ゴロベエさんに連れられてやって来たのは、小さな宿屋。旅人が一晩の宿を頼む事が多いというその店は、成程部屋も然程広くは無く、必要最低限のものだけがある安価な場所だった。どういう交渉をしたのかは解らないが、先程の一座の連れという扱いで、私達は小さな個室を二部屋借りる事が出来た。ただ、その部屋割についてなのだが…。
 
「そんな、私が一人で一部屋使ってしまうなんて、申し訳なくて…!」
「ですがそれ以外の分け方となると…」
「ナマエ様と、オラ達のうち誰かが一人、同じ部屋になってしまうだよ」
「私はそれでも構いません」
「そうは言ってもなぁ。某達も、これで一応男なもんでな」
「リ、リキチさんは奥さんがいらっしゃるじゃないですか…!」
「それではいざという時に、ちょっと不安ですねぇ」
 
幾ら訴えても、ヘイハチさんとゴロベエさんはのらりくらりとかわすばかり。リキチさんまで困った様な笑みを浮かべている。私が返す言葉に詰まってしまった所で、これで終いとばかりにゴロベエさんが明るい声を上げた。
 
「遠慮するな、こういう時は素直に甘えて置くものよ。ほれ、これがお主の部屋の鍵だ、無くすでないぞ」
「ゴロベエさん…!」
「さて、明日に備えて早めに寝るとしますかー」
「ヘイハチさんまで…もうっ」
 
さっさと部屋に入ってしまう二人の背を不満気に見詰めてみるも、その姿はすぐに扉の向こうへと消えてしまう。残るリキチさんに視線を向けると、何故かリキチさんの方が申し訳なさそうに眉を下げて、頬を掻いた。
 
「すみません、何だか私だけ…」
「気にしねぇで下せぇ。ナマエ様はまだ自分の記憶も戻らねぇのにおら達の力さなってくれて、ほんに感謝ばしとるんだぁ。こういう時くらい、ゆっくり休んで下せぇ」
「…ありがとうございます」
 
まだ少しばかりの罪悪感は残るものの、リキチさんのはにかむようなその笑みに、私も小さく笑い返した。そうして漸く落ち着いた部屋の中で、壁を背にして腰を降ろすと、私は今までの事をぼんやりと思い返して見る事にした。訳の解らぬままサムライと間違われ、番屋に捕えられた事から、ここに至るまでの事。それらは全て鮮明に思い出せるというのに、それより前の事は幾ら考えても未だに思い出す事が出来なかった。途中、何度か唐紅に頭の中で呼びかけてみたものの、返事は無い。最初に会った時…いや、最初に唐紅と言葉を交した時、自分は相談役では無いと言っていたのはこういう事なのだろう。諦めて溜息を零し、床の準備をしようとした所で、誰かが部屋の戸を叩く音がした。
 
「ナマエさん、まだ起きていますか?」
「は、はい…っ!あの、何かあったんですか?」
 
扉を開けた先に立っていたのはヘイハチさんだった。咄嗟に周囲を見やるも、特に変わった様子は無く、私は改めてヘイハチさんの方を見ながら小さく首を傾げた。
 
「いえ、そうではなく。寝る前に一度風呂に入られてはどうかと思いまして」
「えっ、お風呂に入っても良いんですか?」
「勿論。とはいえ、何かあった時に一人では危険なので、扉の傍で見張りに立たせて貰いますが」
「それは、構わないんですけど…ゴロベエさんやリキチさんは…?」
「ゴロベエ殿は昼間にお会いした一座の方とお話しに、リキチさんもそれに付いて行きました。…私が見張りでは不安ですか?」
「あ、いえ!そう言う訳じゃ…!」
 
慌てて否定した所で、ヘイハチさんが小さく肩を揺らしている事に気付く。からかわれただけだと気付いた私は、早く行きましょうと、ヘイハチさんの横をすり抜け先に湯殿へと向かう事で、赤くなる顔を隠した。蛍屋の時は結局入りそびれてしまったお風呂。こんな所で入れるとは思っても居なかった為に、自然と心が弾む。扉のすぐ外にヘイハチさんが居るのが、気にならないといえば嘘になる。それでもお風呂に入れるならと、着物を脱ぎ、その上に唐紅を乗せると、掛け湯で一通り身体の汚れを落とした後にゆっくりと熱い湯船へ身を沈めた。思わず溜息が出る。その時、扉の向こうからヘイハチさんの声が聞こえて来た。
 
「…湯加減は如何ですか?」
「丁度良いです。お風呂に入るのなんて久し振りなので、凄く気持ちが良いですし」
「それは何より」
「上がったら、今度は私が見張りに立ちますね」
「恐縮です」
 
冗談だと思われているのか、ヘイハチさんが小さく笑う声がする。勿論本当にそのつもりなのだけれど、私も思わず笑みが零れた。白い湯気に覆われた湯殿はお世辞にも広いとは言えず、手入れも行き届いてるとは言い難かったが、今の私には何よりの贅沢に感じる。ほうっと息を吐くと、僅かに水面が揺れた。
 
「…時に、ナマエさんはキュウゾウ殿とお知り合いで?」
「ふえ!?」
 
あまりに唐突な問い掛けだった為、妙な声が出てしまう。それに気付いているのかいないのか、ヘイハチさんは言葉を続ける。
 
「キュウゾウ殿が妙にナマエさんの事を気にしていた様子だったので、てっきり御存じなのかと」
「わ、私は、知りません…多分、知らないと、思います」
「…そうですか」
 
ヘイハチさんはそれ以上尋ねては来なかったが、私はそのままキュウゾウさんの顔を頭に思い浮かべてみる。組分けをする際にも、痛い程感じていた視線。考えてみれば今までも、キュウゾウさんと会う度にその鋭い目を向けられていた様な気がしていた。それは、私の気のせいだけでは無かったという事だろうか。私は、キュウゾウさんの事を知らない。けれどそれはただ忘れているだけで、本当はもっと前から、キュウゾウさんを知っていたのではないか。そんな事を考えている内に、頭がぐるぐると回り出すのを感じ始める。最初は考え事をしているせいかと思ったが、すぐに自分が風呂に浸かったままだという事を思い出した。慌てて立ちあがると、視界がぐらりと揺らぐ。何とか自力で湯船から出て、身体を拭い、着物に袖を通した所でついには床にへたり込んでしまう。唐紅が滑り落ち、かしゃんと音を立てる。それに気付いたヘイハチさんが、遠慮がちに声を掛けた後、扉を開けた。
 
「!、どうしたんですか!?」
「ごめん、なさい…久し振りのお風呂で、ちょっと、のぼせちゃったみたいで…」
「なんだ、そういう事でしたか」
 
力無く笑ってみせると、ヘイハチさんも安堵したように苦笑を浮かべる。そして拾い上げた唐紅を私の手に持たせたかと思うと、そのまま私の身体を横抱きに持ちあげてしまった。
 
「へ、ヘイハチさん!?あああのっ」
「大人しくしていて下さいね、落としてしまったら大変ですから」
 
その言葉によって反射的にぴたりと身体が動かなくなる。驚きやら申し訳無さや恥ずかしさやらで私がしどろもどろになっている内に、ヘイハチさんは宿屋の中をさっさと進んで行く。部屋に戻ると私を窓際へと降ろし、そのまま布団の支度までしてくれた。まだ少しばかりくらくらとしながらも、必死にお礼を言う。
 
「ありがとう、ございます。何から何まで…」
「慣れない旅で疲れていたんでしょう。思えばこれまで、一度もゆっくりと休める機会がありませんでしたからね」
 
床の準備を終えたヘイハチさんはやがてこちらへとやって来ると、部屋に置かれていた団扇で静かに風を送ってくれる。火照った顔に当たる風がとても心地良くはあったけれど、私の胸を占めるのは罪悪感だった。もう大丈夫だからと、やんわり遠慮の意を示したものの、ヘイハチさんの手は止まらない。尚も食い下がろうとする前に、
 
「私としては、それよりもまず着物をしっかりと身につけて頂きたいですねぇ」
 
なんて言うものだから、私はそれどころでは無くなってしまう。殆ど袖を通しただけの着物は、今にも肌蹴てしまいそうな程に崩れている。慌てて後ろを向いた所でもう遅かったけれど、その後暫くはヘイハチさんの顔がまともに見れそうに無かった。やがてすっかり落ち着きを取り戻した所で、ヘイハチさんは部屋へと戻って行った。結局、風呂はゴロベエさん達と交代で入る事になったらしく、それについても益々申し訳なさが募った。布団に入り今日の事を考えている内に、風呂での出来事を思い出して再び顔に熱が集まるのを感じた私は、そのまま潜り込むようにして眠りにつくのだった。
 
 
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