大鴉【前編】


 とんでもないところに墜とされたな──。

 静司は遥か上空に見える抜けるような青空を仰ぎ見て、思わず苦々しく舌を打った。
 周囲には何もない。あるのは墜落した的場家自家用ヘリのバラバラになった残骸と、落下時に機体に削り取られた鍾乳石の残骸。積んであった器材の一部──そして、操縦士と助手の無残な遺体だ。とりわけ助手の方は凄惨な有り様で、さすがの静司も、直視することを一瞬憚ったほどだ。
 生き残った静司も無傷とまではいかなかったが、命にかかわるような傷はなかった。助手の青年──ひどい損傷の遺体の若者が、静司の命を自らの身体をもって守ったのだった。
 ヘリはちょうど、地表に突き出た鍾乳洞が吹き抜け状になっている箇所に落下していた。ほとんどが鍾乳洞とガジュマルなどの雑木林に覆われた狭い無人島に、落下するヘリがまともに着陸できる地点などあるはずもなく、何とか被害を最小にとどめられるように努めようとした操縦士の苦心がうかがえた。
 携帯電話はどうにか無事だったが、どこにも繋がる気配は無かった。しばらくは携帯が唯一の命綱であるかのように執着していた静司も、ここではただのガラクタに過ぎないことが判明すると、もはや諦めて嘆息するほかはなかった。

(的場の者は、命を賭けて頭主を守るのが努め──か)

 的場一門に入る者は、例外なくそう教育される。静司は傍らの惨い遺体にそっと触れる。落下時に躊躇なく静司の身を守ったこの青年も、その教えを忠実に守ったのだろうか。









 次期沖縄県知事選挙の有力候補の一人である人権派弁護士の周辺事情について、地元の代議士が秘書と共に的場家へ相談に訪れたのは、つい一週間前のことだ。
 相談に来た代議士の秘書というのは、いわゆる敏感なタイプであるらしく、知事選を半年後にひかえたこの時期に、弁護士の対抗馬である候補者が二人も不幸に見舞われたことを「不自然な出来事」であると確信しているのだという。
 不幸に見舞われた候補者というのは、一人は交通事故死、一人は自殺であったとのことである。この事件について、弁護士に一時的に疑惑がかけられたのは、二つの事件の現場のすぐ近くで弁護士の姿を見たという証言があったためだ。交通事故死した候補者の一件については、本人もたまたま近くを通っていたことを認めているのだが、事故そのものが完全に本人の過失であることが立証されているため、弁護士の事件への関与の可能性はまったく無いと断定された。
 しかし一方の、自宅で自死した候補者の一件について、付近の路上で弁護士を目撃したのは、この代議士の秘書自身なのだという。というのも秘書は自殺した候補者とは旧知の間柄で、その日は候補者の自宅へ伺う約束をしていた。そして、候補者の死亡推定時刻前後に、彼の自宅付近の路上で件の弁護士の姿を目撃たという。付き添っていた着物の女性が「とても厭な感じ」だったとも述べている。そしてその直後に、秘書は自宅で自死している候補者を発見した──というわけだ。それは凄まじい死に様であったらしく、当然秘書はパニックに陥ったという。
 ところが、交通事故死の候補者の件と異なって、自死した候補者の事件での目撃情報に関しては、弁護士は何故か強硬に否定しているという。
 その後も選挙の関係者、主に弁護士のライバルの関係者の周辺で、災難が重なる奇妙な出来事が続いたが、ひと月ほど経ったある日、状況が変わった。
 自死した候補者の自宅付近で弁護士に付き添っていた女が、今度は秘書の自宅付近に現れたというのだ。
 狙われている、と思ったと、彼は語った。
 秘書にはつい最近結婚したばかりの年下の妻がおり、二階の窓から路上を徘徊する着物姿の女を指差して、彼女に警戒を促した。
 しかし──。

「どうしたの?誰もいないわよ」

 ──妻は、首をかしげて、そう言いましたよ。
 憔悴して痩せた秘書は、恰幅のいい代議士に支えられるようにして、絞り出すような声で静司にそう語ったのだ。不眠と不安から精神科に通うようになり、何かに怯え、やつれきった秘書が、何に追い詰められたのか──自死した友人の壮絶な有り様、人の心の闇、迫り来る得体の知れない何か──あるいは、そのすべてか。
 静司は早急に現地に向かうと約束し、早々翌日の出立の準備をしていた矢先、代議士の秘書は自殺した。

「これは、的場の威信に関わる問題です──」

 代議士はもはやこれ以上の追求は望まないと申し出たが、こうなれば静司のほうが収まらなかった。依頼者が死亡した以上は無報酬案件だが、話が話だけに真に無報酬に終わるとも限らない。そして、不謹慎ながら猶予もできたことだ。十分に準備を整えた一週間後、静司は沖縄に飛んだ。









 事件の解決は早かった。
 単純に考えた通り、弁護士が使役する妖が、ライバルの候補者を呪詛によって抹殺した、というだけの事件だった。
 実社会に妖の実害が出ると、被害は悲惨なものになりがちだが、「視える」者が見れば、そのやり口は稚拙なものが殆どだ。実社会での最大の問題は、妖は視認することができない、という単純な事実に尽きる。
 仕事は弁護士本人が休暇で訪れていた離島で片付けた。沖縄本島に一つある的場家の拠点から、自家用ヘリを飛ばして約一時間余り。
 調べれば人権派弁護士とは名ばかりで、裏でやくざの専任弁護士のような真似をやっており、麻薬の売買の利権やキディポルノの斡旋でもうけた黒い金をピンハネしているような強欲な男で、表向きはラディカルな弁舌と共に生活弱者の救済を嘯いて人気を集めているような、典型的な小悪党だ。当然のように金銭の示談を持ちかけてきたが、即座に断った。恐らく時期知事選の出馬は断念するに違いない。
 それなりの呪力を持つ女妖は壷に封印し、的場本邸に持ち帰る予定だった──その矢先の機体の墜落であった。

 不運なのか──あるいは。











 嫌な予感は、すぐに確信に変わった。バラバラになったヘリの残骸を調べているうち、プロペラと左翼部分に不自然な破損が見られることがわかった。銃器については素人に毛が生えた程度である静司にも、二ヶ所の不自然な破損が、ヘリ本体と同等か、それ以上の硬度をもつ何かによる損傷であることは明らかだった。
「……こりゃあ、狙撃だな」
 狙撃の標的になるのは初めてではない。
 今やこの国の闇の側面を水面下で支える大家的場家を──静司を煙たがるのは同業者だけではないということだ。妖を射落とすのはこちらの専売特許だが、ヘリとなると、相手は誰か──。

 無人のはずの周辺に、無数の気配が動き始めた。どうやらこちらが丸腰であることと、進退窮まる状態であることを心得たらしい。繁茂する樹木や鍾乳洞などの遮蔽物の影から、次々と姿を現したのは──全員が人間だった。十人、いや、それ以上か。
(……沖縄やくざ、というやつか)
 任侠などという世界観の存在しない、離島の無法者たち。彼らを雇った人間の想像はつく。呪詛の妖を使った件の悪徳人権弁護士にはそんな時間的余裕はないし、そもそも代議士と秘書が的場邸を訪れたことさえ彼は知らないのだから、その可能性はあり得ない。
「まったく。恩を仇で、というのにもいい加減慣れましたがね。ただ──」
 静司の視線の先には、一ヶ月余り前に、秘書を伴って的場邸へとやってきた、代議士の姿があった。
「理由が知りたいですね。体よくライバルを斥けて、今度はあなたが知事選に立候補する、とかいう筋書きですか?……まあ、あなた衆議院議員ですから、それはないかな」
 代議士は言った。
「的場を始末したがっている人間も少なくない、ということだと理解してくれればいいさ。こんな辺鄙な離島にもな」
「存じていますが、答えにはなっていませんよ」
「ハハハ。坊やはここで、この島の土塊になるのに、知ったところで何になる?」
「……」
 坊やだと。
 静司は鼻で嗤った。
「──まっぴらですね。私は帰ります。あなたに撃ち落とされた彼らも、帰りたがっている」
 無惨な形に押し曲げられた二つの遺体を一瞥し、静司は言った。
「……そうそう。沖縄では、魂を〈マブイ〉と呼ぶそうですね。ゆえに死者の魂をシニマブイ、とも呼ぶとか」
 代議士は困ったように肩をすくめた。
「無念の死の残穢は、あなたを引くかもしれませんよ」
「まじない屋のつまらん戯れ言は聞くに堪えんな──おい、やれ」
 代議士が軽く左手を挙げる。蜂の巣にされるのはまっぴらと、その手を目掛けて瞬時に振り抜かれた静司のスーツの袖から射出されたものは──。
「ぎゃあっ!!」
 ──黒檀の簪だ。
 それが代議士の手のひらを貫通した刹那、ひゅうと鮮血が迸り、一団に一瞬の動揺が走る。静司との間に生じる僅かなタイムラグ。それは、最大の好機を生み出した。
「貴様……!!」
 ひらりと身を躍らせ、静司はヘリの残骸の散乱する鍾乳洞の入口へと降り立った。もはやたやすく銃弾は届かない。時間は僅か。下の鍾乳洞がどういう構造になっているかは賭けだ。力まかせの肉弾戦なら完璧な不利、だが地形を巧く使えれば、あるいは。
 システマティックな戦闘のシミュレーションを脳裏で展開する一方で、身体中を巡る血が沸騰するのを静司は感じた。
 異常な状況ゆえか、感情の奔流が自制できない。自らの存在意義──自分が数多の妖が恐れる祓い屋大家、的場家の頭主であることさえ、今はどうでもいい。この災厄が、そうした身の上に端を発するものであるとしてもだ。

 鴉は狡猾だ。
 屍肉をあさる貪欲さと、状況を利用する機知をもつ。俊敏で、暗闇を見通し、時として肉食獣とさえ戦う強さをも併せ持ち──滅多なことでは、不様な死に様を人の目にさらすことはない。

 無論、無事に済むとは思っていない。それでも、ほかに手立てが無い以上は──沸騰した血の熱さがこの身を突き動かす限りは。
 静司は地下に向かって走り出した。墜落時の衝撃によるものか、身体中が軋むように重苦しく痛んだ。
 相手の数の目測は約十人余り。恐らくは全員を投入するような馬鹿な真似はしないはずだ。ならばおよそ十人が相手と見積もっていい。こちらに武器と言える武器は無く、接近戦ではこの片目が致命傷になる可能性があるか──。
(……いや、違う)
 違うぞ、静司。落ち着いて考えろ。
 地下は闇だ。視界のハンデは互いに同じ条件だろう。それならば。
(闇を見通すおれの目は、連中にとっての致命傷になる)
 光の代わりに闇を見つめ続けたこの瞳が、妖でなく、人を射る矛盾。

(おれは、鴉だ)


 太陽は翳りはじめていた。
 静司の青ざめた薄い唇が、ゆっくりと残忍に歪んだ。それはまるで、弓はり月のような形をしていた。


【続】


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