今、何をするべきか

「十九班所属、ナマエです」

巨人を殺して罰せられることもあるのかと――ナマエは目の前で、立体機動装置を調べている憲兵を眺めながらそう思った。今朝、被験体だった二体の巨人が何者かによって殺害される事件が起きたのだ。
一体何が起きたのか解らないまま、その後すぐに百四期訓練兵は本部のとある一室に招集された。
緊急に集められた部屋には机が設置され、それぞれの立体機動装置が机の上に並べられていた。憲兵が一人一人の立体機動装置のシャフトの交換日、最終使用日を本人の申告とリストを照合しながら検分を行っている最中である。
ナマエの近くでは、クリスタが立体機動装置を検分されていた。
今夜、遂に所属兵科が問われる。




巨人の掃討後、速やかに街に放置されたままの死体の身元確認及び回収、瓦礫の撤去作業が行われた。岩で穴を塞いでから既に二日が経っており、伝染病や二次災害は早急に防がなくてはならない。
ナマエも死体回収に駆り出された。

トロスト区の街並みは破壊し尽くされ、辺りには目を背けたくなるような惨たらしい死体が大量に転がっていた。街には無数の蝿が飛び交い、マスクをしているのにも関わらず強烈な死臭が鼻を突く。鼻の中に腐った臭いがこびり付くのではないかと思う程の悪臭に、ナマエは吐き気を覚えた。
「ナマエ……何ですか、これは……」
隣にいるサシャが虚ろな声音で呟いた。

サシャとナマエの目の前には、巨人の体液に絡まった人間の死体が積み重なっていた。
「巨人には消化器官がないから、お腹一杯になると吐き戻すんだよ」
「そんな、そんなのってあまりにも酷過ぎですよ……」
サシャの声は普段の彼女とは打って変って覇気がない。空気に溶けてしまいそうなくらい弱々しかった。ナマエは巨人の吐瀉物を無感動に眺めていた。
幼い頃グリシャに巨人が人間を食すのは人間に戻るためだと話したことがあったが、彼らが人間を食しその後人間を吐き出すのなら、一体何のために巨人は人間を喰べるのだろうか。

喰べるために殺すのか、殺すために喰べるのか。ただの兵器と同じではないか。
「クソ!これじゃあ、誰が誰だか見分けがつかねえぞ」
駐屯兵の言う通り、ぬらぬらとした粘り気のある体液まみれの死体は損傷が激しく、身元確認は思うように進まない。体液の塊から一体ずつ引き摺り出して、荷台へ運ぶ作業をひたすら続けた。誰も言葉を発することはなく、蝿が飛び回る不快な羽音だけが嫌に耳に付いた。
街の復興の兆しはまだ見えない。
「ミーナとマルコはどこにいるの……?」
二日間行方の解らないミーナとマルコの消息も気掛かりだった。

彼らが巨人に捕食された場面をナマエは目撃した訳ではないけれど、なんとなく解っていた。だけど認めたくなくて、彼女は今日も彼らがどこかで生き抜いていることを願いながら。今日も遺体回収の任務をこなす。この数日間、ナマエは己の脆い願望と現実に板挟みにされていた。
死体を見付ける度に顔を確認する。ミーナとマルコではないことに安堵しつつ、見付からないことに焦燥感が増す。何故。どこにいるのか。

黙々と遺体を荷台へ運びながら街中を探し回ったが、結局二人を見付けることは出来なかった。
もしかしたら誰かが彼らの死体を回収したのかもしれないし、形が残らない程巨人に細切れにされてしまったのかもしれない。
「違う……、違う、そんな訳ない……!」
ナマエは頭に浮かんだ悪い考えを打ち消すようにかぶりを振った。
二人はどこかで生き残っているに違いない。目の前の角から、ひょっこり顔を出すかもしれない。そう心に言い聞かせた。
「ナマエ、もう帰りましょう……ナマエ!」
「――、サシャ……」
何度か名前を呼ばれたナマエが顔を上げると、目の前には青白い顔をしたサシャがこちらを覗き込んでいた。
「あの、そんな怖い顔、しないで下さい……」
サシャにそう言われて、自分はそんなに怖い顔をしているのかとナマエは頭の片隅でぼんやりと思った。
「もう陽が沈みますし、全員本部に戻れと指示がありました。明日も引き続き死体回収をするそうです」
「でも、まだミーナとマルコも見付けてないよ……サシャ」
足元に視線を向けるサシャの顔をナマエは黙って見つめる。

「……ミーナは、アニが……見付けたと言っていました」
「え……?」
マスクで顔半分を覆っているから、サシャがどんな表情をしているのか解らなかったけれど。両目は苦しそうに歪んでいた。ナマエの背中に、厭な汗が伝う。今、サシャは何と言ったのだろう。良く、聞こえなかった。
「遺体の損傷が酷かったけど、服装と髪型でミーナに間違いないと……言っていました」

頭を鈍器で殴れたような感覚と共に視界が歪む。呼吸が上手く出来なくて、苦しかった。ふらりと身体から力が抜けて、ナマエは硬い石畳に座り込んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
「……そう。アニが、見付けてくれたんだ」
言葉短めにナマエはそう言った。サシャの言葉によって、脆い願望は呆気なく打ち砕かれたのだ。この世に神様なんかいない。世界は残酷で、底意地の悪い悪魔が嘲笑っているかのようだった。

誰もが疲労を隠すことなく、しんどそうに本部へ戻って行く光景をナマエとサシャは黙って眺めていた。暫く黙っていたが、最初に言葉を発したのはサシャだった。
「……ナマエ、本部に戻りましょう」
「教えてくれてありがとう。戻ろう、サシャ」
そう言って二人肩を並べて本部へと向かう。既に夕陽が沈みかけ、空は夜の顔を覗かせていた。

本部に戻ると、何人か同じような様子の同期の姿を確認した。丁度その中にジャンの姿があった。ナマエが声を掛けると、彼がゆっくりと振り向いた。疲労が色濃く顔に浮かんでいる。
「マルコが死んだ」
ジャンが弱々しく言った。
「……今、何て?」
ジャンの言葉が唐突過ぎて、言葉の意味が理解が出来なかった。隣にいるサシャも言葉に詰まってしまったようだ。死んだって言ったのか。一体、誰が死んだというのか。ナマエは混乱している中で、ジャンが今度こそはっきりと言葉を発した。
「だから――!マルコは死んだんだよ」
ジャンから齎されたマルコの死に、ナマエは一瞬息をすることが出来ない程動揺した。
「マルコが死んだ……?何で、……」
「――オレが知る訳ないだろ、寧ろオレが知りてえよ!あいつは――、マルコはっ……立体機動装置を着けていなかった。無防備のまま――巨人に喰われたんだよ」
目の前にいるジャンが、今にも泣き出しそうな声を絞り出して呻いた。心臓がドクドクと忙しなく脈打つ。
「立体機動を着けていなかった?ジャン、マルコの立体機動装置は近くになかったんですか?落ちていたとか……」
「なかった。周囲を探したが何もなかった」
サシャの言葉に手短かにジャンが答える。

ナマエは記憶を辿った。
巨人化したエレンが大岩を持ち上げて歩いている姿を目にした後、ジャンを先頭にしてエレンを援護するために街に降り立った。その時は、しっかりと腰に立体起動装置を着装していた。
『ジャンは右前方の十メートル級と五メートル級を!ナマエは三メートル級を頼む!オレは後方の十メートル級と八メール級を引き付ける!』
マルコの指示に一つ返事をしたナマエは、巨人二体に挑みに行く彼の背中を一瞥した。彼女がマルコを見た最後の姿である。
「あの時、確かにマルコは立体機動装置を着けていた。マルコの最期を目撃した人はいないの……?」
「誰も見てねぇらしい。アイツは人知れずに一人で死んだんだ。……クソッ!」
ジャンは悔しさを滲ませた悪態を付いて壁を蹴った後、ふらりとその場を後にする。
「オレがアイツを一人にしなければ……こんなことにならなかったのにな」

ナマエとサシャにジャンの後悔の言葉が届いた。その言葉はまるでジャン自身を責めているように聞こえて、どうすることも出来ない遣る瀬なさにナマエの胸が軋んだ。
「私も――あの時マルコの傍を離れなければ良かった……」
遠くなるジャンの背中に向かってナマエは胸に溜まった後悔を吐き出したが、全く気持ちが楽にならなかった。
「弔いましょう。マルコもミーナも……死んで行った仲間達を」
サシャが小さく呟いて、ナマエの肩に優しく手を置いた。



本部の広場に駐屯兵、訓練兵達は集まり木材を組み上げて、その中に回収して来た大量の死体を積み重ねる。そして多くの松明を灯して木材に火を点けて、犠牲者の火葬が始まった。
陽はとっぷりと沈み、燃える炎の明るさが周囲を照らす。炎は天へと届かんばかりの勢いで燃え続けている。皆で一緒に炎を取り囲むようにして、唯茫然と燃える炎を眺め続ける。

辺りは、パチパチと火が爆ぜる音しかしない。死体が焼かれる音なのか木材が燃えている音なのか、ジャンには解らなかった。コニーは座り込み、死んだ同期達の身体を燃やす炎を見て泣いている。
「あんなに頑張ったのにっ、……あんなにやったのに、全部無駄だったのか……?」

兵站行進。馬術。格闘術に兵法講義。技巧術と立体機動。勿論それだけではない。
吹雪の中雪山行軍も参加してあまりの過酷さに皆死ぬ思いもした。将来いい歳になったら皆で酒でも呑んで語り合おうとか、厳しい訓練に耐えながらも日々を過ごして来た。同期の女子の中で誰が一番可愛いか、クリスタ派かミカサ派で割れたこともあったし、下らない話で盛り上がったこともあった。

三年間の厳しい訓練を耐え、晴れて卒団したというのに。自分達は一体何のために、血の滲むような厳しい訓練を行って来たのだろう。三年間の訓練兵生活が、全部無駄だったと突き付けられる。皆後悔していると、ジャンは思った。
こんな地獄だと知っていれば、兵士なんか選ばなかった。精魂尽き果てた今、ジャンの頭にあるのはそればっかりだった。コニーは泣き続け、ライナー、ベルトルト、アニは何も言わずに燃え続ける炎を見ている。
地獄のような数日間を過ごした他の同期達は、顔に疲れを滲ませたり、心ここに在らずぼんやりと現実逃避に耽っている。互いの傷を慰め合うように、泣きじゃくっている同期もいた。

赤々とした炎を静かに見ているナマエが、何を考えているのかジャンには解らなかった。
二日前、アルミンからミーナが戦死したと聞いた彼女の様子は、ジャンから見てもいつも通りだったと思う。哀しくない訳じゃないけれど、同期の前で感情を表に出さないよう無理をしているようにも見て取れた。今ではすっかり消耗したようで、体育座りをしたまま微動だにしない。
ジャンは一歩踏み出して散らばっている骨の燃え滓を手に取った。掌にある黒く焦げた骨は誰の物なのか解らない。骨の持ち主がトロスト区が襲撃されたあの日まで普通に生きていて、誰かと笑って、時には泣たり、怒ったり、自分と同じように生きていたと思うと、鉛の重しがのしかかったように胸の奥が重くなる。

遣る瀬ない気持ちになるのだ。死んでしまえばそれまでで、誰かと語り合うことも出来ないし思い出すらも消えてなくなってしまうのだ。掌にある骨の燃え滓に力なく呟いた。
「なぁ……マルコ。もうどれがお前の骨だか解らなくなったよ」

常に周囲に気を配っていたマルコは皆から慕われていた。ジャンから見れば、マルコは超が付く程のお人好しで――誰よりも努力家だった。壁の中の民を統制するためだとかそれらしい理由を見繕い、憲兵団を志望する輩が殆どだが、彼は純粋に眼を輝かせながら見たこともない王のために働くことを志望していた。それは、傍にいたジャンですら今時そんなこと本気で思う奴がいるのかと思ったくらいだ。

昼間、街中で発見したマルコの死体が網膜にこびり付いている。何も映らない虚ろな左目。巨人に喰われる瞬間、その瞳は最期に何を映したのだろう。
兵士にさえならなければ、次は誰の番かなんて考えずに済んだのに。ジャンはぐっと目を瞑る。脳裏に解散式の夜の光景が浮かんだ。たった数日前だというのに、あの夜がとうの昔のようだ。

『何十万の犠牲で得た戦術の発達を放棄して大人しく巨人の餌になりたいのか?』

こんな時に限って、何故エレンの言葉を思い出すのだろうか。ゆっくりと目を開けた。戦わなければいけないことくらい解っている。
ジャンにとって憲兵になって内地で暮らすということは、少しでも生き残る可能性を求めて現状を照らし合わせた上での現実的な結論なのだ。それがまやかしの逃げ場だということも、ジャンは承知の上だ。

でも、誰もがエレンのような死に急ぎの馬鹿になれない。ふと、本部補給室奪還作戦後にマルコに言われた言葉を思い出した。
『ジャンは強い人ではないから弱い人の気持ちが良く理解出来る。それでいて、現状を正しく理解出来る事に長けているから、今何をするべきかが明確に解るだろう?』
『まあ……僕もそうだし、大半の人間は弱いと言えるけどさ……それと同じ目線で放たれた指示なら、どんなに困難であっても、切実に届くと思うんだ』
涙が出そうだった。まるでマルコが、隣にいるような錯覚に陥る。その言葉は、不思議と今のジャンの胸の中に染み渡るのだ。
「今……何を……するべきか」
どうして踏ん切りが着いてしまったのだろうか。煤けた骨をグッと強く握り締めた。

脚に力を入れて立ち上がる。今、自分自身で下した選択に全身が震えた。勢い良く燃え続ける炎を見つめる同期達へ声を掛けると、彼らは緩慢な動作で反応する。
「お前ら……所属兵科は何にするか、決めたか?オレは、決めたぞ……」
自分の声も心なしか震えていることにジャンは気付いた。ナマエ、コニー、サシャ、ライナー達が何事かと言いたげな視線を寄越す。
「オレは……、オレはっ……」
ジャンは自分が下した答えを口にしようとすると、嗚咽が込み上げて来るので何とか我慢した。骨を握り締めている右手の手首を、もう片方の手で掴む。
そうでもしないと、力が抜けてしまうから。せっかく下した決断から逃げ出して、もう弱い自分に立ち向かうことが出来なくなってしまう気がするから。
息を吸い込んで、ジャンは一気に決断を言葉にした。
「調査兵団になる……!」

マルコを失った哀しみ。誰かがやらなければ変えられない残酷な現状。言葉にした後は、喉の奥から迫り上がって来る色んな感情を押さえる必要はなくなった。
声を詰まらせ嗚咽交じりに泣いているジャンを、ナマエ達は見ていることしか出来なかった。


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