「燭台切、わたしの名前をご存知ですか」
唐突な問いかけに、光忠は「えっ」と声を漏らして琴音の方を向く。どうしたの、急に。うっすらとした困惑を素直な疑問に乗せて、光忠が笑う。眉を八の字に傾けるような笑み、まるで先日悪戯をした短刀たちに向けていたようなそれを見上げて、琴音は緩やかに弧を描くその唇で言葉を紡ぐ。
「いえ、大した理由ではないのです。ただ」
「ただ」
「あなたの口からわたしの名を聞きたい。今、そのような気分なのです」
両手を床につけ縁側に腰掛ける主が、その白い足を遊ばせながら無邪気に言う。彼女の名前、それを光忠は知っている。初めて彼女に会った時名乗っていたのだから、当然覚えている。故に、彼が即答で答えられなかったのは決して、名前を思い出せないなどという格好のつかない理由ではない。光忠はしばし思案しているのだ。彼女の言う気分の由来。そして同時に、彼女を最も喜ばせる返答の方法を。
「……どうして、そんなことを?」
「内番に精を出すあなたを見かけて、眺めていたら、なんとなく」
「う、うーん。そっか……」
どうにもピンとくるものはなかった。しかしふと、もし自分が、彼女に名前を呼んでほしいと思ったとしたら。それは、どんな時?
土で汚れた手袋から手を抜き取り、両手重ねて隅に置く。琴音のそばまで寄って、光忠は彼女に目線を合わせるように膝をついた。じ、と見つめると彼女も光忠をじっと見つめた。
「琴音」
「はい」
「これでいいかい?」
「ええ、満足です」
目を細め、そのやわらかな頬を押し上げて笑う主の表情に光忠も微笑んで返す。膝をついて縁側の彼女を見上げているせいか、少しだけ、彼女のことがいつもと違って見える。なるほど悪くはない、なんて考えていると、ふと光忠は頭を撫でられた。御褒美です、と上機嫌な彼女に。
「え、……えっと」
「燭台切は背が高いから、いいですね。高いところの物も軽々と取れるでしょう」
正直誰かを撫でることはあれど、誰かに撫でられるなんて経験、ない。自分は誰かを甘やかす側の存在だと思っているし、そうしているのが好きだという自覚だってある。
けれど、なんだか、こうして甘やかされるのもどこか、心地が良かった。ふわふわとした気持ちが心の中で膨れて、無性に、思いっきり顔をほころばせてしまいたいような気分になっていくのだ。ああ、ちょっとこれはやばいな。なんかこのまま浸り続けるのは、嫌じゃないけど、だめな気がするな。恰好がつかないというか……それより、ああ、うん、もっと甘やかしてほしくなる。
一頻り撫でて離れていく手に少し惜しい気持ちになりながら、光忠は立ち上がる。いつもの目線の交わり。光忠が見下ろして、琴音が見上げて。
「内番、ご苦労様です。そろそろわたしも戻らねば、仕事の怠慢は許されませんからね」
「あはは、そうだね」
立ち上がり部屋に戻る小さな背中を見送って、光忠は浮ついた自らの心を律するように一つ深い呼吸をする。そうしている間にも、不思議と、今なら最初の彼女の言葉、その由来を理解できる気がした。
いつかもしも僕が彼女を見ていたとして、ぼんやりと何かを思うことがあったら。そのときはきっとこんなことを考えるのだろう。
「君のその手で、頭を撫でてほしい」と。
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