▼氷の境界


 湖面には分厚い氷が張っていた。その一メートル程下にいる。私は仰向けに冷たい水の中を漂っていた。何故こんな所にいるのか分からない、おそらく夢だろうが、それにしては痛みが突出して感じて、思考もはっきりしている。
 水温はもしかしたら摂氏零度を下回っているのではないか、それくらいに身体の表面は冷たく、張り裂けそうに痛んだ。私自身が凍っているのか、身体を動かそうにもまるで見えない糸に絡まったように身動きが取れない。
 外界は晴れているようで、氷の面に光が差し込んで反射し、きらきらと光った。その光を遮って、人影が私を覗きこんだ。愛だ。

『好きよ、愛』

 口には出さなかった。それ以前に動かせない、唇も下も顎も声帯も。そのはずなのに、人形師に無理矢理動かされた古ぼけた人形のように、顎が軋んで口から勝手に気泡が出た。気泡は上昇して氷に音も無くぶつかる。べたっと広がって、下から見ると外の世界の光を吸収して輝いたが、壁にぶつかったクラゲのように浮かんでいて、無様だと思った。
『好き』『大好き』『愛してる』――想いは全て気泡になり、氷の湖面に張り付いた。ただの空気では氷を割ることはできない。愛に届かない。

『愛のこと好きなの、本当よ。でも今は好機じゃない、だから』

 氷の上に立って私を見下ろす愛はまぎれもなく「今」の愛だった。私を好きだと言ってくれた彼女は、おそらく過去も現在も、未来の私も好いてくれているだろう。それでも私は現実が怖い。『大人になったら』『一緒になりましょう』、そう言っても愛は頑なに首を振った。「今がいい、今からじゃないと嫌」と。口から気泡は出なかったが、その代わりに目頭が焼けるように痛んだ。涙が、その涙は液体ではなく透明な氷だった。氷の涙も浮き上がって、こつん、愛の足元の氷にぶつかる。
 愛は私が守ると決めた。だからこっちの、痛くて冷たい世界には巻き込みたくなかった。この氷は私たちが成長すれば溶ける。それまでは、絶対に。


 わたしがクララに『好き』という度、彼女を傷つけているようにしか思えなかった。クララの言いたいことも理解はしている、でも幼いわたしはどうしても納得できなかった。
 わたしたちはまだ子どもで、自立するなんて程遠い未来のように思えた。いつかはお日さま園を離れる時が来る。クララはその時まで待とうと言った。わたしはクララを愛しているし、クララもわたしを愛している。けれどクララは、子どもである「今」、女の子同士の恋が正しい答えに行きつくとは思えない、恋人ごっこで止まってしまうだろうから、気持ちをゆっくりと育てて、大きくなったら一緒になろうと主張するのだった。

「それでも、クララのことが好きなの」
「わたしもよ、愛」
「小さい頃から、初めて会った時から好きなの。わたし、諦めたくないの」
「諦めろとは言ってないわ。私たちがもっと、ひとりでも生きていけるような力をつけてから……とにかく、まだ早すぎるわよ」
「クララは待てるかもしれないけど、わたしはそこまで賢くない、待てないよ……」

 泣きじゃくるわたしを、彼女は黙って抱きしめてくれた。わたしのクララに対する想いが、鋭いつららになって彼女に突き刺さり苦しめているのだと思うと、心臓が張り裂けそうになる。でも。

(クララの気持ちは汲めない)

 好きだという気持ちに偽りはない。わたしたちは恋愛ごっこにはならない、互いを愛しているから。地に足ついた理由じゃないけど、確証が持てるのが互いの気持ちくらいしかない。好き合っているのに、現実と未来には怯えたくない。
 クララは周囲の眼を気にしているだけなの、だから、わたしがクララを引っ張り出さなきゃ。皆だってきっと分かってくれる。

(わたしがクララを守るの)


 氷を隔てた上の愛は、私を見て何かを叫んでいた。屈んで、何か透明な物で必死に氷を穿っている。
 そんな小さな物で、私が張った境界は割れることはない。それでも愛は諦めずに右手を振りかざしては叩きを繰り返す。

『クララ!』

 かつん、と氷に何かが降ってきた。愛の声を確かに聞いた。『クララ!』『ひとりになんてさせないんだから!』、声は遠くから反響しているように聞こえたが、愛の声がすると氷の壁にまた何かがぶつかる。

(あれは……つらら?)

 氷がモザイクの役割をしていて、愛の細かい表情までは確認できない。でも、きっとあの子は泣いている。泣きながら、降ってくる氷柱で、目の前の壁を割ろうとしている。

『クララ!好きだよ、クララ!』

 今度はガッ、と大きな音がした。強固な矛と盾が衝突でもしたのかと思った。震動で水中が微かに揺らぐ。感情は同じでも、私の言葉は弱い泡になり、愛の言葉は力強いつららに変わった。つららで、湖の氷を割ろうとしている。

『愛の方が、現実的かしらね』

 言葉は気泡になり、また涙を流す。同じように目が痛んだが、氷が浮くことはなかった。液体の涙は湖と同化している。

『大丈夫』

 つらら、というより氷の柱が、ついに氷壁を貫いた。それでも砕けない。鈍く大きい音がいくつか鳴って、水中に鋭く尖った氷柱が生える。ひびは蜘蛛の巣のように広がって、その隙間からはっきりと愛の姿を捉えた。言葉の泡が外気に触れて割れ始めた。

『愛!』

 それでもまだ言葉は泡になる。愛の声がはっきりと聞こえるほど、境界は消え始めているのに。

「クララ!」
『愛!私、あなたと――』
「ありがとう、ごめんねクララ。クララの言ってることは正しいけど、でも、わたしは今すぐにでも、クララを愛していきたいの!あなたと!」

 氷には穴が開き、水が漏れている。境界線ももうもたない。

「一緒に生きていこ、クララ」

 つんざく悲鳴のような音だった。氷の天井は砕け散り、飛散し、水面に落ちてくる。その中に愛もいる。
 愛が私に手を伸ばして、落ちてくる。気泡は全て消え、つららも氷と同じように砕けた。身体に纏わりついた冷たい糸を強引に振り解く。ぶちぶちというより、ぱきぱきと、まるで氷が割れるような音がした。右手が軋んだ。それでも懸命に手を伸ばす。愛の手に届く。届くのだ。

「クララ、ね、大丈夫だよ。二人で乗り越えられるよ。ひとりで抱え込もうとしないで。わたしも一緒だから、ずっと隣りにいるからさ」
「愛……もう、無鉄砲すぎ」
「なによう、クララらしくない。もっときつい言葉が飛んでくるのかと思った。ほら泣かないの」
「ごめん、私も、私もあなたと生きていくわ、今から、しっかりと」

 泣くなと言いつつ愛の瞳からも涙が零れて、湖に溶けた。愛おしい唇にキスを落とす。氷は砕けて消えて、あたたかい紺碧の中に漂う。


▼Hanaさまへ
文章が好きだと言ってくださって、本当にありがとうございます!これからも精進します。
クララとアイシーということでしたが、実名の方になってしまいました…すみません…。
リクエストありがとうございました!
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