手で口を隠してあくびをした。日は昇ったというのに、まだ朝靄が晴れない。暖かくはなってきたが、早朝特有の、凛とした空気が頬をさす。いつも、パジャマの上にカーディガンを羽織って来ているが、予想が外れた冷気に、サンダルを履いた足が冷えてきている。女性は足を冷やしてはいけないのに。タオルとスポーツドリンクを握りしめた。
 玲名は起きてすぐランニングに出かけるのが最近の日課になっている。彼女をお日さま園の入り口で迎える、それが布美子の日課だった。日課といっても、今日で一週間目だが。
「私に合わせて早起きしなくてもいい」、玲名ははじめ布美子を心配して拒否した。布美子は寝起きの良い方ではない。「いいのよ玲名、わたしが勝手にやるだけだから気にしないで」と、微笑んだ布美子に対し、玲名は困り顔をした。

(本当のことは言えないわね)

 ジェネシス計画が頓挫して、お日さま園に戻ってから、布美子はサッカーから少しだけ距離を置いた。対して玲名は益々サッカーに没頭し、笑い、汗を流していた。まるで、雷門中の彼らのように。
 サッカーをしている玲名は輝いていた。エイリア学園のウルビダとしてではなく、八神玲名としてボールを蹴る彼女は、布美子の眼に眩しく映った。光源であるサッカーが玲名を照らし、できた影に布美子は隠れた。サッカーは嫌いになれない、むしろ今も好き。わたしだってボールを蹴りたい。でも「今さら始めたの」と思うのだろう。玲名も、皆も。

(そうして、このままサッカーの無い生活になる、のが、嫌だったから)

 朝靄は消え去ったが、空には薄雲が張り付いていて、太陽光を遮っている。気温は、布美子が外に出てきた時とはあまり変化がない。少し寒い。ため息をついた。

(玲名を利用したようなもの)

 玲名は起きてすぐに身体を動かし、お日さま園の近所に走りに行く。サッカーと繋がっていたい。サッカーをしている玲名と繋がっていたい。

(卑怯ねぇ)

 パジャマにサンダルでも、化粧をするのは忘れない。パフュームもつけた。綺麗な顔を歪めて項垂れる。

「卑怯者だ」
「誰が」

 第三者の声に反応して顔を勢いよくあげると、息を切らして軽く汗をかいた玲名が立っていた。


「おかえりなさい」
「ただいま、そしておはよう布美子」
「おはよう、玲名」

 タオルで汗を拭き、スポーツドリンクを喉へ流し込む。ふーっ、と気持ちよさそうに伸びをした玲名を見て、布美子も嬉しそうに笑う。

「やっぱり布美子は良い匂いだ。安心できる。いつも同じ香水をつけているだろう」
「ふふっ、よかったら同じものを買ってくるわよ」
「いや、これは布美子がつけていた方がいい。この香りも、布美子も、好きだから」
「ありがとう」

 随分前に買った、バニラのパフューム。自分の机の上にある、空色の香水瓶を思い浮かべた。

「早起きには慣れたか?」
「前よりはね。起きてすぐはだるくても、外の空気を吸うと目が覚めるわ」
「朝の空気は気持ちいい。凛とした感じがすごく好きだ」

 玲名はしゃがみ、ストレッチを始めた。立ったままの布美子からは玲名の表情は窺えない。

「で、誰が卑怯者なんだ」

 玲名の言葉が布美子を貫く。先ほどまでの笑顔が翳り、少しだけ、辛そうな顔をする。

「……玲名には、関係ないわ」
「関係ある」
「あのね玲名、誰にでも踏み込んでもらいたくない問題があるものなの。玲名には関係ない」
「関係ある」

 柔軟をしていた玲名が急に立ち上がり、真っ直ぐに布美子を見つめる。顔を逸らそうとしたが、両頬を玲名の手が固定してしまう。それでも視線だけは玲名を見るまいと俯く。

「布美子、最近考えごとが多いし、食事の量も減ってきているだろう」
「そんなことないわよ」
「何年一緒にいると思ってるんだ。布美子の変化ぐらい分かる。あのことが終わってから、布美子はサッカーをしなくなった。私が練習しているのを、ぼーっと眺めているだろう」
「……」
「布美子が望んでいること、私には分かる。布美子自身で答えを出していることも分かる。隠さないで言ってほしい、私たちはそんなに軟い仲じゃないことは、互いに知っているはずだ」
「れい、な」
「な、前みたいに一緒にサッカーやろう。私、布美子が後ろで守ってくれないと、安心して、ピッチに、立てない……」

 雲間から差し込んだ陽が玲名の涙を反射して輝く。澄んだ青い瞳から零れて、流れ星みたい、と思った。玲名の綺麗な顔が歪み、霞む。布美子の瞳も涙で溢れて、雫が落ちても次から次へととめどなく流れる。玲名の手が顔から落ち、肩に留まる。

「今からでも、遅く、ないかしら」
「遅くない、全然、大丈夫だ」
「……意地張ってごめんなさい」
「ばか」

 ありがとう、と二人の言葉が重なった。抱きしめあって、笑いながら、泣きながら、二人の新しい一日が始まる。ありがとう。祈るように、布美子は囁き続けた。


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