不意に意識の外から触れてくるものがあって、ニールは手元の資料から顔を上げた。頬にかかる髪を優しく払う、その手のひらの先を見遣ると、すぐ隣でこちらを向いているミネットの視線と交わった。何か用だろうか。思い浮かんだ率直な疑問をそのまま投げかけると、彼女は緩く首を横に振り「なんでもないの」と笑う。
けれども、指の背でニールの髪に触れて遊んだからか、或いは意識を紙束からそちらに向けたからか、ミネットの表情はどことなく満足げに見える。
「……すっかり警戒心なくなっちゃったね」
言いながらミネットは手を下ろすと、代わりに視線をじいっとニールに向ける。
「別に俺だって、誰も彼も警戒するってわけじゃない。ましてやこの状況で、お前相手にするものでもないだろう」
「それは……そう、なのかも? まあ、それ自体は嬉しいんだけど」
何かを言いたげな表情で笑って、少女はぷらぷらと足を遊ばせていた。一体何を考えているのだろう、視線を返すように様子を窺う。
人には通常、伝えられるもの以上を察する能力はない。ニールもそれは例外ではなく、だから、わからないことがあれば知りたいと感じる。それは一種の“好きの証明”で、そう自覚しているからこそニールは自身のそれを受け入れる。そんな気持ちがいつも、無意識に視線を強めていて。
「……なあに」
気が付けば、困ったような顔をさせていた。髪の隙間から覗く耳の先を赤く染めながら。
「君、たまにそう、だけどさ。見てて面白い?」
「面白い……? いや。そう思ったことがないわけじゃあないが、それは理由じゃなく結果だな」
「じゃあその理由は?」
「特にない。気づいたらそうしているから」
「……ああ、しまった。つい反射で聞いてしまった……墓穴掘った……」
耳の色を頬にまで伝播させて、ミネットはぐったりと脱力した。今の返答で何かがわかったらしい。そんな様子は彼女自身が言っていた通り面白くて、ニールはくすりと笑う。なによう、と呟かれる拗ねた子供のような悪態すら、心地よいものに思える。
こんなやり取りがニールはとても好きだった。穏やかで温かい時間は、正しくニールの欲しかったもので、守りたいもので。こういうもののために生きていられたら、それはきっととても幸福なことなのだろうと思える。
「はあ、もう。いい、いいよ、もうわたしの負けでいいよ」
どん、と肩に衝撃がかかる。淡く立つ甘い香りが、それがミネットであることをニールに認識させる。強めにぶつかってきたように感じたのは気のせいではなく、彼女の言葉を拝借するならばそれはきっと、負け惜しみなのだろう。
「負けず嫌いも、そこまで行くと難儀だな」
「……これをされて負けず嫌いって理解できる君も相当だってこと、自覚してよね」
軽口を交わしながら、ふと訪れた沈黙があった。時間にしてほんの一瞬。きっとそれは今こうしている二人だけが気づける瞬間だっただろう。上目遣いにこちらを見たその甘い赤色の瞳に視線が合う。は、と漏れるどちらのものとも言えない呼吸。……不思議と、ニールは吸い込まれるような引力を感じたように思えた。
自分の中にあったものがどこか遠くへと奪われていく感覚。さっきまではなんとなく伝わってきていたミネットの心の内が、全く見えなくなってしまう。唐突かつ漠然とした虚脱感。そして何もなくなったそこに生じるのは、焦燥感にも似た衝動だった。
「……へ」
素っ頓狂なミネットの声でニールは我に返る。頬が手のひらに触れていた。いや、正しくは手のひらで、頬に、触れていた。先ほど自分がそうされていたように、今度はニールが。
指の腹をその肌に優しく滑らせると、ミネットが弾かれるようにして震えた体を起こした。するり、と手のひらが解かれる。遅れて、ニールの指の隙間をミネットの長い髪が滑り落ちていく。
吃驚させてしまっただろうか、と普段なら思うところのはずだった。けれどもその時ニールの思考に浮かんだのは、もっと別の。
「ね、ねえ」
──だめだ、行くな。
「あの……」
──逃げないでほしい。
ニールは重心をミネットの方へと傾けると、もう一度手を伸ばした。懇願するように、そっと触れる。
「な……なにか、言ってよ……」
か細い声はニールに言葉を求めていた。それはきっと触れた手と同じだった。あの瞬間に消えてしまった安心を探している。そう理解しているわけではなかったけれど、ニールは口を開く。考えるよりも先に言葉が出ていた。
「……好きだ」
自然とそれは声になっていた。目の前の赤色が揺れている。
「俺は、お前が好きだ」
そう告げれば、今度は逃げられなかった。ニールは頬に触れていた手をゆっくりとその背に回すとミネットを抱き寄せる。緊張して固まっているというのに、その体は柔らかかった。
鼻先が触れ合うほどの距離は、お互いの輪郭すら曖昧にさせていく。心臓が熱く痛む。呼吸はひどく浅いのに、あの甘い香りが胸いっぱいに広がっていくようだ。……このまま触れてしまえば、もっと強く感じられるのだろうか。
「……っ」
ぎゅ、とミネットが強く目を閉じた。ニールを捉えていた赤色が瞼の奥に隠れてしまう。そうしてしまえば、もうだめだった。瞼同様に固く結んだ唇に、吸い付くようにして触れる。
勢い任せだけは絶対にしちゃいけないと踏み止まっていた理性が霧散していく。自分という存在が受け入れられているのだと自惚れてしまう。それは触れるだけの幼い口付けだった。
すぐに離れてしまうのが惜しくて、抱きしめたまま瞳を開く。甘えるように額を擦り付けると恐る恐るといった様子でミネットも目を開いた。その瞳の色はいつもよりとろりと甘く見える。
「……急にそういうことを言うのは、ずるいと思います」
「なら、普段から思った時に思っただけ言うか?」
「っ……わたし、を、どうにかしてしまっても、いい、なら」
どこかで聞いたことのある文句に思わず笑ってしまう。反射的にでも嫌だとは言わないところが愛おしいと思った。
「なら、やめておく。普段通りのお前が好きだから」
べしん、と背中に衝撃が走るとそのままニールは強く抱きしめられていた。どうにかなるよ、と言われたような気がした。
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