「浮気だ」
短くも簡単で物騒なワードに、宍戸亮はその手に持っていた紙パックのジュースを飲み干す音で答えた。ずご、と音を立てて中の液体はほぼすべて胃の中に納まる。そこで、この二人の間を行き交う音は途切れた。妙な間がその場に満ちていく。休憩時間の廊下は生徒たちでそこそこに活気があるはずなのに、その賑わいが薄板一枚向こうの世界のように感じられた。
「……一応聞いてやるけど、なんで?」
「ほら、向かいの校舎の二階のとこ見て」
真横にいるはずなのに、その女生徒は一瞥もこちらにはくれず、一点を見つめている。横顔から感情が全く見えないのがひどく恐ろしいもののように思えて、宍戸は言われた通りに示された場所へ視線を向けた。
教室を移動する生徒たちの波、その中に一際目立つ生徒を見つけて目を留める。太陽光を浴びた淡い銀色、こんな遠くからでも見てわかる長身──部活の後輩だ。そして、横で静かに恐ろしさを放つ古森真乃の恋人でもある。
鳳長太郎のことは後輩として、相棒として特別懇意にしている自覚がある。一方、幼稚舎で出会ってからなんだかんだでこれまでの人生の半分近くの付き合いになる真乃ともそれなりの友人同士だと思っている。宍戸にとって近しい二人がどのようにして付き合うに至ったのか、詳しいことは本人たちの話以上に聞くことはなかった。だとしても、目にするたび親しげに会話しているところをよく目にしていたから、付き合うという報告を受けた際も「だろうな。」が開口一番に出てしまったことを覚えている。(ジローや岳人は騒いでいたけれど。)それほど、隣に並んでいるのが自然に思えるような親しさだったのだ。
普段の二人を知っているだけに、浮気などという言葉のなんと酷く不似合いなことか。というか、直接言葉にすることはほとんどないが、そういったことを心配して不安がるのはあっち──向かい側の廊下で、同級生だろう女生徒と話している後輩の方が圧倒的に多いはずだ。
「二人で話してるとはいえ、どう見たってただの同級生だろうが」
「そうね、わたしも正直そうとしか思わない」
「じゃ、別にいいじゃねーか」
スンと音でも鳴りそうなほどに、先ほどまでの威圧感は消える。いや、威圧感というほど殺気立ってはいなかったが。先ほどまで妙に無表情だったのは、恐らく演技がかっていたからだったのだろうか。平常の気さくさを戻した真乃はようやく宍戸を向いて、口をへの字にしてううんと唸った。
「わたしが、長太郎がそんなに知らないうちのクラスメイトとかとああやって世間話してるとこ見ると、あの子あからさまにしょんぼりするじゃない」
「しょんぼり」
その表現を思わず言葉でなぞって、宍戸は内心僅かに呆れを抱く。そわそわと落ち着きを無くして普段より数割増しで近くにいようとしては他の男を近寄らせまいと必死に真乃の気を惹こうと話しかけ続けるあの様子をそんなたった一言で片づけていいものかとの疑問が沸き上がったが、自分には関係のないことだ、とそのままスルーを決め込んだ。
発する側ではなく受ける側とはいえ、当事者がそう表現するならそういうことになるのだ。宍戸にとって、テニスに影響が及ばなければ、もしくはこちらに向かって直接助けを求められなければ、当事者同士のあらゆることはわざわざ口を出すほどのことではない。そのくらいの線引きはしている。その上で、蚊帳の外から、ちょっと面倒くさいな、と思うだけで。
「毎回じゃないけど、たまに聞かれるのよね。何話してたのかとか。それ自体は別にかわいい嫉妬だなーで済むんだけど、そろそろもうちょっと自覚持ってくれてもいいと思わない? 都度不安がられるってのはわたしとしても不本意っていうか」
「あーそうだな」
次の授業、教師が適当に当ててくるタイプだから憂鬱になる。いよいよ、話が今日の天気くらいどうでもよくなってきた。いや、今は晴れているからどうでもいいが、曇り雨の日だと外での部活を気にする分だけ天気の方が意識を占める割合は大きいまである。
半分受け流しながら聞いている宍戸のそんな様子など気にも留めず、真乃は話を続けた。
「というわけで、浮気なのよ」
「どんなわけだよ」
条件反射で突っ込んでしまう。半分受け流すということは半分は聞いているということだ。そういう、なんだかんだで付き合いのいい宍戸の性格をこの幼馴染は理解していた。面倒くさがっていても多少は巻き込まれてくれる、だからこそこういうときほかの馴染みたち二人に比べると時折、宍戸はこうして彼女にクジを引かされることがあったのだ。まあ、もしかすると今回は当事者たちに一番近いからが理由なのかもしれないが。
「こっちがやると気にするけど、自分がやるのは気にならない。ってのは不公平じゃん? でもこっちと同じくらい気にするなっていうのも難しいって思うわけなのよ」
腕を組んで頷いているが何一つ頭に入ってはこない。そうだな、以外に何を言うのが正解なのか教えてほしい。というか予鈴はまだなのか。紙パック一つ一気に飲み干した時間に少しおまけがついた程度では休憩時間は終わるはずもない。世界一長いかもしれない10分だ。
「だからもういっそ、逆にわざと嫉妬させてみようかと。それで独占欲を煽って恋人の自覚を深めてもらって慣れていこう……ってわけ!」
「……それ大丈夫かぁ?」
「大丈夫よ、何も本当に浮気するわけじゃなくて、同級生と話す機会があったら適当に世間話するくらいにするつもりだもの」
「まあ……それなら普段と何も変わらない……のか? というかそれは浮気とは呼ばねえだろ」
果たしてその程度で嫉妬心が煽られるものだろうか。……いいや、あの心配性な長太郎なら煽られるだろう。疑惑は一瞬で確信に転じた。あの後輩の一途さは傍から見ていてもそれほどに明確だった。問題は、その後の部分に残されたままだが。
馬に蹴られぬ程度のわずかな親切心で「ほどほどにしてやれよ。」と忠告する。
「手加減はするわよ」
「んな当然だろみたいな面されても」
「あの、二人してなんのお話ですか?」
「ウワッ」
「長太郎!」
急に話しかけられ、さすがにびっくりして声のした方を見上げる。真乃も驚いた表情のままその人の名を呼ぶ。いや、さっきまで、そこの廊下にいたはずでは。鳳がさきほどまでいた廊下を見るも、当然そこにその姿はない。場所的にも遠くはないはずだが、さきほどの会話をしている間に移動してきたと考えれば、なんというか、随分早い到着のように思える。口にこそしなかったが、内心でひやりとしたものを感じる。愚直なまでの好意が為せる業なのかもしれない。
「ちょっとした世間話よ」
「そうなんですか。……へへ、お二人が見えたのでつい来ちゃいました」
「次の教室は大丈夫なの?」
「はい、戻るだけなので」
「そう。遅れないようにね」
「もちろんです! それじゃあ宍戸さん、また部活で」
嵐のように、穏やかに去っていく後輩を適当に手を振って見送ってやる。しばらく二人、無言で並んでいたが、姿が見えなくなってからどちらともなく顔を見合わせる。
「……やろうとしてたことは出来たか?」
「うーん……とりあえず、作戦は保留にしようかな」
「それがいいと思う」
巻き込まれる一般男子のことを思えば、この貧乏クジは自分一人でもう十分な気がした。
「慕ってくれるのはかわいいんだけどねえ。もうちょっと優先順位をつけてもいいと思うのよね」
「後半はまあ同意だが、あれを一貫してかわいいと言えるお前がスゲーと思うぜ、俺は」
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -