「え?」
受け入れさせちゃえよ、と、櫂兎の耳にはそう聞こえた。
「ダメでもやっちゃえばいいって言ってんの」
「は?」
どうやら、先ほどの言葉は聞き間違いではなかったらしかった。何言ってんだこの人!
ぽかんと開口した櫂兎に、貘馬木は一層笑みを強くする。
「自分のやりたいように生きるって超楽しいぞ」
「うわこの人絶対に見習っちゃダメだ」
「失礼な。そりゃあんまり迷惑かけまくったら、不都合あるだろうけどさ。お前の考えてるそれって、別にそこまで酷いもんじゃないんだろ? ってか、棚夏のことだから、どーせ欲張って取りこぼしまで拾う気だとか、そんな感じがする」
「でも、それは、俺がしたいからで」
「ならいいじゃん! だってこのままじゃあ、他でもないお前が、その絵の理想ってやつを諦めることになるぜ?」
その言葉は的を得ており、櫂兎は次句がつげなくなる。
貘馬木は、断りもなく櫂兎の横にぼふんと座った。文句を言おうと櫂兎が口を開きかけるも、聞く様子もなく言葉を続ける貘馬木に黙って聞く姿勢をとった。
「諦める。それが嫌ならやっちまえよ。
逆に、他人の絵を台無しにするくらいなら、自分が嫌な思いした方がいいとかご殊勝なことを考えるならぁ、やらなくていい。
やっていいか、いけないか、じゃないぞ。やるべきか、やらざるべきか、でもない。やるか、やらないか。だ、ろ!」
悩んでいたことは、測りようもないことが絡む、理屈で片付けようのないことで、考えたって仕方のないことだった。結局己の前にあるのはその二択で、考えるべきも、どちらを選ぶか、ただそれだけのことだ。
ならもう、迷う必要はない。
「やります」
「よく言った」
貘馬木は、何するか知らんけど、などと無責任にも宣って、櫂兎の背中をばんばんと叩いた。
「人ってのは、理想の絵ができなくったって、それはそれで気に入ったりするもんだから、大丈夫大丈夫」
気楽に言ってくれるものである。
恨みがましく櫂兎は、貘馬木をジト目で睨みつけるが、貘馬木は相変わらず何処吹く風の反応だった。
「理想通りの絵が描ける奴なんて、そもそも、碧家の幽谷だとかそういう、画家にさえ一握りの存在だ。
元から誰も、理想と違う現実ってのを受け入れる準備はしてるンだから、そう構える必要ねーって。お前だってそのお前の考える絵が実現しない可能性も覚悟した上で筆とるんだろ?」
「それは、…そうですけど」
「ならいいじゃん、もうそれでー!
それより夕食ぅ! 腹減ったぞ棚夏ー! 打ち合わせはその後だ」
立ち上がった貘馬木は櫂兎を急かす。櫂兎は、溜息をつきながらも、笑って彼に続いた。
貘馬木は、夕食で櫂兎が用意した茄子のおひたしが大変お気に召したらしく、打ち合わせの間はずっと上機嫌だった。
今手をつけている案件の引き継ぎと、粗方の情報共有が済んだところで、貘馬木は思い出したように言う。
「そーそー、『棚夏櫂兎』が御史台に戻った時、沃侍御史に予防線がどうのって話をされたけど、お前、意味わかる?」
「あー、鈴将の件の時の」
「再生するぞ。『彼の働きは期待以上でした。なにせ私が楽をできたのですから』」
貘馬木の口から出てくるのは沃の声だった。
「人間録音機だ!」
「なんか嫌だなその呼称!」
貘馬木は大袈裟に肩を落とした。
「要するに、だ。元々鈴将は、ケリがつくまで時間がかかりそうだったり、兵部侍郎が逃げに走ったりして、証拠不十分で罪を起訴できなかった時の、手っ取り早い証拠作り用って意味での『予防線』だったんだと」
「再生やめちゃうんですか?」
「お前が変な呼称つけるからだろーが!」
思わずといった様子で叫んだ貘馬木は、慣れないことをしたとでもいうように、むず痒そうに口をもごもごさせた。それから、咳払いして元の調子を取り戻す。
「話を再開するぞ。
鈴将って奴は兵部侍郎一派の好みそうな性格をしていて、かつ本人にも兵部官吏の適性があったんだと。んで、奴が兵部に入り込めば一派の企みに関わるに違いないと沃は睨んだ。
証拠は、鈴将本人から証言をとる、もしくは鈴将ごと切り捨てて、“作る”気だったらしい。鈴将が関わることでボロを出しゃ御の字とか考えてたみてぇだ」
△Menu ▼
bkm