人間性を捨て去る条件

固定砲がゆっくりとそれぞれの位置に配置される。壁の下に向けて太陽が傾き、街を黄昏色に染め上げる。
「エレン……、すまない」
アルミンが、すまなそうな表情でエレンに謝って来るが、思い当たる節がないのでエレンは不思議に思った。
「結局エレンに全ての責任を負わせることになった」
「さっき言っただろ。お前には正解を導く力があるって。オレはそれを信じるよ」
「エレン、やはり私も――」
ミカサが言おうとした言葉を、エレンは瞬時に解ってしまった。

彼女は囮部隊に配属されているが、任務を放棄してまで自分に付いて来るつもりなのだ。エレンが調査兵団を選ぶから彼女もそうする。ミカサの行動は己の命よりも、エレンの命に重きを置いているように思う。こちらから命令などしていないのに、ミカサはいつも過保護なのだ。時と場合によっては、どうしても鬱陶しいと思ってしまうことも多い。
「――付いて来るなんて言うなよ。お前は囮部隊に配属されたんだろ」
エレンがきっぱりと否定すると、ミカサは所在なさげな顔をした。歴代で類を見ない程の逸材と評価されているのに、当の本人はその強さを全てエレンに注ごうとしている。
「でも……!エレンを一人には出来ない。一人になったらまた――、」
尚も喰い下がらないミカサに苛立ってしまう。今は、眼下に広がるトロスト区を奪還することが急務なのに。
「良い加減にしろ!オレはお前の弟でも子供でもねえ!……そう言った筈だ」
エレンに突っぱねられたミカサの瞳は、寂しそうに歪む。すると、駐屯兵団精鋭班のイアン・ディートリッヒがミカサの名前を呼ぶ。
「お前もイェーガーを守る精鋭班へ入れ。お前の腕が必要だ」
その一言でミカサの表情が明るくなったのを、エレンは見逃さなかった。

イアンから手短に要件を伝えれたエレン、ミカサ、アルミンはそれぞれの持ち場へ向かって駆け出した。アルミンは巨人の囮役になるためエレン達とは反対方向へ向かう。エレン達はミタビ・ヤルナッハ、リコ・ブレチェンスカ精鋭班と合流し、壁上から大岩までの最短ルートに向かって走り続ける。
広場にある大岩は、周囲の住宅と同じ程の大きさのようだ。あの岩で破壊された扉を塞ぐことが出来たら、人類は巨人に初めて勝利することになる。

大岩付近には巨人の姿は見えない。
囮部隊が上手く巨人達を引きつけているのだろう。
「一つ言っておくぞ、イェーガー」
エレンのは隣から声を掛けられて目を向けた。隣には前を見据えたままリコが走っていた。
「この作戦で決して少なくはない数の兵が死ぬことになるだろう――あんたのためにな。それは私達の同僚や先輩や後輩の兵士達だ。当然兵士である以上死は覚悟の上だ。だがな……彼らは物言わぬ駒じゃない。彼らには名前があり――家族があり――その分だけの思いがある。アリョーシャ、ドミニク、フィーネ、イザベル、ルードリッヒ、マルティナ、ギド、ハンス――皆血の通った人間だ。
訓練兵時代から同じ釜の飯を食っている奴もいる。
そんな彼らもあんたのために死ぬことになるだろう。あんたには彼らの死を犬死にさせてないけない責任がある……何があろうとな。そのことを甘えた心に刻め。そして、死ぬ気で責任を果たせ」

戦っているのはエレンだけではない。
駐屯兵は勿論、アルミンをはじめとした同期達が囮役となって必死に街中を飛んでいるだろう。
彼らも今日死ぬかもしれないのに、自分の命を賭してまでエレンを信じることにしたのだ。だからエレンも、それに見合った働きをしなくてはならない。
「――はい!」
リコの言葉にエレンは絶対に成功させてやると再度決心した。前方にある夕陽を睨み付る。

巨人が出現して以来、巨人に勝利したことは一度もなかった。今まで沢山の人間の血が流れ、大地に染み込んでいった。巨人が侵攻した分、人類は後退を繰り返し、限られた土地を人間同士で奪い合う結末がやって来るだろう。
しかしこの作戦が成功した時、人類は初めて巨人から領土を奪い返すことに成功する。

大岩までの最短ルートに到達するとイアンが全員に向けて指示を飛ばす。
「ここだ!――行くぞ!!」
アンカーを噴射したエレンとミカサ、精鋭班員達は巨人に踏み荒らされたトロスト区の街中を素早く移動する。巨人の姿は一匹もなく、大岩までスムーズに行けそうだ。
領土を奪還することは、人類が初めて巨人に勝利することになる。それは、今まで奪われて来た尊い命に比べれば小さなことなのかもしれない。だけど、その一歩は人類にとって大きな進撃になる。
いくつもの家々を飛び越え、大きく跳躍したエレンは手の甲を噛み千切った。



「良いか!街の隅に誘導するだけで良い!無駄な戦闘は避けろ!」

リフトを使って大勢の仲間達が囮役として街中へ派遣されて行く中、ナマエとマルコとアルミン他何十名の訓練兵達は壁にアンカーを打ち付けて巨人の集団を引き付ける役目を受けていた。
街中の巨人を引き連れた駐屯兵達が、壁の片隅にやって来る。ナマエ達のすぐ下に群がる巨人の集団は、獲物を掴もうと手を伸ばして来る。

先程から駐屯兵達が、巨人を壁の隅へ誘導しては街中へ戻って行く工程を何十回も目にしていた。次第に巨人の数は増えて行く。しかし、トロスト区へ侵入して来る巨人の数は後を絶たない。破壊された扉を塞がない限り意味がないのだ。
「それにしても……すごい数の巨人だ。もう数え切れないよ」
「あらかた巨人はここに集められたと思うけど……全部じゃないと思う」
「そろそろ僕達にも、街中の囮役が回って来るかもしれない」
アルミンがそう言った矢先にナマエ達の名前が呼ばれ、街中の囮班として出動するよう命じられた。
ナマエはマルコが息を呑んだ気配を感じた。

壁を登り、ナマエ達は街へ出動のためにガスの補給を行なうことにした。
丁度その時、赤い信煙弾が煙を上げながら空へ向かって打ち上がった。
「おい、あれ見てみろよ……」
「何だ、どうした!?」
その色の意味は、この作戦に参加している兵士にとって悪い報せである。ナマエも空に釘付けになった。あれはきっと――。
「失敗、したのか……?」
マルコが空に打ち上がった赤の煙弾を呆然と眺めて弱々しく呟く。アルミンは空を見て、悔しそうに歯噛みしてからどこかへ駆け出した。
「オイ、アルミンどこ行くんだ!?」
マルコの問いに答えることもなく、彼は振り返ることをせずその場から走り去った。
「作戦は一体どうなってるんだよ?上手く行ってるってことじゃないのか?」
「もう無理だ……」
口々に弱音を吐き、その場に腰を下ろしてしまった同期達をナマエは黙って見ていた。

「エレンのヤツ、何があったんだ?」
街中の囮役を受けていたジャンが壁を飛び越えて戻って来て、マルコ、コニー、ナマエのところへ駆け寄った。
「さっきアルミンが急いで走って行った。多分、エレンの所に向かったんだと思う」
「あの信煙弾……作戦失敗ってことか?」
「大丈夫だ、きっと……!エレンならやるさ!そうだよね、ナマエ」
ジャンの問いに、マルコは自分に言い聞かせるようにナマエに同意を求める。

ナマエは言葉に詰まり、空を見上げた。打ち上げられた煙弾は既に消えかけている。赤の煙弾は作戦失敗の合図。エレンに一体何があったのだろう。上手く巨人化出来なかったのか、それとも――。
起こり得る事象を思い浮かべても、この場にいる者全員には解らない。それでも、自分達に出来ることといえば、エレンを信じることだけだ。この作戦は、そういう作戦なのだ。
「うん――!エレンなら、大丈夫。アルミンも付いているから。作戦成功のために、私達は私達に出来ることをやるしかないよ」
「……おう」
ジャンが、マルコとナマエの言葉に一拍遅れて頷いた。
「それにしても、巨人を街の隅に集めるなんて無駄としか思えねえよ」
「巨人相手の戦闘には必ず消耗戦になる。今の段階で無駄に兵の損失を避けたいんだろう」
トロスト区奪還作戦が決行されてから、大部分の巨人をこの壁の下に集めることに成功した。後は壁上から砲弾を浴びせれば良い。

しかし、極力戦闘を避けたにも関わらず何割かの兵士が巨人の餌食になった。巨人と戦闘をしていない割には、人が死に過ぎた。コニーが言いたいのは、きっとそこだろう。
「……今の段階で亡くなる兵は無駄死にってことか?」
「いずれ総力戦になる。その時までに兵を温存しておくために、犠牲を最小限にするのは当然だ。上は正しい」
「そう言うモンかねぇ……」
「そう言うもんだ!」
投げ遣りな口調のコニーへ、ジャンが強く言い切った。
「まあ――損失にならないようにしようぜ、お互いに」
そう言って振り返ったコニーの瞳は、夕陽に反射して鈍く光っていた。

黙って話を聞いていたマルコが意を決したような顔付きになる。ここで議論しても、何も始まらない。この状況を変えるには、行動を起こすしか道はない。
「ナマエ、 オレ達もそろそろ街へ出動しよう。少しでもエレンの力になるんだ」
マルコの言葉にナマエも頷いた。
「お前ら、死ぬんじゃねえぞ!!」
コニーからの激励が届く。ナマエは、破壊されたトロスト区の街並みへアンカーを噴射して、マルコと共に街へと飛び出した。



エレンが巨人化して破壊された扉を大岩で塞ぐ作戦は、開始早々に失敗した。巨人化には成功したものの、エレンは突如ミカサへ拳を振り下ろしたのだ。イアン、ミタビ、リコはミカサに攻撃したエレンを見て息を呑んだまま唖然とした。

目の前で、尚もエレンに呼び掛けるミカサを見てリコは思った。
秘密兵器なんて存在しないことは知っていた。それでも振って湧いた小さな希望に少しの可能性を信じてみたくなったのも事実だ。だが、それも今となっては儚く崩れ去ってしまった。
「作戦、失敗だ!」
リコは素早く赤の煙弾を打ち上げた。
「オイ、イアン、何迷っているんだ!?指揮してくれよ!お前のせいじゃない!ハナっから根拠の希薄な作戦だった。皆解っている!試す価値はあったし、もう十分試し終えた!」

エレンが巨人化し、壁の穴を大岩で塞ぐ作戦が事実上失敗した今、ミタビの主張は正しい。
この奪還作戦が失敗したのなら、早々に切り上げることが急務だ。街で囮役を担っている仲間達を、これ以上無駄に死なせないためにも、扉の防衛形態へ戻すことであるし、精鋭班はこの場から撤退するべきだとリコも思っている。
「良いか?オレ達の班は壁を登るぞ!」
煮え切らないイアンの様子に痺れを切らしたミタビが言うと、大人しく話を聞いていたミカサに睨まれる。

ブレードを構えて臨戦態勢を取った様子のミカサに、リコは苦々しい思いをした。暫く苦渋の表情を浮かべていたイアンから、ミタビとリコに命令を下す。
「――リコ班!後方の十二メートル級をやれ!ミタビ班とオレの班で前の二体をやる!」
「何だって!?」
「指揮権を託されたのはオレだ!黙って命令に従え!エレンを無防備な状態のまま置いては行けない!」
イアンの選択に、リコは信じられない気持ちで一杯だった。大岩に身体を預け、ピクリとも動かない巨人の姿に視線をやる。まるで意識を失っているかのようだ。
「……作戦を変える。エレンを回収するまで彼を巨人から守る。下手に近付けない以上、エレンが自力で出て来るのを待つしかないが……彼は人類にとって貴重な存在だ。簡単に放棄出来るものではない。オレらと違って彼の代役は存在しないからな……」
イアンの言葉にリコは納得が行かない。今でも、街の中心部で囮役をしている兵士達が、命の危険に曝されているというのに。あそこで伸びている巨人を回収するまで、後何人――何百人死ねば良いのか。
「あの出来損ないの人間兵器様のために、今回だけで数百人は死んだだろうに……。あいつを回収して、また似たようなことを繰り返すっての!?」
「ああ、そうだ!何人死のうと何度だって挑戦するべきだ!」
イアンの選択にミタビとリコは言葉を失ってしまった。

エレンが自力で項から出て来る保障すらない。況してや、そんな可能性の低いものをイアンが信じているように見えてしまい、リコは理解が出来なかった。
「イアン、正気なの!?」
「ではどうやって人類は巨人に勝つというのだ!リコ、教えてくれ!他にどうやったらこの状況を打開出来るのか!人間性を保ったまま、人を死なせずに巨人の圧倒的な力に打ち勝つには、どうすれば良いのか!!」
イアンの問いの答えをリコは勿論、人類は持ち合わせていない。巨人に勝利する方法を知っていたら。
自由の翼を有する集団は壁外調査で大量の死傷者を出すこともないだろうし――そもそも、人類がこの狭い壁の中に閉じ籠る必要などない。
「巨人に勝つ方法なんて私が知っている訳ない」
「ああ……。そんな方法知っていたらこんなことになっていない。だから、オレ達が今やるべきことはこれしかないんだ。あの良く解らない人間兵器とやらのために命を投げ打って――健気に尽くすことだ」
誰も、何も言うことが出来なかった。

無常に吹く風の音と、巨人が大地を踏んで歩く足音しか聞こえない。巨人に攻められるだけで、人間は呆気なく死ぬのだ。
「悲惨だろ……?オレ達人間に唯一出来ることなんてそんなもんだ。報われる保証のない物のために……虫ケラのように死んで行くだろう」

この街を――ウォールローゼが巨人の手に落ちないために今もどこかで仲間が戦い、仲間の誰かが命を落としている。
「さぁ……どうする?これがオレ達の出来る戦いだ。オレ達に許された足掻きだ」
巨人によって人類が蹂躙されるのは納得出来ない。当たり前の日常を享受して、何も悪いことをしていない無辜の民が無残に死ぬなんて。
「そんなの……、納得出来ない」
イアンの問いに開口一番に言葉を発したのはリコだった。
「でも、作戦には従うよ……。貴方の言っていることは正しいと思う……。必死に足掻いて、人間様の恐ろしさを思い知らせてやる。犬死になんて納得出来ないからね――後ろの十二メートル級は私の班に任せて」
そう言って振り返ることなくリコは巨人を倒すために駆け出して行った。



「……ありがとうございます、イアン班長」
ミカサは静かにイアンに礼を言った。
「アッカーマン、礼には及ばない。お前が何をやり出すか解ったもんじゃないから肝を冷やしたが……当初の作戦通りに自由に動くんだ。その方がお前の力が発揮されるだろう」
イアンはミタビが走って行った方角を見て、装置にブレードを取り付けた。
「はい!」
「恋人を守るためだからな……」
「……家族です」
ミタビを追って駆けて行くイアンに、自分の声が届いたかはミカサは解らなかった。

精鋭班がそれぞれの持ち場に行き、ミカサも自分の務めを果たそうと決めた。ふとエレンの方へ目を向ける。
「え……?」
巨人の姿のエレンは、ミカサを攻撃してから一度もその場から動いていない。
破損した両手首と頭部から蒸気が上がってはいるものの、全く修復されていないのだ。昼間の本部に群がる巨人相手の損傷が原因だろうか。エレンへの影響は大丈夫なのだろうかとミカサは不安に思った。
そもそも、エレンが再び元の姿に戻れる保証はあるのだろうか。

ミカサはあらゆる可能性を考えたけれど、一旦止めた。考えたって解る訳がないのだ。不安を消すように目を瞑った。自分が出来ることをやる。
それがミカサにとっての最重要項目だ。


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