モラルの葬式


「周一さん。前から思ってたんですけど、おれたちが死んだら葬式はどんな感じになるんですかねぇ」
 知らんがな、と思いつつ、周一は運転しながら適当に答えた。
「君の家のどっかで仏壇見たことあるけど」
 助手席の静司もまた、更にどうでもいい様子で答えた。
「うち浄土真宗ですもん」
「じゃあ浄土真宗式の葬式なんじゃないの」
「でも神棚もあったような」
「知らんがな」
 今度は口をついて出た。

 ──依頼者の中には勘違いする人も多い(というよりほとんどがそうだ)が、祓い屋は宗教家ではない。
 法人には属していないし、祓い屋をまとめる一家としての決まり事はあっても、いわゆる教条や教義の類があるわけではない。その決まり事とて、顧客の情報の守秘義務や、仕事上の報酬の扱いについてなど、現実的な業務規定がほとんどであるから、基本的に伝播を目的とする宗教とは根本的に住み処を別としている。祓い屋にはミームとしての側面は一切無いと言っていい。守秘義務はあっても、神秘性は受け手による副産物でしかないのだ。
 特に的場のような大家なら、何らかの形で家名に連ねる人間も多いわけだが、各人が信仰をもっていようともっていなかろうと、そんなことはまったくもってどうでもいいのである。繋がりがあるとすれば、その時々で、各宗派が使う文言を借りることがあるというだけだろう。

「そういう周一さんとこは?」
「さあ?柱に角大師の札貼ってたから真言宗じゃないかな」
「ふーん」
 ちなみに角大師や最澄で有名な比叡山延暦寺は、真言宗ではなく天台宗の開祖である。








 夏も終わりだから心霊スポットに行きたいな、などとわけのわからぬことを言い出したのは当然静司のほうである。
 職業柄、互いに否が応にもその手の話題には詳しくならざるを得ないのだが、周一のほうとてこのクソくだらない提案に乗ったのは、二人きりで夜中の廃墟にでもしけこめば、DQNカップルみたいにそのまま立ちバックで挿れたり出したり……などとシャブシャブ脳状態でつまらぬことを考えていたからであり、青年期の一般的な思考回路といえばそれまでではあるが、此まさしく人間のクズである。

 それはさておき、九州一円にも怪談は数あるが、とりわけ多いのが、発祥のはっきりしない風習ないし儀式である。
 古代日本において、恐らくは最初の都市が現れたのが九州であるという説もあるが、大陸との位置関係からしてもそれは決して無理のある話ではない。稲作の発祥は大陸であり、最初に稲作がもたらされたのが九州である可能性が、現代の考古学見地ではもっとも高いとされている。そこに、当地独自の風習や儀式が根付いていくのは何ら不思議なことではないし、その歴史の長さから、発祥やその関連まで遡ることができないというのも頷ける。
 そうした経歴をもつ土地柄からからして、いわゆるフォークロアの類型もまた、主に典型的なものに分類されるものである。たとえばかつて蝦夷地と呼ばれた現中部以北の伝統が奇異に映るのは(たとえば「鬼面」は北へ移動するほど従来型の鬼の姿からはかけ離れていくことがある)、単なる歴史の巡り合わせに過ぎない。
 しかしである。
 奇妙なことに、いわゆるフォークロアだけをピックアップしていくと、旧蝦夷地と九州地方では、驚くほど似通ったパターンが幾つも出てくるというのは興味深いことである。どちらも独自の文化を育んだからには、その軌跡は違えども、特に文化の本筋とは無関係に生じる副産物には類似点が見出だされるというのは、これもまた不思議ではないことなのだ。そしてこれがまさに、民俗学的な重要なサンプルとなる──。


「いやさ、周一さん。そういうのじゃなくて」
『九州地方 祭祀と伝統から読み解く怪異の口伝』を片手に、道の駅で行き先を検討する周一を、焼きとうもろこしを買ってきた静司がたしなめる。
「おれはそういうフィールドワーク的なことがしたいわけじゃなくてですね」
「そういうのもこういうのも無いだろう。大体心霊スポットなんてどれもネタなんだから、雰囲気を楽しみたいならより愉しそうな方を選べばいいじゃないか。雰囲気以外に何を楽しむ気なんだ君は」
 いかにも正論を突き付けたようではあれ、内容のどうでもよさときたらこれ以上に無い。
「……そりゃまあそうですけども」
「祓い屋がいわば対妖怪専門に特化したのも、近年になって怪異の『妖怪化』が進む中でいわゆる『幽霊』ってのが天然記念物になったからじゃないか。そういう差別化を積極的に進めてきた中には的場家だって含まれているだろうに」

 ──幽霊と妖怪。

 かつては混同されていたこれらは、近年の研究によって様々な差別化がはかられた。
 まず、幽霊とはそれ自体が存在の定義に反するという点で、妖怪とは異なる。また、これを物理的に捕えることは原則的に不可能とされており、また、時代を経るごとに実害を伴う出没報告が大幅に減っていくことから、たとえば「憑きもの」のように、いわゆる社会的理由付けとして機能していた可能性がきわめて高く、ほとんどが広義のシミュラクラ効果によるものであると考えられているし、実際に効果の裏づけを取るとなると、ほぼすべてがそうなるのは必至だ。状況的に裏づけが取れないものを、敢えて例外にする必要さえない。心霊とは、まさに読んで字のごとく心に巣食うものであるからして。
 対して妖怪──または妖とは、それが怪異を為して、はじめて妖怪とされるものであると共に、出没報告は減少していながら、怪異の発生報告は常に横ばいである。加えて、妖怪が生まれる条件の、少なくとも幾つかは明らかであり、これが再現可能である以上、否とするわけにはいかないというのも差別化の理由のひとつだ。また、怪異を辿れば妖怪に辿り着く以上、祓い屋のような商売が成り立つのであって、現代の祓い屋の存在は、逆説的に妖怪の存在を認めているのである。
 ──ミンミンと、夏の終わりのせみが鳴いている。
「ま、つまるところ時代劇みたいなものなんだな、幽霊というのは」
 静司は哀しげに呻いた。
「その喩え、やめてくださいよ。おれの愛した時代劇文化はもう過去の銀幕の向こうなんです。ふん、そのうち周一さんの足もそうなりますよ」
「……君にはデリカシーというものが無いのかね。毎日毎日リアルな妖怪に肌の上這いずり回られてる人間相手に」
「やだ、トウモロコシ食べてる時にやめてくださいその話。勃っちゃう」
「……」
 もう、真面目に相手にするのはやめよう。形の良い前歯で齧歯類のようにトウモロコシの実を確実にシャキシャキと刈り込んでいく不気味な姿から目を背け、周一は再び手元の資料に目を落とした。
 今度は某社の旅行キャンペーンで入手したパンフレットで、『九州の歴史と伝説をめぐる 親子で行く妖怪スタンプラリーの旅』とある。表紙には可愛らしい鍋島の化け猫や河童のミイラ、牛の妖怪や塗り壁などの九州発祥の妖怪の中に、人魂やくまモンも混じっていて、どうやら夏休み期間中の、ファミリー向けの誘致企画であるらしかった。
「きみが期待してるのはこういうのだろう。確かに史跡には妙なモノが集まりやすいだろうが、きみの収集癖はスタンプラリーを無視できない」
 さりとてこの広い九州一円を、妖怪やら何やらと、祓い屋と名を上げる怪士がわざわざ怪しいものを求めてウロウロするのも正気の沙汰ではあるまい。
 暦の上では立秋もとうに過ぎたが、今だまさに夏真っ盛り、周一はなにがしか静司に含むところがあるのかと訝しんでいたが、そういうことではないらしい。そもそも妖を集めるだけでなく、スタンプを集めるだけでなく、妖とは関連の無い怪奇譚や都市伝説を蒐集するのも、立派に静司の趣味として成立しているのだから。
 それを察したのではないのだろうが、静司は言う。
「──妖ってのは、条件が揃えば誰にだって見えるわけだ。つまり、その存在自体の是非を問う段階にあるものではない。一方で、『幽霊』に分類されるものの中身は未だにブラックボックスじゃないですか。実際の正体が妖の場合もあれば、それこそシミュラクラ効果である場合もあるし、単なる勘違いであることもある」
 それはそうだ。
 妖とひと括りにしても、出自も出方も様々である。それでも、実際にいわゆる神格の異なる妖が様々に存在するのは、祓い屋からすれば是と言わずして何とする。それは散文的な意味であり、観念的な実存などではない。
「肝心なのは、個人が自己の閉ざされた感覚の中でそれを見えたり感じたりすることじゃない。その中身です。そいつを知りたいと、おれは時々思うんです」
 ──生け捕りにして、まな板に乗せてみたいんですよ、と、静司は愉快そうに言った。
「罰当たりな祓い屋だな、君は」
「祓い屋にバチが怖い奴なんているんですかねえ」
「えーあー、うん、そうだな……仏教系の」
 もはや何をか謂わんやと、二人は黙って顔を背け声を殺して笑うしかなかった。
 そもそも仏教に霊とはまさにチャンポン信仰の賜物で、元来仏教に霊などという概念は存在しない。








 とうに夕暮れ近い。
 結局目的地は定まらず、普段馴染みの無い場所で車を転がしているだけでも静司は満足げだった。車は市街地を離れ、やがて山間部へと流れていった。気になる場所があれば車を停めて、川遊びに興じたり、軽い探検に興じたり、何と言うこともないドライブデートである。
 ──それにしても。
 ナビが示す山道は、深くに入れば入るほど、道幅が狭くなっていき、対向車が入って来ようものならちょっと厄介なことになりそうだ。しかし、その道というもディスプレイ上ではただうねりうねるばかりで、次第に山林と山道以外に地図が示すものは無くなっていき、あまりナビばかりを見ていると、認知がどうにかなってしまいそうになる。
 静司といえば、ねこのように首を伸ばして、ひたすらにご機嫌な様子だが。
「山って涼しいなあ。世俗の垢が洗い落とされますよねえ。大人っていいなあ、お金も移動も自由で、恋愛も自由で。なんていうの、幼児期マンセーのひとってマゾじゃないかと思うんですよね。不自由で、何もできなくて、ろくすっぽ何処へも行けない拘束期間に大人は一体何を夢見てるんでしょうね。喉元過ぎて熱さを忘れるってまさにこのことじゃないですか?」
 それはお前が子どものまま何も変わってないからだバカ、と言いたかったが、一理あるなと周一は沈黙した。

 そうこうしている内に、ナビの山中、山道から少し山あいに入ったところに『牟田母小学校』と記された目印が見えてきた。
 ゆるゆると陽も落ちはじめ、注意深く先に進むと、先に確かに岐路があるのが見える。無論小学校になぞ用事があるわけではないが、ほぼ代わり映えしない山道の一本道を進むのは、もはや無意味だと周一は判断した。時間はかかるが、Uターンして元来た道を戻るほうが確実なのは確かである。

 岐路から小学校に向かう脇道に逸れると、道は更に狭くなった。ほかに道が無いのであるから、小学校ならここが通学路になるのであろうに、崖を遮るガードレールさえない。運悪く転落でもすれば、車であれば木が支えてもくれようが、人なら断崖まっ逆さまである。
 しかし、よくよく考えてみると、この辺りに集落が点在していたのは戦後から昭和末期までのことで、今ではその集落もほぼ消えてしまったことから、このまともな通学路さえ無い山中の小学校に通う生徒が、いまだに多数居るとは考えにくい。
 というか、ありえない。
 いちじるしく過疎化しているのか、そうでなければ、廃校なのか。

 ──実際、たどり着いたそこは確かに廃校であった。もうその先に車が通れるような道はなく、封鎖された正門は鎖で何重にも封印されており、『牟田母小学校』と書かれた門札は、クソ田舎の暴走族の生き残りによる悪戯とおぼしき見苦しいステッカーグラフィティだらけになってしまっていた。
「…廃校だったか」
「廃墟もナビゲーションしてくれるなんて、さすが周一さんのカーナビですね、気持ち悪い」
「いちいち腹立つ男だな君は」
 とはいっても、廃校だろうが現役だろうが、Uターンできるだけのスペースがありさえすれば用事は無い。小学校を目印に来た道を戻ることを提案すると、静司は珍しく文句も言わず承諾した。







 ──そんでもって、10分近くは走っただろうか。

 異変に気付いたのは周一である。夕方も過ぎて周囲もいい加減辺りも暗くなってきていたが、対向車もなく、スムーズに走らせていたはずの車のナビに、再び小学校の標記が現れたのである。
「え」
 それが『牟田母小学校』──例の廃校であるのだから、目を疑うのも仕方が無い。山道はずっと一本道であったのだ。一旦引き返したのなら、どうやっても戻ってこられるはずがないのだから。
 すかさず静司も異変に気付く。さすがにそこはプロの祓い屋二名、取り乱すことはなけれど、結局何度引き返しても元の場所に戻ってきてしまうのだからお手上げだ。それも二度、三度と繰り返し、寸分違わぬ結果となると、思わぬハプニングに二人は途方に暮れるしかなかった。
「………やめだやめだ、ガソリンの無駄使いだ」
「JALに電話します?」
「嫌だよ、道に迷ったから案内してくださいって?」
 苛立たしく小学校前に車を停めて下車するや、生暖かい空気にむっとした閉塞感と共に、奇妙な感覚を感じたのは二人同時だった。
 周一は夏の雑草の生い茂る、濃厚な生と死の匂いの立ち込める一帯──自然の織り成す諸々を、忌まわしいように見つめる。
 歯も爪も血まみれの自然。
 人々が愛するのは無害に剪定された、牙を抜かれた箱庭の快楽だ。人々の社会通念は常に自然主義的誤謬に基づいている──自然は善などではない。然ればこそ周一は、鬱蒼とした山々の、悪意の塊のような闇の吹き溜まりがいっそ軽快にすら思えたのである。
 周一は施錠された小学校の正門を飛び越える。静司も後ろから続いたが、斯くして奇しくも夜間の廃校探険という、突き抜けた愚行を遂行するに到ったのであった。

「静司。念願の、心霊スポット探索だぞ」







 車から持ってきたライト一本では余りに心許ないと、静司は式である胡蝶を数匹ばかり侍らせて、ほんのりとした灯りを放ちつつ廊下を歩く。端から見ると此方が立派な怪奇現象である。
「ねえ周一さん」
「うん?」
「ここ、ヘンじゃないですか?なんか生臭い」
「まあ鍵開いてたしな」
「…臭い割になんかキレイですし」
 人の出入りしない施設や家屋とは朽ちるのも早いものだが、そうした廃墟のもつ頽廃的な雰囲気はここにはない。
 派手に荒らされた形跡も無く、門前のステッカーアートから連想されるような、田舎ヤンキーの巣箱になっているような様子でもない。
 ただ、確かに生臭い。
「うーん、こういうところは結構やくざの賭場なんかに使われてたりするからなあ……たまにアパートなんかで摘発されてるだろ」
 ──実際のところ、鍵が開いていたのは外階段から繋がる校舎の三階の鉄扉だけであった。明かりが点いていそうな箇所は無いが、過剰に手入れが行き届いている廃校というのは確かに奇妙である。少なくとも、定期的な清掃が行われているのは確かなようだ。ここがいつ廃校になったのかは知らねど、窓枠にすら埃が残っていないというのは些か異常ではなかろうか。
「やくざかぁ。際立った妖力は感じないですもんね。……だけど、普通わざわざここまで掃除します?何か汚れ作業でも行われてるんでしょうか」
「……」

 ──どうしても、清掃が必要な何か。

 思わず二人は同時に身震いした。
 しかし、だとしたらあの山道での無限ループは一体何だというのか。ここで「どうしても清掃が必要な何か」がたとえ人為的に行われていたとしても、一本道の道をループさせることはできまい。或いはいずれも独立事象であり、関連付けて考えるべきではないのか。しかし。
 山道での彼是に関してなにがしかの情報があるとすれば、この小学校以外には何もないのだ。常に小学校を起点としてループしているのだから、関連付けて考えずにどう考えろというのか。

 ふいに、パタタッ、と何者かが軽やかに廊下を走り抜けるような音がした。

 ──上履きの音だ。

 周一は何故かそう思った。
 ちらりと周一の目端をかすめた何かが、制服のスカートの裾に思われたのは、それゆえの連想かもしれなかったが。







 階下に降りるにつれ、周一も静司も、校舎内に明らかな人の気配を感じはじめていた。
 それもひとりやふたりではない。音楽室や視聴覚室といった、比較的外界と遮断しやすい場所に、何人もの人間がひしめいている気配が確かにある。
「賭場かな」
「まじですか」
「……多分間違いない。ご丁重に内側から目貼りまでしてやがる。大方三階のトイレかどっかで、首が回らなくなった奴の折檻でもしてるんだろうよ。その足で三階の階段から生きたままそいつを運び出して、あとは臓器売買の斡旋ルートを持ってる病院までひとっ走りってわけだな」
「いやに詳しいですね」
「よくある話だからな。やくざにはやくざの儲け方があるのさ。いいか、こんなアングラな賭場でカモにされてすかんぴんになってバラされるのは、別にうしろ暗い連中ばかりじゃない。素人が分別もなく調子に乗って、呈示されたルールにきっちり証文も書いて、それで勝手に自爆してるだけだ。都合が悪くなりゃあ、今ややくざよりもっとタチの悪い弁護士事務所にでも飛び込んで泣きつくのがオチさ」
 債務問題でなくとも、今や弁護士事務所にとって、やくざというのは恰好のエサなのである。もはや、どっちがやくざなのかわかったものではない。
「──どこでネタを仕入れるかはそれぞれだろうが、死ぬ覚悟の無い奴はこんな賭場になんか足を踏み入れるべきじゃない。それでもリスキーなギャンブルがやりたいのなら、まあそれに見合ったリスクは得られるだろうさ」
 覚悟があろうが結果がすべてだからな。周一はそう言って微笑した。
「……じゃあ、どうします?」
「どうって?」
「警察呼びます?それとも突入しますか?」
 周一は今度はコケにするように嗤った。
「バカなこと訊くな。それじゃ誰も得する奴がいない。それとも何だ、わざわざ私たちがリヴァイアサンに餌をやる理由があるのか?」
「……」
「違法だろうが合法だろうが、双方承知で命を賭けて遊ぶのに、いちいちケチをつける気にはならないね。法は法として存在するだけだ。破るも守るもひとの勝手さ。破った奴が支払うのは単なるコストだからな」
「なるほどね」
 静司は黙った。
 周一も黙った。
 何が起きているとも知れぬ校内は無音である。
「………周一さん」
「うん?」
 無音の中で、静司は困ったように笑った。

「……ロックだね」








 仕方がないので、その日は車中泊をすることになった。相変わらず山道はループしていたし、解決策になりそうなものは何もないのだから致し方無い。
 どうやら校内に侵入している連中は裏門から出入りしているようで、運動場に複数のタイヤ痕がみとめられた。人目につかぬように車庫だけは整備してあるのか、車輛は一台も見られなかったが、捜索する胆力はもはやない。

 取り敢えず明るくなればどうにでもなるだろうと、周一はさっさと寝た。そして、静司の短い悲鳴で目が覚めた。

 ──外は、明るくなり始めていた。

 車体の窓ガラスには、砂埃にまみれた、小さな手形がぽつんとついている。
 大きさは、子どものものであるように思えた。周一の脳裏に、昨夜校内の廊下で聞いた、パタタッ、という軽やかに上履きが走り抜ける音が再生された。まるで自分の存在を誇示するかのように。
 手形は、車の内側からつけられていた。
 片方だけの手形が。








 無限回廊からは、どうやら解放されたようだった。
 車を走らせても二度と同じ場所に戻ってくることはなく、注意深く見ても脇道になるような岐路は見あたらなかった。
 二人がほどなくして市街地に入ると、ふと思い至って、ナビで件の『牟田母小学校』を検索してみたところ、該当地は見つからないというにべもない答えが返ってきた。
 静司は憤慨したが、周一は何となくそのことを予測していた。
「──ああいう闇賭場を仕切る連中に、地図から消された場所だったのかもしれないな」
 実際、そういう場所を周一は幾つも知っているし、知っている以上に存在するのだと思っている。
「それがたまたま、何かの拍子でナビにひっかかった。地図から消されたはずの地名が再び現れて、我々は何故かそこに留めおかれた」
「誰に、ですか?」
 静司の無邪気な問いに、周一は肩をすくめる。
 当然、それは何者かの思惑だ。我々を当地に留めて何事かを成そうとする何者か。
 それは生者だろうか。或いは死者だろうか。けれども、どちらが好みであったとしても、蓋然性から鑑みれば、あの夜間の廃校の中に、生身の少女が紛れ込んでいたとは到底考えられない。
「………」
 ──答えない周一に、静司はもじもじしながらシートベルトをいじくり回している。何が言いたいのかは一目瞭然だったが、周一は微笑を浮かべただけで、言葉をかけることはしなかった。ただ、あの時二人が車内で寝静まったあと、上履きのまま暗がりから這い出して、フロントガラスに小さな手形を残していく制服の少女の姿を周一はふと思い浮かべた。
 それはひどく奇妙で、不条理だった。

 いわゆる『幽霊』というものが在るのだとすれば、それは『妖怪』とは異なり、人間と完全に共通する精神的な条理があることになる。
 だが、たとえそうであっても、周一はその常世の望みを叶えようとはしなかったに違いない。
 ──とうに命数の尽きたものが、もはや戻れぬ世界にいかにして変化をもたらすというのか。遺された結果を、自ら引き受けることもできないというのに。
 それは世界の攪乱だ。善悪やモラルが動かす世界ではないからこそ秩序を守るべきだというのは、理論として矛盾するものではない。


 ──それも、死んでみなければ判らんことか。


 静司が言った通り、自分たちが死んだ時、一体その葬いはどのような様相になるのだろう。
 死後ゆえに己がそれに拘わることはないとはいえ、それが確実でないというなら──些か尻の据わりも悪いというものだ。
 急に生々しい疑問に割り込まれ、周一はもうこのまま二人して行方不明になってしまおうかという、ロックと演歌のあいのこのような衝動を抱いたのだった。






 さて余談ではあるが──。
 地図に載っていない建物や場所、またはありもしない場所が掲載されていることはごくまれにある。
 通常は地図を作成した側のミスである事が多く、その旨を連絡すると幾ばくかの謝礼が出るらしい。しかし、そうした「誤掲載」の中には、わざと掲載しない場合もあるという。




【了】


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