大鴉【後編】


 鍾乳石が帯びる水気に足元をすくわれそうになりながら、まったく人の手が入っていない地下への歪な回廊を、静司は走った。
 まさに自然の作り上げた威容──洞穴は人の足にはあまりにも急勾配であり、あまりにも異形であって、時折足場が途切れては転落しそうになる。どうやら最下層までは相当の深さがあるらしく、時折落下する鍾乳石の破片は、闇に吸い込まれては音もなく消えていく。肝が冷える、そんな余裕さえもない。

 ──敵を迎え撃つ場所が必要だ。

 静司の瞳は、洞穴の闇をたやすく見透す。いつまでも逃げているだけではこちらの体力がもたない。
 そればかりか、長い間降り積もった粉塵が、舞い上がっては気道を苛む。できることなら我が身のためにも、余り長居はしたくない。
「……」
 周囲で最も広く足場の確保できる位置に静司は立つ。すぐ背を追ってくる荒んだ男たちの濁った目は未だ闇に慣れず、こちらの立ち位置にさえ気付いていない。
「ここですよ」
 先頭の男と肩が触れそうな位置に立った瞬間、静司はその耳許に囁いた。
「なっ」
 男の呼応は遅かった。鏃のように尖らせた静司の肘が男の胸郭を強く打ち、その瞬間、金縛りにでも遭ったかのように男の動きが静止した。
「ぐぅっ……げはっ!」
 呻きと空咳が混じった苦悶の声があがる。横隔膜を痙攣させることで強制的に呼吸を止め、苦痛を与えるためのテクニックだ。後続はそれを目にした途端、反射運動のようにそれぞれが銃を引き抜いた。
「あ、ちょっと」
 静司の制止など意に介することなく、一人が引き金を引き、二人、三人がそれに続いた。数発の、統率のない銃声。静司が脇腹に強烈な熱を感じたと同時に、向こうから「手応えがあった」と不安まぎれに浮わついた声が上がった。
 だが、その刹那。
「ぎゃっ!?」
 タン、という軽い打撃音と共に、一人が体勢を崩して足場から落下した。そして二人、三人。まるで、達磨落としの妙技のような軽やかさ。ほとんど秒殺といっていい速度で、屈強な男たちが底の見えない奈落へと落ちていく──。
 さらに続いて降りてくる後続の面々は、暗闇を見透かせぬ目を凝らして、事態を見きわめようとした。
 静司は喉を鳴らして笑った。
「足をしっかり踏み締めなさい」
「何だと!?」
「恐怖ですよ」
 暗闇の中で、ふ、と紅の輝きが浮かび上がった。それは静司の手の上からこぼれる光だった。彼の手のひらに乗った呪符が、静司自身の強い妖力に反応して発火しているのだった。
「──恐怖は、何よりも根幹の安定を揺るがせる。文字どおりにね。屈強な男たちも、不安にあおられては容易く足元がすくんでしまうのですよ」
「ま、的場。貴様……」
 男たちの目は静司ではなく、その足元に転がった男を凝視していた。間違いなく絶命している──その肩や首には、まだ煙をあげている数発の弾痕。
「かわいそうに。目標もさだめず、めったやたらに撃つからですよ。次こそは間違いなく私をの心臓を撃ってくださいね」
 ボウ、と呪符の炎が燃え尽きる。
 再び広がる闇。明暗の繰り返しによる可視と不可視に、人間の慣性がついてこられぬ絶妙の間隙。明と暗の空間を定期的に交錯させることで、網膜がどちらにも適応できない状況を作るのだ。それは静司の作戦だった。
 挑発は男たちを激昂させるのに十分だった。静司は再び颯爽と身を翻した。どさくさの最中に銃弾を受けたことを、相手に悟られたくはなかった。








 完全に相手に背中を向けて疾走していても、さしたる不安は無い。これだけ隆起の激しい地形と闇の中では、寧ろ着弾することのほうが難しいのではないか、と静司は思った。そのことを相手も気付きはじめているらしいと感じたのは、先程まで無節操に聞こえていた銃声が、少しずつ控え目になってきたからだ。
(弾切れ……というほど撃っちゃいないか)
 此方にまだ火種は──呪符はある。
 次善の策とてないわけではない。だが、この予測不可能な異様なロケーションでは、うまくいく保証がまったくない。
 だが、それ以前に体力の限界が近かった。銃弾を受けた右脇腹からの出血が止まる様子は無く、墜落当初は気付かなかった箇所にもダメージが生じている。右足首が、触っていなくてもひどく腫れ上がっていることがわかる。
(こちらも、さっさと小細工は棄てるべきかな)
 相手も、最初の痛恨の失敗から立ち直ってはいない筈だ。やくざだの何だのと言っても、静司の経験則上、政治家と並んで彼らほど小心で臆病な者たちはいない。暴力を旗印にするのは強さを誇示するためであり、誇示せねばならぬのは、弱さを隠さねばならないからだ。
 シュルレアリズムの絵画のように規則正しく滑らかに波打った地面の窪みに体をひそめる。相手はそれに気付かない。猛牛のように迫る足音を数え、静司はおもむろに先頭を突進する男の足首を強く掴んだ。
「ぐわっ!!」
 バランスを崩した男が状況を理解するより早く、静司はその手におさまった拳銃を素早く奪い去った。そしてすかさず、呪符の発火をたよりに狙いをさだめてトリガーをひく。一発、二発、三発、四発。標的は彼らの手の中の銃、或いはそれを扱う利き腕。慣れない反動に、息があがるのを辛うじて呑み込む。
 四つの悲鳴を確認して、静司は三枚目の呪符を発火させる。今は心理的な優劣が場を支配している。動揺を──実質的な敗北の気配を決して悟られてはならない。どんな状況に転んでも、こちらが圧倒的不利であることは間違いないのだから。
「飛び道具では、私が人後に落ちることはありませんよ」
 静司はにっこりと笑った。
 それで、と続けた声音は、しかし恐ろしく冷酷で酷薄だった。
「──まだ、やりますか?」
「……」
 ──打ってかわって、張り詰めた水面のような静寂が広がる。天井から垂れ下がる鍾乳石をつたって水滴が落ちる音は、まるで水琴窟のような澄んだ音がした。
「あの雇い主は、あなたがたが命まで賭ける価値がありますか?金と命を天秤に?」
 もう、既に四人が犠牲になりましたよ。
 静司は抑揚の無い声で続けた。
「では、もう一度訊きます」
 ──四枚目。
 静司が繰り返す呪符の発火に、全員が呆然と見入っていた。手品を見るような気持ちだったのかもしれない。全員が、現実ではありえない状況を創り出している、静司の大鴉のような圧倒的な存在感に完全に気圧されていた。











「残念でしたね、代議士先生」

 地上にはすっかり闇の帳が降り、小さな無人島はまるで、夜の海上を漂流する船のようだった。
 星空が近い。星々の輝きの、一つ一つが生々しい。手を延ばせば掴めてしまいそうだ、と静司は思った。
「あなたも暴力団の皆さんとご一緒にお逃げになればよかったのに。何故ですか?よしんばあなたが姿を消したとしても、的場はあなたを追いはしませんよ」
 代議士は、静司に背を向けたまま吐き捨てるように言った。
「ほざけ、ハイエナが。おまえたちの一門の執念深さは政界でも有名だぞ。何処へ逃げても追いかけて──」
「あなたに、そんな価値はありません」
 静司は、きっぱりと言い放った。
 代議士は振り返った。
「追うのは、リスクの投資に見合った価値があるからです。我々は功利主義だ。つまらぬ怨恨で人一人を探して始末するほど、的場も暇ではないんですよ。探し出したあなたは、的場にとっては何者でもない。ただの卑小な野心に取りつかれた無力な代議士ごときに、何の利用価値があるというんです?」
「何だと、この──」
「ほう。怒りますか。自尊心だけは無駄におありのようだ。雇ったやくざと一緒に尻尾をまいて逃げ出すのはその自尊心が許しませんか。笑えますね、こんなくだらない駆け引きで落ちぶれてまで──」
 ガンッ!!という音が耳に届くのと同時に、華奢な静司の体が軽く宙を舞った。殴られた、とすぐに判った。頬が熱くなり、鼻から赤いものが滴り落ちた。
「……っ」
「お前みたいな糞餓鬼に何がわかるッ!!」
 がなりたてる声は、狂ったように裏返っていた。代議士は静司に馬乗りになり、何度もその顔を拳で打った。
「お前がこんな真似をしなければ、あとは知事選まで待っているだけでよかったんだ!それを……」
 静司は笑う。それは、あからさまな軽蔑の眼差しだ。
「……なるほど。あなたの選んだ傀儡を当選させる手筈、と。そういうことですか……」
 力任せに殴られ、裂けた目尻と口元からの出血が肌を伝う。それは何故かひどく冷たかった。あんなに熱かった血は、一体どこへ消えていったのだろうか。
「ふふ……沖縄という場所は、知られざる利権の宝庫とも、聞きますしね」
「全部、全部台無しにしやがって。畜生、邪魔な連中はうまく始末できたのに──畜生」
「……」
 ──邪魔な連中。
 静司の中でゆっくりと疑念が晴れていく。
 代議士にとっての「邪魔者」は、例の弁護士であり、弁護士が妖を使役して呪殺した二人の候補者であったのだろう。まずは二人の候補者を体よく葬ったあと、静司を泳がせて弁護士を牽制する。そして事情を知る静司もまとめて始末すればいい。
 ──けれども、もう一人。
「あなたが連れてきた、あの秘書も……あなたが殺したんですね。あれは、自殺などではなく」
「ああ──その通りさ」
 代議士は息をきらして、ニヤリと笑った。言葉のイントネーションが奇妙なほど陽気で、もはや正気とは思えなかった。
「使った奴は、片付けないと。知っている奴はいらない──知っている奴はみんな」
 代議士はブツブツと何かを口走った後、静司を一瞥し、唐突に口ごもった。そしてまた間を置いて、ブツブツと罵詈雑言を口走る。
「……」
 狂っているわけではあるまい。
 ただ、彼をその尋常でない振る舞いに駆り立てるのは、野心であったはずの残骸──恐怖と罪悪感に相違無かった。ライバルを抹殺し、身内の口を封じ、雇われ者を始末しそこねて、その報復を怖れた。単に今、その鬱積が噴火したのだ。
 ──ああ、なんて。

(なんて、弱い──)

 静司が目を閉じると、代議士はよたよたとした足取りで、再び横たわったままの静司の上へ馬乗りになった。手には拳銃。何を考えているのかは一目瞭然だ。
「今度こそ、的場に追われるかもな」
「……代議士先生。物騒なお遊戯も結構ですが、お忘れですか?」
 静司は満身創痍のまま、余裕の笑みを浮かべた。屈託のない──慈愛さえ垣間見える、可憐な花のような微笑み。
 けれども、静司が見ているのは代議士では無かった。その背後には、夜にまぎれたより深い、昏い影があった。

「え」

 影は──背後から代議士の体にしがみついた。生臭い血と体液の臭いが、ぷんと辺りに漂った。
「あ、え、ちょっ、何を……」
 羽交い締めにされたまま、わけもわからず肩越しに背後を振り返った代議士は、叫びだしそうになり、にもかかわらず声を失った。糸のような細い目が初めてまん丸い形に見開かれ、鼻と口から震えて逸るような呼気が小刻みに漏れるのを、静司はただ黙って聞いていた。
「なんだ、これは、これは……!!」
 代議士を羽交い締めにしているのは──ヘリの墜落時に命を落としたはずの、あの的場の若者だった。
 静司を守り、殉死した青年。
 奇妙な形に折れ曲がった手足は出来の悪いマリオネットを思わせた。人体としてはもはやひどく不自然な有り様で、頭はその半分が陥没し、血と脳漿、脳の組織とおぼしきものがやや長めの毛髪にべったりとこびりついている。もはや人としての原形をとどめていないそれは、明らかな屍者の姿であった。
「ひ、ひぃっ……」
「死の残穢が、あなたを引きにやって来たのですよ。先にご忠告申し上げたでしょうに」
 静司は微笑を崩さなかった。
「そう──琉球では〈シニマブイ〉というのですよね。現世に迷うこうした死者の魂のことを」
「い、嫌だ、助けてくれ!!気持ち悪い!!嫌だ、離せ、嫌だ!!」
 懸命に体を振り抜こうとすればするほど、はりぼてのような血濡れの手足が肉付きのいい胴体をぎりぎりと締め付けていく。
「やめてくれ!!やめて、やめ……!」
「往生際が悪いですよ、代議士先生」
 いや、と静司は小さく咳払いをした。
「──このクズ野郎が」
 静司が吐きかけた暴言も、錯乱し、いよいよ狂気にとらわれた男の耳にはもはや届かなかった。











 闇になれた目に、夜天光がひどく眩しい。
 投げ出されたように地面に仰臥する静司は、うつろな瞳で星々を見詰めていた。足元はマングローブの繁茂する海水面に浸食されていたが、今はそこから逃れようとする気力さえ無かった。
 その傍らには、呪詛に長じた女妖を封じた小さな壺が転がっている。件の弁護士が使役していた妖だ。だが、壺の封印は既になく、その中身は既に空だった。
「……屍人を操る呪術、か」
 中国には僵尸術、西洋にもネクロマンシーと呼ばれる死体操作の呪法があり、日本の古い記述にも、西行法師や前伏見中納言の死体蘇生譚が残されている。
「まさか、こんな所で妖にやらせることになるとは思わなかった──」
 こうした屍体操作というのも、呪術系統においてはいわゆる「禁術」に分類されるものだ。かつてがどうであったかは知らないが、死が不可逆の理であることを知る現代社会には、理に反するとされる受け入れ難い嫌悪の対象になるのだろう。
 妖の呪詛によって甦った死者の手によって、代議士は海へと消えた。恐らく死体が上がることはあるまい。
 解放された妖も、闇をぬっていずこかに消えた。残されたのは、物言わぬ操縦士の遺体と、愚かな死に損ないが一人だけ。

 ぐったりと疲れた体は鉛のように重い。酷使した四肢も、撃ち抜かれた脇腹の傷も、したたかに殴られた顔も、ひどく痛む。恐らくは自分は今、怪物のような顔をしているのだろうと、静司は無言で自嘲した。
(このまま、眠ってしまおうか)
 そうしたら、本家の連中がGPSを辿って自分を見つ出す前に、きっと死んでしまうのだろうな。でも、それもそう悪くないかもしれない。

 ──それで、不様な死に様を晒すのか?

 静司は喉を鳴らして少し笑った。ひとつも可笑しくはなかった。
 ただ寒かった。
 脇腹に空いた穴から、黒い血液と共に、意志や気概、記憶や思想、感情さえ、あまねくすべてが流れ出ていくようにも思われた。
(……記憶と、思想か)
 北欧神話の隻眼の主神オーディンは、ルーンの知恵を得るためにその片目を引き換えとした。その肩に留まり、主にかわって世界のすべてを見据える二羽の鴉、その名を「記憶」と「思想」。
(もしもそれを失えば)
 静司は、ひび割れて血の滲んだ唇を、僅かに開いて呟いた。
「……おれでも、自由に飛べるかな」

 その時、静司の問いに答えるようにして、藍色の空を音も無く巨大な黒い翼が横切った。

 人の声もなく、妖の声もない。
 風も、潮騒さえも聞こえない。
 世界はひたすら静寂に包まれていた。それが救いだった。僅かにさえ揺れたのなら消えてしまう小さな炎が、剥き出しの姿でただ静かに燃え続けていた。


【了】


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