Fragments of Harmonia
「ツインギターって、エッチですよね」
また静司が変なこと言い出した。
「ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番がエッチなのは何でだと思いますか周一さん」
「……」
私は、音楽誌の連載コラムの原稿の筆を置いた。明日までに仕上げなければならないのに、少しも筆が進まない。
邪魔な奴が居るから……と言い訳をしたいところだが、そもそも気分が乗らないのだから静司のせいにもできない。
畜生、苛々する。
オーディオからは、静司が選んだビートルズのCDに収められている【イエローサブマリン】が流れてくる。ラフマニノフではない。ツインギターでさえない。私はビートルズのことはよく知らないし、この【イエローサブマリン】に至っては、サビが間延びした読経のようなテイストで、
『家の リビングに 居るぞサブ5人』
と延々と唱えている気がして少し苦手だ。
「何の話をしてるんだ」
「ラフマニノフ」
「ツインギターはどうした」
「互換性があります」
「………」
何を言ってるのか判らない。
静司は一人でラグの上に寝転がり、私の靴下のにおいを嗅いでいる。やめて欲しい。
「……どう互換性があるんだ」
──私はアホだ。
つい、原稿のネタになるかもしれないと、ふと期待してしまったのである。
私はデスクチェアごと向き直り、静司は言った。
「ラフマの」
略すな。
「ピアノ協奏曲第2番。そもそも旋律がエッチです」
「色っぽいな」
「はい。しかも大変叙情的です。初めて聴いた時ハンス・ジマーかと思いました」
「キャッチーだと」
「そう。しかもシテがピアノでワキが管弦楽」
わけのわからない言い方するな。
「最初のピアノのイントロの和音が切れると、オーケストラが一緒に厳かな感じで主旋律に入ります。もうおれたちにはあのメロディ自体がエロく聞こえるのでどうしようもないんですが」
冒頭の旋律を低く口ずさむと、静司はキャキャと笑った。最近、とみに動物っぽくなったような気がする……いや、幼児退行かもしれないから、少し注意したほうがいいかもしれない。
その癖に、口だけは達者なのだ。それよりも、【イエローサブマリン】のエンドレスリピートをそろそろ止めて欲しい。
「最初のAメロは管弦楽がメインなんですが、そのうち曲の過程で、ピアノと管弦楽が少しずつ分かれていきます。勿論『ピアノ協奏曲』なので、メインを張るのはピアノなのですが、オーケストラも負けじと演る。協奏曲は自ずと器楽とオーケストラの戦いになると誰かが言っていました」
誰がだ……と言いかけたが止めた。
確かにその通りかもしれない。著名なピアニストと著名な指揮者のコンサートともなれば、ともすると二者の戦いのように宣伝されることも少なくない。
「随所にピアノソロの挿入があって、主旋律のパートが管弦楽とピアノが入れ替わって入り乱れる」
「うん」
「かと思えばほぼ管弦楽だけで構成が進むなか、ピアノがその周囲にねっとり絡み付くように副旋律を弾く場面もある。逆のパターンもある。その境界線が曖昧なのもエッチです。気付いたら上になってたり下になってたり」
「………」
「同時にコードをずらしてハモるとことか」
──何が言いたいのか判ってきた気がする。
「曲の緩急が凄いです。そしてあの切ない旋律が堪らない。組んでは離れ、組んでは離れを繰り返し、そして冒頭のメロディ──サビの主旋律を今度はピアノが弾く。最後にとうとう同じ旋律を奏で、一緒に劇的なクライマックスに突入……と」
「──つまり、セックスしてるみたいって言いたいんだな」
「そう」
静司は私の靴下をくわえたまま、こっくりと頷いた。私はそれを取り上げたが、静司のヨダレでベトベトになっていたのでゴミ箱に捨てた。
「ツインギターも同じ理論で」
何処に理論があったんだ。
淡々と話す静司は眉をひそめている。どうやら靴下が惜しいらしいが、私は黙ってゴミ箱をデスクの下に置き直した。
「バンドならAメロ、Bメロ、サビ、ギターソロ、と大体のテンプレートがあるじゃないですか」
「うん、まあ」
デスメタルにメロディなんぞ無いが。『メロディック・デスメタル』なんてのが生まれたのはそのせいじゃないのか……と思ったが、言わなかった。話がややこしくなる。
「ツインギターがエッチな曲は、さっきのピアノと管弦楽と同じような関係なんです」
「……組んでは離れ、組んでは離れ?」
「そうです。バンドの顔は歌唱であることが多いですが、バンドでギターを打ち込みで済ますなんてあり得ないですよね」
「そうだな」
それはバンドの存在意義と矛盾する。あの、有名なユニット……何と言ったか、『ミエナイチカラの見える丘の果てでさまよえるKomachiの中で踊りたい』か何かをリリースしている彼らも、ボーカリストとギタリストで構成されているではないか。ユニットとバンドでは扱いが違うのだろうが、少なくともこの二属性はロックバンドの最小単位である。ボーカリストはともかく、それくらいギターの技巧は目立つのだ。
「何故か判ります?」
こっちが聞きたい。何でさっきから静司が講釈垂れてるんだ?
──今日の内蔵音源には生演奏と比較しても時に区別がつかないほど高い完成度を望むことができる。また、ブレの無いタイトな演奏が必要な演者もあるのだから、決して生演奏だから良いということにはならない。敢えて打ち込みを採用する場合もよくある。レトロな作風を意識していたり、サウンドを軽めにしたい場合などがそうだ。
しかし、内蔵音源で再生するには難しいものも確かにある。何故なら、プレイヤーが実際に演奏している音数だけを入力すると、色気も素っ気もない聞き苦しいものが出来上がるのだ。楽器には必ず反響音というものがあり、演奏にはプレイヤーの息づかいが出る。打ち込みでギターソロを表現するとしばしばこれが起こるため、いわゆるリフレインを意識したゲーム音源や各種BGMなどの制作者、また余興で敢えて取り組む者以外は、基本的に内蔵音源でわざわざギターソロなど作らない。
勿論例外はあるのだろうが。
黙っていると、静司は言った。
「エッチじゃなくなるからです」
私は即座に眠りたくなったが、我慢してペンを握った。この白紙を、明日までに脱稿しなければならないのだ。
「おれ、ギターヒーローが好きなんで、むしろボーカリストって邪魔なんですよね。何でギタリストってギターのソロアルバム出さないのかなあ」
「出してる人もいるだろ。キコ・ルーレイロとか」
「稀ですよ。フロントマンがギタリストのところは出しやすいかもしれないけど、迂闊にそんなことしたら仲間割れになっちゃうんじゃないですか。無伴奏じゃ味気無いから結局ボーカリスト以外のバックバンドは要るわけですし」
……なるほど。
それには納得してしまう。ギターが歌に代わって主役になるということは、ともすれば歌を抜いたバッキングトラックを作ることになりかねまじいからだ。
「……ボーカリストに三下り半突き付けてるようなものだな」
静司は靴下が無くなって寂しくなったのか、段々足許に近付いてきている。足に固執するのは何故だ。私の足は臭いのか。
『家の リビングに 居るぞサブ5人』
あっちへ行け。そして【イエローサブマリン】を止めろ。
「二本のギターが時に美しくハモリ、時にお互いのリードをぶつけ合う……誰かがそんなこと言ってました。ツインギターのソロがエッチな曲って堪りませんよねぇ」
だからその『誰か』は誰なんだ。足を振り抜こうとするが、何故かピクリとも動かない。
妖怪かこいつは。
「鳴きのギターと切れのギターが組んだり離れたり、掛け合いがあったり、アルペジオから最後のハモりまで上げていくのなんてまるきり絶頂じゃないですか……他人のセックス見せつけられてるみたい」
はあ、と静司は悩ましいため息をついた。
「……それがピアノ協奏曲との互換性、と」
「うん、そう」
「……」
何となくニュアンスだけは伝わってくる気がする。
ギターソロにこだわるリスナーは確かに多い。アルペジオから組み合わさるリフ。異なるメロディの掛け合い。微妙にチューニングをずらした録音で、一聴してリードが交替する瞬間が判ることもあるという。
まあ、私には判らんが。
「そこで周一さんに質問です」
静司はクイと細い顎を上げた。そしてこの期に及んで可愛いと思った自分に、死んでほしいと真剣に思った。
「何だ」
「おれとギターユニット組んでデビューするか、今からツインギター的な激しいプレイを模倣するか、どっちがいいですか」
「………」
ツインギター的。
アホかこいつは。
私は言った。
「どっちも嫌」
「周一さん」
左脚をしっかり抱き締めて、静司は私の目をじっと見詰めてくる。俯瞰で見ると、静司の貌は年相応──どころか幼くさえ見える。
私はたじろいた。原稿はどうする。明日が期限だ。
管弦楽に絡み付くピアノ。組んだり離れたり。アルペジオから最後のハモりまで上って、上になったり下になったり。散々強烈なリフを刻んで、最後にとうとう同じ旋律を奏で、劇的なクライマックスに突入──おとずれる絶頂。
静司。取り敢えず【イエローサブマリン】を止めてくれ。
此方をじっと見るその瞳がうるうるしている。わざとらしいくらい──いや、しかしわざとはできない紅潮した頬が、静司の発情を生々しく物語っている。
畜生。
鳴らしたい。
翌日。
ほぼ丸々静司の発言をコピペしたわけのわからないコラムは、私の黒歴史となった。
Fragments of Harmonia
【了】