「……さて、」
櫂兎は真っ直ぐに前をみつめる。その視線の先、共同室を挟んでそこにあるのは、行き慣れてしまった副官室だ。この、あまりに取り繕われた部屋がずらりと並んだ廊下は、まるでその先にある副官室へと外部の訪問者を誘うようだった。
「ああ、もう、貘馬木殿の考えは当たるから困る」
本人が話すことを止めるのに、聞いた自分のせいだとも思うが。それにしたって、彼に言われるまで全くもって、そんな視察時期がそろそろであることだって忘れていたし、副官の席云々なんて思いもしなかったのだから、自分は本当に抜けている。
ここまで自分が気づかなかったのは、あまりに自分を取り巻く『今』に常に意識を奪われていたせいか。そこまで踏んで、全て計画されていたというなら、その計画犯ーー葵皇毅という男は、本当に…
「……はぁ」
何て趣味が悪いんだろう。そんなことを思いながら、櫂兎は何度目か分からぬ溜息を吐いた。
副官室の前まできた櫂兎は、はたと足を止め、長官室の方に視線をやる。長官室から光が漏れていることに気付いたのだ。まさかと思いながらも櫂兎は長官室の扉を開ける。
「ふん、早いな」
何処か気だるそうに、いつも険しい顔をさらに険しくした皇毅がいつもの定位置に座っていた。彼の近くには、だいぶ禿びた蝋燭がある。
「……もしかして、泊まりで仕事なさってたんですか?」
まさかブラックだと思っていた御史台労働環境下で、長官である彼までもが過剰労働強いられているとは思ってもみなかった。
「そんなところだ。閉じ込められていたともいう」
「……鍵、かかってましたものね。経費削減のためとかで、最近は夜中の門番がいるのも外部と繋がる門だけですし」
戸締りされてしまえば、塀をよじ登るなりしなければ、外には出られない。
「……外に出られる小さな戸口とか無いんでしょうかね」
後宮裏や鴻臚寺近くの塀壁には、知る人ぞ知る外につながる隠し戸があったりする。御史台の付近にもありそうなものだが、どうなんだろうか。
「その問いは、門違いというやつだ。知っている者がいたのなら、此方こそ是が非にでも、昨晩のうちに教えて頂きたかったものだな」
皮肉るように、皇毅はそう言い捨てた。それもそうだ、櫂兎は少し苦笑いした。それから、皇毅の様子をじっと見つめて、告げる。
「……一度お帰りになることをお勧めします。出仕時間まではまだありますし、長官は寝不足のご様子ですから。
それは、一日二日の夜更かしのせいではないでしょう? 仮眠でも、睡眠でも。おとりになった方がいいかと」
下手すると数日間眠っていないのではないかというくらいの疲れようだ、櫂兎はこんなに疲れたことがみてとれる彼を初めてみた。いつもは、表に出さないだけなのかもしれない。
「要らん気遣いだ」
「作業効率が落ちるんですよ」
「……」
身も蓋も優しさもない言葉に、皇毅は顔をくしゃりと歪めた。
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