今日を生き延びて

ミカサが本部の広場に到着すると、そこには他の百四期訓練兵も既に収集されていた。
「悔やまれることに、最も実戦経験の豊富な調査兵団は壁外調査のため出払っている!現在、我々駐屯兵団のみによって壁の修復と迎撃準備が進行している!お前達訓練兵も、卒業演習を合格した立派な兵士だ!今回の作戦でも活躍を期待する!」
本部内は巨人の迎撃準備をするべく慌ただしかった。突然の強襲に誰もが冷静さを失い、巨人に恐怖を感じている。

いつだってそうだ。当たり前の日常が崩れるまで、それが幸せであると認識出来ない。日常が壊された時――初めて人間は幸せだったと認識するのだ。
平和な時間はある日容赦なく終わってしまうことを、ミカサは十二分に知っている筈なのに。三度目を迎えても尚、昨日までの日常がずっと続くと――どうして思っていたのだろう。

一度目は、シガンシナ区の山奥で帰る場所を理不尽に奪われた。二度目は壁から顔を出す巨人によって、生きる場所を踏み付けられ、追い出された。世界は不条理で残酷であると、二度も学ばされたではないか。でも、三度目の今回は今までと違うと、はっきり言える。

今日まで生き延びた少女には、守るべきものが出来た。そのために己の命を使うことに、何の抵抗も感じない。彼がいる限り、ミカサに災悪が降り掛かっても迷うことはないのだ。

戦うことを教えてくれた幼馴染の後姿が、ミカサの視界に入った。エレン――、と声を掛けようとしたが隣で震えているアルミンが、平常心を保とうと躍起になっていた。
「現状ではまだ縦八メートルもの穴を塞ぐ技術はない!塞いで栓をするって言ってたあの岩だって……結局掘り起こすことさえ出来なかった!」
言葉の端々に絶望感を滲ませている。怯え切ってしまったもう一人の幼馴染の姿に、ミカサの駆け寄る足も止まる。

後年前の悲惨な経験を実際に体験しているアルミンだからこそ――巨人の恐怖を味わった者にしか解らない恐怖がある。何年経とうとも、癒える傷ではない。
エレンとアルミンがいる場所まで、あと少しの距離が何故か遠く感じた。どんな言葉を掛けようとも慰めにならないことくらい、ミカサも知っているからだ。

「穴を防げない時点でこの街は放棄される……。ウォールローゼが突破されるのも時間の問題……そもそも、巨人ヤツらはその気になれば人類なんかいつでも滅ぼすことが出来るんだ!」
「アルミン!落ち着け!」
「――ご、ごめん。もう、大丈夫だから……」
エレンの一喝で、アルミンが息を呑んだ。
ミカサもビクッと肩を震わせた。どうやらアルミンが我に返ったようだ。先程とは打って変わり、立体起動装置のガスボンベ管にガスの補充を施している。

巨人の恐怖に震えていたアルミンへかける言葉は彼女の頭の中にあったけれど、それを言葉にしたところで彼の傷が癒える訳ではない。況してや、ミカサは自分が口下手だと解っている。相手に伝えたい言葉はぼんやりと頭の中にあるのだが、それを明確に言葉にすることが苦手なのだ。

自分の世界に潜ってしまった相手を、瞬時に引き揚げてしまう強引さは彼女も持ち合わせていない。きっとミカサもこの空気感に呑まれていた。
エレンがアルミンとミカサを平常心に戻してくれたのだ。ミカサには守らなければならないものがある。エレンを身の安全を確保することだ。



立体起動装置のガス補充もしっかり終えたナマエは、本部の広場に召集された。
本当なら、訓練としての実習が始まる予定だったのだが、本物の超大型巨人が現れたことで上層部もパニック状態のようだ。その証拠に、駐屯兵団隊長のキッツ・ヴェールマンが青い顔をしたまま、指示を飛ばす。
「それでは訓練通りに各班ごと通路に分かれ、駐屯兵団の指揮の下、補給支援・情報伝達・巨人の掃討等を行ってもらう!前衛部を駐屯兵団が、中衛部を我々率いる訓練兵団が、後衛部を駐屯兵団の精鋭部隊がそれぞれ受け持つ!また伝令によると先遣班は既に全滅したとのことだ!外門が突破され、巨人の侵入を許した!つまり、いつまた鎧の巨人が現れ、内門を破ってもおかしくはないという状況にある!」
「そんな……」
「嘘だろ……?」
「ローゼまで破られることになったら……」
キッツの言葉に訓練兵は動揺する。

ナマエも身体が小刻みに震えていた。先程から震えが止まらない。すっかり巨人の恐怖に呑まれてしまっている。頭の中には、五年前の出来事が過った。
「静粛に!!現在は前衛で迎撃中だ。本作戦の目的は一つ!住民の避難が完全に完了するまでこのウォールローゼを死守することである。尚、承知しているであろうが敵前逃亡は死罪に値する!皆、心して命を捧げよ――解散!!」
百四期一同は盛大に大きな声を発し、一斉に敬礼した。この場から逃げても逃げなくても、死ぬことには変わらない。

心臓を捧げる敬礼ポーズを機械的に取った。三年間の訓練兵生活で染み付いてしまった習性である。ナマエは震える脚を叱咤して、班の合流地点へ向かう。外の世界を見る第一歩なのに、足が竦む自分自身が滑稽でおかしかった。

のろのろと持ち場へ向かう訓練兵は少なかった。膝から崩れ落ちて泣き喚いたり、膝を抱えて自分の殻にこもる者。嘔吐する者もいた。本部の広場は修羅場だった。
「何で今日なんだ!?明日から内地に行けたっつうのに!」
ジャンが悔しげに叫ぶのをナマエは見掛けた。彼はふらふらした足取りで、そのままどこかに向かってしまう。
「ジャン、待って――」
頑張って生き延びよう、と声を掛けるつもりなのか。それとも兵士としての務めを果たそう、だろうか。違う。どれも馬鹿げている。こんなの建て前に過ぎない。

はあ、と深い溜息を吐いてナマエは歩き始める。足取りは重い。すると、エレンが誰かと言い争っている声が聞こえて来た。
声の相手にハッとしたナマエは、急いで駆け出した。
「どうしただと?呑気なこと言ってんじゃねぇ、この死に急ぎ野郎が!テメェは調査兵団志望だから、いつでも巨人の餌になる覚悟は出来ているんだろうけどよ!オレは明日から内地行きだったんだぞ!?」
緊急事態にも拘らず、ジャンとエレンがお互いの胸倉を掴み合い口論している。苦々しい思いを抱きながらナマエが二人を止めに入ろうとすると、グッと力強く手首を掴まれた。
「……ミ、ミカサ!?」
「その必要はない」

平坦な声で告げられる。いつもならミカサが真っ先に二人を止めに入るのに、今回は違うらしい。掴まれた手首は離してくれない。
「何で――」
口数が少ないミカサに理由を尋ねようとすると、喚いているジャンにエレンが喝を入れたところだった。

「落ち着け!」
「落ち着いて死にに行けっつうことか!?」
「――違う!!思い出せ!」
いつもと違うエレンの様子を目にしたナマエは、ミカサへと視線を向ける。
「エレンはジャンと喧嘩をするつもりはない」
「……だから私が止める必要はないってこと?」
相変わらず言葉少なめで、端的なミカサの言葉。

ナマエは彼女の言葉の裏にある真意を汲み取ってみる。
「オレ達の血反吐を吐いた三年間を!三年間、オレ達は何度も死に掛けた。実際に死んだヤツもいる!逃げ出したヤツや追い出されたヤツも!でもオレ達は生き残った!そうだろ!?今日だってきっと生き残れる!今日生き残って、明日内地へ行くんだろ?」
エレンから吐き出された言葉は、他のどんな言葉よりも説得力と重みを持っていた。ハッとしたナマエは、急いで駆け出した。

死に物狂いで駆け抜けた三年間。死んだ同期や脱落した同期だっている中、ナマエは生き残り晴れて卒団出来たのだ。エレンの言葉は時に心を抉られるが、胸の中に馴染む時もある。とても不思議な力を持っている。
「……クソ!行くぞダズ!いつまでも泣いてるんじじゃねえ!」
エレンの言葉に少し冷静になったのかそれとも勇気付けられたことが気に食わなかったのか、ジャンが近くでメソメソ泣いているダズに一喝して去って行った。

「ナマエ!」
「ミーナ……!?」
ミーナが駆け寄って来た。駆け寄って来た親友を見て、こうやって言葉を交わせることが最期になるかもしれないと思うと泣きそうになった。

悪いことを振り払うよう、ナマエは頭を横に振る。
「ナマエもミカサもまだここにいたんだね!」
ミーナがホッとしたように言った。それぞれ班構成が違うので、これから担当する方角が全く違うのだ。
「絶対、生きて帰って来よう!生きて帰って来て、またここで落ち合おう、絶対だよ!」
「……うん!絶対に無茶はしないで。約束だよ」
ミーナがナマエの手を取った。とても温かい。生きた人間の体温に、ナマエは少しだけ気分が落ち着くのを感じた。今日を生き伸びて、一緒に調査兵団に入るのだ。

「ナマエと一緒に調査兵団に入って、外の世界を見るまでは死ねないんだから」
「……死なないでね。ミカサも、気を付けて」
「……ありがとう。二人共、気を付けて」

いつか見る外の世界のためにも、怖くても立ち向かわなければならない。ミカサに見送られ、ナマエとミーナはそれぞれの班員の元へ駆け出した。
後ろを振り返ることはしなかった。ただ、前だけを向いて班員の元へ向かった。



ナマエとミーナがそれぞれの持ち場へと向かって行った。お互いの任務を遂行した後、再会を願い合った。きっと、あの二人にしか通じない何かがあるのだ。ミカサは自分の使命を果たすために、エレンの元に向かう。
「エレン!」
「ミカサ、こんな所で何やってんだ!お前の班員はどこ行ったんだよ」
いつの間にか殆どの訓練兵達は、自分達の班員の元へ向かってしまったようで、本部の広場は人が疎らだった。戦意喪失した訓練兵達も、上官に無理矢理持ち場へと引き摺られたようだ。
「戦闘に混乱して来たら私の所に来て」
「……は!?何言ってんだ!?オレとお前の班は別々だろ?」
「混乱した状況下では筋書き通りには行かない。私はあなたを守る!」
ミカサは自分の生きる意味を定めている。

初めて会ったあの日から、変わることはない。それは隣にいるエレンを守ることだ。そう宣言すると、エレンは苛立ちを隠すことなく声を荒げる。
「オレはお前の弟でも何でもないんだぞ!馬鹿なこと言ってねぇで早く持ち場に行けよ」
「エレンが了承するまで行かない」
「お前……、さっきから何を――」

エレンに何と言われようと、疎ましがられようとミカサの気持ちは変わらない。彼のことになると頑として譲らないのだ。
背後から鋭い声が飛んで来た。名前を呼ばれたミカサが振り返ると、薔薇のエンブレムが付いたジャケットを着ている駐屯兵の男が広場に一人いた。

「アッカーマンは私ですが……」
「お前は特別に後援部隊だ。付いて来い!」
後援部隊は駐屯兵団の中でも精鋭中の精鋭が配属されたポジションで避難民に群がる巨人と戦闘する。後援部隊に行ってしまったらエレンと離れてしまう。即ち、エレンを守ることが出来ない。
「私の腕では足手まといになります!」
「お前の判断を聞いているのではない。避難が遅れている今は、住民の近くに多くの精鋭が必要だ」
「し、しかし……!」
「良い加減にしろ、ミカサ!」
首を縦に振らないミカサに業を煮やしたのか、エレンの硬い頭が額にぶつかった。

突然の痛みに、声を出すことも忘れてしまった。何が起きたのか解らなかったけれど、エレンから頭突きされたのだと理解したのは暫く経ってからだった。エレンのことになるとどうしても冷静でいられない。本当の家族を失い、再び家族を失うかもしれないという恐怖がミカサを支配する。
「人類滅亡の危機だぞ!何テメェの勝手な都合を押し付けてんだ!」
「……ご、ごめんなさい。私は、冷静じゃなかった」

エレンに押し切られた形ではあるが、ミカサが後援部隊に行くことで、救える命があるのかもしれない。
「一つだけ頼みがある」
「……何だよ」
「どうか……、死なないで」
エレンからの答えを聞く前にミカサは精鋭部隊へ合流するために走り出した。死なない、とたった一言欲しかったけれどエレンは答えてくれなかった。ミカサにとってそれが心残りだ。
「死なねぇよ。こんな所でオレは死ぬ訳には……いかねぇからな」
エレンが人知れず拳を握り締めて呟いたことも、ミカサは知らない。


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