変なコインランドリーの話


 24時間稼動しているコインランドリーは、都市というには少々夜の早いこの界隈でも、今では決して珍しいものではない。
 居住しているマンションにはランドリーサービスがあるが、出すにせよ受け取るにせよ不在が多く、また自身のタイムテーブルが乱れるのは些か億劫だというのもあって、実のところ周一は、意外とマメに自室の室内洗濯機置場に設置された洗濯機で自らの衣類を洗うのである。
 が、その洗濯機が壊れてしまったのが今朝のことであった。洗濯機というよりも、どうやらその下の排水溝に不備があるらしく、使うと水が詰まってしまい、どうにかしようと色々と試したのだがどうにもならない。待てば少しずつでも水は引いていくのだが、排水口に耳を澄ますと、いかにも詰まっていますと云わんばかりの音が聴こえてくる。
 結局時間的にもにっちもさっちもいかなくなったため、洗剤まみれの洗濯物をバスルームに出したまま一旦仕事に出かけ、先頃帰宅したというわけである。
 水廻り関係なら、修理を依頼すれば真夜中でも来てくれるのだろうが、所要時間を考えればできればやはり自分の休日が望ましいし、ぶっちゃけこんな時間から修理を頼むのはもう心情的に面倒臭い。どうにか溜まった水は引いていたが、もう一度試運転してみる気にはならず、取り敢えず水を出してみて再び排水口周辺に耳を近づけてみると、やはりゴビゴビと妙な音をたてている。もしかすると誤ってペットボトルのキャップか何かが詰まったのかもしれなかったが、パイプユニッシュでどうにかできるレベルとは到底思えなかった。
 そんなわけで、周一は致し方無くコインランドリーに世話になることにしたわけである。
 マンションにはランドリーサービスだけではなく、一階にのエントランス奥に住人専用の有料ランドリースペースが設置されているのだが、やはりそこは芸能人。充実した設備ときっちりと行き渡った清掃状態は魅力的だったが、背に腹は代えられぬ──洗濯をするのに通常に比べて大きすぎるリスクを背負い込みたくないと思うのは、全人類共通の願いではなかろうか。
 致し方無く周一は帽子にマスク姿という、夜中には少々怪しい出で立ちで、水浸しの洗濯物を袋に詰めて車に乗り込んだ。
 行くアテはある。地図検索をすれば24時間営業のコインランドリーなど幾らでも出てくる。あとは行くまま走るまま。儘よ、とアクセルを踏んで、周一の奇妙な悪夢は静かに始まった。








 駐車場の敷地を広く取ってあるそのコインランドリーは、最近になってできたもので、内装も広くてキレイな上、設備も色々と揃っている。
 マンションからは車で10分近く。町名も周一の住まいとは違うが、一応生活圏の内ではあるので、近くを通ることも少なくない。そういう立地であるからして、この新しくできたコインランドリーのことは無意識に記憶されていたのには違いない。それをたよりに、基本的に人通りも少ない場所であるからと、自然とここを選んだのはハッキリ言ってただの偶然であった。

 元々は長い間、此処にはいつからあるとも知れぬ、木造で平屋の集合住宅が建っていたと記憶している。しかもこれが、いわゆる文化住宅というのではなく、何というか、異様なまでに横長の、完全な「長屋」だったのである。
 無論、土地や建物の持ち主のことなど周一が知るはずも無い。また、何故これまで無人の土地を遊ばせていたのかなど知ったことではないにせよ、いわゆる廃墟であれば、もし何の予定もなく更地にしてしまえば固定資産税の増額もあるのかもしれず、解体費用も出ないので、結局長期間放置してしまうというケースは決して少なくないという。
 そこにたまたま買い手がついて、たまたまコインランドリーになった……普通に考えれば、よくある話ではないか。
 ──とまあ、一通りありそうな話を捻出しておいたのは、勿論周一の脳内でまったく違う可能性がよぎったからでもある。

 実は少し前のことになるが、この辺りのどこかで、そこそこ大きな火事があったのだ。

 正確な場所は定かではないが、もしかすると火事が起きたのは此処に建っていた長屋だったのかもしれない、と周一は思ったのだった。
 辺りを見渡してみても、それらしい痕跡がある場所、または夜中にも皓々と光るコインランドリーを除いて、新しく建てられたような建築物は特に見当たらない──。
 といっても、夜中のことだからまったく心許ないのだが、大体この辺りは街の中心には近いもののいわゆる下町で、家屋や建物もそれなりに年季の入ったものが多い。転出も転入も比較的少ないと言える地域で、景観が短期間でガラリと変わることなどそうは無さそうである。

 ──その火事では、死者や怪我人は出なかったと記憶している。

 周一はぼんやりとそんなことを考えながら、無人のコインランドリーに入店し、新品同様の洗濯機に水浸しの衣類を放り込み、金を入れる。
 ポッキリ1000円。
 ──高い。
 これではコインランドリーではないではないか、ビルランドリーと素直に書け、と怒りを覚えつつ、少量洗濯用の小型洗濯機の価格が辛うじて600円であることでどうにか周一は溜飲を下げるのであった。
 洗濯には大体30分余りかかるのが普通で、ある程度の広さのあるコインランドリーには基本机や椅子が用意されていて、ここもまた例外ではなかった。洗濯が終わるのを待つ人は、大抵ここに座ってスマホや携帯をいじったり、読書なりゲームなり予習なりをして時間を潰すのである。
 が、周一は車に戻ることにした。もし誰ぞが入ってきて、万一正体が知れたら鬱陶しい──というのは建前で、何というか、このコインランドリーはどことなく、

 ……どことなく、気持ちが悪いのだ。

 とはいっても、はっきりと何が、とは言えない。妖気はまったく感じないので妖怪の類は確かにおらぬのだろうが、どうにもいけない感じがする。いけない感じ──禁忌感とでも言うべきか。忌まわしい、という言葉が何故か適切に思われる。
 そうなると、どうしても思い出してしまうのが例の火事だ。
 余計なことを、と思いつつ、暇潰しに台本でも読んでおこうと持ってきたタブレットで、『K県S町 火事』で過去のローカルニュースを検索すると、まずは新聞記事がピックアップされた。
 地方新聞の片隅の記事によると、燃えて全焼したのは無人の木造アパートであったと書かれているが、これが此処に建っていた長屋であることは間違いはなさそうだった。
 何でも出火当時は火の勢いが凄まじく、誰もが近隣も大きな被害を受けると考えていたにもかかわらず、結局燃えたのは例の長屋だけで、怪我人も死人も一切出なかったために、地方新聞でも大きな扱いにはならなかったようである。ここまでは、周一の記憶している情報と変わりない。
 ──気にかかるのは、火元が不明だということくらいか。
 禁忌感と相俟って、何となく薄気味悪く感じる話だが、つまるところ無人の古長屋が全焼しただけの話だ。たとえ放火の可能性があったとしても、被害と言える被害が無いなら、現場検証が多少いい加減であっても心情的には致し方無いと言えそうな気もする。また、その時には判らなくても、後の調査ではっきりした可能性もあるだろう。しかしその場合だと、当然続報など報道されるわけもないのだから、世間的には不明のままで話は終わってしまう。そしてもしもここに、怪談的な要素が加えられる何らかのソースがあれば、たちまち都市伝説の出来上がりだ。
「………」
 周一はバックミラーで店内の大きなドラム式洗濯機がひとつ、ぐるぐると勢いよく回転しているのを見る。ほかには何もない。何もおかしなものは視えない。

 ──なのに。

 何故だか判らないけれど、今すぐにでも此処から走り去ってしまいたいという強い気持ちに駆られて、周一はエンジンを切った車のアクセルを、無意識にカチカチと足先で踏もうとする動作を繰り返した。
 そして思う。

(……夏目や静司なら、何かが視えるのだろうか?)

 斯様に理屈の合わぬ恐怖は、人の──時には自分の不安や恐怖を飯のタネにしている周一にとってはどうにも解せない事態であって、こうなると恐怖は些かの好奇心を帯びるようになる。好奇心が恐怖に変容するのではない、祓い屋ならではの段階思考である。
 タブレットの検索ワードを変えてみると、今度は週刊誌の胡散臭げな記事が目についた。同じ長屋の火事に関する記事だが、今度は火事そのものに焦点を当てず、焼失した建物について、奇妙な考察をあげている。

『……そのK県S町で焼失した木造アパートは、正式な築年数は不明であり、地元の古くからの住民も、幼少期には既に人の出入りは無かった、と語っている──』

『長屋の内部について知る者は無く、外観についても、戦後の河川の治水工事に伴う周辺区域の埋め立て工事によって、ちょうど全貌が隠れる形になり、住宅の密集地や通学路からもわずかに離れていることから人目にもつきにくく……』

『……ただ、幾つかの証言によると、建物には窓がひとつも無く、近隣のコンビニエンスストアに勤める女性によると、入口である引戸の入口は、「大人がそのままの姿勢で入るのはほぼ不可能な大きさであった」と証言している』

 ──記事はそこで終わっている。
 周一は思わず眉をひそめた。別の意味で気持ちが悪かった。
 ……これではオチが無いではないか。
 火事について触れられているのは最初の三行ほどで、あとは建物の立地や噂にとどまる程度の証言に尽き、実際に聞き込みをして回ったというなら、それこそ一体何のためにそれを行ったのかがまったく判らない。
 ──とはいえ、この近くにコンビニがあるのは事実で、それが奇妙な臨場感を掻き立てる。
 もしもこれが事実であれば、90年代のオカルトブームにでも幽霊屋敷として弄ばれていそうなものだが、特に厳重な遮蔽物があるわけでないにも拘わらず、部外者の侵入形跡や落書き、いたずらの類は見られなかったというのだから確かに不思議といえば不思議である。
「……コンビニ、ねえ」
 火事自体は一年以上前のことであるから、証言を提供したというコンビニ勤めの女性が実在したとしても、現在でも勤務しているかどうかは微妙だ。第一、営業中のコンビニで、一体何をどう訊けというのか。
 それどころか、一歩間違えれば不審人物である。
 だのに、周一は考えるより先にキーを廻していた。とはいえその動機といえば、答えを知りたいのではなく、ただ立ち去りたかったのだ。







 レジに立っていたのは勤労意欲などゼロに等しそうな若い男の従業員だった。
 もしも例の女性店員であったら──などと期待をしたのは、さすがに都合がよすぎるだろう。とはいえ、ほかに客が居ないのはもっけの幸いと、周一はカウンターに立ってアイスコーヒーを頼んだ。
 この系列のコンビニのコーヒー販売は、セルフサービスではなく、カウンターの中で店員がコーヒーを入れるシステムだ。これも話を聞くにはちょうどいい。
「あーすまないが君、この辺りにコインランドリーがあったと思うんだが」
「えっ」
 やや雑な様子でアイスコーヒー入れていた手が、明らかに驚いたように跳ねた。
 話し掛けられると思っていなかったのか、と少々申し訳ない気分になったのは一瞬の事だった。店員は明らかに動揺した様子で、まだ満タンになっていないカップをひっくり返したことさえ気付かない勢いで此方を振り返ったのだ。
「こっ、コインランドリー、ですか?」
 周一はビビった。
 ビビッたが、動揺を隠してにっこりと笑って見せる。お前俳優だろ、笑えよ、と役者魂みたいなやつが耳の奥で囁いたのである。
「ああ、確かこの辺りに一軒大きなのがあったと思うんだけど。いや、家の洗濯機が故障しちゃってねー。用事がない時はよく見るのに、いざ探すとなかなか見つからなくて困るよ」
「………」
 店員は無言で慌てて新しいカップを取り出し、再びコーヒーメーカーにセットする。ひっくり返したカップから氷が散らばったのを気に留める様子も無い。
 その背中がわなないているのを、周一はじっと見つめる。
 わなないて──いや。

 はっきりと、震えているではないか。








「この地区の人間は皆あそこには近づかないっすよ」
 退勤直前だった店員を待って、彼がバックヤードで帰りの仕度をしている間に買っておいたもう一つのアイスコーヒーを手渡すと、その相好は幾分か弛んだように見えた。
 その理由はまた、周一の正体があっさり知れてしまったことにもあるかもしれない。相手が同郷の人気俳優・名取周一であると知るや、即座に全面協力を申し出たものだからこれにはさすがに笑ってしまう。
「この地区の人間、というのは……?」
「まんまっすよ。この一帯に昔から住んでる連中のことっす」
「何か謂れのようなものがあるの?」
 男はちょっと考え込むようにして、ややあって話し始めた。どうやら、見た目ほど軽薄な雰囲気ではなさそうに思えた。
「……昔の治水工事以前、つっても正確にいつのことかは知らないんすけど、この一帯は川に囲まれた浮き島みたいになってたらしいんすよ。まあ、一応一部は地続きになってたんで行き来はできたらしいんすけど」
 先ほどの週刊誌の記事によれば、河川の治水工事に伴う周辺区域の埋め立て工事に関しては、確か「戦後」とだけ明記されていた筈だ。
「なるほどね。それで土地に高低があるわけだ。土地を浮き島状態にしている河川を新たに引き直して、さらに地盤を高くすることで浸水対策をしたわけだな」
 男は頷いた。もはや就業時のような無愛想ではない。
「この辺りが浮き島だった頃から住んでいる連中は、今はその……コインランドリーになってる場所に近づいちゃいけないし、話をしたりするのもいけないって教えられてます」
 周一は眉を寄せた。
 あの──長屋には一体何があるのか。
「火事になる前の、建物のことだね?」
 男は強張ったまま頷いた。
「……何でもあそこは昔、病気になった子どもを閉じ込めていた建物だったんだそうです」
「え?」
「たとえば子どもが病気になっても、それがなかなか治らない病気だったり、あとは生まれた子どもがちゃんと育たない感じだったりしたら、あの建物に入れられて死ぬまで放っておかれたとかって」
「……子ども?」
「はい。何て言うんですかね、口減らし?とか、そういう意味じゃないかっていうのは聞きましたけど」
「子どもを……か」
 独り言のように呟いて、周一は妙な気分になった。
 例の週刊誌の記事を思い出したのだ。
 窓が一つも無く、『大人がそのままの姿勢で入るのはほぼ不可能な大きさ』の扉。「死ぬまで放っておかれた」ということは、いわゆる間引きを誰かが引き受けていたのではなく、その子どもたちは文字通り、単に死ぬまで放置されていたのではなかろうか。
 一方だけなら意味が判らないが、証言を併せれば確かに辻褄は合いそうな話ではある。土地の高さからしても、確かにあの場所は、治水工事前には「浮き島」の内側にあったのは間違いないのだ。
 しかし、焼失した建物は、戦後云々というレベルの年季ではない。そもそも建物が使われていた時分を知っている人間が既にいないことから、もはやその「子どもを閉じ込めていた」というのも口伝の域である。例え郷土資料に残っていたとしても、正直そんな話は世界全土どこにでもあるものではないのか──勿論、是非は別として。
 そうなると一層の謎だ。どう見ても二十歳前後の現代の若者が、左様ほどにこの話題を怖れる理由は何なのだろう?
「火事は確か、一年ほど前だったっけ」
「えっ……ええ」
「随分燃えたそうだけど」
「………」
 男はもう、真っ青だった。何かがあった──そして何かがあったことを、彼が知っているのは明らかだった。
「すまない、まずいことを訊いたのかな、私は」
「いえ、あの──」
 本当に当人にとってまずいというのなら、もう逃げられても仕方ないタイミングである。そして彼には容易くそれができる。できるにも拘わらずしないのは、事態が当人にとって深刻でありながら、彼の望みはここから逃げ出すことではないからだ。
 周一は畳み掛けるように追い打ちをかけた。
「口外するつもりはないよ。嫌な思いをさせてすまないね」
 迷惑料のチップを男のポケットに挟む。斯くも怖れている現場近くのコンビニで深夜勤務を選択するからには、それなりに金はものを言うはずである。
 男はややあって、じりじりと迷ったように周一の顔を見た。
「……名取さん」
「なんだい」
「……呪いとかって、信じます?」
「うーん……場合によるね」
 呪いとして成立する精神的な楔は確かに呪いだと言えるし、妖や呪術師が駆使するシステム化された呪術も呪いとして機能する。
 ただ、一般に流布する「呪い」が何を意味するかとなると、きわめてあやふやな答えしか出すことができない。
「……あの火事の数日前のことです」
 明確な答えを待たずして、男は語り始めた。


 ──男の話はこうだ。

 それは一年前、長屋に火事が起こる数日前のこと。
 宵の口になった頃に、この一帯の家庭の戸口を叩いて回る、着物姿の人物が現れたという。
 着物姿の人物はその後、数日にわたって、かつて浮き島に属していたすべての家庭を余すことなく廻っていった。
 その人物は、必ずその家の年長者を訪ね、例の長屋を「蝮壷(まむしつぼ)」と呼んだという。
 そして、来たる火事を予言し、

『浮き島の末裔は、決して蝮壷の焚き火を見てはならない』

 という忠告を繰り返したという。

 その着物姿の人物が何故、かつて浮き島に属していた家を知っていたのかはまったくの謎であり、実際浮き島に属していなかった家や、外から移り住んできた家庭には、その人物は訪ねてこなかったという。

 そして数日後。
 予言通りに長屋から火の手が上がった時、不気味に思った浮き島の住民の多くは、物忌みのように各家庭に閉じこもった。
 しかし、火事の野次馬の一部には、かつての浮き島の住民が紛れていた。その全員が十代の若者だった。
 火事は長屋の基礎工事まで完全に焼き尽くすまで続いたが、その火の手が収まる頃、野次馬に紛れていたかつての浮き島の住民の末裔であった少年少女は、全員が全員、不審な死を遂げた。
 また、その中には、例の週刊誌の取材を受けていたコンビニ勤務の女性従業員も含まれていた。

 それ以来一帯では、以前にも増して、件の長屋やその火事に関して、堅く口を閉ざすようになったという。


 ──以上が男の語った話である。


「ふむ……」
 情報としては新しい。
 が、話のパーツとして主題に噛み合わせるのが難しい。いや、寧ろ今の証言が主題なのか──今一つ思考が纏まらないまま、周一は何気なく問い掛けた。
「その着物姿の人物というのは、君も見たのかい?」
 男は、今度ははっきりと頷いた。
「見ましたよ。とてもキレイな人でビックリしたんす。長い黒髪で女の人かと思ったけど、でも声が低くてそれで男だってわかって──」








 真夜中でも、的場邸の門戸に一歩踏み入れば、SPみたいな強面で屈強な呪術師が出迎えてくれる。
 ──が、今日の出迎えは弥勒三千の姥桜、的場家の陰の頭主と言われる七瀬であった。
「おや名取。うちでわらじを脱ぐ気になったのかい」
「ご冗談を」
「まあ上がりな。的場は居ないよ」
「は?」
 七瀬は何もかも知ったような顔をして言った。
「夕方に御山に潔斎に出たきりだ。じきに帰るだろうが、どうせ蝮壷の話だろう?お前が来るのは先刻承知でわざわざこうして待っていたのさ。さあさ、とっとと上がりな」
 眼鏡の奥の、理知的な眼がす、と細められる。嫌味な口調とは裏腹に、悪意はまるで無さそうだ。
 今に知ったことではないが──的場一門一番のくせ者は、実はこの女なのである。







「あのおかしな長屋は巫蠱術に使われていたものだよ」
 些かぶっきらぼうな様子で、七瀬は唐突に本題に入った。
「うちの備忘録に書き付けがあってね。昭和初期までは実際に使われていた形跡がある」
「……人間を使ったものですか」
「呪術師の手によるきちんとした記録は残っていないがね。恐らくは、間引いた子どもたちを使って作り出そうとしていたようだ」
「……」
 まさか、これだけのやり取りに全てが集束されているとは。
 ──もはや完全に得心がいった。
 巫蠱術とは、遥か昔に大陸から渡ってきた道教呪術で、強力な神霊を人為的に造り出すための術である。虫を箱の中で殺し合わせ、最後に残った一匹を「蠱毒」と呼んで術者が使役する──というのが有名だが、これは応用面で様々に派生を生んだとされている。
 つまりである。
 件の浮き島に住んでいた人々は、間引き──つまり口減らしをするにあたって、あの長屋の中に子どもを放り込むことで巫蠱を行っていたことになる。
「そういうことでしたか……。だが一体、浮き島の人々は何のためにそんなことを……」
「浮き島の地主が名のある呪術師だったためさ」
「それだけで?」
 七瀬は微笑したまま頷いた。
「それだけだよ。当世あたり前のことでも、親としちゃあただ間引くのは辛かったんじゃないだろうかね。そこを、地主が言葉巧みに、間引かれる子は神になる、強力な神霊として甦る、と囁けば多少なりとも親は救われたんじゃないかと思うがね」
 まあ、あくまで推測さ、と七瀬は肩をすくめた。
 カチカチという規則正しい時計の音が、パチンと鳴って午前二時を告げる。この邸には夜がない。否──的場邸には朝が来ないのだ。
「……あの蝮壷を的場が焼き払って、今日で──いや、もう昨日だな、ちょうど一年になる」
「やはり、浮き島の住民宅に現れた着物姿の人物というのは彼だったんですね」
「そうさ。ふふ、鼻だけはよく利くらしい」
「何故」
「何故?」
「どこかから、依頼があったんですか?いや、それより長屋の中の巫蠱は──」
「まあまあ。落ち着かんか、名取」
 七瀬は面白いものでも観るように、喉を見せてカラカラと笑った。もう還暦を過ぎていよう女だが、この美貌でこうも無邪気に笑うと、周一の目にも恐ろしく魅力的に見える。
「──あの蝮壷は大層な出来でな。地主の術者が居なくなったあとも、長い時間をかけて史上最凶とも言える禍物を造ろうとしていたのさ。蝮壷は妖力も呪力も一切漏れぬ完全な造りだったが、的場の目はアレを見逃さなかった」
 お前だって気付かなかった口だろう、とからかわれると、確かに返す言葉もない。
 おもむろに襖が静かに開き、若い娘が茶を運んでくる。周一は娘に微笑みかけるも、まるで道端の犬の糞でも見るような目で応酬される。笑顔は行き場を失って、七瀬の助け船など期待するだけ無駄というもの。
 名目上は不倶戴天の敵とされている名取には、さすがの的場家である。
「……」
「しかし、何しろ百年以上の邪気が形になりつつある蝮壷だ。的場も刺し違える覚悟はしていたが、十分に潔斎して臨んだ火焔呪は一夜で見事に蝮壷を焼き尽くした。妖力の欠片さえ残らんほど見事にな」
 ──そうか。
 火元は不明だというのは、そういう理由だったのか。
 パズルの細かなピースが集まって、全貌がはっきりと見えつつあった。
「それで、今日は一年目の潔斎というわけさ。あれも随分と寿命を縮めたろうからな」
 言いながらもどこか面白そうにしている七瀬は、無造作に正面玄関からバタバタと上がってくる足音に耳を済ませた。
「………おっと、噂をすれば、だ。大方滝壺で泳いで遊んでいたんだな。──ああ名取、お前の靴は勝手口に運ばせておいたから、的場に気付かれんように帰るといい。顔を合わすのは気詰まりだろう」
 すっくと立ち上がる七瀬を、周一は慌てて掴まえる。
「ちょっと、ちょっと待ってください、どういうことなんですか?静司は何故わざわざそんな厄介なものを──」
 そうだ。依頼をうけたのでないのなら、誰も知らざる危険なものを、わざわざ無報酬で引き受ける理由など無いではないか。
 そしてそれは、ちょうど、きっかり一年前の出来事だった──これが偶然で済む話ではあるまい。
「浮き島のかつての地主は」
 眼鏡を掛け直し、僅かに襖を開いた老美女は、見返り際に何でもないことのように言った。


「──姓を名取といったのさ」


 末裔のお前はただ、巫蠱の残穢に呼ばれたのだろうよ。

 最後にそう言い残して、音もなく襖が目の前で閉じていくと同時に、周一は悄然としたまま再び腰を落とした。




【了】


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