ある商業施設での妖祓いの依頼を終えて、車で帰途につく最中、周一は主要幹線から外れた道沿いの歩道に不可思議な影を見た。

 それは、ゆらゆらと動く人影だった。
(──何だ、こんな時間に)
 思わず時計に目を遣るが、もう午前零時を過ぎている。別におかしいわけではないし、そもそも知ったことではないが、この先は工事中のバスロータリーがあるだけで、何もないのを周一は知っている。
 何となく気になってスピードを落とし──前方に目を凝らすと、周一はぎょっとした。
 まだ遠目でしか捉えられないその影は、顔に布袋のようなものを被っていて、それを、首の辺りで紐で引き結ばれているようなのだ。出で立ちははっきりとはわからなかったが──それ以外は普通の男性が着るような、何の変哲も無い普段着のように見えた。
(何なんだ)
 無視して通り過ぎようかとも思ったが、それは些か気が引けた。何しろあの出で立ち──まるで袋掛けの果物のような、頭部。
 その人影は、ふらふらと──いや、踊るように道路を横切り、都会の中心部を僅かにはずれた時、時折迷い込む不可解な異次元──時代に取り残されたような無人の道を、やはり奇妙な足取りで歩いていく。都市の隙間には往々にしてこうした時代に忘れられたような区間がある。東京の新宿や大阪の梅田ような大都市でもそれは変わらない。
 居並ぶ廃ビルと空地、私有地、売物件、跡地。車道は一方通行と思うほど狭いのだが、対向車がやって来る気配は一向に無い。バックミラーに映る都市型ビルの光が、まるで張りぼてのように見える。
 周一は後続車が無いことを確認するとスピードを落とし、ゆっくりと男を尾けた。気付かれているのかいないのか──或いは意識の埒外なのか。だがそんなことを考えているうちに彼は唐突に向きを変え、トラロープで入口の遮断された建物の中にすう、と消えてしまったのだった。
 周一はそのまましばらく待ってみたが、もうその姿が再び現れることは無かった。
(………無関係だろ?)
 周一は己に言い聞かせる。いや、言い聞かせるまでもない。無関係──紛れもなく無関係だ。仕事のために立ち寄った縁の無い街の中に、不審な影を垣間見たとて、それが一体どうだというのだ。
 周一はあからさまに舌打ちをした。この悪人にも善人にもなれないコウモリ男め。己をなじって空しくなりながら、周一は隣接する廃屋の隣の空き地に車を留めた。そして──その後を追った。
 ×印を描くようにトラロープの張られた建物は比較的新しいもののように思えた。シャッター横に、奥へ入る廊下の入口の段差があり、周一はロープを跨いで中へと入った。
 構造的には一階に店舗のあるアパートのような雰囲気だったが、外観上は天井の低い一階建てだ。
 そして、中の通路の奥に、ちょうど表から見てシャッターの内側にあたるであろう裏の部分に──

 階下への階段があった。

「…………」
 そこにもまた、ロープが張られており、さらに「立入禁止」のプレートまでぶら下げられている。一見、そう古いものでもなさそうだ。

 ──もしも自殺でもしようというんなら、とんだお節介だな。

 周一はそんなことを考えていたが、体は勝手にロープを跨いでいた。階下は真っ暗だったが、階段を降りたすぐ下の場所に扉があった。ドアノブ式だったが、鍵はかかっていなかった。
 やはり躊躇なく、周一はドアを開け放った。仮に本当の自殺志願者であったなら、別に止めようとも思わなかった。ただ、気になったのだ。
 その中は、真っ暗闇ではなかった。宙吊りになった裸電球がひとつ、がらんどうの部屋のど真ん中にポツンと所在なげにぶら下がっていた。明度はひどく低かった。
 顔に袋を被せられた例の男は、その下にぽつりと佇んでいた。此方を見た──のかもしれなかったが、正確には判らない。はっきりと男だと判ったのは、服装と、その体格からだった。
「……………」
 その間、互いに言葉はなかった。妙な沈黙だった。己とてこの見知らぬ相手の安否を慮って追ってきたのなら、何ぞや一言なりと口にすればよいものを。だが、自問すれば、そんなことはどうでもいいということが判る。
 代わりに周一を襲ったのは既視感だった。そして正体は直ぐに判った。
 ──服装が、丸のまま、周一と同じなのだ。
 黒のYシャツにジーパン。
 別段何でもない服装。有り体なコーディネートだ。量販店で買った周一のものと同じように、相手の衣類からも、あからさまなロゴやオリネームのようなものは見られなかった。
「…………出たいか?」
 おもむろに、男は言った。
 これもまた同じように、おどろくほど自分に似た声だった。
「ここから、出たいか?」
 真意を判じかねる問いに、周一は眉を寄せた。言い知れぬ不快感が全身を襲った。
 何故かは知らねど周一は、相手がそう問い掛けてくることを、予め知っていた気がしたのだ。
「……お前は、誰だ」
 どういう意味だ、と聞き返したかったのに、出てきたのはそんな言葉だった。
 そして再び沈黙が広がった。
 何もない真四角の部屋。あるのは、今にも切れてしまいそうな裸電球ひとつ。そして、布袋を被せられた奇妙な男。

 何かを思考した──その時だ。

「!」
 ひゅ、と空を薙ぐ音が鳴って、周一は反射的に身を引いた。男の脚が──周一の顔面すれすれの部分で空振ったのだ。その風を感じた途端、背と腋に汗がじわりと滲み出た。
「………」
 何故、と問うのは無駄だった。自らの五感が、相手に害意が無いことを覚っていた。害意ゆえに害するならば、論拠は明白だ。だが、そうでなければ。
 如何なる、意気なりや──。
 影のように音も立てず、ヒュッと間合いを詰めてくる素早さは、目を塞がれた者のそれではなかった。周一はもはや侮らず、また懐疑を押し隠して、彼の者の力を測らんと振り落とされた拳を腕で受けた。
 それは凄まじい重さだった。
 一見粗雑な振りは、恐ろしいほど的確に肩の急所を衝こうとしていた。ほんの数センチ身を逸らすタイミングがずれていたら、一撃で墜ちていたかもしれないという凶悪な代物。
 受けた腕の衝撃も半端なものではなかったが、それにかかずらう暇は無かった。腕は二本。もう一方の肘が短いリーチを活かして、ちょうど防御のために盲点となった眼下の鎖骨の中心を突いたのだ。
「………ッ!」
 声もなく双眸を見開き、周一の体は僅かに空を舞った。
 均衡を取れずに地に墜ちて咳き込むと、コンクリートの上に緋色が散る。それを視認する余裕も無く打ち出された拳の追撃を、紙一重で身をよじって逸らすと、今度は容赦無くコンクリートに叩きつけられた相手の拳から鮮血が散る──そして、同時に。

「なッ!?」

 相手が負った傷と同じ箇所に、同時に周一も傷を負ったのだ。
 そして周一は見た。
 咄嗟に見遣った相手の顔の口許の部分に、赤い染みがあった。周一はそれが、鎖骨にダメージを受けた際に負った自分自身のダメージであることを悟った。

 ──これは、影だ。

 血反吐を吐き棄て、背後の退路を横目で見る。それを確認する必要性に駆られた時点で予測はついていたのだが、悔やまずにはおられなかったのだ。背後の扉は消えていた。
 そこは薄ら明るい、コンクリートで造られたただの匣だった。
(不条理な)
 思いかけ、否、と周一は内心で嗤う。条理に対峙するだけでは、祓い屋など務まりはすまい。それはまさに、概念──人の心に対峙することにほかならないからだ。

 何故か、あの袋の下の顔は笑っている気がした。憤怒、諦感、侮蔑──それらを押し隠した笑みが仮面のように貼り付いているように思われたのだ。それを想像すると、紐で引き結ばれた袋ごと、その顔が無茶苦茶になるまで殴ってやりたい衝動に駆られた──この張りぼての嘯吹が。
 相手が地面を蹴ると、周一は身を落として床を転がり、眼を閉じた。
 攻める側はピンポイントでなければならないが、避ける側はそうではない。一対一の攻防では各々の行動の命題が成立する条件が異なるからだ。攻める側は当てなければ意味がないが、避ける側は当たりさえしなければいい。
 視界を閉ざされてなお此方が視えるのは、自分の眼が相手を視ているからではないか──周一は咄嗟にそう考えたのだ。
 そして、それは正しかった。転がった周一の体を追う奇妙な分身の足取りに翳りが見えた。壁に阻まれて再び開眼した周一は、即座に立ち上がって身体を反転させる。
 だが、顔を隠す布袋には手が届かなかった。相手はまるで此方の頭の中さえ熟知しているように、掻くように振った周一の腕のリーチから、その頭部は僅かに外れた。

 不意に、自己像幻視──いわゆる「ドッペルゲンガー現象」のイメージが脳裏をよぎる。馬鹿げた話だが、これを視た者は死ぬ、或いは死に臨む者がこれを視るという俗説もある。もしも帰納的に考えるならば、後者に軍配が上がるだろう。
 それでも周一は躊躇した。死との相関性はさておき、真に布で覆われた下の顔かたちが同じであったからとして、それでどうするというのだ。余計な懸念が増えるだけではないのか。
 ならば、此処へ引き寄せられたのは必然であるとして。
 自身が視るように、あの隠された瞳にも此方の姿が視えるのだろうか。自身が感じるように、あの身は何かを感じるのだろうか。
(己が敵か)
 いつまでも視界を閉ざしてやり過ごすことはできない。周一は妥協策を探し当てることができないまま、相手に害意の見えぬ所以を知る。
 己と知れば、振る舞いの癖が整然と見える。だが、見えることを相手は知る。なればと四肢を操る軌道に思わぬフェイントが伴う。この反復はまるで一度シャッフルされたトランプのように、もはや互いの行動を予測不可能な領域に導いていく。パターンの崩壊、エントロピーの増大だ。
 周一は瞬く間に満身創痍となる。単純にダメージは二倍、勝敗を決するならば、原則的に攻撃を避けても意味はない。与えた分がダメージとして返ってくるからだ。
(どうすれば)
 進退窮まる、混沌の匣。
 薄明かりに照らされる二つの影。
 いつしか及び腰になる周一は、不毛の影に取り付かれていた。攻めるも受けるも、どちらも同じ──退路は無い。
 ぽた、と額から落ちる血が、傍流を造って瞳が翳る。右眼を奪われた、同時に去来する隻眼の影。

 周一は、前方を見遣った。

 ──お前にも、此の影が視えるのか?
 激昂のような衝動が、周一の身体を突き上げるように駆動させた。何者の力も借りず、自身でも思いもよらぬ速度が脚に宿る。
 一瞬の牽制だった。フェイントの拳打が相手の眼前でピタリと静止し、それを囮に周一の身体が舞うように相手の背後へ回る。
 まさにその刹那。
 周一の手が相手の首から紐を抜き取り、とうとう顔面を覆う血濡れた布袋を取り去った。

 現れたそれは、確かに己の顔だった。

 だが、周一はもはや動揺しなかった。閉じられた部屋の中で肥大する混沌は、もはや二者を同一の存在とは見なしていないように思われたのだ。混沌とは予測不可能──その最中に撹乱されたパターンは、まさに周一の右眼に流れ込んだ血流に顕されていた。
 目の前に立つ同じ顔に流れる血は、まるで異なる軌道を描いていたのだ。

 翳る右眼に、周一は問う。

(君なら、どうする)

 視界の自由を奪われた瞬間、芽吹いた印象。記憶の中で此方を顧みる紅い瞳に問う。これさえも見透かされているならば、もう勝ち目はあるまい。ああ、君なら。
 
 ──戦いに生きる、君ならば。

「判っているんだろう」
 思考を遮るように、相手は言った。
「その妖に向けられた憎悪──いずれは無辜の人々からお前たちのような力ある祓い人に向けられる憎悪であるということを、お前は知っているはずだ」
「……」
「判っているんだろ?妖はこの四半世紀の間にも随分と減った。だがおれたちは増え続けていく」
 時間の問題さ、と付け足した声音は、どこかいやらしく愉快そうだった。だが周一は、少しも面白くは無かった。


 声もない。
 合図もない。
 きっかけも、何もない。


 だが周一は閃いた。頭のすぐ上にぶら下がる光の源──ぶらぶらと揺れる、今にも切れてしまいそうな裸電球。
 この凶つ影を消すならば。
 前触れも無く、長い脚を鉈のように振るった瞬間、ガシャンと乾いた音が匣の中に響いた。


 光が消えて、
 そして、影も消えた。


 影の残した忌まわしき予言だけが、闇の中に漂った。
 身震いがしたが──それは、遠からず現実となる、まぎれもない確かな真実だったからだ。



【了】


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