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「うわ、降ってきた」


夏のある日のこと、今日も一日府庫で過ごし吏部侍郎の雑用を櫂兎はこなそうとしていた。丁度昼がすぎた頃、朝の青空が嘘のように曇天にかわり、やがてしとしとと雨が降り出しては、豪雨となって雷まで鳴りだした。


「……今日は帰れないかなぁ」


もしくは濡れ鼠になってでも邸へ辿り着くか、だ。ちなみに今日は府庫の主はいない。昨日まで邵可は五日ほど府庫に泊まり込んでおり、流石に今日朝早くに帰った。勿論人材不足、どの部も忙しい猛暑の今、府庫にきて本を読む余裕のある官吏はいない。府庫には櫂兎一人だった。


「春前に薔薇姫と会ったのもこんな天気の日だったなあ」


呟き、それからまた雑用へ戻ろうとした櫂兎は、偶然視界に捉えたそれに目をぱちくりとさせた。


「邵可…これは何の嫌がらせだ?」


邵可が食べたいと言ったため、櫂兎が作った水羊羹の包みが、ほどかれた形跡もなくそこにあった。


「人様が態々作ったもの忘れるか普通……」


夏、生菓子は足が早いだろう。このままでは邵可の口にはいる前に腐る。それはとてもいただけないことだ。作り直すのも面倒、自分が食べるのも萎える。


櫂兎の中には簡潔な答えが出ていた。


「届けるか」





バケツをひっくり返すという形容が相応しい降りざまの豪雨の中、邵可邸に着いた櫂兎は、部外者の侵入防ぐ役割を果たしていないであろう壊れた門戸をくぐり抜け、本邸の屋根の下に入り一息着いた。
櫂兎自身は見事に濡れ鼠状態だが、水羊羹は無事である。


「へぇっくしょぉッぶぃいっふ」


やけに変な櫂兎のくしゃみも豪雨の窓や屋根、地面打つ音にかき消される。


「おじゃましまーすよーう」


無論、返事はない。一度水羊羹を棚に置いてから、床を濡らさないよう服を絞り櫂兎は邸へ入った。


邵可は部屋で静かに書物を読んでいた。


「しょ〜ぉおぅうぅううかあぁぁああぁあぁぁぁ〜ぁあ!」


「おや、櫂兎、また川に飛び込んだのかい?今度助けたのは誰だい」


凄い剣幕で邵可に詰め寄る櫂兎に、邵可はゆるりと呑気に訊いた


「川になんて飛び込んでないぞ、外みろ外!雷!そして豪雨!ってかそこ雨漏りしてるぞ。
……ったく、この雨の中こーんなに濡れてまでわざわざコレ届けにきたってのに」


そうしてぐいと包みを邵可へと櫂兎は押し付けた。邵可はぱちくりと目を瞬かせて、櫂兎と包みを交互にみてからぽんと手を打った。


「そういえば、櫂兎が作った水羊羹、今朝府庫で受け取ってたんだったね。わざわざ有難う」


「やっぱりすっかり忘れてたんだな…」


「うん、忘れてたよ」


ニコリとそう言ってのけた友人に、櫂兎ははぁ、と溜息ついた。


(こいつがこれくらいゆるゆるしてるのも、ある意味平和ってことかもしれないけどな…でもなー、)


作った人の気も知らずに……忘れていたとは、無礼失礼な奴である。


「お茶を淹れようか。一緒に食べよう、櫂兎」


「あぁ」


自室にまさか父茶セットを置いていたとは思わなかったけれどな!


「お湯…を使う時は秀麗か静蘭に頼むよう言われているのだけれど」


「ああ、それは邵可がお湯を沸かそうとするからだろ、俺やるよ」


きっと邵可へそう言ったのは秀麗ちゃんだろう、そしてその判断は賢明だ。
邵可が湯を沸かす、それ一つしようとしただけでも台所は惨状と化す。片付けは勿論邵可以外の者がする羽目になる。邵可の台所進入阻止はきっと、ここ紅邸では暗黙のルールだ


「んじゃ、台所借りるぞ。うあー、あと服も借りていいか?流石にこのままは寒い」


「うん、構わないよ。ちょっと待っていてくれ……ええと……」


これじゃない、あれじゃないと邵可は箪笥を漁り始めた。それを横目に、あっさりと櫂兎は邵可が探していたであろう服箪笥から適当に着替えを見繕った。


「これ、借りるな」


「あぁ!そこにあったんだね、全く気付かなかったよ」


「着替えるからこっちあんまり見るなよ」


「見るなと言われたら見たくなるのが人の心というものでね」


「反骨精神いらないから、それただの変態発言だからね?! ここはその糸目を見開くトコじゃないよ!!?」


いきなりその瞳をカッと開いた邵可に櫂兎は本気でドン引きした。


「……いや、そんな、本気でとらないで欲しいな……些細な冗談なんだけど……」


「お前の冗談は分かりづらいんだよ!ああぁよかった!本当よかった!」


あわあわと糸目に戻っては櫂兎に背を向けた邵可に心底安心して、櫂兎は着替え始めた。水を吸った衣類は思っていたより重かったらしい、着替えたら少しだけ、ほんの少しだけ身が軽くなった気がした。脱いだ服を綺麗にたたんだ櫂兎は足取り軽やかに台所へと歩き出した。


「んじゃ、いってくる」


「いってらっしゃい」


手を振る櫂兎を邵可は笑顔で見送っては、また書物に視線を戻した。






櫂兎に用意された湯が揃ったところで、待ってましたと言わんばかりに書物を閉じた邵可は、友人との小さな茶会の準備に取り掛かる。
お茶にしては漢方臭い、父茶の香りが部屋に広がり、雨の香りを掻き消した。
双方茶と水羊羹をもくもくと口にしては、暫くしたところで邵可は言葉を発した。


「言い訳に聴こえるかもしれないけれどね、私がすっかり水羊羹のこと忘れてしまっていたのは、決して君がくれた水羊羹を大事にしていなかったからではないんだよ」


「……うん」


「自分でも驚いたよ、気が緩んでいたというか、抜けていたというか」


それはいつもだろ、と突っ込むことを櫂兎はやめておいた


「平和なのが、幸せなのが怖いって…、ちょっと笑えるよね。あーあ、馬鹿ってうつるのかなぁ」


「……うん? 邵可? それどういう意味?」


「君に会ってから、私は気が緩まされっぱなし、馬鹿になりっぱなしってこと」


「つまり遠回しに俺を馬鹿といいたいと」


「いや…本題それじゃないけど」


「しかし俺は馬鹿だと」


「うん、だってそうだろ?」


笑顔でさらりと言われたことに、櫂兎はしばし思考する。


(邵可には言われたくないんだけどなぁ、というか俺馬鹿じゃないと思ってたんだけどなぁ)


自覚出来ないものかもしれない、正しいところは分からない。しかし、納得もし難い話だった


(あぁ、でも)


櫂兎は静かに目を閉じた


(うつるなり何なり、邵可がぼけぼけぽけぽけしてくれるんなら、いいかな……?)


「…櫂兎?」


目を閉じた櫂兎を怪訝そうに邵可はみた


「なんでもない…あぁ、いや、でもやっぱり馬鹿呼ばわりされるのはよくな――へっくちゅ」


櫂兎は身を震わせた。どうやら雨でだいぶ身体を冷やしてしまったらしい。あたたまろうと父茶を口にしてはその苦さに顔を顰めた


「風邪ひいたっぽい」


「また?懲りないよね、君も」


「あぁ、だけどさ、これでほら、俺馬鹿じゃないって証明出来るじゃっくしゅんぷぇい」


変なくしゃみをしながらも櫂兎は得意げな顔をした。


「……うん?もしかして櫂兎、『馬鹿は風邪ひかない』とでもいいたいの?」


「うんうん!」


笑顔の櫂兎に、邵可は笑ったような、困ったような顔をした。


「嬉しそうにしてるところ悪いけどね、櫂兎


『夏風邪は馬鹿がひく』んだよ」

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