裏か表か


 周一が頻繁に出入りする某テレビ局に勤める、その中年というには多少若いが青年というには大分老けた音響係は、自分よりもふた回り少々年上だと言っていたように記憶している。
 年齢としては十分に中年と言えるのだろうが、精神年齢は中高生といった時分から、大して成長していない感じの、青臭い、だがどこか憎めない、不思議な雰囲気の男であった。

 その彼が、周囲の人目を憚るように、周一の元に茶封筒に入った古いビデオテープと、古びて黄ばんだ冊子を持ち込んできたのは、周一がこの夏から撮影を開始する医療系サスペンスドラマの脚本を無人のスタジオ内で読み込んでいる真っ最中だった。
「名取さ〜ん」
 此方の事情など知ったことかと、彼はいかにも嬉しそうに内容物をぶちまける。
「ね、ね。とんでもないもの、手に入れちゃいましたよ」
「……」
「名取さんたら、そんなに読み込んでたら目が悪くなりますよ!先週だってタケコ・ラテックスさんがメニエールで倒れちゃったっていうのに!」
 どうやら無視を決め込むのは難しいようである。
「……そんなの私には関係ないでしょう」
「いやいや、何事もやり過ぎはよくないんですって。最近また名取さんスケジュール詰め詰めなんでしょ?マネージャに聞きましたよ」
「……」
 聞くのも答えるのも煩わしい。
 だが、茶封筒の中の薄汚れたジップロックの中に収納されたビデオテープのラベルには、手書きで局名と番組の識別番号が書かれており、その識別番号は、同封されている黄ばんだ企画書らしきものにも同様に明記されていて、どちらにも殴り書くように、赤いマジックで×印が上書きされている。
 ──まるで、気にしてくれと言わんばかりだ。
 無視しようとした周一は、しかし自分の意識がその忌々しい土産物に引き寄せられるのを感じた。
 妖気ではなく──興味だ。
 致し方なくそれを手に取る。それは、何の変哲もない業務用VHSである。
「………随分古そうなビデオですね。19890112……1989年1月12、ですか」
 音響係は快活に笑った。
「ま、名取さんからすりゃあ化石ですよね。いやあ、実はこの間ADのパシリで資料室を漁ってた時に偶然見つけちゃって。掘り出し物かと思って再生してみたんですけど……内緒ですよ」
「観たんですか?」
「観ましたよ、昨日。ウチ機材あるんでアパートに持って帰って。いやぁもう自分、怖くて一睡もできなかったんですから」
 一瞥するものの、到底一睡もできなかった顔ではない。
 周一は深くため息をついた。勿論わざとだが、この手の当てつけが功を奏したことはない。
「怖くて、ですか。でも番組ナンバーが振られてますし、これ、放送されたものなんでしょう?」
「いえいえ!」
 音響係はよくぞ訊いてくれたと嬉しそうにかぶりを振った。
「実は、この撮影一週間後に出演していたアイドルが死んだんですよ。ロケ現場は東京都内だったんですけど、その都内の地下鉄で遺体で見つかったんだそうです」
「はあ」
「それで、結局御蔵入りになったんじゃないでしょうかね。何せ当時この企画に関わった人なんてもう居ませんから、くわしい話の経緯がよくわかんないんですよね」
 よくわからないのはこっちだ。
「死んだって……そのアイドルの死因は何だったんです?」
「確か心臓発作だったかと。売り出し中のアイドル歌手で、ええと……名前は何だったかな。まあいいや。確か死体発見当時に首の後ろにアルファベットが書かれてたとかで、一時週刊誌なんかでちょっとした騒ぎになったんですがね」
「アルファベット?」
「あ、いえ、結局それは死因とは関係無かったらしいんですがね。なんだったかなあ……Earth、いや違うな。報道はされなかったんですけど、こう、襟足のところにね。まあ、そんなちょっとした謎もあったらしくて」
 本当だとしたら、不気味な話である。特に意味が無いというならば、なお気味が悪い。
「変な話ですね」
 警察が関係無しと断定したからには、事件性に関する裏が取れたということだろうか。不可解さをおぼえつつ、出たのは間抜けな返事だけだ。
「名取さんは知らないでしょうけど、当時は心霊ブームってのがあったんで、どこもかしこもあの手この手で色んな企画があってねえ。で、これは東京都内で色んな場所を突撃取材する企画だったんですね」
「ブームの話には聞いたことはありますが──」
 ごくまれに目にすることもあるが、心霊番組など今や天然記念物である。
 とはいえ、番組の構成としては、今も昔も取り立てて代わり映えはしない。なまじ画像が鮮明になった分、興が殺がれてミソもクソも無くなった感がある。
 ──それにしてもこの音響係、よほどにこの手の話が好きなのだろう。話を振ってきたのも、別に相手を選んでというわけでもないように思える。周一は観念して、ビデオテープを軽く耳元で振ってみせた。
「……分かりました。一段落したら、暇潰しにでも見せて貰いますから」
「とっておきなんですから、絶対ぜーったい誰にも見せちゃ駄目ですよ。パクッたのバレたらクビになっちゃう」
 念を押され、没収されたビデオテープは企画書とともに再び封筒に収納され、再び周一へと譲渡される。
 ため息と共に、周一は困ったように笑った。








 スタジオ内なら業務用のビデオテープを再生するための機材がある。周一は一息入れるついでに、茶を入れながら、気が進まないまま機材室で件のビデオを再生すると、時代を先取りし過ぎたまさに『ブレアウィッチ・プロジェクト』さながらの不鮮明な映像が、唐突に不自然な始まり方を見せた。
 恐らくは一切編集されていないのだろうと了解したが、映像班らしき面々から、足の進まない件のアイドルへの容赦無い怒号が飛んでいる。周一は思わず眉を潜めた。1989年だと、まだまだ芸能界と暴力団の結び付きは強かった時代だ。
 また、ロケ地は東京だとは言っていたものの、てんで都市部などではなく、昼間ならどうか知らないが、周囲はかなり山深いようにも窺える。
 その山深くに、到底見合わぬ大層大きなコンクリート製の建物が映っているのが見えるのだが、劣化した古いVHSでは画像も粗く、そこが一体が何処であるかなど、これではさっぱり見当がつかない。
 映像ときたら酷いものである。手ブレがことごとく周辺の映像を遮り、怒声が入ったと思えばアイドルのアップになり、青ざめて震える彼女が涙ながらに歯を鳴らしながら何かを話す。経年の音響不良もあって、ほとんど何を言っているかさえ判らず、割れた甲高い声の間に、ボ、ボ、ボ、というマイクのノイズが入るのである。これがまた、耳障りでならない。
 これでは怖がるための糸口さえ掴めぬではないか、と周一は独りごちた。
「…………」
 漸く落ち着いたカメラが、周囲をゆっくりと映し出す。とは言っても、あるのはそのコンクリート打ちの巨大な建物ばかりで、あとは山、山、山というありさまだ。
 退屈な時間を経て、ようやっと建物に照明が向くと、建物はこんな山中にはそぐわないほどに綺麗なものだった。華美な装飾は無いが、少なくとも何かの目的のために酷使されたようには見えない。
 正面門の柱に、小さなプレート──それもさほど古くもないそれが、まるで異物のように目に入ってくる。
 そこには、スタッフがライトを当ててかろうじて見える文字で、

『第13号試験場跡地』

 と、印字された厳めしいプレートが埋め込まれている。


 画像は、そこで終わっていた。








 一週間ばかり後、周一の元にビデオテープを持ってきた、件の音響係が失踪した。
 電話は繋がらず、局が所有していた雇用契約書に書かれた住所のアパートには、当人とは何の関係もない大学生が住んでいたというのだから、これは不可解である。
 周一は反射的に例のビデオテープのことを思い起こしたが、たった一週間前の出来事とはいえ、相関関係が簡単に結び付くはずもない。
 だが、直感を根拠に、周一はビデオテープの件を局にも警察にも話さなかった。実に安直な発想だが、『第13号試験場跡地』が国の管轄下の施設であるのは想像するまでもなく、公権力にこの不可解な情報を提供するのは浅慮であるように思われたのである。

 御蔵入りとなった番組。
 アイドルの突然死。
 第13号試験場跡地。

 ──企画書には、責任者や監督、カメラマン、出演者が明記されているが、関係者全員がこの撮影年月日の一年以内に局を去っている。いずれも、のちの行方は知れない。
 実際に当時の資料を当たってみると、そのアイドル歌手が、2日後に都内の駅の構内で死亡しているのが見つかった、という記事は確かにある。
 だがそれだけだ。さほど名前が売れていたわけではないらしく、事故扱いとなっている記事自体も小さく、番組ロケや例の映像との関わりについて明記されているものは当然何も無い。

『当時この企画に関わった人なんてもう居ませんから』

 音響係は確かにそう言った。そして時を経ずして姿を消した──それは、果たして意味のある言葉であったのだろうか。
 周一は、ビデオテープの入った紙袋を局から持ち出し、マイカーは駐車場に置いたまま、その足で即座にタクシーを拾った。

 これが万一厄介なネタで、足がついたら面倒だからだ。過剰な保身が身に染み付いたのは、表の稼業ゆえか、或いは裏稼業ゆえなのか。周一には今一つ判らなかった。







「まーまー、遠路はるばるようこそお越しくださいましたねえ」
 防犯カメラが三ヶ所に設置された物々しい玄関口で呼び鈴を鳴らし、出てくるのが頭主だというのだから世話はない。
 
 ──的場静司。
 若くして祓い屋大家十一家を纏める的場家の長として、一族を牛耳る男である。
 そいつが何を思ったか、黒地に金魚柄の着物に、髪を結い上げて、その頭に親の仇のように簪を挿している。
「いやあ丁度よかった。七瀬が大阪に行っていたので、法善寺あられをたくさん買ってきて貰ったんですよ。ささ、どーぞ上がってくださいな」
 ぐいぐいと小娘のように手を引っ張って、半ば無理矢理屋内に招き入れられる。最近ではもう、どちらが表でどちからが裏の顔なのか──周一には判らなくなってしまっている始末である。これをして、馴れ合いと言うなら言うがよい。今更周一には、そんなことはどうでもいい。
 周一は、おもむろに静司を抱き寄せる。
「わぁ、何ですかお昼から!」
「散々付け回されたんでね。タチの悪いパパラッチに」
「……へえ、タチの悪い?つまり、こういうスキャンダルには興味の無い連中ってことですね?」
 蛇のように背中を這い回る手を掴まえて、周一は肩をすくめた。
「……まったく、君には敵わんな」








「……『第13号試験場跡地』ですか」
 巨大な三毛猫を膝に、サラダ味のあられをつまみむ静司と差し向かって、周一はテープの出所を除いた、洗いざらいの事の次第を説明した。持参したものの、当然業務用のビデオテープは再生不可能であった。

 的場本邸とは、藩大名の江戸屋敷のようなものである。一般人は当然のこと、目明かしや同心、町奉行とて、正当な理由があってもその敷居をまたぐことは容易くはない。
 これが二百年ばかりが経過して、各種役職名義が変わっても、その実相は相違無いという──時代錯誤にして、此処はしかし恐るべき堅牢なる砦なのであった。
 静司は相変わらず涼しい顔をしているものの、その面相の奥の奥にかすかな動揺があることを、周一の双眸は見抜いていた──もはやとうに、この美しい氷の仮面に欺かれるばかりの間柄ではない。
 静司は刻みたばこを長く白い指でつまみ、くるくると器用に丸めて、細い羅宇煙管の先に据える。吸い口をくわえる唇はまるで笑っているようで、雁首から少し離した部分でマッチを擦ると、ゆっくりと、優雅に煙を吸い込んだ。
 ──アタリだ。
 周一はまるで嬉しくもなく口角を吊り上げる。まさに心持ちの奇。
 静司は日常的に煙草を吸うわけではない。彼が煙草を、煙管をくわえるのは「事情あり」の合図である。
 当たれど外れど、気は重い。
「心当りが、ありそうだな」
「まあ。アイドルさんや番組の事情については残念ながら存じ上げませんが。ただ……ロケーションとしては中々面白いネタですよ」
「『第13号試験場跡地』…」
 三服ほど吸って灰を落とし、またぞろ新しい葉を詰めて火を点ける。
「……ねえ周一さん。この13号って、何の事だと思います?」
 判らない、と言いたかったが、これに関してはまったく目星がついていないわけではない。ここは素直にカードを見せる。
「ああ……私は都道府県JISコードかと思ったんだが」
「おや、ご明察」
「……」
 ──またしてもアタリだ。古い画像ながら、『試験場跡地』という名称がそぐわないほど小綺麗な建物──。
「ではやはりこれは国の施設なのか?……総務省がこのコードを設定した以降に建設した建物だとすれば、1970年以降に建てられたことになるわけだが」
 差し向かった静司はどこか軽薄そうに頷いた。
「で、1989年当時には既に『跡地』になっている、と。ふふふ」
「…大いに心当りがありそうだな」
「ええ。例の施設を『跡地』にしたのは的場の先代ですからね」
 周一は口に含んだ茶を差し向かいの方向に向かって全部吹き出した。
「やめてください」
「すみません」
 静司は手拭いで顔を拭いている間も、声音ひとつ乱さずに話を続けた。
「……何を、お話ししましょうかね。まず、試験場というのは──予てより政府が立案して民間に委託していた計画に、米国の製薬会社2社が出資したことによって建設された、文字どおりの試験場だったんです」
 1970年代といえば、日本の製薬市場が一兆円規模に膨れ上がった時期である。米国メルク社をはじめとして、日本の製薬市場参入を狙っていた製薬会社は確かに山とあるはずだ。
 それでなくとも、よど号ハイジャック事件、あさま山荘事件、沖縄返還と、弱冠23才の周一からすれば、どこか薄暗い何かが蠢いていた印象のある時分である。
「試験場は全部で四ヶ所。26、42、47──つまり、京都、熊本、沖縄、そして東京の計4都道府県の、すべて人里離れた国有地に設立されたものです。表向きはオーファンドラッグの開発支援の研究施設という名目で、製薬市場自体がとかく巨大化していく真っ最中の当時には、あまり顧みられることがなかったのが好都合だったんですね」
 オーファンドラッグ──希少薬開発。
 現代なら、社会のリソースが生み出すそれこそが強く切望されていると言っていい。希少薬とは元来採算の取れないものだからである。だからこそリソースに頼るしかないのだが、当時の世情ではさして注目されていたとは思えない。
 だとしたら、巧い戦術だ。
「が、実際には施設では、『死なない人間』を造ろうとしていたそうですね」
「……死なない人間?」
 周一は強く眉をひそめる。
 それはまた──強烈に胡散臭い話だ。陰謀論よろしく、国家ぐるみで不老不死の研究でもしていたとでもいうのか。それは幾ら何でも、特撮映画の見過ぎだろう。
「厳密に言うと、兵隊を造ろうとしていたわけです。死なない兵隊なんて、ある意味夢みたいな話じゃないですか」
「馬鹿馬鹿しいな。最近ゾンビ映画でそんなのあったぞ」
「だからそれですよ」
 切り出した幹の年輪も未だ艶やかな、相当な年代物であろうテーブルに静司は身を乗り出す。
「生きている人間は容易く死ぬ。だが死んだ人間はどうです?死んだ人間は死なない。生き返ることもない。けれど、死んだ人間を動かすことができないわけではないでしょう」
「馬鹿を言うな。トライオキシンはフィクションだ」
「バタリアンは1985年ですったら。──別に映画にたとえなくてもいいでしょう。もっと身近な話で考えてみてくださいよ」
「身近な?」
「そうです──たとえば、おれたちなら、どうしますか?」
「……!」
 そういうことですよ、と静司が声もなく唇を歪めると、風に煽られた庭木がさわさわと騒いだ。
 例の施設を『跡地』にしたのは的場の先代──ああ、こいつは確かに何かを知っている。
 まして、自分たちならどうするか、だと?脛に思いきり傷のある身で、何をいけしゃあしゃあと。
 暫くの沈黙の末、庭先の鹿威しがカタンと音を立てると、静司は再び言葉を次いだ。
「……ねえ、周一さん。不死という意識に対する巨大なテーマは、古今東西、数多の人々が欲してきた欲望の究極形態です。だけれどもう、今やそんなものは探して見つかるものではなく、一朝一夕で作り上げられるものでもないことは、本当は誰もが承知なんですよ」
「……」
「でも、たとえそれが完全でなくても、ひとかどの、部分的な成功であっても、経済面から見れば十分に採算が取れる場合もあります。普通なら致命傷というダメージを受けても死なない人間を造る──徴兵で戦うことの無い現代戦争以前には、喉から手が出るほど欲しがられていた技術ではないですか?」
「……」
「1970年代なんて、まさにそのピークなんじゃなかったんでしょうかね」
 吹っ掛けておきながら、急に脳裏が上の空になるのを周一は感じた。
 胸の中に──記憶の波間に、刺のように引っ掛かる何かがある。

 ひとかどの、部分的な成功。

 ──では、試験とやらは何らかの形で成功していたというのだろうか?だとすれば、それは一体どのようなものであったのだろう。周一は、小憎らしい愉快犯を前に、眉を寄せて思案する。静司は敢えて物言わず何かを待っているように、白い指先で細い顎をつまむような仕草をする。静司という男は、そういう男なのだ。
 周一は更に思案する。唐突に降ってわいたような奇妙な情報提供者──彼は、かのアイドル歌手の死因に関してひとつ、まったく不可解な話をしていた。
「……earth」
 周一はぽつりと呟いた。
「え?」
 琴線に触れたのは、件のアイドルの死体発見当時に、首の後ろにはアルファベットが書かれてたとかいう話である。事件の概要を纏めた文脈において、あの話だけが破綻したコンテクストだった。
「だとすれば……待てよ。あれはもしかすると【earth】じゃなかったのかもしれないぞ──【earth】ではなくて【emeth】なら……」

 一方では馬鹿馬鹿しい戯言だとは思いつつ、一方では、何故かくだらぬ妄想だと撥ね付けることができないでいる。
 真偽の裏づけにはなるまいが、少なくともこの一件、別の角度であれ的場が関与しているというのだから、ただ事ではないはずなのだ。
「なあ静司……その試験場というは、本当に撤退したのか?」
「表向きはそうなっています」
 ここで言う表向きとは、世間様で言うところの裏側のことであり、答える静司ときたらこれまた実に愉しそうである。
「書き付けによると、特に西日本側は前代が徹底的に駆逐したそうですから、当県にはもう跡地も残っていませんがね。まあ何しろ国有地だ。なかなか手を出すのも難しいものでして」
「それで第13号試験場跡地だけは残ったのだと──」
 静司はゆるゆると首を振った。
「……いえ。前代はこれを、敢えて残したんじゃないでしょうか」
「何だって?」
 静司は膝の上のでぶネコを抱き上げて、そっと縁側に腰かける。春でも初夏でもない、穏やかな陽射しだ。でぶネコは再び静司の膝の上で丸くなった。
「……周一さんの推理も、あながち的外れではありませんよ。彼らが未だ秘密裏に、第13号試験場跡地で試行錯誤を続けていたとしてもまったく不思議はないんです」
「ならどうして黙って見てるんだ」
 机を突き放すようにして、ドカドカと静司の傍らに歩み寄ってドスンと胡座をかく。
 あきれたような静司が此方を見る。判ってる。判ってるんだ。でもな。
「………周一さん、あなた、裏の裏は表だと、思っちゃいませんか?」
「──なんだって?」
「……拠点を一網打尽にしてしまえば、彼らは裏に更に裏へと姿を隠すだけですよ。裏の裏は表なんかじゃあないんです。裏には裏、そのまた裏の裏が幾らでもある。一旦地下に潜伏してしまえば、それこそ有力な内通者でも抱き込まない限り、もう瓦解させるのは難しい」
「……」
 周一は沈黙する。
 そうかもしれない。
 だが、そうだろうか。
 ──必ずしも、そうなのだろうか?
 行方知れずとなったあの男は、恐らく金輪際この世で見付かることは無いだろう。──第一、あの業務用VHSは、本当に局の資料室などで埃を被っていたものだったのだろうか。
 静司の言い分と付き合わせると、彼は恐らく、例の試験場の関係者であったのではないかと、今にして思う。彼は裏から表へ、どうにか事態をひっくり返そうとしていたのではないか。彼は周一が何者であるかを知っていて、カマを掛けたのではなかろうか。
 彼こそが──言葉無き内通者ではなかったのだろうか。
 静司は新しい煙草を詰めた煙管をくわえ、ゆっくりと虚空に煙を吹き出した。
「……お忘れになることですよ」
「静司」
「何でも手に負えるなどという傲りはお棄てなさい。我々は、兎のように小心にして、鴉のように狡猾であることで──漸く生き延びるんです」
「……」

 そして思案の最中、周一はその時はじめて、件の音響係の男の名前を知らないことに気付いて愕然とした。
 その異変に気付いた静司が微かに嗤う。


 emethとは【真理】。
 methとは【死】。


 中世錬金術の結晶とされる人造生命ゴーレムは無敵を誇るが、身体に刻まれた『emeth』の頭文字を奪われると、たちまちその機能を完全に停止してしまうのだと言われている。



【了】


作品目録へ

トップページへ



- ナノ -