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「ちょっと、ちょっと落ち着いてください会長!」
あまりにも無慈悲な仕打ちに、高也が処分を告げる前には到着していた庶務が口を挟んだ。遅れて集まった役員たちも高也の通告は聞こえていたので、一目見て事態を把握したのだろう。固唾を呑んで見守っている。
高也の目は据わっていて、冷静さを失っているように見えた。
「俺は自分でも驚くほど落ち着いていると思うが?」
「いいえ、そんな短慮な会長は会長じゃありません」
続く碓井の言葉に、不可思議そうな顔をして、高也は嘆息する。
「いや、そりゃ少しはカッとなったかもしれないけど」
「少し?! どこが!」
「だから落ち着いてるって。だって一言一句間違えず、一番正しい校則を引っ張ってきただろう?」
「それちっとも落ち着いてないです会長!」
いくらあんたが変人でも校則丸暗記している上に最適な一文を引用するなんて常人のすることじゃない!
とは、さすがに誰も声に出しはしなかったが、ぽかんと空いた口は持ち主の忍耐を今にも裏切りそうだ。
「それに、言い訳は無用だとも、俺は言ったが?」
やはり会長は自分を見失っているようだ、と役員たちは思う。
そのとき、おずおずと臣が挙手して彼の名を呼んだ。
「高也さん」
当事者でありながら、これまでひっそり息を潜めていた臣に注目が集まる。
「……臣?」
「高也さん、部長への処分を撤回してください」
「は?」
彼の頬にはすでに一発、殴られた跡が窺えた。切れた唇の端に滲む血が、固まりかけているのが見てとれる。
調理室に連れてこられ、見せられた現場で、高也の目に一番に飛び込んできたのがそんな彼の姿だった。
だから、次に見た振りあがった拳に確信をもって言い渡した処分なのだ。いくらなんでも、正当な理由もなく撤回することは、高也にはできなかった。
「あれは事故です」
「どう見ても殴られる寸前だったぞ」
「事故です。オレが事故だって言うんだから、間違いありません」
臣には一歩も引く気配がない。
被害者が何を言っているんだ、と高也は眉をひそめるが、臣は気にせず言葉を続けた。
「確かに、ちょっとした言い争いはしました。でも、この怪我は、オレが調理器具に八つ当たりしたせいで飛んでいった鍋を避けようとした部長の拳を弾みで受けてしまっただけの、本当に事故なんです。故意のものではありません」
ねえ、部長?
にっこりと笑みを浮かべ、佐倉と目が合うようにしゃがみ込んだ臣は小首を傾げて同意を求める。
途中、彼が早口で何を言っているかわからなかったが、事実に反することだと察した佐倉は、首を振って否定しようとした。これ以上、要らぬ罰を受ける気はない。
しかし、笑っているのに笑っていない、彼の底知れぬ瞳の色を見て思わず頷き返す。
怯えたようにコクコクと何度も首を縦に振る佐倉を見て、誰もが臣に薄ら寒いものを感じ、自分の肩を抱いて撫で擦っていた。
「……? すまん、臣。早口すぎて聞き取れなかったんだが、もう一回言ってくれないか?」
「え、嫌です。ちょっとした言い争いの内容なんて些末なことですし。それより、高也さんが言い訳もさせてくれなかったら部長は暴力未遂の濡れ衣を着せられるんですよ?」
濡れ衣、という単語に高也は「うっ」と言葉を詰まらせる。
「高也さんから見て『被害者』のオレが事故だと言っているんですから、これは『正当な処分撤回理由』になりませんか」
そして、庇護欲をそそる子犬のような顔をして高也の懐にずいっと入り込み、臣は言った。
「こんなことで高也さんの手を煩わせてしまって、本当にすみません」
騒ぎの元凶とはいえ、相応のしおらしい態度をとられれば、追及の手を伸ばす必要もない。佐倉も悄然としていて、反省どころか罪悪感さえ浮かんでくる。
高也は小さく首を振って、臣の頬に手を当てた。
「いや、俺こそ早とちりをしてしまって申し訳ない。臣がそこまで言うなら、処分は撤回しよう」
「ありがとう、高也さん!」
「……怪我は大丈夫なのか?」
そっと労る手つきで傷跡に触れ、腫れた唇の端に浮かぶ瘡蓋を高也は親指で拭う。
「はい。これくらいの怪我ならすぐ治ります! あっ、でも……」
「でも、なんだ?」
「治るまでは刺激のある料理は作れそうにないです」
いつでも高也さんが食べたいものを作りたいのに、と落ち込む臣に、高也は破顔した。
気にするな、と言って俯く臣の顔を両手で挟んで上げ、目を合わせて言う。
「俺は臣が作るものなら何でも食べられる」
食べ切ることは難しいけど、と申し訳なさそうな顔をする高也に、何かに没頭してまったく食べなくなるよりはいい、と臣は首を振った。
「……」
すっかり二人の世界になっているところを邪魔するのは忍びない。しかし、事態を収束させるには放っておくわけにもいかない。
おい誰かあの二人を止めろ、と役員たちが目配せで仕事を押し付け合う。
長身の生徒が意気消沈の佐倉を慰めているが、佐倉は高也と臣のやりとりに魂を抜かれたように放心していた。
争いの原因が「会長」であることはわかっていたが、校則に則り高也を連れてきた生徒は、選択を間違っていないはずなのに激しく間違えた気がして顔面蒼白になっている。
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