キッチンは甘い香りに包まれていた。
換気のために回るファン、まだ温度の残るオーブン、使ったあとの器具が積まれたシンク、それから。
「……さあ、どうぞっ」
此度も随分と気合が入っているようだ、そう思いながらニールは眼前の机を見る。クッキー、カップケーキ、トリュフにガトーショコラ。見ているだけで口の中が甘ったるくなっていくような光景がそこにはあった。
「なあ。これ、全部一人で作ったのか? お前、休み取ったの今日だけだろ?」
「? そうだよ」
今日の仕事を変わってくれないかな、と打診を受けたのはつい先日のことだ。あのミネットが、珍しいこともあるものだ。なんて深く考えることもなく引き受けたが、まさか一日中料理をしていたとは。しかも見事なまでにすべて、チョコのお菓子。どれも大層手が込んでいるというものではないのだろうし、特別大量に作っているというわけでもなさそうだ。にしても、だとしてもだ。これだけの種類を一人でとなるとその苦労はそれなりだろうと推測ができる。
一体なぜ、なにを理由にそこまで。そんな疑問が至極当然ながら浮かぶ。
「……何のために?」
「あー……えっとね。いやね、今度のバレンタインにね」
バレンタイン。聖バレンタインデー。確か、ある宗教圏における祝日で近しい人に贈り物をするという習わしがある……だったろうか。勉強をする機会などこれまであまりなかったものだから歴史の知識に自信はないが、確かそんな感じの日だったはずだ。
「それで、この量のチョコを作ったと。……いや、しかし、バレンタインデーまではまだ日があるはずだが」
「これは試作なの」
「試作」
「そ。フィムが学校の友達と交換するからお菓子の作り方を教えてほしい、って。だからいくつか作ってみて、作りやすさとか味とか手順とか、そういうことを確認したくって」
頭の中でいくつかの要素が合致していく。なるほど、と思った。
ニールは、ミネットが”フィムの母親”として努力していることを知っている。役割を果たすべく手を尽くそうとするが、真面目さが祟って手加減というものを知らないところとか。こうして、娘のためにと簡単に一日を使い果たしてしまうのが証拠だ。または、それだけ娘を想っている、という証左でもあるわけだが。
「……なるほどな。それで俺は味を見ればいいわけだな」
「そうです。……なんか今更だけど、チョコ平気? 食べられる?」
「問題ない」
そっか、と安堵した声を聞きながらニールは薄っすらと新たな疑問を感じていた。味見役、俺でよかったのだろうか。
「ちなみに、他の面子は」
「えー……っと」
ミネットの顔が露骨に複雑そうなものに変わった。
「ちょっと想像してみてほしいんだけど」
「ああ」
頷いて、ミネットの声に思考を合わせる。そうして彼女は、わずかに重たげな雰囲気を纏わせて語り出した。
──まずはユウゴね。食べ比べするほど甘いものを食べてくれないから、おいしいって言ってくれるのは最初だけ。だんだんと「勘弁してくれ」って顔していくからちょっと申し訳なくて。
──次にキース。甘いものは大好きって言ってるけど、だから大体何を食べさせても「おいしい」って言ってくれる。それはありがたい、ありがたいし嬉しいんだけど、そうじゃなくて……そうじゃないわけです。わたしは褒め殺されてしまうのです。
──ジークは料理がちょっとあれなので置いとくとして、クレアは甘いものをちょっと控えるという話を聞いたのであまり食べさせてしまうわけにもいかなくて。
「……と、どんどん選択肢が狭まっていき」
消去法か。思わず口をついて出そうになったがニールはそれをぐっと堪えた。もしもこれを不満げに言ってしまうと、なんだか、頼られてちょっと舞い上がっていたことにほかならなくて、それが若干悔しかったのだ。思い込みで浮かれていただなんて間違っても悟られるわけにはいかない。目の前の相手はそれを知れば恐らく、心の底から喜ぶ。喜ばせたくないというわけではないが、そういう時の彼女のあのにんまりとした笑顔とからかいの口調は少し苦手だから。だから、そういう、意地で。
「君はさ。ちょっと説明するとすぐに察して納得してくれるから、なんというか……お願い、しやすくて。だからその……へへ、えへへ」
対して、ミネットはこちらの意地など知りもせずに気恥ずかしそうに笑った。狙いすましたかのような直球に、思わず隠しきれなかったたじろぎで反応してしまう。ほんの少しの硬直と、喉につかえた息。だからそれを誤魔化すように、まるで最初からそうだったと言わんばかりに、ニールはため息を吐いて見せた。
「わかった。参考になる感想が言えるかは、保障しかねるが」
「ありがとー! 助かるよお」
自分のこととなると意地とプライドで身動きが取れなくなるほどに不器用なのに、人のためとなるとこの真っすぐな笑顔。普段からそうやって素直にしていればいいのにと内心で悪態をつくと、改めてずらりと並んだチョコレートたちに向き合う。
「今日だけで一年分のチョコを摂取しそうだな」
「ひ、一口だけでいいよ……? 余りは、また明日にでもみんなに配るから。もちろんこれは、バレンタインのお菓子とはまた別でね」
「そうか。……、……そうか」
それは彼女にとっては何気ない一言だったのだろう。一度返答をして、頭の中で言葉を反芻して、それからニールは微笑んだ。
どうやら、当日も何かを用意してくれるらしい。自慢ではないが、この人には特別想われている自覚がある。
「なら、楽しみにしている」
「え? ……あ! ちがっ……違う! 違わないけど! そんなに期待するほどのものじゃなくて……!」
”特別”が極めて特殊なことではない人間であることも、知っているけれど。
それでも頬や耳を染めて慌てふためく様子は自分がさせているのだという優越感で、ニールは十分に満足していた。
けれども、ああ、しまったな。こんな気分でチョコレートを食べてしまえば、「おいしい」としか返せなくなってしまうかもしれない。──そんなことを考えながら。
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