Fragments of Dialogue
Dear 私の小さな教授へ
陽光が燦々と降り注ぐアテナイの市中を、哲人ディオゲネスは灯をともしたランタンを携えて延々と歩いた。
通りすがりのある男は、哲人を前に、真っ昼間に何だって灯りをともして、あなたは一体何を探しているのか、と問うた。
無為徒食の哲人は答えた。
「人間を探しているのだ」
「周一さん、おれたちが最初に逢った時のことを、覚えていますか?」
「──え?…………ああ、うん。覚えているよ──今でも、はっきりと」
「そうですか。それは良かった。……………嫌だなあ、変な顔をしないでください。はは、記念日がどうしたとか、そんなことじゃありませんよ」
「君と差し向かっているのが落ち着かないんだ。用事があるならさっさとすませてくれないか」
「にべもない」
「君の云う台詞ではないね」
「ふふふ、耳が痛いですね。おれは余計なものを目に入れるような真似はしないんですよ。経験則──慣性ですかね、あなたに似通った。──ゆえに問うたのです。我々が出逢ったその時を憶えているか、と」
「二度も言わせるな。憶えているとも。あの奇妙な邂逅──」
「奇妙な?──そうですか」
「何が可笑しい」
「……失礼。何ら嘲りの意図はありません。ただ──ええ、そうでしょうね。奇妙、といえば、おれの主観からも奇妙なものを見た、という認識は確かにある。あなたの云うそれとはまるで異なる意味でしょうが」
「思わせ振りだな。訊きたくなる。卑しい凡愚としては」
「……嫌味な男だ。今や堕ちた道化め──あなたは決して幸福である苦痛に耐えられない。だから現実においても仮面を被ることを決めたのでしょう」
「愚劣きわまりない決断だったがね。だが、私のような卑劣漢にほかなる選択肢はあるまい。謗りを招きかねないと、それごときの懸念はすぐに棄ててしまったよ」
「──あなたは孤独でしたから」
「……どうかな」
「飢えて、粗暴で、孤独で、神をさえ弑逆せんとする熱につきうごかされて──かの獅子の如き意志は、自分自身がそうあることを欲したのではないですか。隷属という幸福から解放され、崇拝を唾棄し、恐れを知らずして人々の恐怖心をそそり、偉大にして孤独。真に誠実なものの意志はこのようであるのです。あなたは──」
「…………」
「あの時のあなたは、そう見えた」
「身勝手な解釈だ」
「観測者とは常に身勝手なものですよ。けれどもこうして、あなたと相対し、対話を構築することによって、立証責任が生じる。それは観測者であるおれに対してだ」
「……身勝手に振る舞うも君の自由さ。自然権として理論上の立証責任が生じたとしても、私は別段答えを必要としない」
「軽薄ですね」
「無駄な期待されても困るだけだよ。それに興味もない。我々は遠い。こうして──触れても、どこまでも遠い。それは普遍的な断絶だ。君は私になりたいのかね?私は君になりたいか?──どちらも御免だ。この断絶が埋まれば我々は文字通りの怪物と成り果てるだろう。レトリックの誤謬が罷り通ってか、これを善しと信ずる人々は五万と居るがね」
「ふふ、そこは大いに同意しますよ。けれど、誤謬ではない──レトリックでさえない!大多数の人間は、他者が己と寸分違わぬ価値をもっているべきだという無意識の傲慢さをもつものです。これがあなたの云う架空の怪物だ。ゆえに言葉は対話の道具ではなく、価値と逸脱を測るための歪んだ物差しとしてしか機能し得ない」
「重度のニヒリズムだな」
「諦感ですよ。詮無い期待をいつまでも抱いていても何の意味もない。それはまさに語り得ないもの──他者の意識は私秘そのものではありませんか?その事実を解体できぬ者に言葉が何の意味をもちましょう」
「『語り得ぬものについては、沈黙せねばならない』──」
「ふふ。おれが弾劾するのはソフィストではありませんよ。多くの人々は物事を定性的にしか把握できない。則ち物事を漠然としかとらえることができないのです。言葉を定義し、定義されたそれ用いて対話することによって、この定性という曖昧さをある程度定量化することができる。ここにして漸く我々は語り得る者になる」
「………人間になる、と?」
「そう。そしておれは──あなたと逢った時、人間を見つけた気がしたのです」
「錯覚だったろう?」
「まさか。生憎、人間などそうそう目にしたことがありませんから。逆に珍獣のようでしたよ。曰く──『善にして、義なる者たちに用心せよ!自分に特有の徳を考案する者たちを、彼らは好んで十字架にかける。彼らは孤独な者を憎むのだ』──とね」
「──今更大衆の畜生性を揶揄したところで何になる。私は自ら進んでその大衆の餌になった身だ」
「そうしながら、蔑んでいる」
「まさか。感謝の日々さ」
「精神的に貧弱で、愚劣な人間であればあるほど、それほど社交的だということが知れる。或いは社交を求めるものだとね。あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とするものである──けれどもあなたはそれに堪えられない。だから総てを蔑むしかない。……あなたはさして変わっていないんですよ。あの時から」
「正味、単に煩わしいのさ。くだらん社交とおためごかしがね。だが、誰でも好きなだけやればいいさ、私を巻き込まないでいてくれるならね」
「ならば身を置く場所を誤ったとは?」
「思わないよ。自らの希求に反するものが『当たり』だと判っている、所詮どうでもいいとことん易い話さ。芸能界とはそういう所だ。まあ、少なくともディオゲネスは避けて通るだろうがな」
「自ら苦痛を欲したとしか思われぬ愚行です」
「何故?」
「やはりあなたは幸福である苦痛に耐えられないように見える。幸福は、盲目であること、怠惰であること、狭量であること、傲慢であることによって成立している。あなたはそこに安住することに堪えられない──おっと、褒め言葉ではありませんよ。あなたは適度に手を抜くすべさえ知らない」
「では、これならどうだい?欲はあらゆる種類の言葉を話し、あらゆる種類の人物の役を演じ、無欲な人物まで演じてみせる。なれば君の前に座っている私が、『本物』だと、何故判る?」
「──本物?それは、無作為、という意味ですか?それともあなたは『本物の自分』なるものが絶対的にに実存していると信じているのですか?今の己とは異なる不連続な何者かが」
「……君の口にかかれば喩え話も物騒きわまりないな」
「あなたのことが知りたいのですよ」
「物好きだ」
「ええ、あなたと一緒でね。さても──かのアテナイのディオゲネスはのランタンは──何を人間として照らし出したのでしょうね?」
「君の眼に訊くといい」
「ほう」
「……少なくとも、私はディオゲネスの探し求めたものではあるまいよ。哲を放棄した、ただの道化役者だ。もしも君の眼があの日、私を──私だけを見つけ出したというなら、君はそれの理由を我が身に問い続けるといいだろう」
「………」
「君は一体何を見た?『隷属という幸福から解放され、崇拝を唾棄し、恐れを知らずして人々の恐怖心をそそる、偉大にして孤独な者』を?──かように困難きわまる役をも容易く演じさせるのが欲の恐ろしいところさ。肝に命じておくがいい」
「……では、演目の自己評価はどうでしょう?ディオゲネスは生涯無為徒食だった。己が学識を、労働を尊ぶ素振りを見せず、価値をひけらかす衆愚ではなかった。それらを蔑みさえして、ひたすら内なる価値を定義し、探した──樽の中で。そして彼は歩いた。プロメテウスから火を与えられたと自称する獣の群れの中を」
「……『誰もが誰もの生命を救ってやろうと眼の色を変えている。乞食や不治の病人さえ同じ野望に燃えている有様で、世界中の歩道と病院は改革者で溢れかえっている。社会とは―救済者の生み出す地獄だ!その中でディオゲネスがランプを掲げてさがしたのは、無関心な人間であった──』と」
「崩壊概論!まさにその通りではありませんか?──そしておれのランプは、確かにあなたを照らした」
「今では、堕ちた道化、か」
「それで良いのではないですか」
「──否定はしないのか。耳が痛いな」
「真昼のランタンはアイロニー。ディオゲネスの奇行とも呼べる振る舞いは、存在し得ない『完全』への希求──意志そのものだったのではないかと思うのですよ」
「ふ。それこそ『語り得ぬものについては、沈黙せねばならない』──ウィトゲンシュタインの思う壺だな」
「いいえ、逆でしょう──悲痛なことに、ウィトゲンシュタインはそれでも知への欲求を免れなかった。言葉の不在を知らしめることさえも、言葉でしかなしえないことを知っていた。知の伝播への欲求から免れなかった。一方のディオゲネスは説法もなく、著述も残さなかった。彼は言葉が伝わらないことを──伝わらぬ者に伝える必要がないことを、知っていたのではないでしょうか」
「ならば、何故、ディオゲネスはアテナイを彷徨したというんだ」
「自分のためです」
「誰だって、大抵の事柄は自分のためさ。善も、悪も、その定義さえも」
「『社会とは―救済者の生み出す地獄だ!その中でディオゲネスがランプを掲げてさがしたのは、無関心な人間であった』………おれにとって、かつてあなたがそうであったように」
「………」
「愛していました」
「……………」
「今はもう、遠い昔の話ですが」
「…………静司」
「確かにあなたは、あの時からさして変わってなどいない──でも」
「………」
「この世はさまざまな感情が過ぎ去り、交代し、対立し、そしてしばしば元来両立できないものが、同時に激しく鳴り響いている、あたかも不協和音の危うい均衡のようなものです。ほんの少しのズレが、いつしか無視できないほど大きくなる。まるでバタフライ効果のようにね」
「………私は、変わったか?」
「いいえ」
「別に慰めて貰いたいわけじゃないぞ」
「はっ。そんなくだらぬ言を弄するいわれは無い。おべっかならいくらでも頂ける立場でしょうに。アイドル──イディオット。偶像にして白痴たる有罪」
「二重苦か。目も当てられんな」
「冗談ですよ。ご心配なく──明日にでも、今にでもこの世を去るのに異存の無いあなたには、恒久的には何をも、何の意味をもなさない」
「買いかぶるな。なら君はどうだ。死に急いでいる、君は」
「……おれたちは、この病みきった世に再帰するしかなかった異邦人ではありませんか」
「外道、となら言われ慣れている。オブラートに包む必要はないよ」
「あなたはそうでしょうが──おれはデリケートなのでね。不本意は承知ですが、あなたとおれとは同族ですよ。誰もが自分の視野の限界を、世界の限界だと思い込んでいる中で、我々の眼はおよそ視野の限界を無視した情報と対峙せねばならない。そう、物理的にね──時には狂気の沙汰までも」
「なるほど。これは意外な台詞だ。君が未だに超越者たることを疎んじているとは!」
「ふん、超越者?──それは狂人のことですよ、周一さん。ディオゲネスは、彼が敢えて人間と名付けた狂人を探して歩いていた。そして人間と名付けた狂人が居ないことを悟ったのです。人間とは、美辞麗句を愛し、口先の平和だけを説き、自他の分別なく、なお恣意に基づいて人を指差し、欲望の赴くままに生きる、薄汚いけだものだ。言葉を解さず──対話を許さない」
「……知恵の実を口にしなかった楽園の血脈──と?」
「おもしろい揶揄ですね。思索とは致死の毒液に身を浸すこと──その生々しい苦痛を、生誕の、存在することの災厄を知らぬ者。つまり、あまねく無辜の者」
「生者は何処、か。それにつけても傲慢な弾劾だ」
「それを知りながら、そこへ再帰するしかなかった。そもそも客観というものは、主観の表象として、主観に対応して存在するにすぎません。ディオゲネスは、ディオゲネスにとっての人間を探そうとしたに過ぎない。普遍の理屈などありはしないのです」
「………」
「あなたの言い様はまるきりの真理ですよ。そう──おれの眼があの日、あなたを見つけ出した理由を、おれは我が身に永遠に問い続けるとことでしょう」
「観測者に立証責任が生じる、という理屈かい?随分とストイックなんだな、君は。樽の哲人に倣う必要はない、と云いながら──」
「いいえ。ただ、おれは知りたいのです」
「何を?」
「…………」
「静司?」
「──知りたいのですよ。おれは何故、あなたをこれほど愛したのかを」
「……遠い昔に『愛していた』のではなかったのかい」
「どちらでも結構。今は過去になり、未来は存在しない。そして過去はとうに死んでいる」
「……君の知が、君の望みを解体するのだな。生きることと、存在することとは、端的に意味が異なる。前者は絶望そのものだ。だが存在するという認識は歓喜だ。──だが、君にはそれがない」
「あなたにもね。お互い様ですよ──潜在的な死者の灯りには、互いが人間に見えた、と。ただ、それだけのことかもしれません。いずれにせよ──在るべきか、在らざるべきか。…………どちらもごめんですね」
「──同感だ。けれどそれが」
「だけどそれが、我々が生きる唯一の理由なんだよ──静司」
ギリシアを征服したアレクサンドロスは、シノペのディオゲネスの住処を訪れた。
その折、日向に寝そべっていたディオゲネスを見かけたアレクサンドロスは、「何か欲するものはあるか」と尋ねると、この無為徒食の哲人は穏やかに言ったという。
「陽が遮られるから、そこをどいてくれまいか」
Fragments of Dialogue
【了】