この村の人間が、外界からこうして人を呼んだのは、恐らく周一が初めてのことではない。
 何か裏のある仕事であるのは判っていたが、さて、鬼が出るか蛇が出るか──少なくとも前金を受け取ってしまっているのだから、相応の仕事はせねばなるまい。
 さほど待たされることもなく、宮司と呼ばれて現れたのは、周一ともそう年齢も変わらぬであろう若い女であった。
 長い黒髪を襟足で一本に結んだ様子に知る人影が重なって、周一は思わず息を飲む。
「お待ちしておりました」
 臨月というほど腹は目立たず、女は美しかった。
 だが、幾つかことばを交わす間にその容貌を見つめるにつけ、周一はどこかその美しさに病的なものを垣間見るのだった。
「……もはや、この村は社会としての機能を果たしてはおりません。先にふれの者がお話ししたとおりに」
「……限界集落、ですか」
 限界集落とは、言葉どおり、ひとつのまとまった集落としての機能の衰えが、限界に達している状態を指す。人口が減る一方で増える見込みがない、最終的には近く消滅してしまうことがほぼ決定的であること──そうした村落は、少子高齢化とは別に、基本的にどのような国においても、人口の自由な流動がある限りは幾つも生まれ得るものだ。何故なら資源は無限ではないし、たとえ幾ら子が生まれても、働く場所がない土地では暮らしてはいけないのだから、結局は経済の回らない土地を去る事態になるわけである。
「あなたは、あの者たちを御覧になったでございましょう?」
 あの者たち──とは、出迎えの老女たちのことだろうか。周一はそのままに問い掛け、女は頷いた。
「そうです。ご覧のとおり、この村には男はおりません。かのごとく百をとうに過ぎた老婆ばかり」
「それは、一体…?」
 百を過ぎた老婆ばかりの村というのも不可思議だが、それもさながら、男がおらぬというならば、腹の子は一体誰の子だというのだ。
 宮司は心此処にあらずとばかりに続けた。
「不思議にお思いでしょうね。この腹の子の片親が何であるか」
 否とも諾とも答えられないまま、周一は思わず宮司の膨らんだ腹から目を逸らした。「何であるか」──その奇妙な物言いに、言い知れぬ不安と不穏が心中に影を落とす。
「村の祀神とは蛭子命。かつて蛭子命の葦舟が流れ着いた伝説がこの地にもあったのだと伝えられているのです」
「蛭子伝説……ですか。この村は江戸時代中期に開拓されたと聞いておりますが」
 蛭子命とは、伊邪那岐と伊邪那美による神産みの、最初の子であるとされている。しかし、不具の子であったことを理由に、芦舟に乗せて流されてしまったというのが、巷に知られる蛭子神話の概要だ。
「ええ。無論、事実のほどは明らかではありません。ただ、この一帯はほぼ未開でありましたが、通年海の恵みは豊かであったようですから」
 蛭子命が水神として祀られている場所は実は各地にある。だが、それとて定住者たちの選り好みの結果であることがほとんどであるのだから、確かに蛭子であれ、後世には蛭子と同一視された恵比須であれ、それ自体は何であってもおかしくはない。
 普通ならばそう考える。だが、目の前に並んだ老婆たち──男のいない村。その歪さが、不具の神のイメージと重なってしまうのだ。
「かつて漁村として栄えた時分には、これを大いに奉り讃え、日毎供物を捧げていたといいます。しかし、時代と共に村が衰退していくにしたがって、祀神の存在は忘れられていったのだと」
「神職は受け継がれているというのに?」
 はい、と女は答えた。ひどく歯切れは悪かった。何かを恐れているような、その視線は僅かに左右をさまよう。周一の中に、急くような苛立ちが募る。
「……私はもうじき二十才になります。村の宮司とは実のところ形式のもので、代々三才の女児を任ずるがさだめ。二十才になれば、新たに次代の宮司が選ばれるのですが──」
 宮司は声をつまらせた。
 その理由はすぐに判った。

(この村には、もう、子どもなぞひとりもいないではないか)

 当代の宮司とて、家系の直系ではないのだという。まだ幼い時分に、村外の傍系から養子に迎え入れられたというが、当時の記憶などとうに無く、宮司として──寧ろ生き神として祀られて二十年近くを過ごしたというのだが、さてもこの老婆ばかりの村落は、既にもうこの一代で崩壊してしまってもおかしくはない状態だ。
「それでも、わたしに出来ることがおありか」
「はい」
 宮司は頷き、声を潜めた。聞かれてはまずい理由があるのだろうか。
「蛭子命──と呼ばれたそれを、この村から消していただきたいのです」
 思わぬ言葉に、周一は呻吟した。
「……宮司殿、それは」
「わかっております」
 それは、どういう意味なのか──問いただす間もなく、宮司は畳に頭を擦り付けるようにして頭を伏せた。
「……わかって、いるのです。それはわたくしが守るべきこの村落を滅ぼすと同義であるということも。ですがこの村は、いずれにせよ間もなく滅んでしまうのです。ですが、たとえそうであっても、このようなおぞましい営みを続けるわけにはまいりませぬ…」
 おぞましい営み。周一は抑揚無く繰り返した。
「──と、申しますと?」
「村の信仰は変容したのであり、廃れたのではありません。二十歳を過ぎた宮司は、蛭子の贄として捧げられるのです」
 穏当でない宮司の言葉に、周一は触れてはいけないものに触れた気がした。
「蛭子の贄…」
「そうです。相伝ゆえに詳しいことはわかりませんが」
 宮司は続けた。
「二十歳になる宮司は、腹に子を宿し、臨月を待ちます。そこで産まれた子が新たな生き神となることで、半永久的な繁栄を約束されたのがこの村なのですから」
 二十歳を過ぎれば、生きながら贄となる女たち──それが単なる儀礼的な祭祀だというなら、余りに時代錯誤で馬鹿げてはいはしないか。
「──この腹の子は、蛭子となるべく生まれる、魂のない神の器なのです。わたくしは宮司であり、そして神の嫁でもあるのです」
 周一はいよいよ言葉を失い、そして宮司は啜り泣くように言った。
「確かにかつてのような祭礼は無くなりましたが、十七年に一度、こうして蛭子命に新しい体を捧げるのが村の習わしにございます。わたくしはそのための贄に過ぎませぬ」
「……」
 ではなぜ、何のために自分を呼び寄せたのだ。かの言うおぞましい営みとやらも、当代が最後であるというならば。
 だが、それは言葉にならなかった。それを言ってしまえば、今生きている彼女自身はどうなるのだ。彼女が己自身を救おうとして、何の不思議があろう。
「かつて土地神であったという蛭子命の恩恵によって、ありとあらゆる富と財が漂着した海辺の隠し社に滞った邪気は、今もなお健在なのですよ」
 縋りつくような、それでいて病んだ目をした女は言った。

「──呪物としての蛭子は存在するのです」

 そう言って、宮司はみずからの膨らんだ腹をさすって、ひどく歪んだ笑みを見せた。
 言い知れぬ悪寒に、周一の皮膚は粟立った。苦悶であるかもしれぬ女の形相が、周一には何故か嗤笑に見えたのである。











 社は村の裏手、海抜0メートルの岩場に、ひっそりと存在した。
 浅瀬に切り立つ岩場の一部が洞窟状になっており、そこには基本的に引き潮の時には入ることが出来ず、満潮時に小舟を使って詣るもので、土地の者以外にこれを知るものは無いが、過疎化していくにつれて土地においても祀神の存在が忘れられていくこととなったというわけだ。
 干潮時には岩場になる浅瀬には、舳先のとがったちょき船のような小型舟が繋がれていた。そこに腰掛けた美貌のセイレーンは、待ちあぐねたように鼻唄を欠伸にすると、足場の悪さなどまるで気に掛けることもせず、猫のようなしなやかさで此方に駆け寄ってくる。
「…で、どうでした?周一さん」
 宮司と同じように長い黒髪を一本に束ねた着物姿の青年が、不必要に距離をつめてくる──磨きの掛かった美しさに、荒んだ印象よりも不敵さが際立つ美貌。飛び出すように周一の首に手を伸ばし、引き寄せて顔を近付ける。
 的場静司である。
「静司、こら。近い」
 殆ど密着しそうな距離を制しようとするも、その指先が酷く冷えていることに気付いて、今度は周一がその手を引き寄せた。
「……冷えてるな。ずっと此処にいたのか」
 静司は小さく頷いて、もうひとつの手のひらで周一の手を包んだ。それは不思議な温かさに満ちて、指先から体内に流れていくようだった。
「こっちは懐に入れていたから暖かいでしょう?」
「そういう問題じゃない。まったくきみは…」
 周一は自分のマフラーを解いて、静司の白い首に掛け直す。
「何時間も冬の潮風に曝されてる奴があるか。社の調査が済んだら村のほうへ行っていろと言ったろ」
「いいじゃないですか。ほら、そちらの調査結果」
 大体判っていますけどね。そう付け加える静司の表情は、言葉ほど軽薄ではない。
「……どうやら、村の祀神に何かがあるらしい」
「どうやら?」
 静司は首をひねった。
「はっきりとした言及がなかったんでね。村の祀神は蛭子命──そいつが恐らく、社の奥に巣食っている妖のようだが」
 ──それも、相当業が深い。
 女ひとりを敢えて身重にしてまで社の奥に封ずる必要があるのは、形骸的な祭祀以上に相応の理由があるはずだ。
 そう。
 宮司は己を「贄」だと言っていたではないか。
 その顛末を知りたいと強く思う反面、周一は今すぐにでも逃げ出したい衝動に駆られていた。
「歯切れの悪い言い方ですね。珍しくドライブに誘ってくれたと思ったら、村は婆さんばかりだし…」
「悪かった。きみが以前、使えるものは使えと言ったのを本気にしてしまって」
「つまらない嫌味は結構。社の奥──どうします?さっさと行きますか、先手必勝ですよ」
 細い顎をしゃくった先には、浅瀬というには険しい岩場が広がっている。とてもこの岩場が満潮時に海水で満たされるとは、俄には信じがたいくらいだ。
「……やむをえないな。村の連中と宮司の思惑には齟齬がありそうだ。万一舟で追ってこられると厄介なことになりそうだしな」
 幸い、此方は若い男ふたりだ。
 この潮の引いた浅瀬を踏破して、無理矢理社に乗り込むのも不可能ではあるまい。











 ひとは、あらゆる生の営みが、対偶に基づいていることを無意識に求める。善悪の彼岸に立たぬ者たちの囀りも、彼岸に立つ者の苦悩をも捲き込んで。たとえ左様あらずも、次々にあらわれる認知的不協和を、人びとは賢しく──また愚かにも、実に見事に軽減してみせるものだ。
 だが時折、個体に閉じられた、共有不可能な災厄に際して、認知的不協和がどのようにも解決されぬまま、宙に浮いたままになってしまうことがある。

 岩場にぽっかりと空いた洞穴は、潮風でやけた逆注連縄をくぐると、いとも容易く二人を迎え入れた。奥行きは長く、例の舟が進入するための水路が、今はごく浅い水溜まりになっている。確かにこの状態では、どうやっても舟など入るまい。
「逆注連縄ってのがなかなか芸が細かいですね。さあてどんな怪物を封じているのやら」
「滅多なことを言うなバカ」
 呪物としての蛭子は存在する──宮司はそう言った。それは贖物としての呪物か、或いは別の何かか。
 ライトを照らすと、奥の闇まで続く洞窟の壁面に、おびただしい数の呪符が貼られているのが判る。朽ちては貼り、また朽ちては貼ることを繰り返した痕跡──妖縛の符はまるで案内人のように、二人を最奥へと導いていく。
「どれも直筆の符ですね…」
「ああ」
「それに符の呪力は健在だ。随分と新しい札もある。あっ、ウチの札もあるじゃないですか」
 静司の表情が怪訝そうに歪む。
「比較的新しいな」
「それも最高位の血札ですよ。何十枚も──多分、この分だと術師はもう生きちゃいないでしょうね」
 大小様々に描かれた符は、いずれも常世のものを現世に鎮める類のものだ。だが、それにも拘わらず、岩窟には息切れしそうなほどの邪気が潮溜まりの臭気を伴ってわだかまっている。
「…元々の依頼は、村落の祀神──つまり蛭子命を諫めよという話だったが、宮司はこの祀神を消せと言った。村にはもはや次代の宮司が存在しない以上、祭祀を続けることは不可能だからか──」
「不可能ではないでしょう?当代も村外の出身だと言っていたじゃありませんか」
 諳じる静司の声はどこか冷たい。
 その些末な理由を察し、周一は疲れを吐き出すように大きな溜め息をついた。
「……わかったわかった。きみのほうが綺麗だともさ」
「わかればよろしい」
 鼻を鳴らした静司の頭をくしゃくしゃと撫でつつ、ふと遠くなった入り口を振り返ると、僅かに射し込んでいた光が消えている。

 ──厭な空気だ。

 よく見ずとも理由はすぐに判った。まるで天岩戸さながらに、あつらえたかのような岩盤が出入口を塞いでいたのだ。
「……どちらにしても、話が出来すぎていると思った。諫めてくれとはよくいったもんだ、婆さん連中に見事に嵌められたようだな」
「なるほど、周一さんらしい案件ですね」
 静司は得心したように頷いた。先手必勝と乗り込んだのは一体どこのどいつだ。
「これはつまり、おれたちも贄にされる……ということでしょうかね?」
 周一は肩をすくめて長いため息をついた。確かに自身の落ち度ではある。周一には言い返す言葉も無い。
「さあな。村の連中が実際に何の対価を得ていたのかは知らんが、宮司と婆さん連中とは思惑が違いそうだからな」
 早足で入り口へ引き返し、周一は見事に遮られた分厚い千曳の岩を叩く──が、当然ながらびくともしない。
 干潮時の浅瀬を追ってくるものなどあるまいとタカを括っていたのも確かだが、たとえ数人がかりであっても、齢百を過ぎた老女たちがこの巨大な岩の塊を動かしてくるとは誰も思うまい。
「ここを開けてください──何をするんです」
 声をあげたのは、岩盤の裏側に、耳をそばだてている老女たちのあからさまな気配を感じたからだ。
 浅瀬にフジツボのようにはりついた無数の老婆──考えると些か悪夢じみた光景である。
「無駄よ、諦めて贄となられい」
 嗄れた声が、岩窟に響く。
「よいか。奥の社には、わしらの繁栄の象徴……贄と引き換えに不死を約束する不具の贋造神が座す。外様の宮司ではもはや贄には不足、悪う思うなよ」
「不具の贋造神…?」
 ひとりの老婆が、クカカと笑った。それはどこか空虚で寒々しく、不吉で、名状しがたいほどに忌まわしかった。
「力あるものを贄として、対価に我らは永遠の命を約束される。それがこの村の正体よ。そうして我らは数百年を生きながらえてきた」
「なんだと…」
 周一の脳裏に、にわかに宮司の言葉が蘇る。二十歳になる宮司は、腹に子を宿し、臨月を待つ──それは、考えていたよりも遥かに忌まわしい意味をもつのではないか。
「……生まれた子が母である宮司を贄として、呪物となるのか。土地に縛られた契約を利用して、あんたたちは何十…いや、何百年も同じことを繰り返してきたのか」
 壁の向こうのすすり笑いは、こともなげに答えた。俄に邪気が濃厚になる。
「さよう。享保の頃よりつとめし十七年に一度の盟約、今となって違えるわけにはゆかぬ。宮司──あの賢しい小娘にもじきに後を追わせてやるがゆえ、うぬらは早う蛭子様の贄となるがよい」
 後を追う哄笑に、胸が悪くなる。頭に血が上るのをこらえつつも、岩盤を蹴飛ばしそうになるのを寸でのところで静司が制した。
「周一さん、落ち着いて」
「静司!」
「ここは駄目です。あの塞が呪力を圧迫して空間が歪みつつある」
 闇に揺らぐ陽炎のような、時空の歪み。わだかまる邪気と呪力に、虚空が悲鳴をあげる。
「それにあの婆さんたち、あれはもうとうに人ではなくなっていますよ」
「そんなもの見なくても判る」
 そんなことは判っている──もはや隠そうともしない、地獄の底から沸き上がってくるかのような禍々しい蠕鳴。あれが、人外のものでなくて何であるというのか。
「だから、落ち着いてください周一さん──あの入口はまさに千曳の岩と同じ、危険な呪物だ。秒単位で邪気が蓄積している。早めに撤退しましょう」
「待ってくれ、静司!」
「岩を壊せば邪気は散ります。周一さん、脱出の準備を!」
 早口でまくし立てられ、周一は苛立ち紛れに咆哮した。






 ──待て。
 今少し時をくれ。
 それでは約束を守れない。
 あの女は。
 あの憐れな女はどうなる。

 お前によく似た、あの女は──











 男は、踏み均されただけの険しい山道を歩く。傍らは切り立った断崖、剥き出しになった山肌は、荒涼とした風情と共に、真冬の寒風に砂埃をあげている。
 男の背には、乱れた着物姿の美しい黒髪の女がおぶさっている。
 瞼を伏せたまま、女は言った。
「わたくしは、助かったの?」
「はい」
 男は答えた。
「……村は?」
「すべて終わりましたよ。あなたの、望みのままに」
「……」
 女は、ほう、と息を吐いた。
 命が溢れるような吐息だった。
「……何かが」
「はい」
「何かが、葦舟に乗って海を流れていく夢を見たの。あれは多分……」
「お忘れなさい」
 男は言った。
「……」
「すべて、悪い夢です」
「……」
「夢から醒めて、己が生をお生きなさい。あなたはもう、宮司でもなければ怪物の贄でもない」
「………」
「あなたはただの人間です」
「……」
 それきりだった。
 女の唇はもう、言葉を綴ることはなかった。いつの間にか男が背負った女のからだは形を失い、ばらばらと砕けて灰になった。
 遺された着物の裾がひらひらと背に舞う。
 男はそれでも山道を歩み続ける。
 その傍らには、いつの間にか、もうひとつの影が寄り添っていた。

「……腹に蛭子の器を宿した時点で、もう、ひとではなくなっていたのでしょう」
「……」
「土地に縛られた理を逸脱することで、我が身もろとも滅びることを彼女は覚悟していたのでしょうか」
 それとも、と薄い唇は続けた。
「かなうことの無い明日を夢見て、一縷の望みをあなたに賭けたのでしょうか」

 ──だとしたら、やるせないことです。
 そう呟いた影が、灰になって風に散った、かの女の姿に重なった。

 冬の西陽が眩しく、遥か眼下に望む無人の廃村を静かに照らしている。



【了】


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