氷帝学園には天使がいる、そんな噂を耳にしたことがある。それは同級生から、或いは一つ下のオカルト好きな後輩から。
それほど有名じゃないらしいですけどね。どうにも好みの類の話ではないといった様子で後輩は語っていた。
「先輩は好きでしょう」
「なにが?」
「羽の生えた生き物」
なんて簡単に言うものだから、プライドを持ってチョップを下してやった。羽さえあれば何でもいいわけじゃない! ……渾身の一撃はあっさりと躱されてしまったけれど。
「天使か……」
その存在自体を信じているわけではない。そりゃあ人の体に羽が生えて自由に飛び回れるのだとしたらそれはものすごく羨ましいけれど、それが空想上の生き物だということくらいさすがに理解している。
だからこそ、向日岳人はその噂をなんとなく知っていた。知っているというより、理解していたという方が正しいか。
人の話とは往々にして、どこかでその内容が歪み、変化して広がっていくものだ。
わしわしと頭を掻く。脳裏に過ったのは教室の風景。話好きな生徒たちの取り留めのない会話。日常の景色。
『無口で大人しくて、休憩時間になるといつもどこかへ消えていくよね』
『小さくて顔が綺麗で、かわいいよね。でもなんか話しかけ難いっていうか』
『誰も近寄れない独特な空気感があるって感じ』
窓際一番前の席。揺れるカーテンと日差しがよく似合うなんて話もあったっけ。
いつも一人でぼんやりと空を眺めているその生徒を、誰かがこう呼んだのだ。
"まるで天使みたい"──と。
それは果たして褒め言葉になるのか? と一瞬疑問に思ったが、見た目がいいという意味であればそうと言えるし、もしかしたら浮世離れした雰囲気に対する憧れでもあるのかもしれない。
気になって一度、隣の席なのを良いことに授業中に盗み見たことがある。窓からは、柔らかな春の日差しが差し込む。教師の声だけが響く静かな教室で、一番前の席ながら堂々と黒板ではなく外を見ていた同級生の姿は、確かにそこだけがまるで違う世界を切り取ってきたかのように感じられ、思わず岳人は心臓をどきりと鳴らした。
空想上の生き物に例えられる理由を、その時なんとなく理解したのだ。だから噂を聞いた際は、真っ先にその時のことを思い出した。ああ、それってあいつのことか、と。
その日はなんとなく外を歩きたい気持ちで、部活終わりの疲れた体を夕方の風に晒してぼんやりとしていた。
行く当ては特になかったけれど、まあいいかと思いながら適当に散歩をする。そうして気が付いたら、馴染みの公園に足を向けていた。夕日はすっかり傾いていて、遠くの空には夜が見える。近所の子供たちは当然皆帰った後だろう。
せっかくだしブランコにでも乗ってくか、なんて考えながら足を進める。少しずつ暗くなる道には街灯が光り出していた。数年前までは見知った世界がどんどん暗くなるのが少し怖かったが、中学生ともなれば何も感じなくなっていたのが不思議なものだった。
目的地にたどり着いた。涼やかな風が内から入口に向かって吹き付けてきて、思わず手で顔を隠すようにしてそれを遮る。風が止むまでの一瞬、目を閉じて。
次にそこを見たとき、岳人はようやく気が付いた。小さい頃に幼馴染たちと競って上ったジャングルジムの天辺に、人影があることに。
風に後ろ髪を揺らして、足を宙に遊ばせながら、少女は空を見ていた。
「あ……」
意図せずに声を出していた。それは静かな公園に確かな音を響かせて、その少女を振り向かせる。薄暗い暮れに包まれたその姿は教室で見た光景とはまた違った様相で、岳人の視線を、心を、強く惹いた。
「……天使」
「てんし?」
脳裏に浮かんだ単語を、夢うつつのまま言葉にする。すると彼女がそれを繰り返して首を傾げた。教師とのやり取り以外で声を聞いたのは、もしかしたらそれが初めてだったかもしれない。
「ああ、いや、ちが……違う、こともなくもないけど……」
焦りが岳人の手のひらに汗を握らせる。誤魔化すように出てくる声はとにかく要領を全く得ていない。酸欠になったみたいにふらふらする感覚にさえ襲われている。
何か言わなきゃ、話さなきゃ。そう思うたびに余計なことを口にしてしまう。
「その……知ってるか? お前、学校で天使って噂されてるんだぜ」
きょとん、と。彼女は大きくゆっくりと瞬きをする。ジャングルジムの上に座って、上半身だけを岳人の方へ向けて。
何を言っているんだろう、とでも言いたげな表情に見えた。というか自分で自分自身にそう思っていた。
なんとなく、それ以上その人の顔を見ていられなくて少し俯く。普段と大きく変わった表情ではなかったが、こんな様子をどう思われているのだろうかと考えたら、なんだか居た堪れなくなって。聞かれてもいない俗物的な話をつらつらとしてしまった己が急に恥ずかしくなった。
「……」
静かな風の音がまるで天使の呼吸のようにも聞こえて、心臓がぎゅっとする。もう何を言えばいいのかわからなかったし、向こうだってこんな話をされても反応に困るだろう。すっかり尻込みしてしまった気持ちを早く隠してしまいたくて、もう帰ろうと鞄を強く握る。顔を上げる。あのさ、俺、もう──言いかけて、開いた口からは何の声も出てこなかった。
「ふふ……ふふふっ」
笑っていた。いつも無表情でぼんやりとどこか遠くを見ているその人が。人と関わるところを見せず、すぐにどこかへいなくなってしまうその人が。今、目の前でその顔を綻ばせて笑っていた。
想像していた領域を遥かに超えた笑顔だった。だってそれは、空想上の生き物というよりももっと身近な、普通の、どこにでもいる女の子のそれだったのだ。
「天使だなんて。まさか、いると思ったの?」
「! そ、そんなわけ」
なかった、はず、だよな。いまいちはっきりと言い切れないのは、そうでないとわかっていながら、"まあでもこういうところあるしな……"なんて思っていたからだろう。
素直にそう説明をすると、クラスメイトは一つ一つ丁寧に話をしてくれた。
授業中いつも外を見ているのは。先生の難しい話、ちょっと退屈でしょ。
いつも一人でいるのは。人に自分から話しかけるのちょっと苦手なんだ。一人でいるのも別に嫌いじゃないし。
休憩時間にすぐどこかへいなくなるのは。お昼ってお腹空くから、お気に入りのところに早く行って食べたくて。
「……なんだ」
普通だ。ものすごく普通だ。意外だったが、改めてこの人のイメージのほぼすべてが偏見で出来ていたのだと思い知る。……まあ、天使だなんて思って見てれば、当たり前なのだけど。
「古森、お前もっと周りと話してみればいいのに」
「ううん……そうかな。そうかも」
「そうだよ」
またいつもの、凪のような表情に戻ってしまった。さっきみたいな顔で、もっと笑えばいいのに。
「人と喋るのって、結構面白いぞ。お前もやってみろよ」
「うーん……考えとく」
「おう。まあ、まずは挨拶からだなー」
無表情の瞳が露骨に据わったのがわかった。淡々としているものだと思っていたから、それがあまりにも面白くて、笑いがあふれた。この短時間で彼女に対する偏見はとことん破壊されていた。無敵の快進撃だ。
「じゃあ試しに明日、俺が声かけてやるよ。……ちゃんと返事しろよ!」
強く念を押す。はっきりとした返事は帰ってこなかったが、善処してもらえると信じることにしよう。
話している間に空はすっかり夜の色に変わっていて、もうそろそろ帰らなくては親に遅いと怒鳴られる様子が想像できた。
俺、そろそろ帰るよ。今度はちゃんと言える。
「うん」
「また明日な!」
「……うん」
ぎこちなさの抜けないやり取りだったが、非常に充足感があった。楽しかった。また明日、が嬉しかった。まあ向こうは返事だけで、そうとは言ってくれなかったけど。
公園の入り口をくぐろうとした瞬間、後ろで地面を強く踏む音がした。思わず振り返ると、その人は飛び降りたのだろう、スカートの裾をぽんと叩いてからこちらを真っ直ぐに見た。
「あのね、知ってる?」
公園に立てられた明かりを背中に、彼女は言葉を放つ。
「向日くん。羽があるみたいに跳ねる人」
──初めて、その声で名前を呼ばれる。
「あなた、学校で天使って呼ばれているのよ」
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