おやすみなさい。そう告げる声は穏やかで、ああ、今日も一日が終わるんだなあと思う。今日も、昨日みたいに終わってくってこと。朝になって太陽が昇って、夕方になってそれが沈み、夜になったら月の光が淡く照らして、そうして眠りにつくってこと。そんな当たり前のようなことが、当たり前じゃなくなるかもしれない日常は、やはり少しだけ怖いのかもしれない。時折そんなことを思う。
朝ごはんを食べて、その後送り出すときもそう、だけどそれ以上に怖いのはいつも夜だった。どうしてだろう。月明かりはこんなにも優しくて穏やかで、包まる布団は母のようにあたたかで柔らかいのに。横になって目を閉じると、音、音がない。不安になる要素のひとつ、なのだろうか。部屋の中に一人きりで、この世界で自分たった一人きりになってしまったかのような寂しさを覚えるだなんて。
ああ、だめ、だめだ。わかっているのにどうしようもない孤独感に押しつぶされてしまいそう。ああ、ああ! もう!
こういうときに一人だからいけないのだ、この本丸、幸いにも人の数は多い。多くなった。飯時なんて騒がしいほど。だからこんな静けさの中でも起きてる人が一人くらいはいるかもしれない。そんな、淡い、月明かりのような期待を胸に飛び起きると、上着に袖を通す。行こう。
襖に手をかけて開けようとしたところではたと気づいた。きっとそれは相手も同じだったろう。「……大将?」「その声は、薬研?」襖に淡い影を落とす彼は、今まさに声をかけようとしたところだと言った。
驚いた、と同時にどきどきと心臓が脈打つその速度を速める。どうして。どうしてここに。今。そんな、都合のいい夢? 夢のような偶然?
あの言いようのない孤独感は体中を巡るどきどきに段々と薄れていって、けれどそれを自覚する冷静さは今、持ち合わせてはいなかった。
「まだ起きてたんだな。丁度良かった……ってほどの用事じゃ、ないんだが」
「ええ、まあ。あ、ごめんなさい、襖開けますね」
二人の間、その襖をそっと開く。月明かりを背にそこに立つ薬研は、まるで夜のような色で、ほんの、少し。見惚れてしまいそうになる。夜闇に溶けてしまいそうな儚さ、けれどそれ以上に感じるのは人としての熱、体温。誰かといる、そんな、触れなくても伝わる温もり。安心する。そう思って、ようやく自覚した。さっきまでの寂しさがもうどこにもないってこと。
「それで、用事とは? 火急のものでしょうか」
「いや、さっきも言ったけどそんな大したもんじゃない。ただ……、要するにだ」
「はい」
「ただ、会いに来た。それだけの単純な用だ」
へ、と素っ頓狂な声をもらしてしまう。予測を立てていた訳ではないけれど予想外のその答えに思わず瞬きの回数が増える。まさか本当に夢なのではないかと思ってしまうほどに、都合が、琴音にとっての都合があまりに良すぎる。こっそり、手を強く握り手の平に爪を立ててみたが、痛い。たぶん、夢じゃない。
「でも、その。大したことないとは言いましたけれど、わたしにとってはそんなこと、なかったですよ」
「ん、そうか?」
「はい。今、誰かに会いたいと思っていたのです」
「ああ……それで部屋を出ようとしてたのか。どうだ、俺っちで役に立てたか?」
「ええ、もちろん」
伝わっていた……りすること、あるのだろうか。それこそこの上なく都合良い妄想だけれど。言葉にもしてない現実味の薄い感情なのだ。
それも今となっては過去、のもの。彼のおかげなのは疑いようのない事実。だから。
「ありがとう」
「……お礼を言われるようなことをした覚えはないんだがな」
「いいえ、会いに来てくれたから。わたし、実はお恥ずかしながら、寂しかったのです。誰かに会いたかったのも、あなたに会えてよかったと思ったのも、寂しかったから」
子供染みてると笑われるかしらと思ったが、薬研は一度そうか、と頷くと黙り込んでしまった。何か考え事をしているのか、目線が僅かに落とされている。何を思っているのだろうかと思考を巡らせてはみたものの、これと思いつくものはなかった。
察しが悪いのかしら、と嘲笑するように息を吐く琴音は小さな薬研の呟きに気づかなかった。
「……誰か、か」
呟いて、薬研は目線を上げた。まっすぐ琴音に合わせて、止める。
「俺が大将に会いに来た理由なんだが」
「? はい」
「会いたかったからってのもあるがそうじゃなくて、ちょっとした期待だったんだ」
「期待……ですか?」
「ああ。眠る前、最後に会ったのが俺だったら、ってさ」
さらり、髪に薬研の白い指が触れた。頬を撫でるような仕草で滑る手のひらに、体が急に熱を帯びていく。やげん、そう形作る唇は上手く音を作れなかった。
「もしまた寂しくなったら、今度は俺のことを考えてはくれないか。会いに……来れるかはわからんが、夢の中くらいなら行けるかもしれないだろ?」
目を細めて笑むその表情に、胸の奥で心臓が一際大きく跳ね上がるのを感じた。どくん、どくんと体中を巡る血液が熱い。その笑みの奥、その感情が見えない。聞こえない。ああ、うるさい。どくん、どくんと鳴る心臓、ただそれだけがきっと、知ってる。気づいている。でも、でも。頭は、思考は、ぐるぐると迷子になって。喉元で詰まった言葉を整理しようと、琴音は呼吸を整える。
「薬研のこと……ですか」
「ちょっとしたきっかけで俺のことを思い出してくれるってのが理想だったんだが……けどまあ、良いもん見たしよしとするか」
触れていた手はぽん、と頭に乗せられてそのままひらりと離れていく。良いもの、がそのときは何を指しているのかがよくわからなくて。
「そろそろ、寝ないとな」
「え、ああ、そう……ですね」
「それじゃ。また明日」
「お、おやすみ、なさい」
「おやすみ」
悪戯な含み笑いも、彼の言葉の意味も、全部。その背中が見えなくなってから、急に、色鮮やかに心の中に飛び込んできて。
考えて欲しいって、こと。わたしに、薬研のことを。寂しさを埋められる存在でいたいということ。それは、つまり。つまり。自意識過剰かもしれない、なんて思えないくらいに率直な言葉、想い。あまりに熱い、感情。
「……どうしよう」
浮ついた熱が引かない。おやすみと低く響いた声が、耳から離れてくれない。
「こんなの……意識しないでいられるはずが、ないじゃないですか……」
ああ、明日からどんな顔をして会えばいいのだろう。布団に包まりながら悩んでいると、ふと琴音は気づいた。ねえ、これってあなたのことを考えているってことになるのかしら、薬研。そうしたら、そうだったら、あなたは夢にまで会いに来てくれるの。
朝まで待たずとも会うことになるのだろうか。そう思うと、不思議と笑いがこみ上げてきてしまった。なんだか全部、良いようにされてるみたい。
いい加減に眠ろう。朝も早いことだし。それに本当に会いに来てくれるのかも確認しなければ。なんて何の抵抗にもならない意地で琴音は目を閉じた。一人じゃない夜は、もう、怖くはなかった。
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