秀麗のいなくなった御史室で、櫂兎は自分を睨みつける清雅に向き合った。
「悪いね。彼女と行ってもらうわけにはいかなかったんだ」
「それで、俺をどうする気だ」
「うん。その話の前にちょっと待って」
言うや否や、櫂兎は室を出ていってしまう。少しして、室まわりにあった幾つかの気配が消えたかと思うと櫂兎が戻ってくる。
「何をしてきた」
「セーガ君の御命頂戴! したい人たちがいたみたいだから、丁寧にお取引願ってきた。なんか、縹家が関わっているみたいだ。俺達についてくれてた護衛さんには、秀麗ちゃんの方に今からついてもらうよう頼んでおいたよ」
疑問の色を含む視線に、櫂兎は苦笑した。
「今からくるお客様に頼んでもよかったんだけど、その前に襲いかかってこられそうな雰囲気だったから」
「お前と手を組んでいるのではないのか」
「少なくとも、今はまだ違うね。むしろさっきの行動で敵対したと思われたかも」
くすくすと、冗談とも本気ともとれない調子で櫂兎が笑う。
「俺としては、セーガ君が生死をさまようような大怪我をしたってことにして、暫くどっかに身を隠しておくことをお勧めしたいんだけれど。長官の許可もとれたしね」
「……そうか」
長官の許可がとれた。その意味を悟れないほど、清雅は愚かではなかった。苦しげに息を吐いた清雅に、櫂兎は手を伸ばし、その頭をぽふぽふと撫でる。抵抗が一切なかったことに、これは重傷だなと櫂兎は思った。
「帰る?」
「阿呆。俺が相手せずどうする。――嫌味のひとつやふたつ、許されるんだろうな?」
「復活も早いようで」
「こんなものは、自棄になっているだけだ」
それでも己を冷静に見つめるだけの余裕はできたようで、清雅は少しの自虐を溢しながらも、そんなことは匂わせないいつもの毅然とした態度をとった。
程無くして、件の客にして今回の黒幕・鳳麟は御史室を訪れた。涼しい笑みを浮かべる“彼”は、取り繕うこともなく清雅の嫌味を受け止める。それは、自身こそが鳳麟であると肯定したに等しかった。
「――さて、櫂兎。どうして貴方はここに?」
それは計算外だったのか、それともこの質問を含め計略のうちか――清雅には判断のしようもなかったが――鳳麟、否、鄭悠舜は尋ねた。
「囲碁。する約束だったじゃん」
トン、と清雅にことわりもなく櫂兎が机上に碁盤を置いた。次いで碁石の入った器も置かれる。それらは、その為に持ってきたとでも言いたげで、しかし、その答えがどこか外しているのも確かだった。
問いかけた悠舜も、その言葉が聞きたかったわけではないだろう。苦笑を浮かべた彼は、「では一局」と黒石をとった。
「……ずるくない?」
「はて? 確かに黒が有利とはいいますが。迷信のようなものでしょう?」
いっそ白々しいまでに悠舜は惚けていたが、迷信でもなんでもなく、囲碁において黒石、すなわち先番をとるというのは、それだけで事実有利となる。櫂兎の知る囲碁のルールでは、その分白石を持つ後番に幾目かハンデが与えられるほどだ。
しかし、彩雲国における囲碁のルールにそんなものはないし、経験則的に先番が有利とはされていても、それによって具体的に条件差を埋める措置はとられない。
「なら黒寄越せよう、おう」
「嫌です。だいたい、前の勝負の時貴方が黒をとったんですから、今回くらい譲ってくれてもいいでしょう」
「よく覚えてるな……」
櫂兎にしてみれば、持碁となったことは印象に残っていたが、どちらが黒をもっていたかはとっくに忘れていた。そのため、悠舜の言葉を鵜呑みにして黒を譲るのにも抵抗はあったのだが、悠舜も渡す気はないようだと知れると、諦めて勝負に出ることにした。
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