「ありがとう」
彭民の口からでてきた言葉に、鈴将は度肝を抜かれた。
「えっ今なんて」
「二度は言いません」
そう言って、彭民はぷいと顔を背けてしまった。
――府庫で出会った、伝説の先代筆頭女官の言葉を参考に、鈴将が思い浮かべた『頼れる御史』は他でもない彭民だった。
彭民は鈴将にあたられて以来、鈴将の無視を決め込んでいたが、この時ばかりは友人を助けられるかもしれないとあって、鈴将の呼び掛けに応えた。
それからは早かった。はじめこそお互いぎこちなさがあったが、そんなものは調査の忙しさにどこかへ吹っ飛んでしまった。彭民も鈴将もよく働き、ひやりとするような危ない橋も渡りながら、証拠を集めた。
そしてつい先程、彭民の友人は無罪であったことが証明され、釈放された。
「ふん、冤罪を晴らすなんて牢獄見回りしてる新人御史の仕事です。けれど、新人よりもつかえない貴方のことですからね!」
「とか言いながら泣いてんじゃん」
彭民の背けた顔を覗き込んで、鈴将は言った。彭民は、キッと鈴将を睨みながら涙を拭う。
「これは、これは、夏ですから、目も汗をかくんですよ」
「それはちょっと無理あんじゃないかなあ」
「だって出てくるんです!」
仕方ないでしょう! と彭民は強く叫ぶ。
「やればできるじゃないんですか、いえ、知ってましたよ。信じていました。けれども、けれども、嬉しいんです」
「お前俺の親か何かかよ!」
突っ込みながらも、鈴将はくしゃりと嬉しそうにはにかんだ。
「沃様沃様」
「何ですか、邑。私は久々の休暇を楽しみたいのですが」
執務机に足を上げ、椅子にだらしなく座る沃は、その前日までのピシッと決めた姿の見る影もない。
「お仕事が片付いていないのに、休めるはずもないでしょう。それより、来客ですよ」
「おや、誰ですか。張皓月? 陸清雅? 鈴将だと面白いんですが」
「張様です」
「はい、ここまでお招きして下さい」
邑に指示を出し、沃はすっかり緩みきった調子で欠伸をした。
邑に連れられ、沃の前にまで来た張は、その場で略式の礼の姿勢をとる。
「お久しぶりです。先日の件ではお世話になりました」
「何のことでしょう」
「鈴将を兵部に配したのは貴方だと、長官がおっしゃっていました」
張の言葉に、ぷ、と沃は吹き出す。
「嫌ですねえ。別に貴方を助けるつもりで行かせたのではありませんよ。藍家の姫の後宮入り騒動で捕縛できずとも、内部告発なり冤罪証明なりで検挙できる、いわば逃さないための予防線になってもらうことにしただけで」
「随分と、鈴将のことを評価されていたんですね」
「いえ、彼があちら側に加担でもした時には、彼がボロを出してくれるだろうと期待して。彼、兵部で気に入られそうな人柄をしていましたし、芋蔓で本命が釣れたらいいなと」
「うわっ沃様やることが汚い」
「失敬な。ずる賢いと言いなさい」
「ずるいです沃様」
「賢いが抜けていますよ、邑」
張は、邑とそんなやりとりをする沃の様子を見て、「変わりませんね」と呟いた。
「何はともあれ、助かったのは事実ですので、お礼を言っておきます」
「それはまあ、律儀に。ありがとうございます。これに懲りたら、自分の身の回りにもう少し慎重になることです」
「ご高説痛み入ります」
頭を下げ、話を終えて張は室を出て行った。彼を見送った邑が、戻ってきては沃に訊ねる。
「お知り合いだったのですか?」
「ええ、まあ。長らく話もしていませんでしたけれど。彼が新入りの頃に世話をしてやったのです。……何ですかその張に同情でもしているような目は」
「なんでもありません」
この人の相手は、慣れてきてからが遠慮しなくなってきて大変だったろうと、邑は思った。
府庫に訪れた櫂兎を一目見て、邵可は深く息を吐いた。
「君、気付いてたろ」
それは珠翠の件だ。彼女のいなくなる前に櫂兎がしていた『調べ事』からして、櫂兎は珠翠の状態を知っていたと邵可は推測する。
「……うん」
「君達は似ているね。相談って知ってるかい?」
「ううっ…ごめんなさい」
「私では力にならないと、そう判断したんだね?」
いつものように、人のいい笑みを浮かべる邵可の、その内心が読めず櫂兎は戸惑う。
「力になれないと分かっていても、頼って貰えないというのは寂しいものだよ」
「……そうか、俺はそれで、寂しかったんだ」
「一人で勝手に納得しないでくれないかな」
むっと唇をかたく結んで、邵可は不機嫌さを顕にする。
「ご、ごめん」
「あと百回は謝ってもらわないと足りないね。今晩の夕餉をご馳走してくれるなら、許してあげてもいいよ」
「ご随意に。腕によりをかけて振舞わせていただきます」
櫂兎はその場に平伏した。ウンウンと邵可は頷く。
「素直でよろしい。……珠翠は、何が何でも私が連れて帰ってくるから。だから、そんな顔しないの。君らしくもない。君はもっと馬鹿っぽく笑っててくれないと、私の調子が出ないじゃないか」
しょぼーんと垂れる櫂兎の眉を見て、邵可は苦笑する。
「そんな顔してたら、私だって留守を頼み辛いし、何より帰ってきた珠翠が心配しちゃうじゃないか」
「えっ、俺も」
行きたい、という言葉を櫂兎は飲みむ。
「頼むよ」
邵可のその顔を見ては、櫂兎もそれを言えなかった。代わりに腰に手をあてて、言う。
「任される! 任せろ、だから頼んだよ、邵可」
――時はそして、動き出す。
(青嵐にゆれる月草・終)
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空中三回転半宙返り土下座
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bkm