騒がしい声、次いでいくつかの足音。ああ、帰ってきたんだわ。微かな衣擦れの音と共に音のするほうへ振り返る。いつものように。けれども、おかえりなさいと告げようとしたはずの声は、そこにいた人の姿を見るやいなや音と成り得ず消えていった。
「薬研……!」
心臓がきゅうと縮み上がり、瞬間的に息を詰まらせる。駆け寄る琴音を目で追いかけながら、薬研は罰が悪そうに顔を歪めた。そうして短く小さく、ただいま。と言う。
「どうしたんですか、傷が」
「こんなのはただのかすり傷だ、すぐに治る」
宥めるような優しい声に琴音はそう、とだけ答えた。指の先まですっぽりと隠れる袖で口許を隠し黙り込む少女の様子は、目に見えてしょんぼりと落ち込んでいる。
彼らが日々向かうのは戦場。確かに、薬研が負った怪我も然程大きなものではない。この程度で片付けられるのだろうが、けれど、そういう、なんだかそういった言葉で片付けてしまいたくはなかった。
琴音は袖の中からそろりと手を伸ばした。裾の中から白く小さな手、それが薬研の頬に触れる。
「大将?」
きょとんと不思議そうに瞬きをする薬研に、琴音は微笑を向ける。優しく、穏やかに。完成された美という訳ではないけれど、春先に花開く野花のような温かさで。
「手入れいたしましょ? 薬研」
笑んで、ぴしゃりと言い放った。迷いなく、反論も許さないといった様子。
きっと、過剰にお節介で心配性な主に見えていることだろうと予想に容易い。薬研のこの苦笑は、そういう意味だと思うから。けれど、そうであったとしても、心配なものは心配なのだ。何が悪い、と開き直る琴音に対して、薬研は。
「ちっとばかし心配しすぎだ、四六時中そんなだと身が持たんだろう」
「薬研」
「……わかった、わかってる。ありがとうな」
余計な世話と突っぱねることもなく、受け入れてくれる。ありがとう、と。その上で気遣ってまでくれるのだから、ずるい人。ずるい、刀さん。かつては誰かの、今はわたしの、一振りの刀。
触れた手に重なる手のひらのその温もりに、その心に、どうしようもない安心感を得てしまうのだから、ああ、きっとどうしようもないのは自分の方だ。物として、刀として、それだけじゃない感情に浮かされていく。彼の手を、振りほどけなくなりそう。
「そろそろ、行きましょうか」
惜しいと思う気持ちをぐっと抑え、するりと抜いた手を袖の奥へと引っ込めた。不安定に揺れる心を悟られまいと先に歩き出し、背中越しにああ、と彼の声を聞く。
変ね、別に今生のお別れって訳じゃないのに。昨日も今日も、明日だってきっと、彼は傍に居てくれるのに。近づけば近づくほどに離れられなくなってしまう。
どうしてかしらね。袖の中、風にも触れていない手の甲が、少しだけ肌寒い気がした。
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