理論と証明


 今や押しも押されぬ若手人気俳優である名取周一は、ある日の早朝、スタッフや共演者と共に、映画の舞台である沖縄県那覇空港に降り立った。その那覇市を擁する沖縄本島那覇泊港から船で約一時間、ロケ地は離島ならではの自然が観られる群島であった。
 本土をはなれた離島の撮影は初めてではないし、周一は沖縄とその周辺の、独特の気候風土が好きだ。県庁所在地である那覇市内でさえ異文化の複合都市としての色を多分に露出している──渡来の文化と土着の文化が無理なく同居している奇妙な伝統と風俗。エキゾチックな世界は、周一にとっても完全な非日常だ。
 今回出演するのはインディペンデント系の作品で、制作規模はさほどではなく、巨大なスポンサーがつく大規模な撮影と比べると遥かに気楽な雰囲気だ。作品は沖縄の海中を主題にした風変わりな恋愛物語で、何より周一の役どころが主人公の恋人ということもあり、特に女性ファンの間ではちょっとした話題になっている。
 予算の関係で撮影スケジュールはかなりタイトではあったが、初日の撮影は好調だった。数台のクルーザーを使った海上のオープン撮影はなかなかインパクトのある面白いものだった。共演者たちは皆気さくで、スタッフや監督と打ちとけるのも早かった。
 幸先良いスタートだと思った──それは撮影初日の日没後のことである。








『やあ、名取。元気かい』
「……」
 出演者とスタッフたちが、クランクインを祝う小さな船上パーティーの準備を進めている最中、周一のテンションは急降下した。携帯の通話口から聞こえてくる女の親しげな──けれどもどこか打算的な口調。別段嫌悪するのではないが、敢えて声を聞きたい相手でないのは間違いない。
「……これは、どうも。こんばんは、七瀬さん」
『お前に頼みたいことがあるんだ』
「……」
 のっけから用件を一方的に押し付けてくる馴れ馴れしい調子は、輪郭のあやふやな不安を生むと同時に、痺れるような警戒心を引き起こす。慣れ親しんだ感覚──それらは否応なしに周一を現実世界に引き戻す。現実世界──それが「現実」という言葉に対する恣意的な理解でしかないというのは承知の上だ。
 俳優である名取周一。旧家の末裔である名取周一。そして、【祓い屋】である名取周一。そのすべてが現実であるのに相違は無いが、人々が実感する「現実」とは往々にして最も過酷であり、時間と労力の投資を余儀無くされる側面に対してだ。悲劇や苦悩は現実であり、幸福は非現実。実のところは恣意性に満ちた根拠の無いバイアスでしかないのだが、周一とてその例外ではない。ただ彼は、その言葉の欺瞞に気付いているというだけだ。
「……仕事中なんですが」
『知ってるさ。【珊瑚と水雲】とかいう恥ずかしい映画の撮影だろ』
「……」
 何で知ってんだオバハン。口に出しそうになり、周一はぐっと呑み込んだ。
『どうせ初日の撮影なんか、もうお開きなんじゃないのかい。どうせこれから打ち上げでもやろうって算段なんだろ』
「……」
 またしても周一は口ごもる。間諜でも雇っているのかと本気で疑いたくなる彼女の鋭さは、ジョークでは済まない切れ味がある。彼女が既婚者かどうかなど知るよしもなく知りたくもないが、こんな油断ならない女と一生を添い遂げる伴侶の艱難は、想像するに堪えない。
「ええもう、まったくその通りで」
『まあいい。まだ酒は入ってないんだろう。取り敢えず話を聞いてくれないか』
「はあ──」
 気が進まない。というか、むしろ急用を装って、さっさと話を切り上げて逃げてしまいたいくらいだ。
 七瀬女史は、的場家現頭主である的場静司の側近のような存在だ。──とはいえ、先代の時分から的場家に仕えているから、何だかんだで実のところは、年若い静司のお目付け役のような存在なのではないかと周一は考えている。的場にかかわる関係者との人脈も多岐にわたり、実際に諜報活動のような真似もやってのける、飄々としているが実に怖い女性だ。
 そうなると、その彼女が、こちらの事情をつぶさに知っているにも拘わらず、わざわざ何の用事を依頼しようというのだろう──ましてやこの名取に──かつて自分たちと対立していたという過去の経緯をいまだに根にもつ的場家が。そのことを鑑みると、興味が疎ましさに勝るような気もしないではないのだが。
「で、何なんですか」
『実は、頭主と連絡が取れない』
 間髪もなく、淡々と核心を暴露した彼女の語調から紛れもない焦燥のようなものを感じ取り、周一は途端に絶句した。
「……」
 ──いや、違う。それよりも。
 彼女の焦り以上に、動揺したのは自分のほうだ。背筋に冷水がつたうような錯覚。理性が浮き足立つなと警告を発する。
「連絡が……取れない?」
『昨夜の最終便で沖縄に飛んだ頭主との連絡がつかなくなった。今日の昼頃からなんだが』

 ──ドクン。

 同じ言葉を繰り返され、周一は自分の心臓が激しく脈打つのを感じた。一瞬にして息苦しさが蛇のように喉元を締め付ける。
 連絡がつかない?今日の昼頃?頭主──つまり、静司との連絡がとれない、ということか?
 単純な説明をうまく理解できない。周一は噛み砕くように情報を整理する。
「……」
 ……いや待て。
 周一は混乱に向かう思考回路を無理矢理引き戻す。
 昼過ぎ──推定午後一時前後から連絡が取れていないとしても、それでは正味まだ五時間にも満たない計算になる。子どもではあるまいし、それほど騒ぎ立てるようなことだろうか。
 それを口に出そうとして、周一は再び意識の手綱を引き締めた。何を馬鹿な、と己の浅慮を戒める。
 ──相手は、的場家の頭主だ。それこそ子どもではないのだから、携帯端末なぞでなくても連絡を取る方法はいくらでもある。ましてや移動中には常にボディガードをつけている彼が、何時間も完全な音信不通になることなどあり得るのだろうか?認証性を加味すれば、これは相当に特殊なことではなのいだろうか?
「……心当たりはありますか?」
 平静な様子を装って絞り出した声は、ひどくおぼつかなかった。
『沖縄本島にあるうちの拠点から自家用ヘリを駆動して、東シナ海上の久米島に到着した報告が残っている。今回の仕事の目的地がそこだ』
「それで?」
『そこから引き揚げて、それきりさ。南下したのは分かっているが、無線は繋がらない、連絡はつかない、ヘリは行方不明、とそういうわけだ』
「捜索はどうです。警察には連絡を?」
『本邸は既に動きはじめているが、警察はまだ無理だな。連絡がつかない、だけではさすがに急には動かない』
「相手が的場家でも──」
『警視庁だの公安部だのに殴り込むわけにはいかないだろう。下っ端相手じゃ時間の無駄だよ』
 ──でもお前なら。と七瀬は続けた。
『……緊急事態だと、わかるだろう』
 七瀬はもはや、焦りを隠していなかった。静司の片腕とも言える彼女が、この名取家の末裔に、的場家頭主の身柄の捜索権を預けてもいいと判断するほどに、事態は切羽詰まっているということか。
『お前が沖縄に来ていることは偶然知った。無理は承知だが、できるなら捜索に協力して貰えないだろうか。相応の報酬を支払う用意はある』
 一見向かうところ敵無しの、海千山千の鉄の女が、こうもしおらしいと気持ちが悪い。
 動揺を圧し殺し、精一杯に軽薄な態度を作り上げようとする。役者には息をするような作業がこれほど困難であるとは思わなかった。周一はややあって、携帯の向こうで狼狽する女に、軽妙な調子で言い放った。
「──高くつきますよ」
 七瀬は毅然と答えた。
『承知の上さ』










 実家で少々トラブルがあったらしいので連絡をしたいという名目で、まんまと宴席を抜け出た周一は、宿泊施設には戻らずに、海沿いの高台へと出た。
 感度は正常だが、案の定電話が通じる様子はない。こちらではなく、恐らくは向こう側の問題だ。ヘリの失踪──久米島から南下しているなら、現場はそう遠くないはずだが、墜落している可能性も考えられる。
 けれども、業界でもくせ者扱いの周一にとっては、そんな事情はものの数ではない。誰にも師事せず腕を磨くことによって、周一は普通の祓い屋には考えもつかないような奇抜な技術をいくつも体得している。最悪のケースは静司が既に死んでいるという事態だが──。
「……あれが大人しく死ぬタマか」
 周一はもたげる杞憂を振り払い、紙面に静司の名の記した式を四方に放った。放たれた式は周一の目となる。そして記された名の主を探し出す式の動力は、周一の血によって術者直々に書かれた強力な呪印。位置特定はこれで十分だ。距離が近いのが何よりのが幸運──いや、だからこそ七瀬は自分を選んだのではなかったか。
「……よし。あとは」
 周一は携帯端末を握り締めた。
 この道具の使い途について、電波圏であるかないかは究極のところどうでもいい。端末は単なる触媒であり、互いの持つ不可視の力──いわゆる妖力が強く共鳴すれば、触媒を通して言葉をかわすことが可能になることがある。通話用端末が普及した現代では、こうした仕組みに妖の悪戯がからむことは決して少なくないからだ。周一自身が実際にそうした事例と対峙してきた以上、方法と仕組みは十分に理解している。
(静司が今、私のことを考えていてくれていたらな)
 しばらく考えて、苦笑した。単なる術式構造に対する要求が、拙い思慕の文句ような語彙でしか表現できない。でも──もしそうあってくれたなら、理論上の成功率は飛躍的に上がる筈だ。交感術の仕組みとは主に鍵と鍵穴のような関係で成り立っているが、両者は鋳型を持たない人間のあやふやな精神を基盤としているため、その成功条件は、いかに互いの思念を聞くことができるかということに収束されていると言ってもいい。
 ──つまり、周一にとっては、苦手な術の典型だった。








 周一はひたすら待ち続けた。合図を待ったのだ。どう動くかの合図──取るべき行動を示す標を。
 強力な呪印の施された式であっても、捜索範囲は無限ではない。周一の現在位置、慶良間諸島周辺群島圏からであれば、かろうじて沖縄本島までがカバーエリアに入るくらいだ。たとえば墜落後に流されるなどのハプニングで、対象の居場所が捜索範囲から大きく外れてしまっていれば、かなり面倒なことになる。捜索範囲のジャンクションポイントを見つけ出すためにこちらが動かなければならず、そうなれば警察の捜索隊にでも頼ったほうがよほど効率がいい。
 ──けれども幸い、懸念はすぐに払拭された。
 地面に描いた簡易の円陣から、さあっと風が立ち上る。式が対象を見つけた合図だ。はからずも胸が高鳴った。
 式は使役者の目の役割であっても、とりわけ死者の体を探し当てるのは難しい。死者であった場合、それを物質として認識してしまうのが理由であり、諸説はあるが、死者の固有性を意識してしまう使役者との認識の間に「有か無か」の齟齬が生じるのが困難の原因ではないかと周一は考えている。そうでなければ「モノ」を探し当てることは容易でありながら、「死者」だけがそのカテゴリーから外れてしまう理由が見つからないからだ。
 とにもかくにもこのことは、彼が生きていることを意味していた。経過は上々だ。あとはそれを証立てて、こちらは的場からごっそり報酬をいただけばいい──。
 周一は携帯電話を手に取った。何もしないままそれを耳に当て、再び彼はひたすら待った。10分、20分……。高台からは、絶え間なく囁くような潮騒が聞こえる。もうパーティーは始まっているだろうか。それとも終わったのだろうか。時間感覚が狂っているのがわかる。的場本邸は捜索に動き始めたと言っていたが、静司や七瀬のいない的場は案外段取りの悪い烏合の衆だったりするからな。あの七瀬女史が癇癪を起こすところなんか見ちゃいられない。第一頭主不在などと聞けば、喜んで飛んでくるような連中があの一門の周囲にごまんといるというのは頭の痛い問題だろう──ああ、だけど、そんなことはどうでもいいんだ。そんなことよりも。

 ……応えてくれよ、静司。お願いだ。

 周一の背後の遊歩道を、若いカップルが手を繋いで通り掛かる。端から見れば周一も、道端で電話をかけているただの男にしか見えないだろう。足元の円陣など暗くて見えはしないだろうし、自分が名取周一だと気付かれる心配もない。ショウビズの世界と現実の裏側を行き来する名取家の末裔は、他者を欺き、身を隠すすべを存分に心得ていた。
 苛立ちまぎれに舌を打ち、さらなる長期戦を覚悟して周一はその場にしゃがみこんだ──その時だった。
『……………誰です』
 通話口から確かに聞こえた声の断片に、周一の身体は雷に打たれたように震えた。その聞きなれた澄んだ水面のような声音に、周一はすぐに反応することができなかった。そんな動揺をせせら笑うように、潮の香りを含んだ風が鼻先をかすめていった。
 それは紛れもない──歩く路を違えながらもひたすらに互いの心を探し合う、宿命の男の声だった。










「今、どこにいるんです」
『島です』
「どこの島ですか」
『わかりません』
「どんな島ですか」
『へんな島です。マングローブだらけで。あ、マングローブってね、水中から生える植物の総称でマングローブっていう固有名詞があるわけじゃ』
 周一は無視した。
「何かトラブルがあったと」
『ヘリコプターが墜落しましたね』
「メンテナンスに不備が?」
『いえ、狙撃に遭いました』
「……怪我はしていますか」
『お腹に穴が空いています』
「穴!?」
『やくざの流れ弾で』
「ほかには!?」
『右足首がスイカみたいに』
「……ほかには」
『空腹です』
「……」
 ヒトデでも採って食ってろ、と言いたくなるのを、周一はぐっと堪えた。狙撃に墜落、やくざ、腹の風穴。剣呑なキーワードの嵐、本当なら死んでもおかしくない状況の想定に、あまりに余力のある態度の違和感。どれも恐らく嘘ではないのだろうが──畜生、心配して損した。
「…………現在位置の特定はできますか?」
『できませんよ』
「動きたくないだけでしょう」
『まあ、そうですね』
「動けませんか」
『無理』
「……」
 ──首絞めて殺したろかこのクソガキが。
 端末を握り潰しそうになって、周一はふと我に還った。落ち着け、怒り狂っている場合ではない。勿論こちらが真摯であっただけ、腹が立つのは道理だが。
「……実は、七瀬さんから連絡がありまして。頭主が行方不明なので捜し出して欲しいとの直々の依頼が」
『七瀬が?』
 その名を出した途端、一転して応答の調子が変わる。僅かに緊張を取り戻したような語調。どうやら自分が一門の総帥であることをようやっと思い出したようだ。
「そう」
『あなたに?わざわざ?』
「そうです」
『………』
 何を思うのか、静司はしばし押し黙った。名取に頭主の捜索を依頼するという、的場にとってはある意味暴挙とも言える行為に憤っているのだろうか。
「怒っているんですか」
 ここはストレートな問いかけ。事情の詳細は知らないが、静司に一つの落ち度も無かったわけではあるまい。
『……まさか。驚いているだけですよ』
 嘆息するように、静司は言った。
『七瀬にではなくてね。使えるものは何でも使うというやり方は我々の共通項でもありますから。ただ、その……あなたにどうして──』
 その語尾からは、あからさまな戸惑いの色がうかがえた。まるで見知らぬ場所で迷い惑う、不安な幼い子どものようだ。
「どうして?」
『……あなたにどうして、わざわざこの私を探し出す理由があるのかが分からない』
 自分が野垂れ死んだなら、お前に得はあっても損はないだろう。静司は言外にそう言っているのだ。
 周一はあっさり答えた。
「報酬に目が眩んだということにしておきますよ」
『──金、ですか』
 馬鹿な、と周一は鼻で笑った。
「……金を稼ぐために来たら、この騒ぎに巻き込まれたんです。金が目的なら本末転倒だ。祓い屋ふぜいの小金稼ぎなら、映画の興行収入に執着したほうがよほどメリットがある」
 傷口に塩を塗るような嫌味に、一瞬相手が絶句する。周一はもう十分満足だった。別に何も、相手をいたぶるのが目的なのではない。茶化してはいるが、静司が安穏としていられる状況でないのは間違いないのだ。
 ただ、声を聞きたかった。心を交感させることでしかなしえない術式の完成は、間違いなく互いが互いを呼び合ったことを証明したのだから。
「──今からクルーザーを回しますから、そのまま待っていてください。飛ばした式のルートを追います。ここからなら現場はかなり近い」
『え──あ』
 静司はその時にはじめて自らの傍らに、紙を切り抜いてあつらえられた名取の式符が浮かんでいることに気付いたようだった。役目を終えた式が発散するのはごく微弱な妖力ではあったが、それにさえ気付かないほど疲弊している──周一は待ちきれずに港に向かって走り出していた。
『周一さん』
「はい」
『……借りができてしまいますね』
 少し本気で口惜しげな口調に、周一は笑った。
「──まあ、縁だと思ってください。本当にただの偶然なんですよ、私がここにいるのは。あなたがこんな離島くんだりで災難に見舞われたのだって」
『……』
「七瀬さんにしても、もっけの幸いだと思ったんでしょうね。──勿論こちらとしても利の無い行為はしませんよ。そういう損得勘定は何もあなた方だけの十八番じゃない。絶好の機会に、理論と証明の得難いデータを収穫しましたから」
『……?』
 静司の答えはない。きっと、その言葉の真意は伝わらないだろう。けれども、それでいいのだ。説明するにも理解するにも、それなりに時間が必要だろう。そしてそれをやるべきなのは今ではない。いつか話す日が来るとしても。
 理論と証明。互いに呼び合う、心の実存。証明したかったのは、ただそれだけだ。
 ……だから、あなたも。
 周一は、穏やかにそう続けた。
「使えるものは何だって使う──的場家頭主の徹底した功利主義を、証明して見せてください」
 ──そう言ったら、ややあって、静司は声をあげて笑った。笑ってくれた。
 それが嬉しくて、嬉しいだけ愛おしく、愛おしいだけ心が逸った。逸るだけ、ひたすらに恋しい人の無事を切に願った。そうして静かに更けていく異郷の離島の夜の中を、彼は閃光のように駆け抜けていった。





【了】


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