絶望の中から立ち上がる

ミカサは、息を荒げながら雲行きの怪しい曇天を眺めていた。午前中は晴天だったのに、薄暗く厚みのある雲が風に乗って流されている。雨が降り出しそうな天気模様だ。
エレンが巨人に喰われて死んでしまったことに動揺し、ガス切れに気付かなかった。感情が爆発して周りが見えなくなっていた。

ズキンと頭が痺れる。まただ。ズキズキと響く頭痛は、幼い頃人攫いに両親が殺されてから時々起こるようになった。いつだって世界は、奪う者と奪われる者で成り立っている。頭の中で一定のリズムで痛むそれが煩わしかった。
痛みを紛らわすために、ミカサはストンと地面に飛び降り、膝を付いた。

またこの痛みを思い出して、またここから始めなければならないのか。父と母を亡くしたミカサにとって、エレンは『帰るべき場所』だったのに。この世界は、ミカサの大事なものばかりを奪い去る。ズシンという重そうな振動がミカサの身体を揺らす。
世界は残酷だ。だからこそとても美しい。あの日――エレンがマフラーを巻いてくれた記憶が鮮明に網膜に映る。

地響きに似た足音がもう一つ増えた。ミカサの左右から巨人がゆっくりと迫って来るが、静かに目を閉じてその時を待つ。エレンと共に過ごせて良い人生だったと、そう思った。充足感が満たされていく。

あの日。両親が殺されるのを、ただ震えながら見えていることしか出来なかった少女に、戦うことを教えてくれた少年の瞳は――自由を求めていた。
「ごめんなさい、エレン……」
目を開けて立ち上がったミカサの瞳から涙が一筋零れた。今ここで死んでしまったら、もうエレンを思い出すことさえ出来ない。エレンの大きな瞳に映る憎悪と絶望も。小生意気で喧嘩っ早いところも。
これと決めたら梃子でも動かない強い信念も。ひたむきに努力を惜しまないところだって。上げたら切りがないくらい。その一つ一つすら、ミカサには愛おしくて仕方がない。

何としてでも生きる。エレンが身を呈して守ってくれたこの命を簡単に投げ捨ててはいけない。
だから何としてでも、ミカサは勝たなければならない。
折れたブレードを握り締め、大きな声を出して叫んだ。無遠慮に手を伸ばす巨人へ飛び掛かると同時に、ミカサの背後から巨人が飛び出して目の前の巨人が吹っ飛んだのだ。

一体何が起きたのか解らなかった。巨人が、巨人を攻撃した。それは怒りを露わに咆哮しながら、吹っ飛ばされて倒れている巨人を滅茶苦茶に踏み付け始めた。目の前で繰り広げられる獣じみた光景に、様子を窺う。巨人が巨人を襲うことなんて、一度も聞いたことがない。
しかし何故だろう。ミカサはその光景に心が高揚した。人類の怒りが体現されたように見えたのだ。
怒りの咆哮を上げ続ける巨人を見つめていると、アルミンに名前を呼ばれた。そのまま身体を抱えられ、気付いたら屋根の上にいた。

「ミカサ!ガス切らして落っこちたろ!?ケガは!?」
「……私は大丈夫」
そう答えると、アルミンがホッと息を吐いた。
「とにかく移動だ!まずいぞ!十五メートル級が二体だ!」
背後からコニーが追いかけて来る。

先程の巨人は、すぐに新しい巨人へと睨み合いをしている。お互いが呻き、咆哮を上げて牽制し合う。一歩足を踏み出した巨人は、相手の巨人の頭を吹っ飛ばした。胴体から千切れた頭部はミカサ達がいる方へ勢い良く落ちて来る。
「伏せろ!!」
コニーが叫ぶと、真後ろの屋根に巨人の頭部が突き刺さった。目の前で繰り広げられる凄まじい光景に、アルミンもコニーも息をすることさえ忘れてしまう程の衝撃を受けたようだ。空いた口が塞がっていない。
頭部を失った巨人の胴体は、ぎこちない動きで起き上がろうとする。その僅かな動きを察知した例の巨人が、とどめを刺すように項部分を踏み付て蹴散らした。

殺し方があまりにもえげつない。まるで巨人に恨みでもあるみたいだ。
「弱点を理解して殺したのか……!?」
こちらに目を向けず、ズシンと足音を響かせながら例の巨人は去っていく。
「とにかく移動するぞ。あいつがこっちに来る前に…」
「僕達に無反応だ……。とっくに襲って来てもおかしくないのに」
アルミンが異変を感じたようだった。
「格闘術の概念があるようにも感じた……。あれは一体……?」
「奇行種って言うしかねえだろ。解んねえことの方が多いんだからよ」

アルミンの言う通り、本来巨人は人間に興味を示すのに、あの巨人にはそんな兆しが全くなかったのだ。目と鼻の先に好物である人間が三人もいるのに。巨人の正体を知りたがるナマエがいたら、きっと厄介なことになるだろう。ミカサはそんなことを頭の片隅で思った。

とにかく本部に行くことが先決だとコニーが主張するものの、ミカサの立体起動装置は既にガスが切れてしまっている。
「今度は、大事に使ってくれよ。皆を助けるために……」
アルミンの言葉に、ミカサはハッとした様子で一瞬黙り込んでしまった。エレンが死んでしまった事実に冷静さを欠き、皆を扇動するだけして挙げ句の果てに勝手に死のうとした。自分の無責任さを痛感する。今頃、他の皆はどうしているのだろうか。
「これだけはここに置いて行ってくれ……。やっぱり……生きたまま喰われることだけは避けたいんだ」
幼馴染の少年の手には、欠けた刃が鈍く光る。それを握る掌は、ふるふると小刻みに震えていた。
「アルミン!」
彼が何を考えているのか瞬時に理解出来てしまった。自分の命を投げ出すことなんて、絶対にさせない。

アルミンには正解を導く力がある。だから、こんな所で死なせはしない。ミカサは、震える幼馴染の手から刃物を奪い取り、パッと放り投げるとカランと金属音がした。アルミンから情けない声が上がる。
「ここに置いて行ったりはしない」
ミカサは、――彼女にしては珍しく――きっぱりと宣言した。アルミンの手を握れば、温かくて生きた人間の体温が伝わって来る。コニーも彼女の意見に賛同した。
「で、でも……巨人が大勢いるところを人一人抱えて飛び回るなんて……」
「お前をこんな所に残して行く訳ねえだろ!行くぞ!オレがアルミンを抱える!ミカサが援護だ!」
確かにアルミンの言う通り無謀だ。奪還作戦が始まってからずっと、人類は巨人の餌食になっている。いくら訓練兵団を主席で卒団した彼女でも、十位以内のコニーがいてもガスも刃もないアルミンを抱えていたら、尚更不利な状況に滑車が掛かってしまう。共倒れになる可能性が極めて高いという尤もな理由を付けて、アルミンが自分を犠牲にすることくらいミカサもコニーも解っている。だけどコニーが問答無用でアルミンの腕を引っ張る。

屋根の上を少し走ると、巨人の雄叫びが上がったと同時に、アルミンから提案があった。
「……やるのは二人だから、二人が決めてくれ。無茶だと思うけど、あの巨人を利用出来ないかな?」
「あの巨人を!?」
「あいつは巨人を襲う。僕達に興味を示さない。だからあいつを上手く補給所まで誘導出来ないかと思って……。あいつが他の巨人を倒してくれれば、皆助かるかもしれない!」
「あれをどう誘導するつもりだ?」
コニーが素っ頓狂な声を上げるものの、アルミンの作戦を聴き漏らさないよう耳を傾ける。ミカサも黙ってその続きを促す。

「あいつは多分本能で戦っている。あいつの周りの巨人をミカサとコニーで倒して行くんだ。そうすればあいつは新たな巨人を求めて移動する。自然と本部へ向かって行く筈だ」
「見込みだけでそんな危険な真似出来るか!」
「でも、上手く行けば本部を襲っている巨人達を一網打尽に出来るかもしれない!」
アルミンの提案にコニーが難色を示した。
あまりにも無謀過ぎる。そもそも、例の巨人がミカサ達の味方だと確定出来ていない。巨人はいつだって人間達の不意を突いて来るのだ。いきなり標的がこちらに変わることだって有り得る。しかし常識に囚われたままでは死を待つばかり。

ミカサは知っている。戦わなければ勝てないということを。
「いずれ死を待つだけなら、可能性に賭けた方が良い。アルミンの提案を受けよう……」
「巨人と一緒に巨人と戦うってことか?」
コニーはまだ信じられない心境なのかもしれない。それが当たり前だと思う。巨人と一緒に巨人と戦うなんて前代未聞も良いところだ。しかし背に腹は変えられない。試す価値は――あるかもしれない。
「失敗したら笑い者だな……」
「でも成功したら皆が助かるよ!」
ミカサを先頭に、例の巨人に向かってアルミンとコニーも走り出した。



「こんなことって……」
ナマエが呟いた。パラパラと石の破片が溢れる。大きく空いた穴から、破壊されたトロスト区の街並みが見える。そして目の前には巨人が巨人を殴り飛ばし、力の限り踏み付ける一体の巨人の光景が広がった。ナマエはジャンと一緒に唖然とし、惚けたように突っ立っていた。

困惑していると、ガシャンと窓ガラスが割れる音と共にミカサとアルミン、コニーが本部へと突っ込んで来た。
「ミカサ!?お前、生きてたのか……」
死んだと思われていたミカサが生きていた。その事実にナマエもジャンも、他の皆も安堵する。
「皆!あの巨人は巨人を殺しまくる奇行種だ!しかもオレ達には興味がねえんだってよ!アイツの周りの巨人をオレとミカサで排除して、補給所ここに群がる巨人の元まで誘導して来た!アイツを上手いこと利用出来ればオレ達はここから脱出出来る!」
「あの巨人が……?そんなの冗談だろ?」
「巨人に助けて貰うだと?そんな夢みてぇな話が……」
コニーの有り得ない力説に、皆口々にそう言う。人間を襲わない巨人なんて聞いたことがない。
「夢じゃない……!奇行種でも何でも構わない。ここであの巨人により長く暴れて貰う。それが現実的に私達が生き残るための最善策」

つまり、ナマエ達は補給室に侵入している巨人達を叩き潰す時間稼ぎとして、あの奇行種を利用する。本部に纏わり付いている巨人達の意識を例の巨人に向けさせるというものだ。現実離れし過ぎた作戦に誰も首を縦に振らなかった。
一言も言葉を発せず、重苦しい空気が立ち込める。この本部も陥落同然だ。周囲を捕食者に囲まれ、補給室にも侵攻を許してしまっている。この部屋に来るのも時間の問題なのだ。

迷っている時間はナマエ達にはない。
「……本部ここから壁まで目と鼻の先。もう、その作戦に賭けるしかないんじゃないかな」
巨人あれを……信じるってのか?冗談だろ?」
「あの巨人はとても興味深い……。出来れば色々調べてみたいけど、そんな悠長なこと言ってらんない」
「この期に及んでそれを言うのか……」
ジャンが呆れたような顔をする。巨人らしからぬ行動を取る奇行種に、ナマエはとても興味津々だが、ぐっと堪えた。目的を忘れてはならない。ガスを補給して壁を登ることだけ。後一歩前進すれば、ウォールローゼの壁を登れるのだ。ここで諦めたくなかった。
「ミカサが最初に行動を起こして、ジャンが皆を本部ここまで先導してくれた。私は二人の行動を無駄にしたくない」
「ナマエ……」
ミカサが彼女の名前をぽつりと呟く。

普段は皆の纏め役をしないナマエが、恐怖に染まった大勢の人間を鼓舞しようとしている。
「ねえ、皆と一緒に力を合わせれば補給室を奪還することも不可能じゃないと思う。戦えば生き残ることが出来るならやるしかないよ。私はそれに賭けてみたい」
だけど、彼女の言葉は仲間達に届かない。同じ目線で放たれた言葉ではないから、心を突き動かす程の影響力を持たないのだ。
「私は……壁の外の世界に行きたい。巨人の謎を知りたい。皆だってやりたいこととか、叶えたいこともあるでしょ?」
「……ったく、好き勝手言いやがって。誰もがお前みたいにやりたいことが明確にある訳じゃねぇんだぞ。解ってんのか?」
ジャンが面倒臭そうに重い腰をあげた。露悪的な物言いだが、言葉に棘はない。ナマエはジャンへ視線を向ける。皆、彼の言葉を待っているのだ。
「だけど……、オレは巨人がうじゃうじゃしている所で終わりたくねぇ。それだけは賛成だ……お前らはどっちだ?ここで諦めるか、それとももう一度賭けてみるか」
彼の問い掛けに、誰もが賛成を唱えた。ミカサでもナマエでも出来なかったことを、ジャンがやってのけたのだ。

彼について行きたいと、そう思わせる何かがジャンにはある。立ち向かわなくてはいけないことは解っているけれど、立ち向かえない――そういった弱い人間の気持ちを汲み取ることが出来るのだろう。彼が敢えて露悪的な態度を取るのは、彼自身も皆と同じ弱い人間だということを、周りに悟らせないため。こんな場面で、ナマエはジャンのことが何となく解ったような気がする。
どんなに絶望の中にいても、希望はある。後は立ち向かう勇気を待つだけ。



カチャカチャとマスケット銃を整備する音が響く。銃が納められていた箱は埃を被っていたから、相当古い物なのだろう。正常に使えるかどうか心配していたジャンだったが、整備どうやら問題なく使えそうだ。それぞれのライフル銃に散弾を込めていく。
「そもそもこの鉄砲は巨人相手に役立つのか?」
「ないよりはずっとマシだと思う。補給室を占拠してる三、四メートル級が七体のままならこの程度の火力でも、七体同時に視覚を奪うことは不可能じゃない」
「――アルミン」
マスケット銃の弾込めが完了した。ナマエが先を促すようにアルミンの名前を呼ぶと、周りの仲間達は彼を中心に集まった。

同期で一番優秀な頭脳を持つ彼が作戦立案の担当だ。皆固唾を飲んでアルミンの作戦に耳を傾ける。
「まず……、リフトを使って中央の天井から大勢の人間を投下。あの七体が通常種であればより大勢に反応する筈だから中央に引き付けられる。次にリフト上の人間が七体の巨人それぞれの顔に向けて同時に発砲、視覚を奪う――そして、次の瞬間に全てが決まる……。天井に隠れていた七人が発砲のタイミングに合わせて巨人の急所に切り掛かる」
一回のみの攻撃に全員の命を懸ける。リフト上の七人が、七体の巨人を一撃で同時に仕留めなければならない。失敗は死を意味する。糸が張り詰めた緊張感が周囲に走る。

籠城していた補給班から得た情報によって立てられた作戦は、ある意味博打のようなものだ。成功率を高めるために、運動能力を加味して、アルミンが成績上位を選抜する。
「……全員の命を背負わせてしまって、その、ごめん」
「問題ないね。オレ達には博打を打つしか残されてないんだろ?」
不敵に笑うライナーをナマエは見返した。
「……生きて壁を登るためには、ね」
いつも率先して、周囲を引っ張ってくれる彼がいるなら心強いと思う。ライナーにはどこかそう思わせるなにかがある。
「誰がやっても失敗すれば全員死ぬ。リスクは同じだ」
アニはあっさりと受け入れている。彼女の言う通り、失敗すれば終わりなのだ。それならやるしかないだろう。

だけどアルミンは、まだ頭を悩ましているようだ。本当にこの作戦が最善策なのか、もっと良い方法はないのか悩んでいる様子だ。残された時間は限りなく少ない。外で暴れている奇行種がいつこちらへ襲って来るか解らないし、補給室の巨人が七体以上いたら作戦が失敗する確率がぐんと上がってしまう。まるで一か八かの博打を打つようなものだ。
「これで行くしかない!時間もないし……。もうこれ以上の案は出ないよ。あとは全力を尽くすだけだ!」
マルコの一声で皆決心した。全員の命を賭けて賽が投げられた。出る目は果たしてどちらなのか。

丁度タイミング良くリフトの準備も整い、ナマエ達リフト組はマスケット銃を手にしてリフトに乗り込む。ゆっくりとワイヤーを軋ませながらリフトは補給室へ下降して行く。
もう途中で、投げ出すことも逃げることも出来ない。最早、一連托生である。


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