ふわり、と、不意に甘い香りがした。
なんだろう。お菓子とは違う、もっと自然で淡い甘さだ。無意識にすん、と息を吸い込んで広瀬は周辺を視線で探る。
するとそれの正体はあっさりと見つかった。隣に腰掛ける彼女の手に見たことのない、
「……それ、ハンドクリーム? 菅野さんの?」
「はい。先日、芳子さんとショッピングなどに赴き、そこで勧めて頂きました」
「へえ」
「女子たるもの潤いは大事だ、と熱弁されまして」
「……ああ、よくわからないけど、なんとなくわかるよ」
おおかた、流行っているだとか有名人が使っているだとか、そういった理由なのだろうと察するに易しい。広瀬の中でも彼女の友人はそのような人物像であった。女性のお洒落はよくわからないものであったが、男性でも手が荒れやすいなどという理由でハンドクリームを使う人はいる。
乾燥する季節ともなるとそういった人たちは大変なのだろう、と縁遠い世界にぼんやりと思考を巡らせている広瀬の横で風羽が手に乗せたそれを薄く広げていく。その様子がどこか真新しい光景で、自然と目線をそちらに滑らせる。彼女の白い肌から甘い香りが立つ様に、少し、ほんの少しだけ色を感じてしまい、そんな己を広瀬は心の中で嘲笑した。なんか、あまりにも基準が低すぎる。普段彼女があまりそういったところで意識させない性質だからだろうか。
そんな恋人の複雑な心境など気づきもせず、風羽はどこか楽しそうに言葉を紡ぐ。
「人工的な香りは好みませんが、何もないというのも面白味がない、と。芳子さんに助言頂きつつ、いくつか試してみたのです。こちらはある花の香りだそうで」
よほど楽しい時を過ごしてきたのだろう。どことなく自慢げな声や、嬉しそうな目もとがそう語る。
「……気に入ったものがあってよかったね」
「はい。芳子さんには今度お礼をと考えております」
友人を想う彼女を見ていると、じわじわと罪悪感で浸食されていく気持ちになっていくようだった。なんだか申し訳なくなって、居た堪れない視線を外へ向ける。窓の外は青々と晴れた空が広がっていて、それだけで責められた気分になるのは、広瀬の性分からなのだろうか。それは都合のいい解釈ともいえるが。だって、些細なことにも浮かれてしまう自分を責めてやりたいと思っているのは、ほかの誰でもない、自分自身なのだから。……難儀なものだ。
「菅野さん」
「はい、なんでしょう」
「……それ、いい匂いだね」
香りに大した興味などなかったが、それは広瀬の本心であった。優しい甘さを纏う彼女を、ただ好きだと思った。そういった意味を内に孕んだ言葉だった。
わかりにくいだろうか。回りくどい言い方であるという自覚はあったが、伝わらないならそれはそれで都合はいいのだと言い聞かせながら、盗み見るようにちらりと彼女の様子をうかがう。
大きな瞳をまんまるにして驚いた表情。――目が合う。すると彼女は、目を細めるようにしてはにかみ、頷いた。
そんな、少し照れたような表情を前に、些細な意趣返しが失敗に終わったことを悟る他なかった。
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